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    hanuchoco0128

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    hanuchoco0128

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    AI迅くんの話(太刀迅)

    いずれ縦書きにすることを見越して、変なところが漢字だったりしますが、気にしないでください。

    まだ決まってないよ。「うっそだろ!? レポートの提出期限明日だぞ!?」
     深夜の隊室に響き渡る太刀川の悲痛な叫びと、耳をつんざくようなビープ音。その太刀川の目の前には、ブルーバックのまま固まったノートパソコンの画面と、気持ち程度に友人や先輩が貸してくれた参考資料の本の山。
    「ありえねぇ! マジでありえねぇ! このレポートで俺の留年の可能性が変わるんだぞ!?」
     風間さんは今任務中、諏訪さんは麻雀でもして負け続けているのか、連絡がつかない。それに付き合ってるのであろう堤も当然連絡がつかない。加古も二宮も助けてくれないのは火を見るより明らか。
     とりあえずスイッチを長押しすることでパソコンの電源を落とし、苛立ちを助長するビープ音だけは何とかしたが、今度はどこを何度押しても電源が入らなくなったパソコンの黒い画面を見つめて、呆然とするしかなかった。
     とりあえず開発室にパソコンを持っていく。なんとか生き返らせてやってくれ、こいつのためと言うより俺のために!
     つーか、今まで書いた文章、残ってるかな……。
     太刀川に保存をこまめに取る癖は、もちろんない。自動でバックアップが取れていれば御の字だが、完全に残っているということはないだろう。そもそもパソコンは生き返るのか?
     開発室には数人のスタッフが残っていたが、誰に見せてもパソコンはお亡くなりになっています御愁傷様ですの言葉しか返ってこなかった。
    「ねぇ、データは? 俺のレポートは?」
     縋りつく個人ランク1位兼A級1位隊長の男の情けない姿は何とも憐れなものだった。
     そこでスタッフが言えることは、「泣いてないで一から書き直せ」でしかなかった。そもそもが学問的に優秀な人材の集まっている開発室である。年中単位ギリギリで戦っている太刀川の気持ちがわかるべくもない。
     開発室の人材はお話にならない。肩をがっくり落とし、何度も諏訪のスマホを鳴らしながら部屋までの廊下を歩く。スマホは虚しく鳴り続けたが、期待する相手の声は聞けなかった。
     そんな中、今度は太刀川のスマホに着信を示す表示が見えた。
    「……なんだ」
     大して役にも立たなさそうだ。それどころか、またお説教を喰らって時間が無駄になるのではないか。などと失礼なことを思いつつ、無視するわけにもいかなくて、通話を開始した。
    「慶か?」
     相手は太刀川の師匠であり現ボーダーの本部長、忍田であった。ボーダー入隊にあたって随分と世話になった。太刀川をボーダーで預かる代わりに、大学は絶対に四年で卒業させると親御さんと約束をしたとかしなかったとか。とにかく、今でもいろいろと世話を焼き、気にかけてくれる。だが、ことレポートに関しては、戦力には……ならないだろうな。
    「……何、忍田さん? 俺今マジで忙しいんだけど」
     スマホの向こうでは小さな溜息が聞こえたが、気にしないことにした。
    「レポート提出期限前の今になってパソコンが壊れたと聞いたが?」
    「うん、めちゃくちゃ困ってる」
    「わたしの部屋に、使ってないパソコンがいくつかあるから、それを持っていくといい」
    「えーと、ちなみにレポートのテーマは……」
    「一から書き直せ」
     相変わらず厳しい師匠である。鍛錬に関して優しさの欠片もないのは、今も昔も変わらない。
     こちらも溜息をつき、思い出せる限りを思い出しながら書くしかないと覚悟を決めた。
    「じゃあ、パソコン一台もらいに行くから」
     そう言って通話を切った。
     元々腹はくくっていたし、無駄な足掻きはしないほうである。記憶にある部分から片っ端に打ち込むしかない。自分が何を書いていたかなるべく忘れないようにしながら、慎重に長い廊下を歩いた。
     忍田の部屋に着いてインターフォンを鳴らす。
    『鍵は開いてるから入っていいぞ』
     インターフォン越しに忍田の声が呼び掛けてきた。
     扉を開いて顔を出すと、奥のデスクで書類の山に囲まれた忍田が顔をのぞかせて、棚の上に乱雑に積み上げられている荷物を指差した。そちらのほうを見やると、デスクトップ型のものやノート型のパソコンがいくつか置いてあった。
    「もう使ってないものだから、好きなのを持っていっていい」
    「んー」
     正直どれも同じに見える……。
     と、ふといくつかの荷物をがさりと持ち上げると、角度によって薄く水色に輝くように見えるデスクトップ型のパソコンが出てきた。
    「お、こいついいじゃないか」
     その手に取られたパソコンを見て、忍田は一瞬顔を曇らせた。
    「忍田さん?」
    「あ、いや、すまん慶、そのパソコンは壊れていて電源が入らないんだ」
    「え~、マジか……」
     そう言って太刀川は残念そうにパソコンの電源スイッチを押した。その瞬間。

     ――――ブン。

     電源が入った。
    「!?」
     太刀川ももちろん驚いたが、忍田も同時に驚いた。
    「何故……?」
     忍田は壊れていると言っていた。なのに何故?
     忍田が訝し気な表情をして立ち上がったが、太刀川には何故などと考えている時間はなかった。それを思い出した太刀川は、そのパソコンを右脇に抱え、左脇にモニタとキーボードを抱え、ついでにマウスをズボンのポケットに押し込み、部屋から出た。
    「おい、慶!?」
    「わりぃ忍田さん、俺マジで時間ないからさ! パソコンは無事起動してるし大丈夫だろ! 何かあったらまた連絡するから!」
     振り向き様にそう言って、太刀川は早歩きでその場を去った。
     部屋に戻った太刀川は、狭いデスクの上をさらに狭くしている参考資料をわきに追いやり、真ん中にモニタを置いて、電源が入りっぱなしのパソコンに無理矢理接続した。
    「あれ? そういやこのパソコンの電源って……」
     先程電源ボタンを押したとき、コンセントにはつないでいなかったような……? そう思いながらもパソコンの後ろから出ているケーブルをコンセントに繋ぎ、ああ、充電でもされていたのかと勝手に納得した。
     そんなことより今はレポートだ。
     モニタの電源を入れ、しばらくすると画面が明るくなった。その画面には、目を閉じた男の顔があった。
    「うえ、忍田さん悪趣味な壁紙にしてんなぁ」
     そんなことをこぼしつつ、何とはなしにキーボードのエンターキーを押した。すると。画面に映っていた壁紙の男が、ゆっくりと目を開いた。
    「え?」
     画面の中の男と目が合う。透明感のある青い双眸がぼんやりとこちらを見ている。目が……開いた……よな? 気のせいか……?
    「っと、そんなことよりワードワード! 早いとこ打ち込み始めないとな……って、あれ?」
     デスクトップ上には、アプリケーションの類のものが見当たらない。デスクトップ上にあるのは男の胸から上だけだ。
    「マジかー、これ最初から入れなきゃならんってことか? ブラウザどこだ……? てか、ワードのIDとパスなんか覚えてないぞ……」
     ゆるく弧を描く柔らかそうな髪を無造作に掻き毟って、太刀川は今日何度目かわからない溜息をついた。これは、忍田に相談すべきだろうか……。スマホに手をかけたところで、パソコンの画面の男が――――口を、開いた。

