バーで出会い仲良く恋愛の話をする杉と尾のお話の続き14尾形さんには全然電話が繋がらず、多分俺は着信拒否の刑を受けている。あれ以来尾形さんは一切店に現れなくなってしまったけど、それでも俺はほんの僅かな望みにかけて、ほとんど毎日通っている。なるべく長く店にいたいから残業にならない様に仕事もこなして定時退社するし、最寄駅に着いてからは電車から飛び降り走って帰宅し慌てて着替え、スニーカーの紐を結ぶ手間も惜しんで転がるように部屋を飛び出す。そうしてはやる気持ちを押し殺して、信号が変わるのを待つ。
今日こそは会えますようにって祈る気持ちもあるけど、あのでっかい目に軽蔑を乗せて射抜かれたらどうしたらいいのだろうという緊張で足がすくんでしまう。俺の愚かな発言を思い出せば、そんな怯えは許されないと分かってはいるけれど。
言われた側の気持ちを考えてごらんって昔何度もおやじに叱られたっけな。その教えも空しく、俺は酷い振る舞いをして尾形さんを傷つけてしまった。恐らくというか当然、再会できたとしても言い訳など聞いてもらえないだろう。俺を認識しただけで席を立たれるかもしれない。だとしても尾形さんに謝りたい。あの話、キスして無いとか好きでやったんじゃねえとかやりたくてやったんじゃないってのは尾形さんを指してるんじゃなくて、むしろキスはしたかったけど出来なかっただけだし、好きでやったんだし、やりたくてやったんだってちゃんと伝えないと…。あれ文章おかしくね? なんか俺の言い方おかしくね? でも他に言い方ないよなあ。これってどういう意味なんだって尾形さんが混乱するような謎の方向に話を捻じ曲げてるような気がするんだけど。謎の方向ってなんだ。もしかしてこれ、一世一代のアレってやつなんじゃないか?
今思い返せば、店で会う時はいつも楽しくて、尾形さんの隣にばかり座るようになった。尾形さんは俺の情けない話を聞いても失恋の愚痴をぶち撒けられても、必ず味方になってくれた。辛いことがあった時には俺の背中を叩いて、何も言わずにとっておきの一杯を飲ませてくれた。俺がいつも以上の味に驚いて、この酒なんですかって話している間に日々の虚しさなんて吹き飛ばしてくれる。そのくせ自分の恋愛には奥手で、たとえ失敗するにせよ相手を尊重し、様々なトライを繰り返す姿には健気さがきらきら光っていた。その生まれたてのひよこみたいな彼をとてもいじらしいと思えたのは、カウンターには必ず二人きりで座っている故の甘えではなかったか。もし最初から房太郎や宇佐美さんみたいなコミュニケーション豊かな人間が一緒にいたら、尾形さんの柔らかい眼差しが俺にだけ向けられることは無かっただろうし、恋愛指南のために一夜を共にすることも無かったろうと思う。そんな話が出たところで、房太郎なんて嬉しそうに笑って尾形さん俺も教えて欲しいなあなんて横やりを入れてくるに決まってる。下心も隠さずに堂々としているところは俺からしたらむしろ羨ましいんだけど。
これまで過ごしていた時間の貴重さに気づけなかったなんて、俺は本当に馬鹿なんだろう。かつて尾形さんが飲ませてくれた、丸いリンゴの沈んだブランデー。その琥珀色のカルヴァドスの瓶は俺によって叩き割られて、罪のないリンゴは哀れに転がっている。ぱんと砕けたガラスの音で、俺はようやく気がつくことができた。
俺の部屋で一緒に迎えた朝、腕の中で眠る尾形さんの頬にキスしてしまったのは魔が差したからなんかじゃあない。
バーのカウンターで、ほらこうすると金色だってグラスを傾けながら近づいた尾形さんの唇。鼻先が触れたあの時に無理矢理にでも吸い付けばよかったのに、今では何もかもが遅すぎるのだ。
信号のランプが変わって人混みの横断歩道を渡り始める。そして夜風を浴びた身体ですっきりと思う。尾形さん、俺はあなたが好きです。
人生にはあらゆるものを超えて全てが完璧に仕立てられた、運命を感じる瞬間がある。ちょうど今みたいに。
俺がバーの扉を開けると、いつもと同じ席に尾形さんが座っていた。伸びた背筋も刈り上げられたうなじの白さもちっとも変わっていない。ただ、尾形さんと隣に座った男はキスをしていた。とても静かに。店員の目をかい潜って、いやきっと見られていても構わないのだろう。そんなキスだった。
おお、尾形さんやるじゃん。でも店内じゃあそんな真似止めといた方がいいぜ。俺みたいなやつが殴りかかっちまうかもしれねえからな。
