晴道短編/コヤコヤとしか話せない晴明さんのお話「晴明さんがしゃべらない…?」
藤丸立香が管制室に行って最初に聞かされたのは、安倍晴明が何故か突然話さなくなったというよくわからない事だった。
今同席しているのはダ・ヴィンチとマシュ・キリエライトと蘆屋道満だけなので、特に緊急性がないものなのだろう。
実際、今はティータイムの時間にしているのか、簡易テーブルの上には淹れたばかりらしい紅茶が湯気を立てていて、用意されたシフォンケーキ生クリーム添えは順調に消費されているし、ダ・ヴィンチに至っては他に気になることがあるのか、タブレットでなにやら他の作業をしている。
そして机上の菓子に珍しくも一切手を付けていないのは道満ばかりで、なんとなくこの話を持ってきたのが誰かが察せられた。
「晴明さん、そんなに食堂に顔出す方でもないけど、道満が気づいたの?」
安倍晴明はカルデアに召喚されてからも、あまり食堂に顔を出さないサーヴァントの一人である。
どうやらあまり食べることに興味がないらしく、食堂で赤い弓兵が、通いたくなるような美味いものを彼に出すのだと息巻いていたのを立香は覚えている。
どうも彼が初めて食堂に来た時に、日本人として安倍晴明という存在に少し舞い上がっていて、その時に彼の心をつかむような料理を出せなかったことを少し悔やんでいるらしい。
わかる。日本人なら安倍晴明とか言われたらドキドキするよね、厨二心をくすぐられるよね。だって陰陽師だよ。狩衣だよ!と、立香などは思う。
では立香がマスターとしてお茶にでも誘い出せば良いのだろうが、晴明はあまり食事に興味がないらしく、同席していても茶菓子に手をつけることはなかった。
本人曰く、内裏に顔を出していた頃は人と同じ生活様式にしていたが、元々あまり食事も必要なく、面倒なので、とのことだった。
緊急事態にはどこからか聞きつけて、すかさず助言をしてくれるのだが、めったに顔も出さないのに一体どうやって…と呟いた立香に、道満が思い切り渋い顔をしていたので、それ以降は彼がなんでも知っている理由を気にしないことにした。
そんな、表に出てこなくてもなんでも知っている晴明が話さない、などという奇妙な出来事を、一体道満はどうやって気づいたのだろう?
そう不思議に思い、道満の方を伺えば、いつものように浮かべていた笑みに何故か凄みが加わった。
「…えっと…道満…?」
いま何か地雷でも踏んだのだろうか。
思わずそう心配になって立香が先程の自身の発言を思い返している間に、道満が口を開いた。
「拙僧、本日は晴明殿と術くらべの約束をしておりまして。それはもう今日この日の為にありったけの呪詛を溜め、万全を期していたのでございます」
「…待って?うちは私闘禁止なんだけど?」
「ええ、ですから術くらべでございます。決して個人的な怨恨などではなく、純粋に実力を競うものでございまする」
「……うーん、確かにそうなんだけど…私闘とは違うんだろうけど、カルデア的に被害が出るようなことは事前に相談してほしいかな。道満がそれだけしっかり準備してるような本気の術くらべなんでしょ?」
「ンンン、まさに正論。…わかりました。規模が大きくなる時は事前にご連絡いたしましょう」
「規模が大きくなくても事前申請ほしいなあ、それ…」
「まあ、それはそれとして。今朝、晴明めから突然文が届きまして。今日は物忌のため、おまえの元にいけないので術くらべはまた後日、と」
「へえ、物忌み…さすが平安時代のひと」
書籍でしか知らないような単語が出てきて、立香は思わず感心して呟いた。
カルデアには古今東西の様々な英霊がいるが、やはり自分と同じ国出身となると、学校の授業で歴史を学んでいる分、親近感みたいなものもある。
物忌などその「名前知ってる!どんなものかもおぼろげに知ってる!まさに平安時代!」という感じの単語なので、そんな言葉がさらりと当たり前のように出てくると、ほんの少しウキウキするのだ。