    「あなた、は、だれ、です、か?」

    「……は?」
     画面の男の口に合わせて、パソコンから音声が流れた。
     喋った?
     太刀川は格子の目を見張って、ついモニタに向かって話しかけていた。
    「お前、今喋ったのか?」
    「? はい」
     俺の問い掛けに答えた……? パソコンってそんな機能あったか?
     太刀川はモニタの端に手をかけて、男の顔を、警戒の色の目でじっと見つめた。
    「お前、トリオン兵とかか?」
    「トリオン兵……? 違います、おれの名前は迅。AI、です」
    「AI……?」
     レポートのことなどすっかり忘れ、太刀川はその迅と名乗るAIに気を取られた。
    「お前、俺と会話できるのか?」
    「はい、簡単なことなら、可能です」
    「どういう仕組みだ? パソコンだからトリオンでできてるわけじゃないよな。でも俺の言ってること、理解できてるんだろう?」
     迅は軽く頷いて、以前自分はある程度の知識を与えられていたこと、そのおかげで太刀川の言葉が理解できていることを説明した。自分の本体は基本的にはパソコンであり、モニタには登録されたイメージ画像が表示されているのだとも言った。
    「スマホと同期できれば、スマホで移動することも可能です」
     太刀川は髭を弄りながら、へぇ、と感心したような顔をしたが、すぐに思い出したようにモニタを掴んで激しく揺さぶった。
    「おい、俺今レポートを書かなきゃなんなくて困ってんだよ! お前何とかならないか!?」
    「レポート……? テーマは何についてですか?」
    「えーと、確か、対人関係……における……? 心理的発達と……何とか? みたいな話、だったような……」
     迅が目を閉じ、パソコンからカリカリと音がした。数秒後、迅が目を開けて言った。
    「関連がありそうな参考文献が、データバンクに三五八二件あります」
    「は!? さんぜん!? いや、今からそんなに見てられねえよ。締切明日の十七時で、四千字書きたいんだが」
     そう言うと、迅は講義ノートを見せろと言った。
    「主張の方向性は決まっていますか?」
    「いや、全然」
    「決めてもよろしいでしょうか?」
    「助かる!」
    「講義担当の教員の方の思考性から考えると……」
    「あー、そういう説明俺わかんないからさ、迅? だっけ? の思うような内容でいいぜ」
    「それだと不正が発覚する可能性が……」
     太刀川は少し首を傾げた。恐らく単語さえ自分の普段使うものであれば、教授も見逃すだろう。何なら、あの太刀川慶がレポートを提出したのだ、という事実だけでむせび泣き、レポート自体には目を通さないことも考えられる……それも少し切ないが。
    「迅、お前俺と会話できるんだよな? だったら話してくれた内容俺が文章にするから」
    「……なるほど、わかりました」
    「文書作成のソフトとか入ってないか?」
    「ありますが、少し古いかと」
    「使えりゃいいよ。あと、その喋り方、敬語? フツーでいいからさ」
     迅は少し表情を変えて、不思議そうに返した。
    「フツー? ですか?」
     太刀川はキーボードをデスクの上に設置しながら、うんうんと頷いた。
    「そうそう、それな、『ですか』ってやつとか。お前年齢とかあんの?」
     そう言うと、迅は少し顔を曇らせたようにも見えたが、太刀川は気にせず続けた。
    「パッと見年齢近い感じだろ。俺二十歳。迅は?」
    「多分……生まれてから十九年、ぐらいです」
    「じゃあタメでいい。敬語とか使われるとケツがむずむずする」
     そう言うと、迅は不思議そうな顔をしたあとに少し笑って、わかった、と言った。
    「ところで、あなたの名前を登録したいので、教えてくれないかな」
    「あ、そう言えば名乗ってなかったな」
     太刀川はそう言って迅の前に座った。
    「俺は太刀川。たちかわけい、ってんだ。よろしくな」
    「タチカワ、ケイ……太刀川慶……A級一位部隊の隊長……個人ランク一位……四五九六一ポイント……」
     自分の立場をすらすらと挙げられ、太刀川はぎょっとした。ポイント数なんて自分でも覚えてはいなかったが、そんなことまで……? こいつ、実はちょっと自分が持ってきてはまずかったものなのではないか。そんな疑念が浮かぶ。そう言えばあのときの忍田の表情も少しおかしかった、ような。
    「おい、それどこで……」
    「ボーダーに登録されてる情報を検索しただけだよ」
     迅はそう言って、何でもないような顔でにこりと笑った。
     ああ、検索か……さっきも参考資料を探してくれたりしてたもんな。そう思って、太刀川は納得し、安堵した。
    「じゃあ、早速始めようか、太刀川さん」
    「あ、え? なに?」
     突然の迅の言葉に、ぼんやりしていた太刀川は素っ頓狂な声を上げた。その言葉を聞いて、迅は呆れたような表情で、太刀川に言葉を返した。
    「何って、レポートだよ。締切今日の夕方十七時なんでしょ? もう朝五時だよ?」
    「あ、やべぇ! うっかりしてたぜ。頼むぞ、迅」
     そんな太刀川を見て、迅は軽く溜息をついた。
    「太刀川さんって、いつもそんな感じなの?」
    「別にいつもこんなんなわけじゃねぇよ。戦闘のときとかはちゃんとしてる」
    「ふーん……」
     そんなやり取りをしながら、こいつ本物の人間みたいだなぁ……と太刀川は思った。本当にAI、と言うか、パソコン? コンピュータ? 機械、なのか……? この画面の中に実は人間が入ってたりとか……。太刀川は、画面の中の迅を眺めて、モニタの端をこんこんと小突いてみた。迅が首を傾げて、青い瞳が細まり、柔らかそうな茶色の髪がさらりと揺れた。
    「太刀川さん?」
    「お前って本当にパソコン?」
     迅は一瞬きょとんとし、そして吹き出した。
     そんな表情までできるのか。太刀川は機械には詳しくない。まったくわからないと言ったほうが正しい。トリオンのことも、座学で少し教わったけれど、どう使われてるのか、どう機能しているのか、その仕組みはさっぱりだ。トリオン兵がいれば斬る。それだけだ。だから、機械だと言う迅がまるで人間のような素振りでパソコンのモニタの中にいるのが、本当に不思議だった。ビデオ通話をしていて、ネット回線の向こうに迅という人間がいるんじゃないだろうか。
     そんなことを漠然と考えていると、迅がモニタの中で言った。
    「太刀川さん、何度も言ってるけど、おれは正確にはパソコンじゃないよ。AI、つまり人工知能。自分で学習はしていくけど、パソコンに乗っかってるだけのシステム、プログラムだよ。でも、太刀川さんが言おうとしてることはわかる。つまり、」そう言って一つ間をおいて、迅は言った。「おれは、人間じゃ、ない」
     こんなに滑らかな口調、人の考えの先を読んで答えを出すのに。

