今は遠き春の日よ昼下がりの図書室は、彼の特等席だった。
紙の知識で編まれた書架を抜け、閲覧室へと繋がる階段を登る。猫は日当たりと風通りの良い場所で昼寝をするというが、彼の生態もそれに近いのかもしれない。殆ど人のいない図書室は、呼吸することさえ躊躇われるほど静かだった。
階段を登った先に、椅子を三つ繋げて眠っている彼がいた。日差しは祝福するように彼の寝顔を照らし、長い睫毛が頬に影を落としている。規則正しく上下する胸をしばらく見つめ、起こすべきか少し悩む。僕は呼吸をひとつして、この静謐を打ち破り、彼に呼びかけた。
「天城」
「……、」
彼は眩しさを堪えるように眉を寄せ、そしてゆるゆると瞼を開けた。瞬きを数度するうちに、焦点が僕に合う。
「……なんだ、君か。今何時だ?」
「十五時だよ」
「嘘だろ」
「嘘だよ。十三時三十分前だ。卒試には間に合うよ」
驚かせるなと彼は僕を睨みつける。僕は肩をすくめ、彼が足置きとして使っている椅子の一つを渡すよう目配せをした。彼は嘆息し、長い足を床に下ろす。
「まだ勉強するのか」
揶揄うような声色は、僕が手にしているルーズリーフの束に向けられたものだった。勿論するさ、と暗記すべき単語の羅列に目を落としながら答える。
「君はしなくていいのか」
「今日の科目は外科だろう」
ならする必要はない、というように彼は目を閉じた。人と一緒にいる時に降りる沈黙を、天使が通り過ぎたと例えることがあるけれど、それで言うと彼は幾人もの天使を従えているようだった。だからこそ、僕は彼のそばを好んでいるのかもしれない。彼が、誰の邪魔も入らない図書室を好んでいるように。
「――君は、」
天使の行列を遮ったのは、やはり彼らの主人だった。紙の束から視線を動かすと、彼は凪いだ湖面の瞳で僕を見ている。
「卒業したらどうするんだ?」
「実家に戻るさ。医院を継がないといけないからね」
それは僕が産まれる前から決まっていた道行でもある。彼だったら耐えられないだろうな――と苦笑すると、それをどう捉えたのか、彼は不機嫌そうに眉をひそめた。
「君は――、」
この学年一の問題児であり天才、天城雪彦は。
卒試を終えて国試を終えて、それから。
それからどうするのだろう。外科になる――とは聞いている。彼であれば、どの分野でも大成するだろう。ただの同級生である僕でも、その行先には光があると確信している。
だから。
「――僕みたいな人間を早く見つけるんだよ」
「どういう意味だよ、それ」
訳がわからない、と彼は目を丸くする。
「天城。桜、好きかい?桜はね、あれでいて脆い木なんだよ」
その散り際の美しさから日本人に愛される桜は、今でこそ日本各地でその花を見ることができるが、別段生命力が強い木というわけでは無い。
むしろ弱い。
虫にはたかられやすく、手入れを怠ればすぐに枯れる。そういう木だ。
「君も案外似たところがあるからね――。今日だって、僕が起こしにこなかったら、試験時間が始まっても寝ていたんじゃないか?」
うるさいな、と彼が僕を睨みつける。思わず笑みが溢れた。彼はどうにも、人を信じすぎる傾向がある。僕だって、周囲の人間だって。善人ばかりとは限らないのに。
もう少し寝る、と彼は不貞腐れたように目を閉じた。その呼吸は規則正しい寝息とは程遠く、だから僕は見なかったふりをして試験勉強へと戻った。ただ同じ空間にいるだけのこの時間が、卒業を控えた僕らにとってどれほど贅沢なものか知っていたから。
――だから、今でもこうして思い出す。
窓ガラス越しの日差しが長閑なこんな日は、彼と共にいた図書室のことを。
モニターから視線を外し、一度目を強く閉じた。老眼も始まったこの頃は、電子カルテを長い時間見ているのも一苦労だ。
彼は――天城は、今どこにいるのだろう。
卒業して、心臓外科医になったと聞いてからはそれっきりだ。連絡を取り合うような仲でもなかったし、同窓会に参加するような人間でもなかった。海外に行ったらしい――と風の噂で聞いたけれど。それもどこまで本当なのか。
ただ。
将来について語っていた彼のことを思い出す。この国の医療を憂いていた彼の横顔を。僕は結局、小さな医院を守るだけで精一杯だけど――。
この空の下のどこかに。
彼はきっといるのだから。
次の患者さんを呼ぶ。診察室の扉が開くまでの時間に、僕はかつてのことを思い出す。
窓の外を見る。日差しだけが、かつてと変わらず暖かい。散る桜が、春の終わりを告げていた。