同時に、物忌みって仕方のないものなんじゃないのかな?と首を傾げてしまえば、はあ?と道満が信じられないといった様子で立香を見た。
「あのようなもの、貴族の都合の良いサボりの口実ではありませぬか」
「え、そうなの?」
さすがに当時の事情など知らない立香が驚いてそういえば、今にもテーブルを拳でたたきそうな様子だった道満の怒りがほんのすこしだけ和らいだ。
「ああ、マスターはそのようなこと、ご存知なかったですな。まああの頃の物忌みなどいい加減なものでございまして。夢見が悪かった等ということを陰陽師に相談して、陰陽師がそれはよくない、と言えば物忌みでございます。家門を閉ざし、誰とも会わず、行事もすべて欠席する。そのようなものなので、サボりの口実に使われることも当時は多かったのです」
「確かにそれで通っちゃうなら、サボりの口実に使われそう…」
「いえ、百歩譲って真実であったとして、あの安倍晴明が夢見が悪かったからなどと言って引きこもるとお思いで?あの安倍晴明ですぞ」
「……うん、まあ…確かに…いやでも、あの晴明さんの夢見が悪かったとしたら、なんかカルデアがヤバそうな気がする」
晴明もたしか貴族であるし、そうしたサボりの口実を使うのかどうかと問われれば、道満ほど晴明に詳しくない身としてはわからないというしかない。
否、蘆屋道満ほど安倍晴明に詳しい人はいないのだから、道満が憤っているのなら、本当に術くらべをブッチしたのかもしれない。
もし夢見が悪いなどという理由での物忌みであって、それが真実だったのなら、あの安倍晴明が見る夢とは…などと思うので、今のところマスターである立香の元に晴明から何の知らせも来ていないことが、何も起きていないという証拠である気がした。
「とりあえずオレのところには晴明さんから何も連絡は来てないかな」
なのでとりあえずその事実を立香が端的に口にすれば、察しの良い道満の笑顔が更に怖くなる。心なしか唇の端が引きつっているから、そろそろ忍耐の限界なのかもしれない。
「マスターの元にも何の報告もないならば、サボり決定ですな」
「……だと思うんだけど、ダ・ヴィンチちゃん、何か連絡きてたりする?」
同席はしているが、おやつよりも端末に熱中しはじめたダ・ヴィンチに念のために聞けば、同時作業もお手の物な彼女は「うーん」と言った。
「安倍晴明からの連絡は来てないかなあ。カルデア自体も特に今のところ平和だけど…ほんのすこしなんだけど、今日はちょっと細々としたエラーが出るかな。ああでも何か起こってるようなものじゃないから、安心して」
エラーとは一体何なのかは気になるが、なにやら操作しているところを見ると、技術的なことなのかもしれない。
一応道満からの相談であったので、何かあったのかもと同席してもらったが、今回は取り越し苦労のようだった。
「ああ、話は続けてもらっていいよ。ちゃんと聞いてるし、気になることがあるなら並列処理も出来るから。それで、蘆屋道満。君はどうして安倍晴明の異常に気づいたんだい?彼、物忌みなら部屋にこもっていたんだろう?」
そうだった、元々は晴明が話さないという相談事であったのに、物忌みに気を取られて本題からずれてしまっていた。
ダ・ヴィンチの発言でそれに気づいた立香が道満へと向き直れば、とうとううさんくさい笑顔を消した道満が、眉根を潜めて、吐き捨てるように、だが気がかりがあるといった様子で話し始めた。
「ええ、文ひとつで今日に備えてきた拙僧の労力を無駄にするなど腹立たしいので、晴明殿の私室に参りました。帝のおわす内裏に穢れを持ち込まぬ為などという理由なら晴明めが物忌みをしてもわかるのですが、あいにくここはカルデアで、しかも今日の相手は拙僧ですぞ。何があろうと己の手で祓うのが陰陽師であろうが…! …とまあ、それはともかく。どう考えてもサボりの口実、しかも当日ブッチですぞ。怒らぬものがいると思うので?」