     人間じゃないのか。

    「……そっか、変な感じだな。まあ、今はトリオン体があったりトリオン兵なんかもいるし、不思議でもないか」
     緩くカーブを描く髪をかき上げながら、太刀川は笑った。
    「お前が何であっても、とりあえずレポート仕上げてくれればいいよ」
     そう言うと、迅は緩やかに微笑んで、じゃあ始めようか、と作業の開始を告げた。


     夕方。
     隊室でぐったりとデスクに突っ伏す太刀川の姿があった。
    「で、レポート出せたんすか?」
     出水が声をかける。
    「……ああ、うん、何とかな……」
     隊長のそんな姿にはもう慣れっこの出水は、今回も何とか首の皮一枚つながってよかったと笑って言った。そして、太刀川のデスクの隅に置かれていたパソコンを覗き込んだ。
    「これが例の?」
    「ん、ああ、そう」
     太刀川は顔を上げた。
     出水は不思議そうにパソコンを眺めながら、「AIねぇ……」と呟いて、電源を入れてみてもいいかと尋ねた。
     太刀川は「いいぜ」と言って頬杖をついて、パソコンのほうを見た。
     正直、深夜から今日のレポート提出までの間のことは、よくわかっていない。パソコンが壊れ? 忍田さんのお古のパソコンをもらい? その画面に「迅」と名乗る男が現れて? そいつは自分をAIだと言い? レポートを書くのを手伝ってくれた?
     誰に話しても大笑いされそうである。さすがの太刀川も、レポート締切直前にパソコンが壊れたせいで自分の頭がどうにかなってしまい、都合のいい夢でも見たんじゃないのかと思っていた。だから、昼過ぎにレポートが完成してから今まで、パソコンには触れていなかった。
     そんな太刀川の気を知ってか知らずか、出水は好奇の色を浮かべた目を輝かせながら、パソコンの電源ボタンを人差し指で強く押した。
    「……あれ?」
     出水はもう一度電源ボタンを押した。しかし、普通なら聞こえてくるはずのパソコンの起動音が聞こえてこない。
    「んー?」
     コンセントなどを確認した出水が二度三度とボタンを押すが、ボタンが上下する小さく乾いた音がするだけで、パソコンからは他に何の音もせず、起動する様子もない。もちろんディスプレイにも何も現れない。
    「……たちかわさーん?」
    「……」
     疑惑の目を向ける出水に、太刀川は無言の返事を返す。
    「寝惚けてたとかじゃないですよね?」
    「……た、ぶん?」
     答える声には珍しく自信がない。確かに昨日はすでに二徹目の夜で、ただでさえ嫌で嫌で仕方がないレポートを、ない知恵をしぼり出してでっち上げていたのだ。疲れた脳が見せた幻覚だったと思わずにはいられない。だが――――。
    「でも、太刀川さんが一晩で自力でレポートを仕上げられるとは思えないんですよねぇ」
     隊員の心無い一言。
     だが、そうなのだ。太刀川も、悔しいが、その意見に激しく同意なのであった。
    「ん-、トリオンに反応するパソコン、ってわけでもなさそうだしなぁ……」
     そう言いながらパソコンのあちこちを無遠慮に触りまくっている出水を尻目に、寝てない頭でぼんやりと昨日のことを思い出す。
     レポートのタイトルを告げて講義ノートを見せると、迅はボーダーのデータベースにアクセスして参考文献を数冊選び出し、内容を太刀川に解説した。太刀川の質問に対しても、わかりやすく的確に答えを返してきた。太刀川の集中力が切れてきたときには、糖分を摂れだの十分休憩しろだの、気遣いまでしてみせた。そう、まるで本物の人間であるかのように。
     レポートが仕上がり太刀川が礼を言うと、迅は一瞬驚いたような顔をした。そして、少し眠たげな目を緩く細めて、やわらかく微笑んだ。
    「太刀川さんの役に立てたならよかったよ」
     その後、太刀川はレポートを片手に大学へと急いだ。そこまでをぼんやり思い出して、ふと気付いた。
     あれ? 俺、このパソコンの電源切ったか?
    「太刀川さん、やっぱこのパソコン壊れてますよ。どこ触っても電源入らない」
     出水の言葉に我に返る。
    「んなはずないだろ。今日の昼過ぎまで使ってたんだぜ。その後電源も切ってないし。……多分」
    「えー、でも本部長にも壊れてるって言われたんでしょ?」
     電源を入れることを諦めたらしい出水が、パソコンを軽く小突きながら言った。
     確かに忍田さんは、このパソコンは壊れていると言っていた。でも、その後電源は入ったはずなのだ。忍田さんの驚いた表情も覚えている。迅とのやり取りも絶対にあった。証拠は、我ながら今までの人生で最高の出来となった、すでに提出済みのレポートの存在しかないのだけれど。
    「嘘でもねぇし、寝惚けてたわけでもねぇよ」
     そう言って太刀川はデスクに手をついて立ち上がり、パソコンの電源ボタンを無造作に押した。

