神∠者の任務に補佐としてついて行くラワ ワースは早足で山道を進んだ。ざくざくと鳴る足元と、もうひとつ、数歩後ろに同じく足音。ランスは一度足を止めると前を歩くワースに声を掛けた。
「何をそう急いでいる」
「は?いや、お前こそなんでそんな早いんだよ」
「お前が前を行くからだろ」
ワースは眉間に皺を寄せ、そして、ああと呟いた。その顔はすぐ呆れに代わり、その大きな口で大きな溜息を吐いた。
「テメェは神覚者様だろうが、『要人』は大人しく後ろを歩いとけ」
そうして彼はまた前を行く。ランスはその背を見つめ、小さな口で小さな溜息をついた。
神覚者を何だと思ってるんだ。力の象徴だぞ。
そう、今回は神覚者の任務である。大規模な原生林が残る地域にも小さな人の村がある。そこからSOSが届いたのだ。「至急来てほしい、このままじゃ暮らせなくなる」とのメッセージはその地域性から重要視されランスへの任務と成った。
そのままの自然が色濃く残る場所など何が起きるか分かったものじゃない。知識、魔力、そして魔法。それらを考えてワースに声を掛ければ即却下された。だから無理やり連れてきたのだ。アイツはオレのことを分かっていない。ドットにそう愚痴ると彼は憐れみを込めた視線でランスを見て、口元に手を当てた。思わず杖を向けたのは言うまでもない。
しかし、ワースもそれなりに分かっていたようだ。いきなり現地に転移を掛けても溜息以外の文句は言わず、手持ちの荷物のなかにはある程度の外泊用品も入っていた。準備が良い。
ワースはまず足元の土を見た。指先で触り、石を探す。一言目は「川が近くにある」で二言目にランスと会話をした。
「調査と村に行くの、どっちが先だ?」
分かっている。
「数か所、調査を先行する。滝がひとつ、池がひとつ。あまり魔法は使わないほうがいいな」
「わかった。じゃあ、川を探すか」
やっぱりワースで良かった。さっそくランスは噛み締める。これが脳筋どもだったら…どうなっていたことか…。ある程度同じ物の見方が出来、同じレベルの知識で会話ができるだけでどれだけのストレスが減ることか。小さくガッツポーズしている神覚者をワースは知らない。
川はすぐに見つかりその先の滝もすぐに見えた。あまりに巨大な滝は視界さえ開ければよく見えたのである。巨大な水の流れが真下へ叩き付けられていく。近づけば振動も感じることだろう。ワースがランスを見た。ランスは首を振る。
「分かればいい。水が淀んでいる様子も枯れている様子もない」
「了解。というか、あのレベルだと結構ヤバい精霊とかァ居そうだけどな」
「それもそうだ。次、行くぞ」
ふたりは先を急いだ。
またも同じだ。ワースが先を行き、ランスが後を追う。あまりに背中を追うのも馬鹿らしくなり近づこうとしたら、ワースは止まるよう手を広げた。彼の視線は地面にあり、今度は触れずに足先で抉った。どろりと紫色の泥汁が滲む。
「これは」
ワースは杖を向けた。汚泥はぐるぐるまとまりながら宙に浮きワースの目の前でその姿を見せる。
「毒だな。…薄い膜みたいな」
「膜?」
ワースは杖を下げる。泥が地面にぴちゃりと落ちた。地面に向かい呪文をひとつ。杖を真横にじっくり流すと地面の土が一度震える。そしてじんわりと紫色だけが浮き出してきた。
言葉にするならば足跡か。ナメクジが這ったように密度を変えて移動しているのか紫色はムラを作りながら真っ直ぐ繋がる。驚いたのはその大きさだ。人幅五人分くらいの大きさのそれにワースはとりあえず神覚者様を見た。
「討伐、とか言わないよな?」
「…会わないことを祈ろう。それより池だ。この様子だと毒にやられているだろう」
ワースの口端があがる。口が開いて、その先の舌先が蠢くところまで見えた。
「…どうして欲しいんだァ」
本当に言葉が要らずに助かるものだ。しかし、その顔が妙に劣情を誘うものだから襟元を掴んでキスをした。仕事中だからそれ以上はしない。触れるだけのキスにぽかんと表情を落としたワースが、は?と呟いた。
「池の状況次第で水質浄化。サンプルを研究部に送りつけたいから保管用の転送機を準備しておけ」
「…はい」