「ああうん…準備万端備えてたのに、いきなり当日よくわかんない理由で中止にされたら怒るよね」
「なので彼奴の部屋のドアを叩き割るつもりで思いっきりノックもして、ドア越しにこれで聞こえぬはずがないという大声で晴明めを訪ねました」
そんな道満の言葉に、戦闘中に聞く道満の「晴明、せいめいいいい」という叫びや「ごちそうさまぁ!」という元気な声を思い出し、結構うるさそうだなあ、などと立香は思ってしまったのだが、当たらずとも遠からずというやつだろう。
あとで部屋が近い英霊たちから苦情こないといいな、と内心思いながら続きを促せば、道満がさらに眉間にシワを寄せて言った。
「ですが、やつの扉はうんともすんとも言わず、式神に『近所迷惑ですよ』『今日は物忌みです』『ついでにいうと、おまえの部屋もシミュレーターも無理です。方違え的にそうなので。ええ、とても残念ですが』などという文をバサバサと本人を目の前に寄越しおって。方違えで無理?儂は貴様の通う女ではないわッッッ」
「…ええと先輩、方違えというのは、そうした言い訳でも使われていたみたいです。通う女性の元に行けなかった時などの言い訳として使われるようなこともあったとか」
激昂する道満の言葉の補足をするように、大人しく話を一緒に聞いてくれていたマシュがこっそりと解説をしてくれる。
なるほど、浮気相手のところへ行っていた時とかにそんな言い訳が出来るのか平安時代、などと道満の言葉の意味を理解してしまえば、ようやく立香も現状に違和感を覚え始めた。
どうやら晴明は突然、道満との約束をろくに理由も告げぬままキャンセルをし、ずっと引きこもっているらしい。
あの道満に部屋の前まで詰め寄られても、一切顔を見せないとは確かに不可解な出来事だった。
「晴明さんがしゃべらないってことは、ほんとに全然、声すら聞かせないほど徹底して部屋に閉じこもっていたってこと?」
「ええ。近所迷惑というならば、出てくるまで徹底的にドアを叩き続けようと思いまして。カルデア内でないなら結界のひとつやふたつ、物理で消すことに挑戦してもよかったのですが、そこは自重いたしました。ええ。なので大人しくドアを叩き続けて、話しかけ続けたのです」
「…おとなしく?叩く?」
おとなしいという言葉の定義が間違っているような気がしたが、道満的には何の問題もないらしい。
実際、苦情は来ていないので問題なかったのだろうと立香は思考を切り替えたが、それにしても、と思う。
「あの晴明さん的には、道満の方法って一番表に出てきそうなのになあ」
どうもいつぞやの平安京でも今のカルデアでも、晴明は自身の決めた範囲内をすべて盗聴している気がしたから、道満が声を張り上げてドアを叩き続けるという行為は、晴明を引きずり出す行動として最適解な気がした。
盗聴しているなら、さぞかし五月蠅かったことだろう。
なのに出て来ないということは、晴明が絶対に姿を表したくないということだった。
「最終的には式神越しに文を持ってこさせるのも面倒だったのか、空中に直接緑文字を書きはじめまして…」
「ああ…」
どうやら本当に平安京でのやりとりを再現したらしく、確かにあの時も声すら聞かせなかったことを思い出す。
だが、と立香は首を傾げた。安倍晴明という人は、このカルデアに来る前から、道満に関することではあれだけ聞かせなかった声ですら割り込んでくる人だ。
道満からのバレンタインの贈り物に直接声を聞かせてまで割って入ってきたのは、立香の記憶にも強烈に刻み込まれている。
そしてこのカルデアに来てからも、食堂にすらめったに姿を見せない晴明が、道満と話す姿だけは立香もよく見ていた。
要するに安倍晴明というひとは、道満に関することならば必ず出てくるということだ。
それが姿を見せない、声すら聞かせない。きっと道満本人にとっても、立香以上に違和感を覚える理由になっているのだろう。
