織り合い、紡ぎ 彼の手捌きは丁寧で正確で、不安など感じさせない完璧と言っても過言ではない。北村想楽は左隣でハンドルを握る古論クリスを見つめていた。正しくは彼が操作するハンドル…だが。
この日の想楽は午前にボイスレッスンと事務所で軽く仕事の打ち合わせ。午後からは大学で2コマ授業を受けており、学校を出る頃には外はすっかり暗くなっていた。支度を整え外へ向かう途中、想楽は気づく。窓には細かい水滴。今晩の降水確率は20%だったはずだ。降らないだろうと賭けをしたが見事に外れ、冷たい雨が静かに街へ降り注いでいた。
「傘持ってくるんだったなー…」
事務所にも持ち出し自由な置き傘があるが少し時間が押していたこともあって失念していた。学校には誰が置いたか分からない傘たちがのさばっているが使うにはなんだか気が引ける。
これくらいの雨なら少し待てば止むだろうか。校内へ引き返そうと身体を反転させたタイミングで首から提げていたスマートフォンが短く振動した。
「何だろ…」
画面をつけると鯨のアイコンが表示されたメッセージアプリの通知バナー。アプリを起動して内容を確認すると想楽はスマートフォンを耳に当てた。呼出音が数回鳴るとすぐに音声が通話状態へと切り替わる。
『はい、古論です』
薄い板から聴こえたのは溌溂ながらも落ち着きのあるテノールの声。耳にクリスの声が届いた瞬間、想楽の頬は無意識に緩んだ。
「あ、クリスさん。今大丈夫だった」
こちらは問題ないですと返事を受けつつ、想楽は周囲の邪魔にならないよう玄関の軒下ヘと移動する。クリスは一日の予定を終えてこれから帰宅するところらしい。
『想楽は…確か今日は授業の日でしたね。既に自宅でしょうか』
「あー…ううん、実はまだ学校でー…」
ここで嘘を言っても仕方がない。想楽は傘を忘れたこと、帰宅手段がないこと、一か八かで連絡した事…今の状況を全て正直にクリスへ伝えた。急な連絡である上に、そもそもクリスが車で移動しているという保証もない。断られても――。
『わかりました』
「え、」
『今から迎えに行きます』
この返事を聴いたのがおよそ2、30分前のこと。
再びクリスからの連絡を受け足早にキャンパスを後にすると見知った車が路肩に停車していた。運転席の窓を軽くノックすると、目を細めて微笑む美丈夫がドアから出てくる。
「お待たせしました。車道側は少し危ないですのでこちらから乗ってください」
一瞬助手席側から乗るかを迷ったから嬉しい気遣いだ。鞄を肩から下ろすとクリスが預かり後部座席へ載せてくれる。その間に想楽はお邪魔しますと呟きながら運転席を経由して助手席へ腰を落ち着ける。追いかけるようにクリスも運転席へ乗り込むと緩やかに車は発進した。
「ほんとに助かったよー…急だったのにありがとねー」
想楽が電話をかける前、クリスから来ていたメッセージは今日の撮影が上手くいったこと、これから帰宅すること、そして想楽を想い労う言葉が綴られていた。それを見た途端、彼に会いたくなってしまった…が、流石にそれは言えなかった。それなのに。
「とんでもないです。むしろ役得ですよ想楽に会えると思うと嬉しくて」
信号が赤に切り替わり、車は程なくしてブレーキがかかる。役得、だなんて。ただ傘がなくて困っていたことも、クリスに会いたいと思ったことも、想楽にとってどれも事実なのだ。彼の前では取り繕うものは一切無い。
「ふふ、でも僕も…クリスさんに会えたからラッキーだったのかもー…」
青に切り替わった信号とともに徐々に車は速度をあげ、雨に濡れた街を駆ける。 想楽の住むマンションに着くまでの間、2人は今日の出来事や他愛もない話に花を咲かせた。
クリスの車は速度を下げるとマンションの来客用の駐車スペースへと停車させた。完全に停止したのを確認してから想楽はシートベルトを外す。
「送って貰えて助かっちゃったよ」
そう視線を隣へ運ぶとクリスも自身のシートベルトを緩めていた。
「どういたしまして。せっかくですから玄関まで送っても」
彼の優しさが今日は妙にくすぐったい。きっとちょっと運が悪い日の最後にいいことが起こったからだろう。申し出を断る理由もないため、想楽は快く了承した。
エレベーターの乗り場でフロアを指定するとすんなりドアが開き、2人は小さな箱へ乗り込んだ。降りる人も乗り合わせる人も居ないためクリスと想楽の2人きり。手を伸ばせば届く距離にいたとしても何時エレベーターが止まるかも分からない。
行動に移すかを迷っているうちに想楽が指定したフロアで停止する。ドアは無遠慮に開いて2人を下ろすとたちまち別の階に向けて移動していった。
外を見ると車に乗った時よりも雨足は強まり、雨が打ち付ける音は大きく響いている。クリスに電話をして迎えを申し出て貰えていなければ今頃濡れ鼠だったかもしれない。南側へ進めばもう想楽の部屋の前だ。鍵を差し込んで捻りドアの施錠を解く。
