七伊前提の猪伊。ネトラセってやつです。 殺伐とした一般社会から混沌とした呪術界に出戻った七海は、証券会社に勤めていた時よりははるかに険しい顔をしながらもどこか晴れやかに過ごしていた。労働というもの自体に必要性は全く感じないが、その労働があったからこそ想い人と気持ちを繋げることができたのだ。七海は努力、研鑽を重ねることが嫌いではない。必要とする順位が高ければ時間を惜しまず新しい情報を仕入れることが苦にならないタイプだ。土地管理や株でそれなりに利益も上げているが、現場で働くことに所謂「生き甲斐」を感じているのは事実なのだ。額ではなく心に従い、労働というものにケチをつけながら一つ一つの任務を確実にこなしている、矛盾しつつも己に素直に生きている男であった。
コツコツと革靴の音が響く。仕事用のため手入れはそこそこ、といった具合の足に馴染んだ革靴は七海の派手なスーツとよく合っている。四月を目前に早々に散った桜の木を僅かに視界に入れながら、目指す先はもう間もなくである。今日は出先から直帰の予定であったが思ったよりも早く片付いたため、補助監督室に足を運んだのだ。年季の入った横開きの扉を開けると、お疲れ様ですと声がかかり、低い声でそれに応えるが目当ての人物は書類に埋もれるようにして七海の登場にも気が付いていないようだった。挨拶ののち他の補助監督は机に目を落として仕事を再開させている。
「伊地知くん、今日も残業ですか?」
「ひぇ……っ」
小さく悲鳴めいた声を上げるアンダーリムの眼鏡をした彼。振り返った顔はどこからどう見ても焦っており、ぎくりとした目は右往左往していた。七海は任務が終わり次第直帰するというシフトだったため、伊地知は完全に油断していたのだ。二時間ほど残業して帰宅すれば、七海が帰りつく前には家にいられるという手筈。……だったのだが、そううまくはいかず見咎められている状況である。七海と伊地知は業界が同じだが現場にて補助監督との待ち合わせが多い七海は呪術高専まで足を運ぶ機会はなかなかない。しかし、送迎の補助監督はこの学校まで帰ってくるのだから、伊地知と顔を合わせるのは比較的容易なのだ。旧態依然としているカレンダー、ホワイトボードに書かれた各々の予定は一目見ればすぐに分かる。しかも帰宅先は同じなのだから、残業の加減は筒抜けである。下手をすると出張に行く時の方が思うがままに仕事ができるということまである。ワーカホリック気味の伊地知にとって、七海との同棲においての唯一の支障は残業ができないこと、であったが、他の補助監督からは伊地知の残業時間が軽減されたことと、少し健康的な顔色になったことを喜ばれているため強くは言えないのである。
「あの、これだけは明日提出のもので……」
すっかりそこが定着してしまったかのような困り眉で、伊地知は七海を見上げた。教師に叱られた小学生のような顔で言う。締め切り直前にせずもっと前もって、とは言えないのは彼が手にしていた手書きメモに下品な落書きがあり、その依頼主が誰なのかは一目瞭然であったからだ。有能かつ真面目な彼に事務関係の処理を頼り切っている特級術師はいつも急な仕事を持ってくるのだ。
七海は深く大きな息を吐き出して、一緒に帰れればと思ったのですが、とわざとちくりと刺してみる。しゅんと下がる口端が愛らしくて冗談ですよと言いたかったが、職場である以上、これより先の戯れは不要であった。二年前に七海が伊地知に贈った時計がちらりと見えて、思わず緩みそうになった頬をキッと引き締めた。
「急な書類はそれだけですか? 仕上げたらすぐに退社するように」
「はい……!」
おおよそ恋人感もなにもなく上司然として伝えると、伊地知も敬礼でもしそうなほどに歯切れのいい返事をした。