「…じゃあまずはオレから晴明さんに連絡とってみようか。道満との術くらべの事前申告についても注意しておきたいし」
でも晴明さん、今のオレたちの会話もどっかで聞いてるんじゃないかなあ、と既に対処されているような気がしつつも、もうひとつ端末を持ってきて、晴明の部屋にコールする。
一応マスターである立香からのコールのせいか、無視されることもなくあっさりと晴明が通話に出た。しかも音声だけではなく、ちゃんと姿を見せてくれている。
「晴明さん、大丈夫?道満から姿を見せないって聞いたんだけど…」
あまりにもどストレートにそう聞いたせいか、隣の道満の表情がすごい事になっている。大方、儂がチクったor気になって聞きに来たことを言うな、ということだろうか。
だが道満のことならば口を出してくる晴明相手にはこれがいいだろうと判断して立香が聞けば、画面の向こうの晴明が僅かに困ったような顔をした。
「晴明さん…?」
だが画面の向こうの晴明は何も言わない。同時に緑文字がふわふわと空中に表れ、文字をスラスラと綴っていく。
『道満もそこにいるのでしょう。わかってますから姿を見せなさい』
「先に約束を反故にしたやつに言われとうないわ。大体物忌みの癖に姿を見せるなど、サボりの口実にしても中途半端ですぞ」
一応画面の外に出ていた道満が、晴明のその一言にあっさりと隣に割り込んでくる。
その顔はなぜマスター相手ならばあっさり出るのだと書いてあって、多分カルデアのサーヴァントとしての最低限の義務として出てくれたんじゃないかな…と隣で立香は思う。
『だって、おまえこれで私が姿を見せなかったら、また私の部屋に来るでしょう。今度はマスターを巻き込んで』
「わかっているなら、潔く姿を見せなされ。…もしや何かカルデアとマスターのトンチキイベントにでも巻き込まれました?」
「道満それひどくない?」
毎回好きで巻き込まれているわけではないと思わず反論すれば、いや事実でしょう、と真顔で道満に言われて、ぐさりと立香の胸にささる。
『いえ、これはそういった類ではないですね…』
そして返されるのは相変わらずの緑文字。晴明は先程から一切口を開かず、動かすのは表情だけだ。その様子に、どうやら道満の言った通り、話せないのだということがわかる。
これは一度出てきてもらって診察を受けさせたいなと立香は思うが、道満にすら天の岩戸を決め込んだ最高最優の陰陽師が、すんなり出てくるとは思えない。
かといって道満や晴明などは自室を工房にしているらしく、あまり部屋には人を入れたくないようだった。
さてどうしようと思っていれば、画面に入る為に隣にいた道満の表情が深刻な様子で曇っていることに気が付いた。
『道満?』
「…カルデアのトンチキな霊基異常でないなら、余計に深刻ではないですか。ましてや貴方が自覚なく受けるような呪いなど、早く解析するに越したことはないでしょう。おかしな引きこもりなどせず、さっさと出てこいダボ」
口調だけは荒いが、表情が完全に裏切っていて、隣で聞いているだけの立香ですらその表情に目を奪われる。
それは己との術くらべに備えているような時に他人の呪いにかかるなど不甲斐ないという怒りと、己ではなく第三者に晴明の隙をつかれたことに対する腹立たしさ、そしてあの晴明が呪いに蝕まれているという滅多にない出来事に動揺するその眼差し――決して道満は認めないだろうが、それは相手への純粋な心配にしか見えず、それは晴明も意外だったのか、画面の向こうの晴明も道満を見つめたまま目を見張っていた。
それは隙のない晴明の意識を奪ったようで、じっと道満を見つめている。
もしかして今の道満の表情は、平安の頃の蘆屋道満――晴明しか知らない頃の、道満の表情なのだろうか。
ふとそんな思考が立香の脳裏をよぎり、二人の様子を、見つめていれば――そんな道満をじっと見つめていた晴明が、漸く口を開いて、どうまん、とその名を呼んだ。
だが…。
「――コヤン」
――ん??
