「ロドスは立派な船ですが……海風のにおいが感じられないのが玉に瑕ですかね」
窓の外には、底なしの夜を湛えたように黒々とした海が広がっていた。カーテンを開けると、潮の香りをはらんだ夜風が頬を撫でる。十一月ともなれば風は冬の気配に満ちていたが、湿った風はかすかに温かく、どことなく彼の掌、そして癖のある青みがかった髪に似ていた。海の上では星や月、そして灯火が波の動きに合わせて揺蕩っている。イベリア人として、「海」には複雑な気持ちを抱いている――と以前彼は言っていた。それが恐怖と危険の象徴であるのは、私も同じだ。あまりにも多くの血が流れ、あの波に飲まれ、その闇の中に沈んでいったから。
それでも、ここへ来たいと思ったのは。
「ドクター」
呼び声に振り返る。両手にマグカップを二つずつ持っているルーメンは、伺うような眼差しをこちらに向けていた。彼の手にしているカップからは、暖かな湯気と香気が立ち上っており、それが夜の冷たさと海の恐ろしさを窓の外へと追いやる。これはカモミールだろうか。不安を遠ざけて、安らかな眠りを手繰り寄せる花の匂いがした。
「もうそろそろ寝ませんか?」
時計を見る。短針と長針が頂点で落ち合うまで、もう幾ばくもなかった。彼の言う通り、そろそろ寝る時間だ。彼はどちらかというと気弱げに見えるが、他人の健康のこととなると意外と頑固だった。介護士だからだろう。いつもであればカップ一杯のお茶を飲んだ後は、乱暴ではないが逃れられない頑なさで寝かしつけられている。
しかし、彼はマグカップを私に差し出すばかりだった。もうすぐ日付の変わる今だけは、我儘に付き合ってくれるのだろう。
「ありがとう」
カップを受け取ると、手のひらにじわりと熱が広がった。潮風は思いの外、体を冷やしていたらしい。近づいた彼が窓を閉め、羽織っていた上着を私の肩へとかける。彼の体温と匂いは、まだ鮮明に残っている。
「外を見ていたんですか?」
「海風のにおいを感じたくてね」
「……ドクターは、海が――」
「まあ、好きかと言われたら返事に困るけど……。そうだね」
隣に立つ彼の肩に頭を預ける。服の下にある筋肉の感触と、生きている人間の温かさがあった。鱗と触手で形作られたものたちが巣食う海にはないものだ。けれども、彼を――今の彼を形作ったものの一つは、確かにあの海なのだろう。
「ルーメンは、海が好きかい?」
「好き……ではありませんが」
彼は苦笑し、私の頭にそっと触れた。
「海は、僕にとって――顔の形とか、腕の長さとか……。そういうものに似ています。好きとは言えませんが、嫌いと言うにはあまりに近くて――切り離せない」
好き嫌いで語るには近すぎて、愛憎で記すには深すぎる。
「君のそばかすみたいなものだね」
私は好きだけど、というと、彼は困り顔をますます深くする。どうやら照れているらしい。尖った耳の端が、ほのかに赤らんでいた。
「だから来たかったんだよ」
彼を構成するもの、その輪郭をなぞって、その質感に触れたかった。
「今日この日に――ですか」
ちらりと彼が時計の方へと視線を滑らせる。もう日付の変わる頃合いだった。彼はようやく、躊躇いを口にすることに決めたらしい。下がった眉と物憂げな眼差しが、私だけに注がれる。
「……本当に、ここで良かったんですか?ドクターだったら、もっと賑やかな場所でも――」
「――自分の好きなひとが好きな場所にいたいと思うのは、そんなにおかしなことかな」
好きなひとを形作るものを、知りたいと思うことは。
海は恐ろしい。それでも潮風のにおいは、生まれ育った町を思い出させる。波音は、自分をはぐくんでくれた人のささめきに似ている。彼はそう言っていた。
だから――今日、ここに来たかったのだ。
私の誕生日に。
「……。いいえ。嬉しいです、ドクター。今日、この日を――あなたと一緒にこの場所で、過ごすことが出来て」
声が絶え、波音だけが部屋に満ちる。彼が身をかがめた。長針と短針が重なるように、月が海へと沈むように、唇が触れる。
「誕生日のお祝いに、欲しいものはありますか?」
焦点も会わないほど近くで瞬く橙色の瞳は、あの夜と海を照らす灯台めいて温かく、太陽よりも尚眩しい。これが行き先を示す光であり、帰る場所を示す灯りであった。
「……じゃあ、君の一番好きなものがほしい」
それは子どもじみた我儘に聞こえただろうか。吐息に混ざる言葉に、ふ、と彼が眼差しを緩めた。二人で寝台へとなだれ込んでも、きっと夜はまだ長く、そして温かいだろう。
「僕が一番好きなのは、窓から外の景色を眺めながら、のんびりした午後を楽しむことです。一緒にどうです、ドクター?」