     その瞬間。

     電源が入ったことを示すランプがつき、パソコンからカリカリという音が鳴り始めた。
    「え!?」
     出水の驚きの声が隊室に響く。
    「ほーらな」
     太刀川はどや顔で出水のほうを見やりつつ、しかし内心疑問の気持ちがないわけではなかった。それに、電源は入ったかもしれないが、AIが出てくるかどうかはまだわからない。こいつはただのパソコンかもしれない。昨日の出来事は、自分が自分に都合よく見せた夢だったのではないか。そして、今この瞬間も自分は夢を見ていて、レポートは実は落としたのではないか……? これはレポートを落として単位を失った悲しい自分が見ている夢なのではないか……?
     そんなことを思いながらモニタを眺めていると、画面が明るくなり、昨日の男の顔が映し出された。
    「わ! ほんとに出た!」
     出水がモニタの前の太刀川を押し退け、画面に顔を近づけた。
     男は眠たそうな寝起きの顔から一転して仰天した表情を浮かべ、肩を跳ね上げた。
    「え!? あ、だ、だれ!? ですか……?」
     男が困惑したような声で出水に問いかけた。
    「わー! しゃべった! 太刀川さん、これが!?」
     出水は興奮してモニタを両手で掴みながら、太刀川に尋ねた。
    「そう、名前は迅、だよな?」
    「……!?」
     そう太刀川に問われたが、迅はまともに答えられる状態にはないようだった。出水にモニタをガタガタと揺らされ、何が何だか理解できないといった風の迅は、目を白黒させている。
     そんな迅を見て、太刀川は出水からモニタを取り上げた。まあ落ち着けと出水を宥めつつ、自分も椅子に座り直した。そして、ああ、あれは夢じゃなかったんだなぁ……単位が無事でよかった、と心の底から安堵した。
     モニタをデスクに置き直すと、迅も少し落ち着いたように見えた。
    「あ、た、太刀川さん……え、と……こちらの方は?」
     迅は、太刀川の横にへばりつくようにしてモニタに穴が開くほど凝視している出水をちらちらと見ながら、太刀川に質問した。
    「ああ、こいつは出水。出水公平。俺の部下」
    「イズミ、コウヘイ……。出水公平、くん、は、射手……二位……千発百中……?」
    「え!? すげぇ! なんで!?」
    「ボーダーのデータバンクにアクセスしてるんだと。それにしても、こいつのアホな
    Tシャツの柄までわかるんだな……」
     ボーダーのデータバンクおそるべし。
    「出水公平くん、登録しました」
    「出水でいいっすよ」
     出水はそう言い、にかっと笑った。
    「出水でいい、了解」
     迅はそう返事して、にこりと笑い返した。
    「へぇ、笑ったりもするんだ……すげぇ……」
     出水は感心しきりといった顔で、食い入るように迅を見つめた。迅は、ちょっと照れたように首を傾げて見せ、それにまた驚いたように、出水はため息をついた。
    「で、太刀川さん、レポートはどうなったの?」
     出水の奥にある太刀川の顔をちらりと見ながら、迅が質問をした。
    「……ああ、あれか……どうなったと思う?」
     太刀川はわざと声のトーンを落とし、表情を曇らせて見せた。迅はそれを見て、まさか……、という表情を一瞬浮かべたが、にこりと笑って一言「よかったね」とだけ言った。
    「なんだよ、バレバレ?」
    「そりゃ、おれが朝までサポートして仕上げたレポートだもん。まあ、太刀川さんがあの後寝落ちする可能性もあったから、結果としては五分五分だったんだけどね」
     そんな一連のやり取りを見ていた出水は驚嘆の声を上げた。
    「迅、さん? マジで人間みたいっすね~! 三輪なんかより全然人間っぽい!」
     知らずに被弾する三輪であった。
    「ミワ……三輪、秀次……三輪隊の隊長……オールラウンダー……姉が……」
     迅はそこで悲しそうな表情を浮かべて黙り込んだ。
     出水はもちろんのこと、太刀川もそれには驚いた。
    「ねぇ、太刀川さん……これ、ほんとに人間が入ってたりとか、じゃないんすよね?」
     出水がこそりと聞いた。
    「ん、まあ……多分……」
     太刀川も半信半疑なので、何ともはっきりしない答えである。
     迅は表情を前の笑顔に戻し、「おれは人間じゃないよ」と、太刀川に昨日の深夜に言ったことを繰り返した。
    「でも、人間ぽいって言われるのは嬉しい。ありがとう」
    「へ~、そういうもんなんすね」
    「おれは、人間に近くなるように、って願いを込めて作られてるから……」
    「願い?」
     太刀川がふと視線を上げた。モニタの中の迅は相変わらず笑顔を浮かべていたけれど、その表情は少し寂しげに見えた。
    「願いって誰の……」
     そこまで口にした瞬間、出水が「そう言えば」と口を挟んだ。
    「そう言えば迅さん、さっきパソコン起動しなかったんすけど、このパソコン調子悪いとかそういうのなんです?」
     そう訊かれた迅は、一瞬おいた後ににこりと笑って、「指紋認証だからかな」とだけ答えた。
    「指紋認証?」
     太刀川は自分の右手の人差し指を眺めた。
    「俺、指紋の登録なんてしたか?」
    「ボーダーのデータバンクに入って太刀川さんの指紋を見てきたんだ」
    「は? お前勝手にそんなことして……」
     軽く抗議しようとする太刀川の声をまたしても遮って、出水が横から口を出した。
    「じゃあ! じゃあおれの指紋も登録しといてくださいって言ったらできるんすか!?」
    「うん、できるね」
     出水が太刀川を押し退けて両手をつき、モニタの前に身を乗り出した。
    「すっげー! やっぱすげーわ! おれの指紋も登録しといてください! テスト前とか勉強教えてもらお!」
    「おいおい出水、お前人のパソコンを勝手に……」
    「いいじゃないすか。別に太刀川さんのパソコンってわけじゃないんでしょ?」
    「いや、俺が忍田さんからもらったんだよ」
    「え~」
    「俺がいるときは触らせてやるよ」
    「太刀川さん、ランク戦ランク戦って、ほとんどいないじゃないっすか……」
     そんな一連のやり取りをモニタの中から眺めていた迅は、とても嬉しそうな表情を浮かべていた。そんな迅の視線と表情に気づいた太刀川が、迅に声をかけた。
    「なんだ、迅、楽しそうだな?」
     迅はこくりと頷いて、まあね、と言った。
    「おれ、しばらく一人でいることが長かったからさ。こうやってにぎやかな二人のやり取り見てるの、すごく楽しいし嬉しいよ」
    「へ~」
     出水は何の疑問も持たない様子で迅の言葉に反応していたが、太刀川は少し引っかかった。
     一人でいることが長かったって、じゃあ前の持ち主は? 忍田さんじゃないのか? それとも、もともとボーダーの所有物という扱いで、個人的な持ち主はいなかったとか? いなかったのなら、自分は持ってきてはいけないものを持ってきたのだろうか? それとも、前の持ち主がいたのだとしたら。

     ――――そいつはどうなったんだ?