場にふさわしくない狐のような声が聞こえて、立香の頭にはてなマークがいくつも浮かぶ。それはどうやら道満も同じだったらしく「は?」と途端に道満の眉間にシワがよった。
「コヤッ……コヤコヤ…コヤ…」
あ、しまった、といった様子で晴明が口を開くが、何故かそこからは人語が出てこず、コヤコヤと狐の鳴き声のようなものが聞こえてくる。
え、もしかして今の晴明さん?と立香がまじまじと見つめていれば、隣から「ぶは…ッ」という笑い声が聞こえてきた。
「ン、フフフ…もしや貴方、人語を話せない呪いにかかったのですか…フフ…ッ」
「コヤッ……コヤ、コヤン…」
『ああ…だから黙ってたのに…』
コヤコヤという声とは別に、画面の中で緑文字が綴られる。
なるほど、道満に姿を見せなかったのはうっかりつられて話さないようにするためか、と納得して、立香はダ・ヴィンチの方へと向き直った。
「ダ・ヴィンチちゃん、これってカルデアで何か起こってるわけじゃないんだ?」
「うーん、興味深いけど、今のところ他から同じような報告は受けてないなあ……とりあえずこの現状の手助けになりそうな相手に協力を仰ごう」
そう言って幾人かのサーヴァントに連絡を取り始めるダ・ヴィンチは、こうした事に慣れている。手早く連絡を取ったらしい彼女はひょいと立香の隣に顔を出し、画面の向こうの晴明へと話しかけた。
「ねえ、安倍晴明。君ほどの人がこんな呪いを受けるなんて、よほどのことか、それとも君の警戒をすり抜けるような他愛のないことだったんだろう。何か心当たりはないのかい?」
『他愛のない……ああ、そういえば…』
そう言って少し考えるそぶりを見せた晴明の隣で、緑の文字が素早く綴られていく。その文字を目で追っていくと、どうやら昨日、晴明の私室に子供サーヴァント達が訪ねてきたとのことだった。
「ナーサリーライム達が持ってきたお菓子を食べた?」
『なにやらクリスマスパーティに出なかった者たちにおそそわけをしているとかで、小さなカゴに入れた菓子を持ってきましたね』
「ンン…?貴方、そのようなものを口にしたので?」
晴明が普段食べることに興味がなく、食堂にも来ることがないのに、子どもたちからの菓子を受け取った上に食べたと聞いて、思わず立香と道満は目を丸くする。
すると晴明は僅かに目を泳がせ、そして躊躇う様子を見せつつも、空中で文字を描く。
『…おまえが好きな菓子だといっていたので、どのようなものかと思って』
――その時の晴明の顔は、立香が今まで見たこともないような人くさい表情で、立香の直感が間違いでなければ、それは好きな子にだけ見せる好意のまじった表情だった。
これは見てはいけなかったやつでは、と感じたのはマシュも同じようで、視線を互いに交わし合い、そっと道満の方を伺った。
すると道満もなにやら感じるところがあったのか、僅かに戸惑った様子で、画面の晴明を見つめている。
ここ管制室だけど、そっとフェードアウトでもした方が良いのだろうか…そんな逡巡をしている間に、隣にいた道満が、ふ、と笑った。
「どういう気まぐれかは知りませぬが、拙僧の食べる菓子の類が気になるのであれば、今度貴方の部屋にお持ちしましょう。そもそも貴方があまり食堂にも顔を出さぬから、今回のようなことになるのです」
たかが菓子ごときで術くらべの邪魔などされてはたまりませぬからな、という道満の表情は、不満があるという風に見せたいのだろうが、どう見てもそれだけではなくて、立香はどことなく漂う甘い空気にむず痒くなる。
一体自分は何を見せられているんだ、という気分はこういうの?こういう場合どうすればいい?と内心で葛藤するが、そもそも本来の相談事は何も解決していない事実に、逃げ出すという選択肢がないことに気付いて、助けを求めるようにダ・ヴィンチを見た。
すると流石というべきか、この空気をスルーした彼女は、端末でナーサリー達を呼び出しながらも、聞くべきことを問いただす。
「では彼女たち以外に普段と違うことは何もなかったんだね?」
ダ・ヴィンチの常と変わらない口調に状況を思い出したのか、先程見せた人くさい表情を消して、晴明は画面の向こうでこくりと頷く。
『そうですね。その菓子を口にした以外に、昨日は誰にもあっていません。道満との術くらべを翌日に控えているのに、些末なことに煩わされたくはなかったので』
そう言った彼はごく普通の当たり前のことを口にしたつもりなのだろうが、そんな緑文字の素直な言葉は、立香の隣の彼に何よりも響く言葉であるのは、すぐにわかった。
