交流SS/跳羽十駕ピピッ ガチャ
手に馴染んだ暗証コードを打ち込むと、自宅の扉が軽快な電子音を立てて開く。左肩に掛けたレザーのトートバッグがやけに重たく感じ、自動で点灯する廊下からリビングまでの照明を、跳羽十駕はゆっくりとした足取りで浴びて歩く。
上着とバンダナを脱ぎ去って、手を洗う為にキッチンへ立つ。
微かにラベンダーの香りがする固形石鹸を、細く出した温水に潜らせてやりながら、手の平で転がした。徐々に泡立つ真っ白なそれに、夕方食べた生クリームが蘇ってくるようだった。
局からそう遠くはないケーキ屋のショーケースが。
キラキラとした光景が。目に浮かぶ。
そして、あの快活な女性の姿も。
よくよく思い返せば、その日初めて認識した人物と食事をしたんだ。彼女のほうは、以前より自分を認識していたらしいけれど。食事と言っても、スイーツと紅茶なのできちんとした、食事、の意味とは違うかもしれないが。十駕にとっては珍しい出来事だった。
朗らかな表情でミルフィーユを崩す五目イツワは、不思議な人だと思う。
今日は甘い物を摂取しようか、と帰り掛けに立ち寄ったケーキ屋で、一日の業務を思い起こしながらケーキを選んでいた。
日々、目まぐるしく動く現場にやっと慣れてきた、というのにふと医務室で一人になると、まるで大きい水槽に自分だけが放り出されたような、大学病院の頃か幾分ましに感じていたが、自分の根底に根付いた希望が、少しだけ悪さをしているような。そんな気分だった。
「せーんせ、何してるの?」
ずぶずぶと思考の泥濘に沈む頭に、突然明快な声が差し込まれ素っ頓狂な声を上げてしまった。服装が違うから、わからなかったかと問う女性に対して、記憶上のカルテを呼び起こしてみたが自分の中で、彼女の印象的な髪色や眼に該当するものは見つけられず、申し訳なくなる。
彼女もケーキを見たいのだろうか。平均よりも身長のある自分が、ケースの目の前にいたのでは邪魔だったのだろう。
会話を適切に切り上げたら、すぐにケーキを買って店を出ようか、などと話しながら思案していると。
「イートインお願いするっす! 支払いはカード一括で!」
彼女は、店員に早口でハキハキと注文を伝えた。その姿を呆然と見ていた十駕の腕を引っ張ると、元気いっぱいという力の強さで、店内のカフェへ連れて行かれる。えっ、なに。
それより、ここで飲食をするには、カード一括という聞き捨てならない言葉が先程、聞こえた気がしたが? しかも、おそらく歳下であろう女性に奢られてしまうのは、少しプライドが傷つけられそうだった。
健気に存在した僅かな意地で、問答を試みるも、自頭が良いのだろう彼女の話術に翻弄され、今度、ジュースを奢ることにはなったが、なんだか有耶無耶にされてしまった。話していれば、店員があのショーケースに陳列されていたお手本のようなケーキたちを運んでくる。
買おうと思っていた苺のケーキ。
彼女が注文したケーキのなかから、遠回しに差し出された皿に、自分が熱心にそればかり見ていたんだろうな、というのを理解してしまい恥ずかしい。
ひとくち、口に運ぶ。
それは、十分に期待の上をいく味で、思わず、あからさまに喜んでしまった。軽やかなスポンジケーキもゆっくり味わうと舌には、確かに卵の味が残り、生クリームはきちんと子供も大人も心を掴まれる固さが丁度いい。
十駕の様子を満足げに眺めていたイツワも、ミルフィーユに手を付けたようだ。
口内の体温でとろり、と生クリームを溶かす最中。彼女が何故自分なんかに声を掛けたのかが気になった。局内で顔見知りしていたとは言えど、自分ならば、話したこともない私服の大男に声を掛けられるだろうか。
頭で考えた通りの質問を声に出す。
「ミルフィーユってさ、食べづらいっすよね?」
彼女の返事は、一瞬では意図が掴めなかった。
手元の倒したミルフィーユをフォークで丁寧にサクサクと分割しながら、その美味しいケーキの特徴はまるで、人生みたいだ、と語る。けれど、必ず美味しいのだ、と。
「見た目が悪くっても、上手く行かなくっても」
「人生って、最後には美味しいって感じられたら良いんじゃないかな、って思うんっすよ」
ふにゃり、と眉を下げる照れくさそうな笑顔。
そして、自分が普段どんな顔をして過ごしているか、人一倍気にしてはいたつもりだが、寂しそうな顔をしていると言われてしまった。
「お話してみたかったんすよ。どんな切っ掛けでもいいから、キミの、素敵な笑顔を曇らせたくなくて!」
彼女のこぼす言葉は、まるでショートケーキの生クリームみたいにゆっくりと胸の内に溶けていく。心配を包み込んだ眩い笑顔。少女漫画のヒーローかのような台詞に安心してしまう自分がいた。なんだか、小さい視線が擽ったくて、首を触る。
「……それ、口説いてるのかな?」
「さぁ。どう受け取るかは自分次第っすよ」
悪戯っぽくにやけて、飲み物に口を付ける彼女は、いつ悪戯がバレるかと親の反応を期待している子供みたいに見えた。
洗いたての手を買ったばかりのタオルが、優しく包む。まだ水の吸いづらい毛の束に、揉み込むように水滴を含ませて、移動したソファに寝転がった。
「人生……」
最後のひとくちに咀嚼したケーキの苺。
真っ赤に色付いたそれは、自分の掴めなかった色をいとも簡単に掴ませてくれるのだと、心の底では錯覚していたのだと思った。
ぽわり、とした間接照明の灯りがイツワの言葉と共に浮かぶ。崩されたミルフィーユ。
何度忘れようとしたか分からない無慈悲なA4の用紙。今夜だけは、記憶の隅に沈ませておこう。
徐々に鈍くなる瞬きに抗えず、瞼を下ろす。瞳の裏にはグラスに注いだメロンソーダ。炭酸の粒が、ガラスの底を行儀良く撫でては、空を覆うバニラアイスと遊ぶ。キラキラと照明を跳ね返すのは、優しくて意志の強い緑色。
ふと、グラスを包む指先を辿ると、あの赤に似た橙色が綻んでいた。クリームソーダが、よく似合う。
「たんさん、すきかなぁ……」
微睡みの先で見た笑顔に、眩暈を感じながらひとりごちる。ふわふわと空想の泡へと溶けていく脳で、明日は、ほんの少しだけ局内を散歩してみようかと考えた。
長年、連れ添った希望の為に花を買うくらいは、してもいいかもしれない。
後日、五目イツワがなかなか見つからず、夢だったかな、と焦る姿を背後から軽快な彼女に笑われたのは、また別のお話。