シュレッダーに紙を食わせながら、今更だが、こんなクソな記憶も細切れになって消えてしまえばいいのにと思った。この間宇佐美に事情を話したものの頭は一向に整理されず、これから先を考えることが出来ない。セックスって結構イーヴンだろう。それお前だけが悪いの? と投げかけられたが、杉元さんに関係を嫌がられ、ここまで拗れているのだから大概俺が悪いんだろう。いつからこんなことになってしまったんだろう。少なくともバーで杉元さんの隣に座らなければ、俺はこんなに惨めになりはしなかった。お互い失恋したり、こんな人が好きだとか、慰めたり慰められたり。決して俺に他意は無かった。ただ、一緒に居酒屋へ行ったことが始まりだった気がする。普段と違い真正面から見た杉元さんの姿が頭のてっぺんから足先まで跳ねるように無邪気で愛らしくて、話をすれば楽しくて。いつしか杉元さんの話を聞くことと、酒を飲みに行くことの意味がすり替わっていたのだ。
しかし俺が悪いばかりでは無いはずだ。杉元さんは天才的に人の心に居座るのが上手だ。その点はほとんど悪魔がかっていて、そんな人間に助けを求められたら誰だって力になってあげたくなる。きっと周りの人間だってそう思うだろう。みんな俺と同じはずだ。
はあ、とため息も吸われたところでシュレッダーのスウィッチを切る。仕事をしていれば気は紛れるが、ほんの少しでも時間があればぐちゃぐちゃと頭が煮詰まってくる。しかし、陰鬱な空気を追い払いたい時にすぐ連絡が付く恋人がいるのは便利だ。まあ、一晩中連絡が取れない日があるにせよ。
スマートフォンで連絡をとると今日のアポイントが取れた。アポイントだと! ここのところつい自分の部屋より入り浸ってしまっているが、普通の恋人同士がどんな態度で相手の家を訪れるものか分からない。思い出したくも無いが杉元さんにこき下ろされた日以降は入院するみたいな気持ちで彼の部屋へ逃げ込んでしまっている。もちろんこんな気持ちで寝るなんて考えられないし、正直なところ連絡が取れない日の誰かの影を気にしてベッドを共にできるほど器用でもない。
が、結局今日もそんな部屋へ来てしまった。仕事用のカバンを投げ捨ててスーツは邪魔にならない所に吊るし、ただひたすら他人の匂いのするシーツに包まってたまに酒を甞める。今週はこんな日が三日もあったので、部屋の主もさすがに俺を放っておけなかったのか気遣う声をかけられた。しばらくはのらくら誤魔化していたがどうやら俺は嘘が下手らしかった。つまり、言葉巧みに杉元さんとのことを白状させられてしまったのだ。元々微妙な仲ではあるがやはり気まずい。
しかし、心配をよそに相手はにっこりと微笑んだ。俺に他にも誰かがいるのは喜ばしいことだが、傷ついているのはみたくないと言い切った。今の関係や生活を変えることは出来ないが、よければこの部屋にこないかと、要するにこの部屋に住む権利を持たないか、ということだ。きっと俺が自分と同じ立場になったことに安心したのだろう。しかし急な話に答えるべく言葉を選んでいる間に、相手は今日も出かけてしまった。恐らく、こんな風に相手の不在を気にしなければ悪くない話だろう。
ベッドから降り、冷たい床を素足に感じながら広い部屋のカーテンを開いた。煌めく夜景を見下ろし酒を甞める。高価であろうウイスキーは辛いばかりでちっともうまくねえ。でも今俺が手にできるのはこれきりだ。これを飲むしか仕様がないのだ。
いよいよ引っ越しの覚悟が決まった。自分の部屋に帰って気に入りの服や身の回りの道具をそつなく鞄に詰める。軽く掃除してゴミなど片づけながら、ふと何か湧き上がりそうになるが、それは暴かずにこの部屋に置いていこう。これから住むあの高い階の部屋からいつものバーまでは遠すぎるから、せめてマスターに最後の挨拶をしようと思う。マスターお手製の滑らかな丸氷に冷やされたウイスキーはさぞかし美味いことだろう。舌の裏に涎を溜めながら店に向かう。
恋人はもう店に着いていた。椅子にかけるなり俺のための酒がサーブされる。が、いつも部屋で飲んでいるからとの理由で選ばれた酒が目の前にどんときた。しかも常温。だからそうじゃねえんだよ、俺は冷えたウイスキーの氷が溶けて薄まっていくのを楽しみたいんだよ! と内心腹立たしいがそんな我儘はもちろん野暮だ。慣れればこの酒だって好きになるのかもしれないし。にこにこする店員と隣に座る男に見つめられてごくりと飲む。辛い。ただ胸は焼いてくれる点でアルコールには感謝する。