     忍田さんに訊いてみるか……。それが一番早そうだ。結局のところ、自分が一人で考えたところで、何もわかりはしないのだ。
    「……太刀川さん? どうかした?」
     そんなことを考えていると、迅が不安そうな顔をして声をかけてきた。
    「あ、いや、お前さ……」
     訊こうとして、しかし迅に訊いていいものかどうかもわからず、太刀川は口をつぐんだ。
    「あー、そう言えば、スマホに移せば移動もできるって言ってたよな」
    「あ、うん」
     迅は、何となく腑に落ちないような表情を浮かべながらも、太刀川の質問に頷いた。
    「にぎやかなのがいいなら、今度出てみるか、外?」
    「外?」
     迅は不思議そうに首を傾げた。外、とは? という表情だ。
    「そうだよ、外。いっぱいやかましいやつらがいるぜ。そいつらと話してみたくないか?」
     太刀川が何気なくした提案に、迅は幼い子どものように顔を紅潮させて目を見開いた。が、すぐに戸惑ったような素振りを見せた。
    「い、行ってみたい、けど……」
    「じゃあ決まりだな」
     太刀川は迅の迷うような様子も気にせず、出水に迅のスマホへの移し方を訊いている。
    「ちょっと太刀川さん!?」
     慌てたような迅を視界に入れようともせず、太刀川は自分のスマホをパソコンへつなぐ準備を始めた。
    「だってお前、外に出たい気持ちが少しでもあるんだろ? だったら迷う理由なんてないよな」
    「あ、ありました。ケーブルありましたよ太刀川さん!」
     出水が得意気にバッグからケーブルを取り出した。
    「ふんふん、これを繋いで? 迅をコピー? すんのか」
     そう言って太刀川は、無遠慮にケーブルをパソコンに挿した。
    「わっ!」
     迅は驚いたような声を上げた。太刀川はそれを気にすることもなく、マウスを握り締めて、カーソルをあちこちと動かした。が、コピーできそうな迅を表すアイコンが見当たらない。
    「どれだ? どれをコピーすればいいんだ?」
     モニタ上のカーソルを左右上下に行ったり来たりさせながら、太刀川は出水に訊ねる。
    「えー、それらしい名前のアイコンないっすか? 『AI』とか『JIN』とか?」
     しかし、それらしきアイコンはない。と言うか、そもそもこのデスクトップ上には、昨日からアイコンらしきものがまったくない。
     カツカツとデスクにマウスの底が当たる音が響く。何度もデスクトップ上のカーソルをあちらこちらと移動させていたら、迅が頬を赤らめて、我慢ができないといった様子で上半身を捩って笑った。
    「く、くすぐったい、たちかわさん……」
    「え!?」
     驚いた太刀川と出水に、迅はふふふ、と笑いながら、カーソルを動かすのをやめてくれと言った。
    「は? お前くすぐったいとか感じる機能もあるのか?」
     太刀川は、デスクトップの上でくすぐったいと笑う迅の表情とマウスを、交互に見つめた。
    「よくわかんないけど……そういう風にプログラムされてるんじゃないかな……」
    「『くすぐったい』って感覚、わかるんですか?」
     目を丸くしながら訊く出水に、迅は、うーん、と首をかしげながら返した。
    「言葉で表すのは難しいけど……むずむずして身体の力が抜けそうになったり逆に入ったり、って感じ」
    「ほ~!」
     出水は感心しきって声を上げた。
    「実際に自分がそう感じてるのかはわからないけどね。そう感じてるみたいに表現するようプログラムされてて、くすぐられたときはこうするようにって学習してきただけかもしれない」
     迅は、少し寂しそうな表情で、小さく微笑んでそう説明した。
    「そもそも触覚ってもんがないんじゃないのか?」
     そう言って太刀川は、ポンポンとモニタの端を叩いた。
     迅は、そうだね、と頷いて続けた。
    「触られてるとか、そういう感覚は今はないかな。でもね、」
     そう言って、迅は少し得意気に、人差し指を顔の前にピンと立てて続けた。
    「熱を感じることはできるんだ」
    「あ! そうか! 熱感知センサー!」
     出水が弾む声で言った。
    「ご名答」
     迅がにこりと笑った。
    「モニタのカメラ部分に熱感知センサーがあるんだ。このパソコン、ふつうのとはちょっと違う機能も搭載されてるんだよね」
     へぇ、と太刀川はカメラ覗き込み、ここに触ればいいのか? と訊いた。迅は、触れなくても感知はできるけど、触ってもらったほうがより正確な温度がわかると言った。太刀川はカメラに手を触れ、俺の体温わかるか? と訊ねた。
    「太刀川さんの体温、36.8度」
    「出水、体温計持ってこい」
    「いや、そんなアホな確認しなくていいでしょ。今は迅さんをスマホに移すって話で」
    「あ」
    「……あんたまさか忘れてたんじゃ」
    「あー、そうだ、スマホに移ったときなんかだと、スマホの画面を触られてるのを感じることはできるから、触覚ってものがまるでないわけでもないんだよ」
     隊員に責められかけている隊長を助けるために、迅が口を挟んだ。
    「ほう、そうなのか」
     出水に詰め寄られている太刀川は、そう言って出水の顔から自分のスマホへと視線を移した。
     タッチパネルとかそういうのだね、と迅が付け加えた。
    「じゃあ、俺のスマホに迅がきたら、もっとくすぐれるってわけか……」
    「変なことしないでくれるかな!?」
    「まあまあ。それで迅さんを太刀川さんのスマホに移すにはどうすればいいんです?」
     今度は出水が取り成した。そうだ。ごちゃごちゃやってないで迅本人に聞くのが一番早い。
    「んー……基本的には接続してもらえれば、おれが自分で必要な機能を移すことはできるんだよね」
    「そんなら簡単じゃないか。お前なぁ迅、そういうのは早く言えよ」
     ぼやく太刀川に、迅はごめんごめんと言いながら、ただ自分にも詳しいことはよくわからないのだ、と付け加えた。
    「何だ、そうなのか? お前パソコンだろ?」
    「違うって。おれはパソコンに乗っかってるだけのAI。教えてもらったことは学習して覚えてるけど、教えてもらってないことまではわからないよ」
     迅はそう言って、少し困ったように眉尻下げて笑った。
    「まあいいか。俺も詳しいことはわからんからな。お互い様ってやつだ」
     太刀川はニカッと笑った。
     迅は一瞬、ほんの一瞬だけ、表情を強張らせた。……かのように見えた。
    「迅?」
    「あ……で、おれは太刀川さんのスマホに移ればいいのかな?」
    「ん、ああ、そうだな」
     太刀川は、パソコンから自分のスマホにのびているケーブルを見せた。
    「OK。じゃあ、ちょっと待ってて……」
     そう言うと、迅の青い瞳からふっと光が消えた。光を失くした目は伏せられ、そしてパソコンからは微かにカリカリという音が聞こえてきた。太刀川と出水は、息を飲んでその様子を見守った。
     いつもは賑やかな隊室はしんと静まり返り、時折パソコンからカリカリという乾いた音だけが聞こえてきた。
    「……ちょっと長くないか?」
    「だ、いじょうぶ、でしょ……」
     五分程経ってもモニタ上の迅の様子は変わらず、太刀川はそわそわし始めた。
     ぶっ壊れたりとか、ないよな?
     いよいよ不安になってきた頃、太刀川の左手に握られていたスマホの画面がふいに点灯し、そして迅の声が聞こえた。
    「……おまたせ」
    「迅か!?」
     太刀川は勢いよく左手を自分の顔の前にやり、そしてスマホの画面に話しかけた。
    「うん」
     太刀川はほっと一息ついた。
     スマホの画面上には、モニタ上で見るよりも縮小された小さな迅が、照れ臭そうに太刀川を見つめていた。
    「スマホに移動するのが久しぶりすぎて、コピーするのに必要な機能がどれかちょっと迷っちゃって時間がかかったよ」
     心配かけんな、と言おうとして、別に心配はしてない、よな? と思い直し、太刀川は頬を指で軽く掻いた。
    「んじゃ早速行きますか!」
     出水が元気よく立ち上がった。
    「その間パソコンの迅はどうするんだ?」
     太刀川はモニタの迅に向って言った。
    「おれはお留守番だね。でも、ここからスマホのほうにアクセスさせてもらえれば同期できるから、散歩の様子は見ることができるよ」
    「ふーん、そうなのか」
     不思議そうにスマホとパソコンを見比べる太刀川に向かって、迅は右手をひらひらと振り、いってらっしゃい、そっちのおれをよろしく、と言ってにっこり笑った。


