Insomnia 夜に眠りを忘れてしまうことは、今に始まった事ではない。
きりの良いところまで仕事をしようと思っている内にずるずると眠るタイミングを逃してしまうことも、単純に業務量が多くて眠れないことも。あるいは日中に摂取しすぎたカフェインやランナーズ・ハイにも似たワーカホリックの高揚感によるものかもしれず、つまるところ明かりも落ちた艦内を歩くドクターの面持ちは、穏やかな眠りを奪われた死者のそれだった。
足音だけが夜闇の静寂に反響し、雨の中に身を浸す様な孤独が喉を迫り上がる。ドクターはそっと、ポケットの中にある錠剤を確かめた。医療部から渡されている睡眠薬に頼ってもいいかもしれない。しかしタイミングを逃すと翌朝もやがかかったように頭がぼうっとするので、頼らずに済むならそれが良い。眠剤がもたらす倦怠感と、不眠がもたらす倦怠感で、どちらがマシかと問われたら返答に詰まるところではあるが。
手の中で錠剤を弄んでいたドクターは、しかし耳へと届いた旋律に足を止めた。
ともすれば聞き逃してしまいそうなほど、かすかな音。けれどそれは夜の中で道を見失った旅人を導く星に似ていた。その旋律の中には、息づく全てのものへ夜の天蓋をかけて眠りへと誘うような優しさがあった。
ふらふらと、旋律に導かれるまま、ドクターは音のする方へと歩き出す。幽霊のようにおぼつかない足取りは、少しずつ生気を取り戻していた。リズムに合わせて跳ねるように、メロディに合わせて歌うように、ドクターは歩いていく。音の出所は思っていた通り、彼の音楽室だった。
扉を開けると、蝶番が軋んだ音を立てる。旋律が止んだ。驚いたようにこちらを見つめるツェルニーに、ドクターは言い訳でもするようにこんばんは、と挨拶をした。
「こんな時間までピアノを?」
「すみません、あまりうるさくするつもりはなかったのですが」
どうも彼は、自分が彼を注意しに来たと思っている様だった。この音楽室の防音設備は完全に見掛け倒しで、この部屋を駆け回る子供達の足音を部屋の中に閉じ込めることも、隣の部屋で眠るオペレーターのいびきが入ってこないように遮ることもできない。申し訳なさそうに、彼の耳が下向きに垂れるのを見て、ドクターは違う、と手を振った。
「なんだか、眠れなくて。君のピアノが聞こえてきたから、ここへ来ただけ」
彼の旋律は、人を眠りに誘うことはあれど、妨げるものではないだろう。そこでようやくツェルニーは、ドクターの顔色に気づいた様だった。仕事と創作と、原因は異なるけれど、眠れない夜が刻んだ疲労の跡をお互いの顔に認めて苦笑し合うことは、今に始まった事ではない。
「もう少し、君のピアノを聴いていても?」
「ええ、勿論」
その言葉に安堵したようにドクターは微笑み、壁際に置かれた椅子へと腰を下ろした。彼の指が鍵盤の上を滑り、またたおやかな旋律を歌い始める。彼のいた地区では、朝のおはようから夜のおやすみまで、あるいは人生の始まりから終わりまでを彼の旋律が彩っていたのだという。ドクターは目を閉じ、彼の音楽へと身を委ねた。
例えば。一日の終わり、眠りに落ちるその時まで、彼の旋律に身を浸してしまえたら。それはどんなに幸せなことだろう。
緊張と高揚で張り詰めていた精神が少しずつ解きほぐされ、足元から這い上がってきた眠気が毛布のように体を包んでいた。ふ、と彼が笑うように息を吐いたのを感じて、ドクターはゆるゆると瞼を開けた。
「眠れそうですか?」
「……うん、君のおかげで」
ドクターの言葉はふにゃふにゃと柔らかく、半ば寝言の様だった。でしたら自室に戻られた方がいいですよ、というツェルニーの言葉さえも、彼の音楽のように低く優しく鼓膜を揺らして、暖かな眠りへと誘う。ツェルニーが再び忠告するより先に、ドクターは夢の国へと旅立っていた。薬に頼らない、穏やかで暖かな眠りだった。
***
ツェルニーが指を止めても、ドクターは眠りから覚める気配はなかった。
「眠ってしまわれたのですか?……これは興味深い。私の作った子守唄が、貴方にまで効くとは」
椅子に座ったまま眠るドクターの首が、相槌でも打つようにぐらぐらと揺れる。ツェルニーは苦笑して立ち上がった。このままここで寝かせるわけにもいかないだろう。どうしたものかと逡巡し、オペレーター用に用意されている仮眠室を思い出す。自分では執務室を開けることもドクターの自室を開けることもできないが、仮眠室であれば申請をすれば誰でも利用可能だ。ひとまずはそこで我慢してもらおう。
ドクター、と呼びかけても、その目が開かれて自分を写すことはない。胸をよぎった感情は、安堵と落胆、一体どちらなのだろう。壊れ物に触れる慎重さと楽器を扱う繊細さを持って、ツェルニーはドクターの体を抱き上げた。不安になる程軽い。生活習慣については自分も医療部から散々注意されているが、同じくらい頻繁に忠告されているドクターもなかなかではないのかと、ひっそりと息を吐く。ん、とドクターが息を零したのを聞き、彼は慌てて口をつぐんだ。
ドクターの眠りを壊さない様に、暖かな寝床へと運ばなければ。
ツェルニーは一歩一歩慎重に、音楽室の外へと歩き出す。廊下では照明が月よりも冷たい光を降らせ、瞼を透過して網膜へと刺さる光に、ドクターはむずがる子供のように眉を顰めた。起きてしまう、と思ったときにツェルニーの唇から溢れたのは、あの子守唄の続きだった。ふ、とドクターの眉間から険が消え、また安らかな寝息が上がる。
例えば。この旋律が、貴方にとって眠れぬ夜の孤独に震える体を温める毛布なのであれば、それはどんなに幸福なことだろう。
低く、穏やかな夜の調べは、彼の足音に合わせてゆったりと、夜の中を揺蕩っていた。