「今日はほんとにありがとー。今度ちゃんとお礼させてね」
次のデートで、今度は想楽からお返しをしたい。彼から貰ってばかりではいられない。貰った分想楽からも彼へ贈り返したいのだ。
「そんなお礼はいいんですよ。私は想楽に会えることを口実にして車を出したわけですし…」
それでも結果的にお互い利害が一致したのは間違いない。ではお礼じゃなければ。彼は素直に受け取ってくれるだろうか。思案するよりも先にクリスの腕を掴むと、自宅のドアの内側へ引き込んだ。
暗い玄関で下手に身動きが取れず立ち尽くしているクリスに正面から想楽が身を寄せる。
「想楽…」
暗闇に徐々に視界が慣れ下へ顔を向けると彼も顔をあげており赤い瞳がクリスを見つめていた。
「これは…僕がしたくなった、だけだから」
クリスの腰にまわしていた手を肩へ移動させると、身長差を埋めるように想楽はかかとを宙へ浮かせた。外気で冷えた唇が重なるとじんわりと熱を持つ。頭の角度を変えながら互いの重ねたそれの感触を楽しむ。小さなリップ音と2人の息遣いだけが互いの鼓膜を震わせ、気がつけば想楽はクリスに隙間なく抱き締められていた。
「……んん、」
彼の唇を軽く食めば同じように返され、舌でちろりと唇をなぞると大きな口でぱくりと食べられる。鼻から抜ける声は甘ったるい。馴れ合うようなキスは徐々に舌を差し込む深いものへ変わっていた。
遠慮がちにクリスの唇を舐めると、彼に舌を吸われる。少しだけと思っていたはずがこれ以上は歯止めが効かなくなってしまう。そうなってしまう前に。ちゅうと音を立てると唇をゆっくりと離した。
「は…っ、…ぁ…」
離れた身体はすぐにクリスに抱き締められる。彼が色めき立つ様を見ると、自分の奥底からも得も言えぬ興奮が引き摺り出される感覚がある。これ以上は駄目だとわかっていても欲してしまう。
「あと、少しだけ…」
想楽がそうこぼすともう一度だけ首をクリスへと伸ばした。唇が再び重なる。互いに舌を擦り合わせ感触を楽しむうちにクリスの舌が差し込まれた。
「ふぁ、……ん、ん…」
歯をなぞられ上顎を擦られるとじわりと痺れる快感が背筋を走る。キスだけのはずなのに腰にも甘く響くせいで余計に離れ難い。舌先から広がる心地良さを全身で享受する。
クリスの舌を追いかけ、その感触を味わうように自らもざらざらと舌を擦り合わせた。溢れる唾液が混じり合う。全てを余さず飲み込む為、ゆっくりと想楽の喉が上下した。
「そら、」
惜しみながらもクリスは長い時間重ねた唇をそっと離し、想楽の頬に手を添える。真っ直ぐ見下ろされているが今が暗い中でよかった。夜目が利くとはいえ顔をはっきり見られたくない。きっと自分は情けない顔をしている…そう思う想楽は横へと視線を流した。
「ええと、ごめんねー…無理やりキスしちゃって…」
考えれば玄関に引き込んでキスをして…"盛っている"と勘違いされてもおかしくない。素直にキスがしたいと伝えるべきだったと反省した。
「謝ることではありません…少し驚きはしましたがむしろ…」
嬉しかった、と。自然と触れ合った手が互いの感触を確かめるように繋がれる。
「今日私はもっと触れたいと言い出すこともできませんでしたから」
心の奥底から暖かな気持ちになる。僕はこの人が好きなんだ。帰したくないと思う気持ちが何となくわかった気がする。
「そっかー…でも強引だったのは謝るよ」
「私も素直に伝えるべきでした。お互い様ですね」
落ち着いた所でスマートフォンを確認すると部屋まで送ると言うには長い時間が経っていた。駐車場へ戻りますと玄関のドアを開けたクリスは一度立ち止まると室内へ振り返る。
「後ほどまた連絡します。…その、」
「んー…」
何か伝え忘れがあったのだろうか。想楽は言い淀む彼の姿を見ると首を傾げる。クリスは廊下に誰もいないことを確認してからそっと想楽の耳へ口を寄せた。
「また貴方と、セックスしたいと…そう思いました」
「、…」
手早く言伝を済ませたクリスはおやすみなさいと残し、想楽からの返事を聞き届けゆっくりとドアを締めた。兄は遅くなるが帰宅すると事前に連絡を受けていたのでドアの鍵だけを施錠すると、自室のベッドへ飛び込んだ。
想楽の頭の中は今さっき伝えられたクリスの言葉がリフレインする。浅ましいと思いながらも、嬉しさと期待と興奮がぐるぐると渦巻く。十も歳上の彼を自分が掻き立てているのだと自覚する度、胎の奥底が疼くような感覚がする。
次は何時、クリスと2人きりの時間を過ごせるだろうか。連絡が途端に待ち遠しくなる。それでもずっとスマートフォンを眺める訳にもいかない。兄もそのうち帰宅するだろう。
熱い頬を誤魔化すため、少しでも冷静になりたくて。シャワーを浴びるために想楽はベッドから起き上がると部屋着を片手に自室を後にした。