     太刀川と出水は迅を連れて、まずはランク戦のブースへと向かった。
    「俺が楽しいところと言えば、やっぱりランク戦のブースだからな」
     と太刀川が得意気に提案したからだ。
     そればっかりじゃないか、と出水は呆れたが、お前だって変わんないだろうと太刀川に指摘され、返す言葉もなく目線を逸らした。
    「迅さんはランク戦って知ってます?」
     出水がスマホに話しかけると、迅は、知識だけなら、と答えた。迅が作られた当時はまだランク戦のシステムはできておらず、ボーダーのメンバーももっと少なかったのだ、と。だから、ボーダーのデータバンクにある録画を見てある程度のことは知っているが、ランク戦を実際にリアルタイムで見るのは初めてなのだ、と言った。
    「へ~、おれらがボーダーに入る前のボーダーかぁ。想像つかないっすね」
    「着いたぞ」
     太刀川がそう言ってスマホを持つ右手を上げた。そこには大勢の隊員たちがいて、A級一位部隊の二人が現れたことで、そこにいた隊員たちが軽くざわめいた。
     迅は興味深そうにきょろきょろと辺りを見回し、感嘆の声を上げた。
    「これが今のボーダー……!」
    「結構人いるだろ?」
    「うん、すごいね」
     太刀川は、ランク戦ブースの全体が見えるように一通りスマホを持つ手を動かし、それから今行われてるランク戦が映し出されているモニタの前に移動した。
    「ここで今バトッてるやつらの様子が見れる」
    「今は誰がやってるの?」
     モニタを見上げると、そこには槍を使って猛攻を仕掛けている人物と、それを巧みに避けてすばしっこく飛び回っている人物がいた。
    「あー、米屋と緑川だ」
     出水がうへぇ、とため息をついた。
    「ヨネヤ、と、ミドリカワ……」
    「槍使ってる方が米屋、ちっこいほうが緑川だよ」
     簡単に説明しながら、太刀川はモニタの方にスマホを向けた。
     モニタをじっと眺めていた迅が、感心したように、へぇ、と声を上げた。
    「レベル高い動きだね」
    「そうか?」
    「うん。まあ、トリオン体だからってこともあるだろうけど、米屋くんのほうは動きに無駄が少ないね。緑川くんはたまに粗さが目立つ。よく動けてるけど、まだ発展途上っぽいかな」
     そう分析した迅に、なるほど、と二人は頷いた。
     ああ見えてあいつらもA級だからなぁ、と太刀川が言い、出水もそれに同意はしつつ、しかし最後に「アホですけどね」と付け加えた。
    「でも、」
     モニタを見ていた迅が、小さく呟いた。
    「楽しそうだ」
     その声のトーンが少し引っかかり、太刀川はちらりと迅の方を見た。けれど、スマホの画面に光が反射して、その表情は読み取れなかった。
    「あれ、太刀川さんやん」
     ここではあまり耳にしない関西弁で、がっしりした体型の男が近づいてきた。
    「生駒」
    「スマホ掲げて何してますのん? 新しいボケか何かです?」
     そう言って、太刀川に「生駒」と呼ばれた男は、太刀川の手に収まっていたスマホの画面をひょいと覗き込んだ。
    「げ」
     覗き込んだかと思うと、眉根を寄せて大袈裟なポーズで一歩後ずさった。そして、んん……と軽く咳払いして、すんません、と一言謝罪し、そして続けた。
    「……太刀川さんの彼氏さんですか?」
    「……そう思うか?」
     太刀川は笑顔で返したが、目が笑っていなかった。その隣では、生駒の言葉を聞いた出水が、腹を抱えてひぃひぃと笑っている。
    「いやぁ、巷の恋人たちは自分のハニーをスマホの壁紙にするいうて聞いたもんで……」
     ハニー。
     ますます笑い転げ、もはや笑い死にするのではないかと思うほどに笑い続けている出水を尻目に、太刀川は、生駒の言葉の意味が通じているのかいないのか、はっはっは、と乾いた声で笑い、お前面白いなぁ、と言った。
    「え、じゃあこの壁紙の男の子は誰ですのん? てか、え? 動いとる……? 動画なん?」
     迅が小さく動いていることを目ざとく見つけた生駒は、顎に手をやりながら、太刀川の手の中の迅をじっと見た。
    「男の子、っつーか……。あ、そう言えば生駒って十九歳じゃなかったか?」
    「え? ああ、そうですわ。そう言えば御年十九歳になってましたわ」
     生駒は今思い出したという風に、横手を打って見せた。
    「じゃあ迅と同い年だな」
    「ジン?」
     不思議そうに首を直角にかくりとかしげる生駒に、太刀川はスマホの画面を指さして、「こいつ、迅」と見せた。
    「……え、太刀川さんてスマホの壁紙にまで名前つけてはるんです? 意外とかわいらしいって言うか……」
     生駒はドン引きですわと言わんばかりの顔で、スマホと太刀川の顔を交互に見やった。出水はもはや声も出ないといった様子で、床の上に丸まって、ぜぇぜぇと息を荒げている。
     生駒、お前はどこまで暴走すれば気が済むんだ。
     そんな実りの少ない会話を繰り広げていると、遠くから生駒の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
    「生駒! 太刀川さんたちと何を話してるんだ?」
     爽やかで元気のいい声が一際響き渡る。
    「おい嵐山、あまり大きな声を出すなよ」
     柿色の隊服を着た、これまた爽やかなスポーツマンタイプの男が、「嵐山」と呼ばれる男を後ろから軽く諫める。
    「お、柿崎に嵐山やーん。何や久しぶりやなぁ」
     そう言って生駒は嵐山とハイタッチをした。
     すると、さらにその後ろから白いジャケットの隊服を着た長身の男が現れ、生駒に声をかけた。
    「俺を無視するたぁいい度胸じゃねぇか、生駒ぁ」
     長身の男は、生駒の奥にいる太刀川を見たとたん、姿勢を正し、勢いよく深々と一礼し、張りのある声で挨拶をした。
     「弓場は相変わらずきちんとしてんなぁ」
     太刀川はのんびりとした口調でそう言って、「弓場」に空いてる方の手を上げて見せた。
    「で、生駒は太刀川さんたちと何をしてたんだ?」
     先程生駒に「柿崎」と呼ばれた男が、太刀川に軽く会釈をしてから生駒に訊ねた。生駒は腕を組み、上半身をぐいんと右側に折り曲げ、うーん、と唸った。
    「太刀川さんのな、スマホの壁紙がな……」
     生駒の言葉に、三人の視線が一斉に太刀川の手元に集まる。
     太刀川はたじろぐこともなく、ひょいとスマホを上げて三人に画面を見せた。そこにはもちろん迅の姿があった。
    「……」