口元をまごつかせてワースはまた前を進む。ランスは上機嫌だ。ああ、ワースを連れてきてよかった。
池と呼んでよいものか。紫色に濁って深く土と攪拌されたそれは先ほどの足跡同様汚泥だ。先に見たワースは杖で肩を叩き、ランスも鼻を鳴らした。想像はしていたが面倒だった。
「おい、水を全部左に寄せてくれ。即席だが浄水機構を置く」
「分かった」
ランスが杖を握る。それだけで、水は波打ち、さざめき、そのままぐぐっと空間を空けた。ワースは大きく杖を振るう。汚泥よりもさらに下、地底深くを目指す。そこから自分の泥と混ぜて吹き上げる。
泥のなかを考えろ。砂利、砂、粘土に有機物。泥のなかであれば自身で制御は出来るのだ。置き換え、整理し、並び変える。集中のために目を瞑った。思ったより、面積は広い。頬を一筋汗が流れ、顎に落ちる頃、ワースは目を開けた。完成だ。
ランスの寄せた水を何か所か堰き止めるように作られた浄水機構は寸分狂いない幾何模様を描いていた。ランスが杖先を静かに下げる。静かに流れ始めた水は道を伝って吸い取られ、透明な水となって染み出していく。見事。
「流石だな」
「いいや。魔力の消費が激しい。ベストじゃねェよ」
ワースは言い捨てて背を向けた。そこらの土の表面だけでも浄化していくらしい。杖を振る様を見て、ランスはもう一度池を見た。細かく編み込まれた幾何模様の何と美しいことか。これがベストじゃないなど何を言う。しかし、ランスが言葉にしたところでこの男には伝わらない。それがいつだってもどかしい。
ランスは歩きだす。ここまでくればもう村はすぐそこだ。
村といっても小さな集落である。働き盛りの者が多く活気がある。所々で歓声が上がり、顔を向けていく。ランスはふと温かな魔力を感じて横目でワースを見た。見られていることに気付いたワースが小声で言う。
「うるせェよ」
「まだ何も言ってない」
「顔がうるせェ」
そりゃ顔も煩くなる。防護の魔法など、何時振りだろうか。学生時代でさえランスに掛けるものなど居なかった。ランスが掛ける側だった。胸の奥底がじんわりとしてお返しだと同じ魔法を掛けてやる。難しそうに眉を寄せた目元はそれでも少し赤くなっていた。難儀なやつだ。
村長とよばれた男も肩書以上に若い。まだワースと変わらないか少し上か。ワースは頭を下げ、ランスの後ろへと下がった。ランスはそれを見届けると背を正し、前に出る。村長と神覚者が向き合った。
「神覚者様。我らの声に耳を傾けてくださったことぉ感謝します」
「ああ。この土地は魔法局も重要な個所と見ている。今回の件、出来る限りの力は貸そう」
「心強いお言葉。その言葉だけで不安を拭えるものも沢山おるでしょう。ここは人もなかなか来ない場所です。是非、村の者にお応え頂ければ嬉しいかぎりです」
ランスが立ち上がる。そして、神覚者のコートを翻し、背を向けた。数歩、歩いたところでワースも続く。ワースは視線だけで後ろを見て、そして戻した。目の前でランスの象徴が輝いていた。
床に拡がる暖色の灯りはろうを溶かしながら熱を生む。ワースは床に広げたメモに羽ペンを走らせていた。物事は紙にまとめたほうが理解が進むときもある。自身で気付いたことをメモ書き程度に添えて、時に予想も書き込んでいく。規則性は気付くか、気付かないかが勝負。秀才は手持ちのパターンの全てを洗いながら現状を見極めた。
一度深く息を吐き、目頭を揉む。頭がくらりと後ろに下がったところで何かにぶつかり悲鳴が内側の唇まで出かかった。見開いた目には青い髪と青い瞳。飲み込んだ悲鳴は震えながらも声になった。
「いつから、ここに」
「十分前くらいからか。声は掛けたんだがな」
「悪ィ、ただ…」
地図に視線を戻す。また口を噤み、頭を回し始めたワースにランスの手が伸びた。頭を撫で、頬を支えてこちらを見るよう導く。ワースはランスの目を見て、もう一度悪ィと呟いた。
「いいや、お前から言え。なんか用があったんだろ」
「ああ。食事が用意されているそうだ。支度が済んだら来るように、と」
「まぁ、当然の流れだな。神覚者への持て成しだ、気合が入っているだろうよ」
「お前も来るものと思ったが」