安倍晴明が、あの道満を相手にするのだからと、念入りに準備している。それは道満も同じなのだろうが、それでも大したことではないといった風に晴明が今日の約束を反故にしたのだと思っていた道満には、普段よりもその言葉が胸に響いたに違いない。
ちらりと道満の方へ視線を向けてみれば、案の定、道満の表情はきっとこの場では立香にしかわからない程度だが、それでも隠しきれない高揚と歓喜が、その表情に滲んでいた。
――やっぱり晴明さん、コヤコヤ言うのもおもしろ可愛いだけだから、道満とちゃんと向かい合って話した方がよかったんじゃないかな。
先程の晴明の表情を思い出すと、そんな風にしか思えなくて画面の晴明へと視線をやるが、観察眼はあるのに人の微妙な機微には疎いところのある晴明は気づいた様子もなく、ダ・ヴィンチと話し続けていた。
「君としては、その菓子が原因だと思ってるのかな?」
『ええ。多分、他愛のないまじないがかかっていたのだと思います。どのようなものかは知りませんが、子供の願うような他愛のない、悪意もない何か……ですので、ええ。放っておいても問題ありません。体感的に数日もすれば元に戻ると思いますよ。きっと医務室へ行っても同じ診断を下されると、最高最優の私が断言します。なので、暫く引きこもって、直り次第マスターに連絡を――』
「は?安倍晴明ともあろうものが、原因究明もせずに何をおっしゃるので?」
どうやら大したことではないから様子見しよう、という結論に流れかけた瞬間、道満が強く反論して、場の空気が止まった。
『…道満? きっとおまえが来ても、私の見立てと同じになると思うのだけれど…』
「だとしても、まだナーサリー殿も来ていないというのに、話を切り上げるので?ダ・ヴィンチ殿、もう彼女たちはここに呼ばれたのでしょう?」
「え?ああうん、多分もうすぐ来るんじゃないかな」
『…道満、おまえ本当にどうしたのです。無駄なことに時間を費やすおまえではないでしょう?』
どうやらまだ原因究明をしようとしている道満に戸惑ったのは晴明だけではないらしく、ダ・ヴィンチも戸惑ったような顔をしている。
確かに晴明の言う通り、無駄なことに時間を費やさないのは頭の良い選択であり、きっと普段の道満ならば晴明やダ・ヴィンチと同じ判断を下したのだろう。
だが、立香にはなんとなくわかる。
きっと本当に、道満は今、晴明の異常を解明したいのだ。それは安倍晴明という人物に対して異常を引き起こした存在に対する苛立ちと、きっと元々道満のもつ生真面目さ。そして――立香が思うほど単純なものではないのだろうが、それでも立香風に言うならば「心配」だから、だ。
その心配とやらがたとえ純粋に相手を気遣うだけのものでなかったとしても、それはきっと晴明以外には決して向けられることがないものだ。晴明相手だからこそ、引きずり出される道満の感情――道満らしくない感情を、今、晴明は向けられている。
だが、そんな複雑な感情を、道満本人が素直に口にするとは思えない。もしかしたら自覚すらしていないのかもしれない。
ならば今ここで己がマスターとしてすべきことは、晴明を説得し、道満に原因究明をさせてあげることだけだ。そう立香は思い、道満に任せよう、という発言しようとしたが、それよりも道満が口を開く方が早かった。
「それでも、調べることくらいせねば、気が済みませぬ」
『道満…?』
「今日、拙僧はまだ――」
そう言って、僅かに逡巡した道満が口を閉ざす。このようなことは言うに値せぬと、発言を躊躇うように口を開きかけては、その笹紅の唇が言葉を飲み込む。
けれど何度目かの逡巡の後、道満がぽつりと呟いた。
「――儂はまだ、貴方の顔を、直接見てはおらぬのです…」
その言葉を聞いた瞬間の、晴明の表情はなんといえば良いのだろうか。
心臓を鷲掴まれたかのような、先程までの冷静さなどすべて吹き飛んでしまったかのような、恋という熱に浮かされたひとりの
男の顔だった。
そんな人くさい晴明の表情に、背後でダ・ヴィンチに呼ばれたらしい英霊たちの足音が聞こえたが、立香は彼女たちに無駄足を踏ませてしまったことを悟る。
「コヤッ……コヤンコヤン…!」
『わ、かりました……ええ、はい。道満、私の診察はおまえに任せましょう』
出来るだけ無言を貫き遠そうとしていた晴明も、流石に声に出てしまったらしく、上ずった可愛い狐の鳴き声と、きっと本来話したかったであろう人語の翻訳が緑文字で画面の中に流れていく。
