無い…。扉が凄い勢いで開けられた。
いつもならば扉の破壊寸前音と共に呂蒙の元気の良い一声が室内に響くのだが、今日はやけに静かだった。
「……ろしゅく殿」
“失礼します”の変わりに毎回名を呼んで入って来る様は変わらないのだが、呂蒙の表情は酷く曇って顔は俯いて床を見ていた。
また何かあったのかと魯粛は察するも原因までは分からない。
普段とは違う状態ではありながらも呂蒙は執務中の魯粛のもとまで近付いて来てその膝上へと徐ろに跨った。
元気があっても無くても日課の様なそれは行ってくる。
「そんなに落ち込んでるなんて珍しいな。どうした?」
「……ぬ」
表情豊かな片眉を少し上げて呂蒙は魯粛の袖を掴んだ。
何か悲しい事でもあったのだろうか。
今にも泣きそうな顔は未だ原因を知らないというのに魯粛の胸を痛めてしまう。
「……無いのです」
「何がだ?」
小さくポツリと呟いてはくれたが、未だ原因不明。
何処の何が無いのだろうか。
追求したくはなったのだが、気分が落ちている呂蒙に無理はさせたくない。
言いたく無い事もあるだろう。
「……」
「……?」
「魯粛殿の為に…」
「ああ」
新しい言葉を聞けたと思えば再び黙ってしまう。
師の為に何かを用意しようとしたのだろうか。そして、ソレを何処かに落としてでもして紛失…。ざっとこんなものだろう。
魯粛は呂蒙の心を読んだつもりだったのだが、次の言葉は全く予想出来ないものだった。
「魯粛殿の為に魚を釣りましてな?」
「…逃げられたか?」
「釣ったのです。釣り上げました」
「……」
「大きい魚でした。俺はこの池のヌシを釣り上げたぞっ!…と意気揚々になって直ぐに魯粛殿に頂いてもらわねばっ!と此方へと向かう途中でした…」
「……」
若干香る生臭さは魚を抱えていたせいか と、魯粛は呂蒙の服に少しだけ付いていた泥を払い落とす。
確実に気を落としているというのに、先程の事を再現する為に暗い表情から突然出て来た元気な声に少しだけ驚いてしまった。
「これならば魯粛殿に沢山おもてなしが出来てしまうなっ…と、嬉しくて周りを何も警戒しておらんかったのです」
「野盗にでも遭遇してしまったのか?」
「―熊です」
「……。……よく無事だったな」
恐らく釣具ぐらいしか持っていなかったのだろう。
大きな魚を抱えながら獣と対面してよく無事で帰って来られたものだと、思わず呂蒙の手を強く握ってしまう。
危うく魚どころか命も取られているところだっただろう。
「…無事ではありませぬ」
「―ッ!怪我をしたのか?」
「……魚が」
「……、……ん?」
「魯粛殿の為に釣り上げた大物がまんまと熊に盗られてしまったのです」
「……お前は?」
「俺は強いので傷一つありませぬ」
「……それは…………よかった」
良いのか悪いのか。
くれようとしていた魚が取られてしまっただけでこんなに落ち込んでいる呂蒙にはどういう言葉が適切なのだろうか。
「どうせなら他に釣った魚を持って行けば良いのに……」
「何匹くらい釣れたんだ?」
「持って行った籠一杯には釣れましたぞ」
「…俺にくれるのはそちらの魚では駄目なのか?」
「魯粛殿ともあろう御方が籠一杯如きの魚で満足出来る筈無いでしょう」
「いや…十分なんだが」
大物で何か作ってくれるつもりだったのか、呂蒙の気は一向に晴れない。
大小様々な籠一杯の魚は既に捌いて干して来たのだと言う。
落ち込みながら素早く丁寧な仕事を済ませて此処に来たのだという。
「こんなに、大きかったのですぞ?」
「……デカいな」
握っていた手を離されて呂蒙が両腕を広げて見せた。
確実に見間違いだろうと思う程の大物ではあるのだが、本当なのだろうか。
「此処まで持って来て見せたかったです」
「いや、お前の気持ちだけで十分だ。熊に襲われて危ないところだったんだろう?お前が無事で良かった」
「熊と戦いましてな?」
「…危ないな」
「勿論素手で」
「死ぬ気か」
「あろう事か魯粛殿の為の魚を使って見を守ってしまいまして…、もうその時既に魚の身はボロボロになってしまったのです」
「……魚の方で良かったじゃないか。危うくお前の体が、」
「魯粛殿にたらふく食べさせてあげたかったのに…!」
「そんなに頻繁に俺は食事を抜いたりしてないぞ?」
落ち着いて言葉を返す魯粛とは裏腹に呂蒙は遂に泣きながら悔しかった思いを吐露し始めてしまう。
確かに徹夜したり偶に食事をせずに書庫に籠ってしまう事はあってもそんなに飢えている訳では無い。
「綺麗な身のまま、丸焼きにしてっ、魯粛殿が美味そうに齧り付く姿が見たかったです…!」
「他の魚では駄目なのか?」
「……小さいのでは駄目です」
「どうして」
「魯粛殿より大きい魚の方が見応えたっぷりですぞ」
「食いきれんかもしれんだろう」
「魯粛殿ならペロリですぞ」
「俺の胃袋を過信し過ぎだ」
「……やり切れませぬ。今からでもまた釣りに行ってよろしいですか!」
「ヌシ級だろう?そんなに何匹もいないだろう」
「魯粛殿も付いて来て下されっ!今度は現地で釣って、その場で焼いて、魯粛殿に食べて頂きます!」
「…いや、そんなに食えん」
「行きますぞ!」
膝上から下りた呂蒙に強引にも腕を引かれて邸の外へと出る。
魯粛は昼飯を済ませたばかりだった。