ランスも紙に視線を送る。ワースのメモが集中する区域はその綺麗な文字も乱れるほど書き連ねられている。
「行くさ。だが、途中で抜けるぞ。気付かれないうちに一か所だけ確認して戻ってくる」
「…」
恨めしい視線が送られる。視線に込められたものも分かるが、ワースは敢えて口にした。
「お前はここで接待を受けろ、最初からァ最後まで」
「…」
「ついでに色事もなァ、客間の裏に湯汲みの準備があったぞ」
ワースが喉でくつくつ笑う。目を細めてランスを見ると彼の視線が温度を変えた。随分冷めた目がワースに問う。
「…オレに何をさせたい」
「そんな怖い顔するなって、ただ村をあげての持て成しだ。面目を立たせるのも大事だろ。出されたもの食べるのもマナー、その加減は神覚者様のお好みでってな」
ランスの唇が近づいた。ワースの唇と触れるか触れないか、互いの息で表面が震えるのが分かる。ランスはじっとりと声を出した。
「好意もない女と接吻をしろ、と?」
「さァな」
ランスの手がワースの腹を撫でる。ひくりと力の入ったワースの吐息が互いの唇で響く。
「興味もない女体を撫でろと?」
「ん」
ランスの手が下腹から臍を、更に鎖骨までを撫で上げる。撫でるなんてものじゃない。加減の出来ない男の手はそれだけで痕が付きそうなくらい強い。首に指がかかったところでワースがまた喉で笑った。くつくつと震えた。
「神覚者様のお気に召すまま」
「そうさせてもらおう」
とうとうワースの唇へとむしゃぶりつく。正面から齧り付き、その咥内に舌を這わせる。渡された唾液を懸命に飲み込む様を見つめながら健気に応える舌を愛撫した。荒い息が上あごを震わせ、わななく。すっかり肩で息をするようになったワースに満足すると名残惜しいがその温かな口腔から舌を引きずり戻した。銀糸が二人を繋いでいた。
「夜の原生林だ。注意を怠るな。貴様に何かあったら俺は面目どころかこの村ごと潰す」
「ハイハイ」
「貴様にもし色事の用意があった場合、俺は何一つ許しはしない。釦のひとつでも解いて見ろ、今後一切の自由を失うと思え」
「仕事だぜ?」
「神覚者の好きにしていいんだろう」
「…下手なこと言っちまったなァ」
ランスがもう一度頬にキスをした。ふたりはゆっくり立ち上がる。仕事だ。それは食事だろうと接待だろうと調査だろうと。ワースはランスの背を叩いた。そうしないとずっと引っ付いていそうだったので。
さて、予定通り村を抜けてきたワースはそれを見て「やっぱりなあ」と呟いた。目の前には岩壁。色を変え折り重なる層はこの土地の歴史、そのものである。何時だって自然はそこにある。この星が生まれ大地の上で命が育まれたときからずっと在るのだ。
ワースは目を閉じ、地面に魔力を送り込む。遥か後方で草を揺らす音がし、風が不自然に弾む。ゆっくり薄目を開けるとワースの足元からぶくぶくと地面が粟立ち始めた。
ゆらぐ。水を得た土は捏ねられ、たわみ、引きずり込む。草陰から男の野太い悲鳴が聞こえ、その後方からも。三人目の男の悲鳴は長く響き、引き攣るような音と共に止まる。男は見た。月も見えない真っ暗な夜に鈍色の瞳の奥がギラギラと輝いている。彼の指先がゆっくり口元にやってきて静かに空気を揺らす。しーっとか細く小さく吐かれた息が、その上がる口端がどれもぞっとするほど美しく背を冷やすほどに恐ろしかった。包み込む泥だけがどうにも熱を帯びている。
「簡単な質問をするからよォ、ちゃんと答えろよォ」
近づいてきた男は杖をこちらに向けた。
ランスは用意された部屋でかの妹のロケットネックレスを開いていた。いつもは首に掛けるそれを神覚者のロングコートへとしまい込む。煩わしい。この悪習はどこへ行っても権力者へと付きまとう。だからこそ、ワースに嫉妬すらされないのだ。嘆かわしい。生活の一部と化したものは本来であれば特別な愛の触れ合いだというのに。
部屋へとやってきた女を、ランスは何も言わずに迎えた。光沢がある布は柔らかで肌の形を映し出す。滑るように落ちたその中には透ける布で艶やかに飾り立てられた女体があった。慣れた調子で香を焚かれ、その煙にくらりとする。