超絶イケメンの、好きな人を前に嬉しさを抑えようとしている人くさい顔と、コヤコヤという狐の鳴き声は不釣り合いだが、それでも今は何故かそれが似合っているように思えた。
さて、今来てくれた英霊たちに無駄足を踏ませてしまった詫びはどのようにすればいいだろう。ナーサリー達なら美味しいお菓子でも用意した方がいいかなと立香がのんびり考えていれば、背後から心底呆れた様子の大人の女性の声と、嬉しそうな子供の声が響き渡った。
「はあ、これ一体なんの余興で?求婚するならもうちょっと場所を選んだらいかがです?」
「わ、キツネさん素直になれたのね、素敵だわ!いつも好きな子とわざわざ喧嘩してるようだったから、心配してたのだけど、おまじないが効いたのね」
――場が凍りつくとは、このような場面を言うのだろうか。
今とんでもない発言が聞こえた気がして立香が振り返れば、そこには玉藻の前とナーサリー・ライムが正反対の表情をしながら、そこに立っていた。
「えっと……ごめん、求婚とか、おまじないって、何の話…?」
「え?求婚は求婚でございましょう?そこの暗黒イケモンがコヤンコヤン叫んでいたじゃないですか。こんなところでプロポーズとか、正気を疑いますが」
「えっ、もしかして晴明さん、あのコヤコヤって言葉と字幕、一緒じゃなかったの…?」
思わずそう呟いてから、しまったと思うが、既に後の祭りだった。
違いますが、と不思議そうにしながらも、あっさり回答した玉藻の前の隣で、ナーサリーの無邪気な追い打ちがかかる。
「昨日、ネコさんからキツネさんとまた喧嘩するってきいて、甘い砂糖菓子にお願いしたの。キツネさんが、気持ちを素直に伝えられますように、って。キツネさんだから、キツネの言葉で素敵な気持ちを伝えたのね」
「えっ……じゃあ晴明さんにかかってた呪い…じゃない、おまじないって、もしかして人の言葉が話せないんじゃなくて…」
本心しか言えなくなるおまじないだった…?
――二人の言葉を総合すると、そんな結論にしかならず、恐る恐る立香は凍りついている二人へ振り返る。
コヤコヤと言っていた晴明は、てっきり人語が話せないことをからかわれたくないから出てこなかったのだと思っていたが、どうやら真実は違うらしい。
本心しか話せなくなっていたから、今朝は動揺して道満に頑なに顔を見せなかったようだった。
その「本心しか話せない」が人語でなかったのは、ナーサリーが晴明をキツネさんと呼んでいるせいか、キツネという本能部分に呪いが効いて人語の一切が話せなくなってしまったからかは立香には判断がつかないが、少なくとも本心しか話せない窮地にたった晴明には、それが唯一の救いだっただろうことはわかる。
だが、その救いも今は容赦なく砕かれた。
当事者の二人は一体どんな顔をしているのか。見るのが怖いと思いながらも恐る恐る立香が画面の向こうの晴明へと視線をやれば――見たこともないほど顔を赤くした晴明が、そこにいた。
「せ――」
晴明さん、と立香が呼ぶ前に、ブツリと通信画面が切られて、真っ暗な画面へと戻る。
普段の冷静沈着さなどどこにもない、あの白皙の頬がごまかしようもなく赤く染まった、美しい晴明の照れと動揺と羞恥がないまぜになった表情は、何よりも真実と晴明の本心を伝えていた。
あれだけあからさまな表情を向けられた道満は、一体どんな顔をしているのか――そう思い、道満の方を見てみるが、こちらも晴明とほぼ同じ表情をして、ただ驚いたように真っ暗な画面を見つめて、硬直しているだけだった。
「―――」
あれ、もしやこれは、こんなバラされた方をした晴明よりも、この場に残された方が地獄なのでは…?とそう立香が思った瞬間、まるでその心境を呼んだかのように、道満の姿が霧のように消えてしまった。
「あ……霊体化」
逃げ出したくなる気持ちもわかるが、でも今のはきっと逃げ出したい気持ち半分、そして晴明に詰め寄るためにこの場から消えたのが半分、というところだろうか。
否、先程の道満の表情を見る限り、ハッピーエンド以外には見えないから、後者の気持ちの方が大きいのかもしれない。
「……とりあえず、二人のことは見守ることにして、オレたちはティータイムを楽しもうか」
机上には食堂の赤い弓兵が用意してくれたお菓子がまだ沢山残っているのだから、堪能しないのはもったいない。
せっかく来てくれた二人にそう提案しながら、うっかり公開告白になってしまった陰陽師二人がうまくいきますようにと、ひっそりと立香は祈ることにした。