補助監督室を出た七海はさて、と考える。今日は伊地知の仕事があったとしても早めに片付けさせて帰ろうという算段をしていたのだ。伊地知は車で高専に出勤しており、七海は現場に電車で向かい、現地で落ち合った補助監督に自宅まで送迎してもらう予定だったため一度呪術高専に来てしまった時点で電車での帰宅になる。しかし、駅までのバスはあと五分ほどで出てしまう時刻である。走れば間に合うがそこまでするほどでも……。コツリ、と足が止まって、夜に向かい行く空を見た。もう面倒だからタクシーで、というところまで思案した辺りで、人懐っこい声が七海を呼んだ。
「いやぁ七海さんと飯来れるなんてラッキーでした」
七海の目の前に上機嫌で座っている黒ずくめの男、猪野は瓶ビールを七海に差し出し空いたグラスに琥珀を注いだ。その流れでトングを掴んで肉を裏返す。更にトングを替えて焼けた肉を七海の取り皿に置いた。
「今度の京都出張、七海さんと行けたらなーって思ってたんですけど話、行ってます?」
「いえ、初耳です」
「えー! 新田ちゃんに言っといたんスけど」
唇を尖らして肉を焼き、火加減を見てアルコールをあおり、そして肉を食らってはまたアルコールを流しこむ猪野琢真。その間にもお喋りは止まらないのだからこういう場面が好きなのだろうなというのはイメージ通りであると常々思う七海である。七海がマッコリを鉢で頼めば、俺もご一緒していいですか? と人懐っこい笑顔でニカッと笑うものだから、七海はどうぞと了承した。彼はなかなか飲める口であるし、相手のペースに気遣わずに飲める気楽さがあった。
肉を十二分に食べマッコリをたっぷり飲み干して会計が済んでもなお「まだ七海さんと飲みたいんですけど」という顔の猪野をいなしてタクシーに乗り込もうとした時、サーっと猪野の顔から血の気が引いたのが分かった。七海は怪訝な顔を隠さない。
「酔いが回りましたか?」
「……いえ、なんでもないでス」
「片言はおかしいでしょう。送ります。乗ってください」
早くしろというタクシー運転手の視線が刺さる。七海は有無を言わさぬ圧をかけて猪野を車内に引き込んだ。吐きそう、というよりはもっと現実的な問題に直面したような顔をする猪野に、七海はどこまで行きますか? と問いかけた。
「えーっと……駅前のビジホで」
「なぜ」
「今日ズボン汚して着替えたんですけどそのポケットに家の鍵入れっぱで……はは」
「どこにあるんですか?」
「……高専に干してます」
「はぁー……」
猪野としてはもっとスマートに立ち回れるはずであった。元来察しの良さは自覚しているし、コミュニケーションにおける誇張や嘘の塩梅もそこそこ要領を得て生きていると思っていた。しかし、以前から憧れの対象にいた七海との食事が降って湧いたのだ。しかも肩肘張らぬちょうどいい雰囲気の、七海おすすめの美味しい店。しかもそれが奢りでの焼き肉とあらば誰が楽しまずにいられるだろうか。盛大に浮足立った結果、猪野は思わず自分の失態を顔に出してしまったのだ。なに食わぬ顔で家の近くまで送ってもらってその足でビジネスホテルでも漫画喫茶でも行けばよかったのに、こんなに馬鹿正直に事情を話す必要はないだろうとどっと後悔が押し寄せた。
「すみませんが、行き先を変えてください」
運転手に目的地を告げた七海は深くため息をついてスマートフォンを操作した。七海が言う住所は淀みなく、それは七海の自宅なのではと猪野は直感的に悟ったがそのことについて触れてもいいものかと逡巡していた。その間、手短に連絡を済ませたらしい七海は前を向いたまま猪野に告げた。
「今日はうちに泊まってください」
「え」
「後輩が鍵を忘れているのを知っててそこら辺に放り出すのはあまりに非道でしょう」
