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    はるち

    好きなものを好きなように

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    はるち

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    ツェルニー先生とモブに恋するドクターのお話

    片恋「ねえ、ツェルニー。君、恋をしたことはある?」
    ピアノを聞き終えたドクターは、拍手の代わりにそう言った。振り返ったツェルニーは振り返り、背後で壁にもたれながら演奏を聞いていたドクターを見つめた。その眼は驚きに見開かれており、そこでドクターは自分の失言を悟る。
    「すまない、話しづらいなら別にいいんだ」
    「いえ、そういうことではなく……」
    不躾な質問だとかそういうことを言いたいわけではない。言いたいことは、そんな質問を、どうして自分に尋ねるのか。
    自分よりもずっと人の心理に長けているドクターは、怪訝なツェルニーの顔を見ただけで何を言いたいのか理解したらしい。
    「今弾いてくれた曲、すごく華やかで、明るくて、可愛らしくて……。なんと言えばいいのかな、恋をしている人間の心理を音楽で表現したらこうなるのかな、と思ったんだ」
    音楽には詳しくないから見当違いのことを言っていたらすまない、とドクターは苦笑する。歌詞のない曲をどのように解釈するかは聞き手に委ねられる。ドクターのその解釈は、ツェルニー自身が作品に込めた感情と少なからず合致していた。
    「だから、そう。君も恋をしたことがあるのか、知りたくて」
    ドクターは先程から落ち着かなく指を組んではまた解いていた。先日、ドクターにハンドクリームを送ったことを思い出す。ささくれがちな手を見るのがあまりに忍びなかったからだ。秘書を務めるときや、こうしてピアノのレッスンのときに、ドクターの手から花を思わせる香りがする度に、胸の内で鳥が羽ばたくのを無理やり押し込めているような、何とも言えない気持ちになる。鳥の羽は心臓を撫で上げる感覚は、しかし決して不快ではない。
    それにしても、とツェルニーは思う。今日のドクターは失言が多い。それはそれだけ自分のことを信頼してくれている、ことなのだろうか。ロドスにやってきてからまだ日は浅いが、それでも自分達の間には確かな信頼がある。ドクターはツェルニーにとって初めての、感染者を差別しない人間だった。手を触れることを恐れず、隣でピアノを弾くことを厭わない。
    そんな人間が絵空事ではなく実在することを、ツェルニーはロドスに来て初めて知った。
    「あなたは、恋をしているんですか?」
    君は、ではなく、君も、というのならば。
    「え、あー、ああ……」
    うめき声を頭を抱えて自分の発言を後悔しているドクターに、椅子から立ち上がったツェルニーは歩み寄る。たったの数歩で埋まる距離だ。うう、と困惑と後悔をたたえた瞳でドクターは彼を見上げた。
    「……実は、そうなんだよ。私には記憶がないから、主観的にはこれが初恋だ」
    だから困っている、とドクターはため息をついた。
    それはどんな人間でも詩人、あるいは音楽家にする天国的な力だ。人をまるで無防備にし、狂騒へと駆り立てる悪魔的な力だ。
    その力を、人は恋と呼ぶ。
    「……どんな方なんですか?」
    「え、えぇ……」
    ドクターは口ごもる。やはり気恥ずかしいのだろう。しかし自分を見つめるツェルニーの瞳は新緑の葉を透過する陽のように優しく、揶揄するような色はない。結局はその誠実さに負け、ドクターは答えを口にする。
    その名前には聞き覚えがあった。先日、任務で同じ隊に配属された前衛オペレーターだ。
    「いつ好きになったのか、全然わからなくて……。というより、この感情が本当にそうなのか、わからなかったんだ」
    でも、とドクターはツェルニーを見つめ返す。その瞳は、まるで春そのものを閉じ込めたかのように輝いている。
    「ツェルニーが弾いてくれた曲を聞いて、思ったんだ。これがそうなのかもしれない、って」
    嗚呼、とツェルニーは理解する。春そのものを閉じ込めたかのように輝くその瞳も、薔薇色に上気した頬も、全てその誰か――ドクターの恋する別の誰かに向けられたものなのだと。
    その時、一つの旋律が思い浮かんだ。
    「ツェルニー」
    ドクターが彼の名を呼ぶ。嵐の中で、届かないことを知って名前を叫ぶような、抉られた胸の空虚から止めどなく血が流れるような旋律。
    その痛みを、人は恋と呼ぶ。
    「君も、恋をしたことがある?」
    「ええ」
    ツェルニーはもう、認めざるを得なかった。自分がずっと、胸の内でひた隠しに飼っていた鳥の名前が何であるかを。その鳥は空の香りを知ることも、風の青さを知ることもなく死んでしまったことを。
    「私も、恋をしたことがありますよ」