     三人の空気が微妙になった。
    「せやろ? そうなるやんな?」
     生駒は三人に同意を求め、三人は無言のまま太刀川の手に収まっているスマホの画面を見つめていた。
    「これは……太刀川さんの恋人、ですか?」
     嵐山が食い入るように画面を見つめて言った。
    「発想一緒!?」
     そこで出水がまた笑いを堪え切れず噴き出した。
    「いやな、それが不思議やねん。この壁紙、何か知らんけど地味に動きよんねん」
    「動く?」
     三人が生駒のほうを見、そして次に太刀川の顔を見た。
     太刀川は、そこでまた同じようにスマホの画面を三人の方へ向け、そして指さして言った。
    「こいつ、迅って言うんだ」
    「…………」
     またしても微妙な空気が辺りを包んだ。
    「ジン……? ですか?」
     嵐山が口を開いた。
    「そ。お前らと同い年。よろしくしてやってくれ」
    「……………………」
     同い年……? よろしくしてやってくれ……?
    「た、太刀川さん、あの、それはどういう……?」
     柿崎が半笑いの表情で恐る恐る太刀川に訊いた。
     やっと笑いが収まった出水は、そりゃ当然の反応だろうという面持ちで、生温い笑顔を浮かべて見ていたが、さすがにいろいろなことが不憫に思えてきたようで、一言太刀川に告げた。
    「太刀川さん、迅さんについて説明」
    「お、そうか?」
     説明なんているか? というような表情で、太刀川は集まっている面々の顔をぐるりと見回した。もちろん、と言いたげな表情で、皆が首を強く縦に振る。
     太刀川は、もう一度スマホを持った自分の左手を上げ、画面を指さして言った。
    「こいつは迅。迅悠一。AIなんだと」
    「AI……?」
     皆がしん、と静まり返った。そして、食い入るようにスマホの画面を見つめている。
    「おい迅、何か言えよ」
     太刀川が促すと、迅はちらりと太刀川を見た。太刀川は顎をくいっと上げ、ほら早く、と
    合図した。迅は、こういうの慣れてないんだけど……とぼやきながら、照れ臭そうに頬を掻いて、そして視線を上げて言った。
    「迅悠一と言います。AIです。本体は別にあるんだけど、今はいろいろあって太刀川さんのスマートフォンにいます。よろしくお願いします」
     皆は、迅の滑らかな口調にわっと驚きの声を上げ、矢継ぎ早に声をかけ始めた。
    「迅、くん? 俺は嵐山准! ボーダーでは広報も担当していて……」
    「ちょ、待ってぇや! 迅くん、俺は生駒達人言うねん! 今度うちの部屋でたこパやらん!?」
    「待て待て、お前らちょっと落ち着けよ! うるさくしてごめんな、迅くん。俺は柿崎。えーと、それから……」
    「おめぇも落ち着け、柿崎ぃ。はじめまして、迅くん。俺は弓場ってんだ。俺らみんな十九歳なんだが、迅くんも?」
    「あ、はい。生まれてから十九年ぐらい、って聞いてます」
    「じゃあタメでええやん。よろしゅうな、迅」
    「あ、えっと、はい」
    「迅も敬語じゃなくていいぞ」
     戸惑うような視線を太刀川に投げかける迅に、太刀川は軽くうなずいて見せた。迅は画面の中でふぅっと一つ息をつき、そして柔らかそうな髪をふわりとかき上げて、笑顔を見せた。
    「うん、よろしくね。嵐山、生駒っち、柿崎、弓場ちゃん」
    「え、生駒っちて何?」
    「弓場、ちゃん……?」
     生駒は嬉しそうに、弓場は若干困惑したように聞き返した。
    「うん、そのほうが呼びやすいかな、って思って」
     迅はへらりと笑って見せた。
    「俺のために考えてくれたん? え~、めっちゃ嬉しいわぁ」
    「弓場……ちゃん……」
     両極端の反応を示す二人を尻目に、嵐山が太刀川に訊ねた。
    「太刀川さんはどうやって迅とお知り合いに?」
    「あー、それは……」
     太刀川は昨日からの一連の経緯をかくかくしかじかと話した。レポートの件については嵐山は完全に呆れ顔でスルーしていたが、それ以外の部分は興味深そうに真剣な顔つきで聞いていた。
    「トリオンでできている、というわけでもないんですか?」
    「さぁ。そういうのは俺にはわからん。でも、迅はトリオン兵じゃないって言ってたぜ。なぁ?」
     生駒に捕まっていた迅をひょいと自分の方に戻し、太刀川は迅に訊いた。
    「え? あ、うん、おれはトリオン兵じゃないよ」
     その言葉を聞いて、嵐山は顎に手を当てて呟いた。
    「トリオン兵じゃない、ということは……」
    「トリオンでできているわけじゃない、ということでもない、な」
     嵐山の言葉を受けた柿崎がそう言い、二人は目を合わせた。
     出水がはっとした顔をし、太刀川は「そうなのか?」と迅を見た。
     皆が見守る中、迅はふっと目線を下げ、少し考えるようなしぐさを見せた。数秒後、迅は目を上げたが、その目は虚ろで、さっきまでの迅をそこに感じることはできなかった。
    「迅?」
     声をかけた太刀川のほうも見ず、迅は少し固い音声の敬語でこう言った。
    「その質問にはより上位のプロテクトがかかっているため、お答えすることはできません」
     皆は黙り込んだ。
     上位のプロテクト?
     そして今の迅の虚ろな目は一体……?
    「おい、迅」
     どういうことだと訊ねようと、太刀川はスマホの画面を自分に向けて揺さぶった。すると、迅の目に光が戻り、少しびっくりしたような表情を浮かべて、太刀川を見た。
    「え、太刀川さん? どうしたの?」
    「お前、迅か?」
    「そ、うだけど? 何?」
     太刀川の唐突な質問に、迅は戸惑ったように答えた。そこには、皆で話していたときの迅がいた。
    「お前、突然変になってびっくりさせんなよ」
    「変って何!?」
    「何ってお前……」
     そこで嵐山が、まあ、太刀川さん、と止めた。
     今の様子から考えて、迅は自分にプロテクトがかかっているのを知らないのかもしれない。あるいは知っていて隠しているとも考えられるが……。何にせよ、何か理由があるには違いない。
    「ところで、迅は太刀川さんのスマホ以外にも移ることはできるのか?」
     嵐山は話題を変えた。そして、自分のスマホを取り出して指さして見せた。
    「え? うん、まあできると思うよ、一応本体以外に移動するのは一台って決めてはいるんだけど」
    「え~、そうなん?」
    「それはまあ仕方ないんじゃないか?」
    「世の中迅だらけになっちまうもんなぁ」