ランスはやっと立ち上がった。彼女の後ろにまわり肩に手を沿える。安心したように微笑んだ女に微笑み返し、腕に手を滑らせる。そして口元をへの字に戻した。手首を掴み、そのまま問う。
「幾つか質問をする。嘘をついても良いがそれを見抜くだけの術はある。それを知った上で答えろ。分かったな」
震える女はいっそ哀れだ。がたがたと身を震わせ、それでも手首の拘束は離れない。
「貴様らは此処の生まれではないな。元は砂漠の民。間違いないか」
彼女の首が縦に動く。
「此処には元々村があった。精霊を重んじる部族の村だ。知っているか?」
彼女の首が縦に動く。
「しかし、随分と色事に慣れているようだが。その衣装も此処では手に入るわけもない、香なんて以ての外。香りが強いものは精霊の機嫌を酷く損ねるからな。此処に住んでいた部族のものはそんなこと子供でも知っている」
ランスは彼女の手首を解放した。途端に膝を着き、俯く彼女にこう続けた。
「少し前の話だ。砂漠の民で構成された大きな盗賊団が行方不明になった。魔法道具の使用を疑われたがその痕跡は出ず、すっかり姿を消した。随分悪名高かったからな、心配の声こそ聞かれなかったが気味が悪いと局のほうでも話題になっていた。貴様らだな」
「…は、い」
「精霊の怒りに触れたか、慈悲に触れたか。どちらでもいい。
貴様らはこの村に辿り着き、そして先に居た部族の人々を… … …」
ランスの問いに、女は首を縦に振った。一瞬だけ重力が重く震え、それもすぐに納まった。とうとう気を飛ばした女をベッドに寝かせ、ランスの足は外へと向かう。
ゆらりと揺れた長身の影がこちらへ向かってきていた。三人ほどの男を泥で拘束しながら歩いてくる。足取りはしっかりしているが顔に疲労が見て取れた。
「…諸々の確認は取れた。此奴らの証言もとった」
「こちらも接待が終わったところだ。最悪だったがな」
「ハッ」
愉快そうにワースが笑う。ランスはコートからロケットネックレスを取り出すと首から下げた。
「顰蹙買って後ろから刺されても知らねェぞ。人の面立てないとロクなことにならないっつーのに。生きてる人間が一番怖ェんだ」
「よく分かっているじゃないか」
ワースの頭を片手でひっ捕らえた。疲れた顔で、しかしその瞳孔はギラギラと光っている。岩場に挟まる原石のように光り方を変えて輝く。
「興奮したか」
「すこォし」
「その顔を男に見せたのか」
「不可抗力だよ、このエロ餓鬼」
憎まれ口を叩くこの口を塞いでやろうとして、ワースに胸を押されて止まる。真剣な顔をしたワースが首を横に振った。
「ここまで魔力垂れ流しで来てるんだ。今夜は何が出るか分からないからなァ」
「興奮した貴様を前に我慢しろと」
「仕事をしろ、仕事を」
ほぅら。ごうんごうんと夜闇から音がする。どんどんと地面が震える。おかしなことに気付いた人間たちが姿を表し、そして皆、同じ方向を見た。最初に見えたのは赤黒い、ぬめる触手で次に見えたのは…正しい言葉は分からない。ただ蔦が絡み合ったような塊だ。精霊と呼ぶには恐ろしく、村人は一斉に村の奥へと逃げていく。ワースはとにかくランスを確認した。
「あれはイケるか!?それともホラー判定か!?」
「…植物と…思えば…」
「よし、押し込め!」
ワースが触手の下に泥だまりを生み出す。なんとか触手の大きさギリギリに作るとランスへと叫ぶ。しかし、一歩触手が早かった。ワースへ触手を伸ばすとその腕に巻き付く。杖を狙っていた。
「ランスッ」
大きく杖を振り落とす。杖先と共に加わった重力は本体を大きく押し込みワースはその隙に泥を閉じる。ほぼ全部落としきったが、ワースを捉えた触手だけ残りそれはまだワースに絡まり続けていた。
「何だこいつッ」
「ワース」
地を這うような低い声が響く。とにかく目を瞑ると恐ろしい光線が杖から伸び、触手と絡まりあっていた。鞭のような光線は途中で色を変え重力へと変わる。地面に叩き付けられた触手は本体へと縮み、そしてそのまま泥の中へと消えた。
ワースの腕にはしっかり触手の痕がついている。気まずそうに擦るとその手にランスの手が重なった。とても怖い。
「我慢している最中に痕をつけられるとはな」
「!」