    ***

    愚かしいことに。それでもまだ、胸の内にある鳥の死骸はそのままだった。
    「彼はメタルが好きなんだって」
    ピアノの前に座り、課題曲を弾き終えた後でドクターは言う。ドクターは勤勉な生徒だった。多忙なことは十分理解しているが、その中でもきちんと練習してレッスンに臨んでいる。真面目な生徒が可愛くない教師がいるものだろうか?自分が一体いつから、どうしてドクターに惹かれるようになったのかを考えるようになったのは、皮肉にもこの恋が終わってからだった。
    「ツェルニーは聞いたことある?」
    「……一度だけ。先鋒を勤めているオペレーターが大音量で流していましたので」
    あまり自分の趣味ではなかった。それだけだ。人の趣味についてとやかく言うつもりはない。クラシックなど埃まみれで古臭い、などと言われたら流石に黙ってはいられないが。
    ふふ、とその時のことを懐かしむようにドクターが微笑む。
    「エリジウムか。あの時はクロージャが怒ってたなあ」
    鍵盤の上で止まっていた指先が、記憶を手繰って旋律を奏でる。あの日、艦内に轟いていたものと同じ旋律だ。しかしこうしてピアノで聴くと、メロディにはどこか物悲しさすら感じられる。
    「私も、あの時は騒音にしか聞こえなかったけど」
    悪くないものだね、とドクターは言う。
    ドクターは完璧な指揮官だった。編成時、作戦前のブリーフィング、そし戦場で指揮を取っている時。そのどれもに一片の隙もなく、恋をしているのだという告白を聞いた自分でさえその言葉が果たして本当だったのか疑いたくなるほど、ドクターのそのオペレーターへの接し方は他のオペレーター達と変わらなかった。勿論、自分とも。
    ドクターがこうして、普段はそのフルフェイスのシールドの下に隠している柔らかな表情を覗かせるのは、こうして二人きり、音楽室にいる時だけだ。
    「ドクターは、好きなんですか?」
    「うん?そうだね」
    ドクターの手の下で流れていた旋律が止まる。小さい手だ。あれから随分と、ささくれの数は減ったように見える。花の香りもあの日と変わらず、ただ死骸の横たわる鳥籠にも似た胸郭だけが軋みを立てる。
    「好きな人の好きなものなら、私も好きになりたいよ」

    ***

    振られちゃったよ、とドクターは笑った。無理矢理神経を繋ぎ合わせたように唇を吊り上げて、頬を緩めて見せる。
    「故郷に恋人がいるんだって」
    「……だから帰ることにしたと?」
    「病状も落ち着いたからね。前衛オペレーターから故郷の事務所に転属」
    断らなかったのか、とは流石に聞けなかった。ロドスのトップにいるのがドクターだ。転属願いを却下することは、いくらでも出来ただろう。それにその場にいる誰もが納得する理由をつけることも。けれどドクターはそうしなかった。
    持ってきたビールをコップに移し替えるようともせず、瓶に直接口をつけて呷る。ドクターは酒に強い方ではない。それがわかっているはずなのに――わかっているから、こうしているのだろうか。酒に溺れて、心の痛みを忘れたいから。
    「出発は明日だって」
    「見送りには行かないのですか」
    「どうだろう、仕事が入ってなければ」
    投げやりな口調だった。きっと無理なのだろう。ドクターは良くも悪くも、そのオペレーターを特別扱いしていなかった。おそらくそのオペレーター自身も気づいていないのではないだろうか。それで良かったのかもしれない。無惨に踏みつけられた花の咎など、誰も負いたくはない。初恋は叶わないというけれど。ドクターのそれは、きっと自分以外の誰にも知られることなく終わってしまったのだ。
    「ねえ、ツェルニー」
    ドクターの頬には赤みが差していた。目が潤んでいるように見えるのは、きっとアルコールのせいだけではない。
    「恋をしたことがある、って言ってたよね。――失恋したことは、ある?」
    「――ええ」
    ありますよ、と答えると、ドクターは一つ瞬きをした。それに合わせて頬を滑り落ちた透明な液体には、気づかなかったふりをする。
    「すごいなあ、ツェルニーは。私の知らないことをなんでも知っている」
    言葉遣いが普段よりも幼いのは、アルコールのせいだろうか。それとも、単純に気が緩んでいるからなのか。後者であればいいと思う。ドクターがそれだけ、自分のことを信頼しているのであれば。
    「過分なお言葉をどうも」
    「それで、ツェルニーはどうやってそれを乗り越えたの?」
    「……乗り越えてなどいませんよ」
    心は未だに血を流し、喪失の痛みを歌い続ける。胸にはいまだに鳥の亡骸が横たわるばかりだ。
    「一途なんだね、君は」
    「……ドクター、一つ、お尋ねしたいことが」
    「うん?」
    「どうしてあなたは――私に、そのことを伝えたんですか?」
    あなたが、恋をしていると。そう尋ねられるとは思ってもいなかったのだろう。
    「ツェルニーがあの曲を初めて弾いた時に、思ったんだ。恋に音を与えたら、きっとこんなふうに聞こえるんだろうって」
    あれが、あの曲が。曖昧だったドクターの感情に色彩を、旋律を与えた。
    「だから――ツェルニーだったら、わかってくれるような気がしたんだよ」
    あとは、君が誠実でいい人だから、と冗談めかしてドクターは笑う。
    それがドクターの自分に対する評価ならば、今からする行為はそれに対する裏切りになるだろう。
    「ドクター。私が誰に恋をしていたのか、わかりますか?」
    「……?そう言うってことは、私の知っている人なんだね」
    誰だろう、と真剣に考え込むドクターの表情から、一瞬でも憂鬱が消えたことに苦笑する。そのオペレーターではなく、自分に感情を向けてくれることがこんなにも喜ばしいとは。そっとドクターの髪を掬い、耳にかけた。これから言う言葉がよく聞こえるように。不意に近づいた距離に、ドクターはわずかに息を詰めた。
    「……ど、どうしたの?ツェルニー」
    例えば普段のレッスンのように、一つの椅子に二人で並んで座っている時であれば、この程度の距離を意識することはお互いになかっただろう。けれど、今こうして、ドクターの執務室においては。視線の絡む距離が、こんなにも近い。
    「あなたですよ」
    「――、じ、冗談は」
    「私がそんな事を言う人間に見えますか?」
    ツェルニーの指先がドクターのおとがいを捉え、顔をわずかに上へと向ける。ドクターをひたと見据える翠の瞳が、視線を拒むことを許さない。
    嗚呼、そうだ。感染者だからといって、諦める必要はないのだと、そう言っていたのはドクターだ。
    未来も、夢も、希望も。感染者にとっては贅沢品だ。自分達は沈んでいく夕陽を、褪せていくその残照を見つめるのしかないのだと。少しずつその温かさをなくしていく残り火で、明けない夜の寒さを紛らわすより他ないのだと、ずっとそう思っていた。
    それは違うのだと、この人は言っていたから。夜が明けた後の、夕陽と同じ温度をした朝陽の眩しさを、この人が教えたから。
    「ドクター。私はあなたに、恋をしていますよ」
    夕陽が染め上げたように顔を赤くしたドクターは、完全に言葉をなくしていた。その掌を掬い上げ、ツェルニーはそこに唇を落とす。
    「ですので、次に恋に落ちるときは、どうか私にしてください」