飲みなれない酒をあおっていると普段より酔いが回る。お代わりをオーダーする男をひじをついて眺め俺はしみじみと思う。そもそもこいつは俺を好きなのか? 俺はこいつをちゃんと好きなのか? 上手くいく恋愛というものに憧れてここまできてしまったんじゃあないのか。
最後に確認しておくべきだと酔いが回った頭で考える。一緒に住めるくらい落ち着ける人が良いわよって誰かが言っていた気がする。あんた、そんな髭面して肝の小さいとこあるんだから。うるせえな、と被りをふる。俺だって自分のことくらい分かっている。でも、まだ何か言われていたような。とても大事なことのはずなのだが思い出せない。それに今はちょっと取り込み中なのだ。だって、この一緒に住むだろう男にキスしておかないと。自分で選んだ道が大丈夫だって確信しておかないと。俺の身体と頭がばらばらになって、また何日もシーツに包まって過ごす羽目になるだろう。今、何かが目に反射した気がするが生憎これから俺は瞼を閉じる。そうすれば俺のまっ暗い心を何かが照らしたって、きっともう眩しくなんかない。そっと男の上着を摘んで引く。
「尾形さん!!!」
店に飛び込んできたのは、目を金色に光らせた杉元さんだった。薄暗い中でもきらきら輝く瞳が泣いているように潤んでいて、それなのに綺麗に見える。深緑色のモッズコートがなんて懐かしいんだろう。
「ああ杉元さんお久しぶりです。ちょうど良かった。マスターにも伝えておきたくて今日は来たんです。俺、しばらく来れないだろうから挨拶にきたんですよ」
「えっ」
杉元さんが目を丸くする。さあこれで安心してくれ。
「そう言わず、またいつでもお二人でいらしてくださいね。いつものお酒取っておくんで」
「それは嬉しいな。もし別れることになったらまた来なくちゃあ」
「尾形さんにそんなこと言われたら寂しいけど店来ないでくださいとしか返せませんよ」
軽口を叩きつつささやかな別れを惜しむ。艶々の一枚板のカウンターも、マスターも長い付き合いだ。ここで様々なことがあったと思うと感慨深い。
「しばらく来れないってどういう意味ですか? 俺、めちゃくちゃ電話したんですけど」
マスターとの会話に被せるように、杉元さんの声が滑り込んできた。そうなる気はしていたが。俺にだけ分かるように荒がっている。
「電話のことはすみません、知らない番号は拒否する設定にしてるんです」
「いやもうそこじゃなくて。どうしてもう来ないんですか? 最近ずっと来て無かったですよね」
そんなに俺ばかり責めないでくれ。もう会わないようにするのだから人前で攻めるのはもう勘弁して欲しい。
「この人と一緒に住むんです。結構遠いんでしばらく来れないと思って」
「はあ? 聞いてないですよ!? なんで急に同棲することになったんですか?」
同棲。同棲なのかこれは。こんな状況でも一緒に住むことならば同棲って呼んでいいのか。同居とかじゃなくて?
しかし俺のプライベートに関しては杉元さんにここまでキレられる覚えはない。大人として最後くらいはにこやかに終わるべきだと思う。
「何故そんなに怒るんですか。お店にも悪いですし落ち着いてください。…この間はすみませんでした。俺は酔っていたんです、野良猫に引っ掻かれたと思ってどうか忘れてください」
「どうしてそんな…」
杉元さんは顔を歪めて声を絞った。この人、良い人なんだなあ。きっと鍋を囲んだ時に俺に余計なことを聞かせてしまったと思って気の毒がってるんだろう。せめて杉元さんの罪悪感を無くしてやりたい。俺も今になって人を思いやれる安らかな気持ちを貰えた気がする。
「実は杉元さんのおかげで同棲することになったんです。俺も嬉しい。ありがとうございます」
にっこりと笑うことが出来て満足だ。俺の隣の男も内情を察したようでにこやかに俺に目配せをする。これでもう義理は果たしただろう。
「マスター、杉元さんに何でも好きなものをご馳走してください。マスターも一杯どうぞ」
聞かぬふりで離れた場所でロックグラスを磨いていたマスターがもう一度こちらに来て礼を言い、場が宥められる。隣の男が俺の代わりに幾枚か札を滑らせたのを合図に席を立った。
両手をコートに突っ込んで俯いたまま立ち尽くしている杉元さんの横をすり抜けてマスターが開いてくれたドアを抜ける。男が労わるように俺の腰をそっと摩ってきて、やっと恋人らしく振る舞われた。
あとは何も望むものは無い。