「いやいやいやいや! 悪いですって……! そんなつもりで言ったんじゃないんですよ。俺、いつもはもっと上手いことできるんですけどなんというか……気が緩んじゃったみたいで」
素直に手の内を明かす猪野。普段から賢く強かな若者の珍しい失態だが、あざとさよりも可愛らしさの方が強く感じられるのだから彼の人徳と言って良いだろう。猪野の居心地を少し良くしてやろうと、滅多にない機会ですからうちで飲み直しましょうと提案をしてやると、申し訳なさの中に芽生えた嬉しさを隠し切れない顔をしてすみません、おじゃまします! と言うのだから七海の口元も緩む。
タクシーは順調に道路をひた走り、猪野の想定よりも少し早く目的地に到着した。きちんとしているが管理人は不在のエントランスの照明は明るい。家族でも住めるような感じのマンションだなと思いつつも、猪野は何階ですか? とエレベーターのボタンを押した。
十階、角部屋の玄関扉を開いた七海は、職場よりも一段明るい声で帰宅を告げる。
「ただいま帰りました」
「七海さんおかえりなさい。猪野くん、いらっしゃい」
「へぁ……っ、あ、そうですよね……! 突然すみません! お邪魔します‼」
七海の声に応えたのは角のない優しい声であった。よくよく知っている少し掠れた伊地知の声。七海と伊地知の交際、同棲については万が一のことを考えて職場に周知しているため、猪野も当然知っていた。七海の家に行くと言うことは……と想像していた伊地知はいつもの黒いスーツ姿だったが、実際に現れた伊地知はゆるいラグランシャツにスウェットというラフな姿で、オンとオフの差にあまりにも動揺してしまう。首元も肩も緩い衣類に身を包んでいる伊地知というのは全く見慣れないのだ。こんな伊地知に「いらっしゃい」など言われて招かれるのはなんだか見てはいけない領域に足を突っ込んでしまったかのように感じられて靴を脱ぐことも忘れていた猪野である。
「猪野くん、どうぞ遠慮なく入って下さいね」
「お酒はなにが良いですか?」
「えあ、はい!」
先輩二人に促されて猪野は再びお邪魔します! と叫んでからそろりと靴下を床に着地させたのであった。
猪野の後輩力というものは凄まじく、相手の心のスペースに一、二歩足を踏み込むものの様子を見てそっと足を戻しては安全地帯を探す。そして相手に許されたと思える分だけ足を踏み入れて距離を縮める。その塩梅が大変うまかった。ぽんぽんと飛び出る話題や誇張だけではない尊敬の眼差しは、七海や伊地知を悪い気にはさせなかっただろう。冷蔵庫にあったものを適当に並べた簡素な飲み会でも、会話が弾み、あっという間に酒が開いていく。伊地知は弱い方ではないものの、アルコールに滅法強いわけでもない。しかし、ここは自宅なのだ。帰れるだろうかというセーブをかける必要もない。
誰かのグラスが空くと猪野が次を注ぎ入れる。それが何巡目かになったあたりで、チーズを齧って琥珀の香りを楽しむ七海と、くふくふと笑っては猪野が注いだ酒に口をつける伊地知の図ができあがり、三人ともが和やかに、かつ大いに楽し気に笑っていた。
他人をこの家に入れることに抵抗がない訳ではない七海であったが、猪野はいつも距離の取り方を間違えない男だ。学生の時のようなほどよい緩さの飲み会に、七海の機嫌も頗る良い。むしろ、いつもとは違う表情の恋人を見られているなと思うとなかなかいいものだという感想さえ浮かんでいるほどであった。七海はちらりと時計を見やり、猪野に問いかけた。
「猪野くんは明日非番でしたか?」
「非番っつーか夕方からっスね。四時くらいに高専発って感じです。あ、伊地知さんそろそろ水いりますか?」