     そう言って柿崎と弓場が笑った。
    「そうだね。それに、おれ本体のデータ処理が大変になるからさ」
    「ふーん、なるほどなー」
     あ、この人わかってない。と皆が思いながら、太刀川の棒読みの相槌を見た。
    「俺のスマホに移動できるなら、みんなで旅行なんかもできるのかな、と思ったんだ」
    「めっちゃ楽しそうやん!」
    「そうだな。計画立てるか?」
    「待て待ておめぇら。ここは迅の保護者の太刀川さんの許可がいるんじゃねぇのかぁ?」
     弓場の言葉に、皆が太刀川の顔を見る。
    「保護者?」
     そう言われた太刀川は、迅の方をちらりと見たが、迅は少しそわそわとした様子で、しかし目を輝かせている。
    「迅、行きたいか?」
     太刀川は迅に訊いた。迅は、えー、うーん、などともじもじしながら悩んでいる様子を見せたが、最終的にはこくりと頷いた。
    「だそうだ」
     そう言って太刀川が皆にスマホの画面を見せた。画面の中には、ちょっとはにかみながら、嬉しそうに笑っている迅がいた。
    「じゃあ決まりだな!」
     その一声で、皆がわいわいと行き先や日程について話し始めた。
    「お前も混ざるか?」
     太刀川がスマホの迅に向かって訊いた。迅は軽く首を振って、今はいい、とだけ答えた。
     結局、しばらく騒いでいたものの、この後柿崎と弓場が防衛任務、嵐山は広報の仕事があるということで、その場はいったん解散となった。
    「予定が決まったらまた連絡します」
     そう言って名残惜しそうにその場を離れていく皆を、迅は手を振って見送った。
    「な、にぎやかだろ?」
    「ほんとに」
     迅はくすくすと笑いながらうなずいた。
     その後、米屋と緑川、その他の面々がやってきて、やはり興味深そうに迅といろいろ話をしていった。特に緑川は殊更に迅を気に入ったようで、自分のスマホにもきてほしいと駄々をこねまくり、迅を困らせ、太刀川や出水、米屋を大いに笑わせた。
    「すごいね」
     迅は太刀川を見て、感心したように言った。
    「お前が作られたって頃より、ずいぶん人も増えてるだろう?」
    「うん、それもすごいんだけど」
     迅は太刀川を指さした。
    「太刀川さんの人望がさ」
    「ん? ジンボー?」
    「あ、今片仮名読みした?」
    「よくわからんが、褒められた気がしたな」
    「褒めたのは褒めたけどさぁ」
     そこで出水が、米屋たちと合流すると言ったので、太刀川は迅を連れて部屋に戻ることにした。
    「いいか?」
     太刀川が訊ねると、迅は少し眠そうな顔をして、うん、とうなずいた。
    「なんだ、眠そうだな」
    「そうだね、ちょっと疲れたのかも」
     へぇ、と太刀川は言って、ランク戦ブースを後にした。
     廊下を歩きながらも太刀川はたくさんの人に挨拶をされ、それに対して「おう」などと言いながら手を上げて応えた。
     スマホの画面を見ると、迅はどこか嬉しそうに微笑んでいる。
    「何かいいことでもあったのか?」
     そう訊ねると、迅はふふ、と小さく笑って、「まあね」と答えた。
     隊室に戻ると、そこには誰もいなかった。
    「いつもは国近とかがいたりするんだけどな」
     太刀川はそう言って、迅を連れて自分のデスクに座った。そして、迅にパソコンに移動するかどうか聞いた。迅は目を軽くこすりながら、こくこくとうなずいて、パソコンに戻るからケーブルをつないでくれと言った。
     太刀川は「わかった」と言い、自分のスマホと迅のパソコンをケーブルでつないだ。
     しばらく間をおいて、迅はパソコンにデータを同期させたようだった。閉じていた目をゆっくりと開け、その青い双眸に光が宿り、暗い水底のような色が、透きとおった南の海のような色へと変わる。
    「移動並びに携帯端末のデータ消去を完了しました」
     モニタ上の迅がそう告げ、太刀川に向かってにこりと笑って見せた。
    「楽しかったか?」
     太刀川が訊ねると、迅が「とてもね」と答えた。
    「太刀川さんがみんなに慕われてたおかげだよ」
     そして、「ありがとう」と言った。
     こんなに人に会ったのも、にぎやかだったのも、楽しかったのも、全部久しぶりだと迅は言った。太刀川が提案してくれなければ、こんなに楽しい思いをすることもなかった、と。そう言って嬉しそうに微笑む迅を見て、太刀川も知らず柔らかく微笑んでいた。
    「そうか、そりゃあよかった」
     太刀川は足を組み、椅子の背もたれにゆったりと背をあずけて、太腿の上で手を組んだ。
    「それにね」
     満足そうに迅を見つめている太刀川を見ながら、迅は付け加えるようにして言った。
    「太刀川さんが大勢の人に慕われてるのを見てね、何か嬉しかったんだ」
    「俺?」
     太刀川は、少し驚いたように言った。
    「うん、多分これは『嬉しい』って感情なんだと思う」
    「変なやつだな」
    「そうかなぁ」
    「もっと自分のことで嬉しがれよ」
     呆れたように言う太刀川に、自分のことももちろん嬉しかったよ、と迅は照れたように少し頬を赤らめて言った。
    「同い年の友達もできたしね」
     迅は大人に囲まれていたので、なかなか同い年の友達というものができなかったのだと言った。そりゃまあ、AIならそうだろうなぁ……と太刀川はぼんやり思った。俺がガキの頃なんてパソコンいじるより身体動かしてる方が楽しかったもんな。
    「そうだな。旅行、楽しみだろ?」
     太刀川がかけた言葉に、迅は返事をしなかった。
    「迅?」
     聞こえなかったのかと太刀川が迅に声をかけると、迅は少し困ったような表情をして、小さく答えた。
    「あ、うん、そうだね。行けるといいのにね」
    「?」

     ――――行けるといいのにね?

     太刀川は迅の言葉に違和感を覚えた。
     今の迅の答えは変じゃないか? 普通だったら、楽しみだとか、行きたいとか、そう答えるものではないのか。それとも、これは迅がAIだから、少しおかしな表現になってしまっただけなのだろうか。それとも、迅にとっては初めての旅行だから、単に行けるかどうかを心配しているだけなのだろうか。
    「……心配しなくても行けるだろ」
     とりあえず太刀川はそう返した。
     迅は、「……うん」と答えた。


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