    ***

    レッスン開始の五分前になっても、まだ生徒は現れなかった。普段であればとっくにこの音楽室へと現れて、準備をしている時間だ。
    ツェルニーは片眉を跳ね上げ、再度壁掛け時計を確認するが、秒針が切々と時を刻むだけだった。今日は来ないかもしれない。昨日あったことを思えば無理もないが、事前に連絡の一つでもしてほしい。
    とはいえまだ定時前である。せめて時間までは待とう、と思った時に。廊下を慌ただしく走る音が聞こえてきた。この部屋の壁に貼られているのは見てくれだけの吸音材で、中からも外からもろくな防音が出来ていない。それを喜ばしく思うのは、きっと後にも先にもこの時だけだろう。
    近づいてくる足音は曲の最高潮へと向かう旋律に似て、自分であればきっとシンバルを入れるであろうタイミングに勢いよく扉が開かれる。
    「間に合った……っ!」
    「こんにちは、ドクター。あなたがオンタイムで現れるのは珍しいですね」
    ドクターは扉に手をついて、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返している。よほど急いで来たらしい。
    「二日酔いですか?」
    「まさか。昨日はそんなに飲んでないよ」
    ようやく呼吸が整ったらしい。ドクターが部屋の中央に置かれたピアノまで進むと椅子に座り、持ってきた楽譜を広げる。
    「……率直に言って」
    「うん?」
    「あなたが、今日ここに来るとは思っていませんでした」
    そう言うと。自分を見上げるドクターは、ゆるやかに微笑んだ。
    「君が言ったんだろう、軽々しく途中で辞めることは許さないって」
    そうだった。ピアノを習いたいと、ドクターがここの扉をノックした時に言ったことを、ドクターは覚えていたのか。
    指を慣らすために、ドクターがピアノを弾き始める。見やすいように楽譜を動かした方がいいだろうか、とドクターの背後に立っていたツェルニーが腕を伸ばした。
    それだけだった。それだけで、今はすっかり馴染んだ旋律を弾いていた指先が石にでも変わったように強張る。肩にも腕にも余計な力が入っていた。
    「……、緊張していますか?」
    「……」
    ドクターからの言葉はなかった。見れば、ドクターの耳は、微かに赤くなっている。まるで昨日の残照が、ドクターを照らしているようにのように。時に沈黙は、何よりも雄弁に心情を語る。
    嗚呼。昨日の自分の言葉は、確かにドクターの心を揺らしていたのだ。
    ツェルニーがドクターの隣に腰を下ろすと、ドクターの肩が跳ねた。彼は鍵盤に手を伸ばし、美しい旋律を奏でる。鳥が空の香りを歌うような、風の青さを歌うような旋律だった。
    「緊張する必要はありません。お約束しましょう、この経験は素晴らしいものになると。――楽しんでいきましょう」
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