「お水、頂きます。私はおひるからの出勤なので……たぶん、ななみさんが一番はやいですね」
現在二十二時頃である。もったりとした言葉の節々にアルコールの影響を感じる恋人を可愛く思いつつも、明日朝八時半に呪術高専着予定の七海は席を立った。
「シャワーの準備をしますね。猪野くん、どうぞ」
「ええ! さすがに七海さんが先に入ってください……! 急に先輩の家に押しかけといてシャワー先に使えるほど神経図太くないですよ」
「その気持ち、わかります」
客人をもてなしたい気持ちはあるが、自身も上に畏れ多い先輩がいることから猪野の気持ちになって深く頷いた伊地知である。何度か問答はしたのだが、七海の出勤時間が一番早いことと「猪野くんは逆に気を使うとおもいます」と伊地知が猪野側についたことにより、それもそうかと納得した七海である。お言葉に甘えて、と浴室にて熱いシャワーを浴びていた。
それにしても、とリビングでの様子を思い出す。同棲している恋人と、その後輩。六つも歳が離れているから成長した親戚の子どもを見るような優しい目で猪野の話に相槌を打つ伊地知は大変可愛らしかった。庇護欲でもそそられているのだろうが、猪野は親戚の子どもではない。将来有望な呪術師なのだ。
人間に対してならば暴力、暴行などという罪でお縄を頂戴するような行為を、日々呪霊に対して行っている人種。それが呪術師である。そこに階級なんてものまでついているのだから支配欲、征服欲、暴力性など、恐ろしい欲求と性質に人間の皮をかぶせて補助監督や諸機関に守られて、どうにかこの社会で生きているようなものなのだ。アルコールと暴力、性衝動はなかなか相性がいいのも知っている。無害で非力な恋人と、呪力などなくてもそこらの人間ならば片手で捻ることができるであろう猪野。そんな二人が酒が入った今、リビングで二人きり。彼氏である七海が席を外した途端にタガが外れて……。なんて妄想が湧いて出た。その妄想は途中からは昔から世話になっているエロ動画の内容にすり替わっていた。
七海は思春期に所謂ネトラレもののアダルトビデオに出会い、衝撃を受けた。他人のモノだからこそ手を出したいという欲求には首を捻るが、女体よりもなによりも、もしも自分の彼女が他の男に寝取られてしまったら……という妄想を繰り返した。自分よりも他人とのセックスを愉しみ善がる恋人、というものを想像するにつけ湧き上がるのは惨めさ、悔しさ、焦燥感、向こうの方がいいと言われるのではないかという不安、そしてそれらの感情から湧き上がる性的な興奮。世に溢れるいやらしい写真も映像も文章も、ネトラレものには敵わなかった。身体が発展途上だったあの時期、彼女もなにもいないのに、妄想するのは決まってその手の内容であった。あっという間に立ちあがる陰茎。腹の底にぐらぐらと煮える欲望を事務的に擦って刺激し、ティッシュに吐き出す日々を送っていた。
七海は社会人になってから今に至るまで、付き合ってきたのは男も女もそれぞれいる。彼女にも彼氏にも、もちろん伊地知にもそんな自分の性癖は告白していない。しかし、今夜はあまりにもそのようなシチュエーションなのだ。
自宅での飲みに気を抜いている恋人、性的な経験が決して少なくないであろう若い後輩。彼がちらりと伊地知の緩い服の胸元に目をやったのを、七海は見逃していなかった。自分がシャワーを浴びている今、二人が一線を越えてしまっていたら。そう考えているうちに、七海の手は自然と自分のペニスを握っていた。弾んでいた会話が止まる瞬間。触れ合う指先が絡んで引き寄せる後輩と、口先だけで抵抗する恋人。ドクドクと心臓が跳ねる。頭の中が到底人には見せられない妄想でいっぱいになった頃、七海はシャワーのお湯に紛れて性を吐き出していた。