俺の、僕の、お前 弱くて、呪力量も少なくて、とびぬけて器用でもなくて、一般社会に居た方が確実に幸せだったろうなと思う女子生徒。それが伊地知だった。同世代の女子なんて歌姫か硝子しか知らないからとりあえず同じように扱ってたけど、あまりにも雑すぎるって七海や傑によく言われたっけか。高専の教壇に立つような年齢になったからこそやっと分かる。確かにそうだったって。呪霊を祓う知識は持っているけど、伊地知は頭のネジが飛んでない。呪力の使い方なんて知らないでもやっていけそうな、かなりまともな分類の人間なのだから、それ相応の扱いをしてやらなければいけなかったんだって。
修行だって言って低級呪霊の巣窟に放り込んだり、傑や硝子としてたように七海と一緒に同じ部屋をとって旅行してみたり、寮室で一晩中ゲームしてみたり。そういうの、あいつは苦手だったのかも、とか今となっては思う。でも僕の知ってるモデルケースは、あいつらと過ごしたそれしかなかった。灰原も傑もいなくなって、硝子は自分の進む道を決めてて、七海は死んだ目で日々を消化してた。
あの時期、伊地知にアオハルを、なんて思ってたのは僕だけだったんじゃないかなって。
当時の呪術界や高専は、あまりにも死のにおいが近くて濃かったし、あまりにも陰鬱としていた。飽き飽きするくらいには。
そんな呪術高専にいながらも、伊地知は根性だけは一丁前だった。顔にも身体にも傷作りまくって、泣いて、吐いて、血を流して、骨を折って。怖いですとか無理ですって何回も聞いたけど、辞めたいです、は一度も聞かなかった。途中、死んだなと思う場面は山ほどあったけど、つい二か月前にどうにか死なずに卒業した。あの実力で、呪霊もたいして祓えないやつが。本当に強運だなって笑ってお祝いの花を贈ってやった。
良い思いなんて一つもしてないだろうに、この業界に残ると決めた伊地知は、駆け出しの補助監督として日々邁進している。平凡な後輩ながら、この業界でのあのまっすぐさが眩しいなとも思う。
今日も祓って祓って会食。やっと高専に帰ってきたけど、補助監督室に行く前に甘いもんでも摂ろうと車庫の隣にある自動販売機で一息ついていた。サボりだってまた伊地知が言いそうだけど、二本目のジュースはメロンソーダかコーラにしようとボタンを同時に押して運命は天に委ねる。結果はメロンソーダ。人工甘味料の味もなかなか乙なものだ。そんな感想を持っていると、社用車の点検に来たらしい男の声が二つ聞こえてきた。
「えーっと……報告の傷はこことここっスね」
「げ。ここもじゃん」
「ええ? あ……べっこりいってますね……」
見過ごせないレベルの傷や凹みがあったらしい。なにか記入する音と、写真を撮る音。
「ここの破損、ちゃんと報告書出すように伝えといて。あっちの軽と一緒に見積もりとってもらっとけ」
「了解っす」
「そういや、伊地知さんはどう? 順調?」
思わずぴくっと反応しちゃった。伊地知の指導係の補助監督とその上司ってとこかな。気安い口調から、年齢が近い先輩と後輩という雰囲気が伝わってくる。
「はい、覚えも良いですし、素直で」
「スレてなくて可愛いよな。術師上がりの女であれは珍しい」
「それ思ってたんスよね。呪術師って基本変人だし美人でもやたら気ぃ強くて怖いスから」
「ま、あんなだから呪術師は諦めて補助監督になったんだろうけど」
ああ、この盗み聞きはあまりよくないな。そう思うのに、僕は気配を消してそこに立っている。メロンソーダを飲むのもやめた。
先輩らしき声がしみじみと言う。
「性格も温和だしさ、身体もあんな細くて術師なんてよくやってたよな」
「でも脱いだら意外といいもん持ってるかもですよ」
「お前女ならなんでも良すぎだろ」
「性格いいってだけでポイント高いでしょ。処女っぽいしなおさら」
ふざけた調子でへらへらと返事をする男。
先輩の男の咎めるポイントもズレてるし、あいつはあいつで反省の色もない声。
ふつふつ。ふつふつ。目の裏のところでなにかが湧き出ている。なんだ?
そこまで思考したところで、ああ、と納得する。僕は怒りを覚えているのだ。はらわたが煮えくり返るとはこのことかと、僕は新しい感情を体感している。
お前があいつのなにを知っている
下衆な目で見るな
その口縫い付けてやろうか
伊地知と話すな
その名を呼ぶな
ここら一帯焼いてやる
浮かぶのは数々の物騒な言葉たち。的確に呪力を操る自分の指先が、的確に、あいつらを的にしようかと囁いているのが分かる。しかしそんな暴力的な言葉よりも大きく大きく膨らむのはたった一つ。宣言のような言葉。
「あいつは僕の女だ」
その一つだった。学生時代も、任務中も、寮で気の抜けている時も、僕はつぶさに伊地知を見てきた。馬鹿真面目で、それなのに失礼で、図太くて、思わず世話をやいてかまいたくなるような。そんな伊地知が、ああいう男どもに「女」として「評価」されている。その事実に自分でも驚いてしまうくらいに憤りを感じていた。
僕は、茈を習得したあの時から、人間というものを半分以上捨てたものとして生きている。そう思っていた。力も、富も、呪術師としての展望も、ある程度は確立して、人間の皮をかぶって生きてきたものだと。しかし、そうではなかった。独占欲、所有欲、マウント。一般的に他人に開けっぴろげにする訳にはいかない感情が一気にぐらぐらと煮えている。これらは人間だからこそ持っている後ろ暗い感情。時に人を殺し、時に呪霊を生む類の、負の感情。揺らぐことのない呪力が、有事でもないのにぐんと上がった。
伊地知が補助監督として頑張ろうとしているのは知っている。そのために、上司に指導を求めていることも重々分かっている。それなのに、伊地知があれこれと他の男の背を追って、共にタブレットを覗き込んで小難しい顔をしながら業務を教わっている姿を横目に、伊地知と他人が話すことを許しがたいと思っていた。そんな姿を見るたびになぜ感情がチリリと焼けるのか、よく理解していなかった。でも、今やっと分かった。
彼らは、可愛いだの身体がどうだのと下心と下世話な興味を持ち、女としてのポイントだのどうのと胸糞の悪い「評価」を下している。この「五条悟」が欲している女に、傍に置いている女に、あの男どもはなにを言っているのだろうか。疑問と怒りが湧いて蓄積していく。
しかし、と僕は一呼吸置いた。
目障りな者を抹消するのは簡単だ。僕一人で事足りる。しかし、この気持ちの本質は男どもを消せば済むものではない。呪術界は八割が男なのだから、その性別だけを排除するというわけにもいかない。肝心なのは、「五条悟」が手に入れるべきものを理解してしまったということ。己の渇きを自覚してしまったということ。
欲しい欲しい、欲しい。喉から手が出そうだ。僕はあいつを自分の女だと思っているけれど、他者も、もちろん伊地知本人もそうだとは思っていない。
今すぐ欲しいという気持ちと、得た瞬間に壊してしまうだろうという天秤がぐらぐらと揺れる。傍に置いたまま、この関係を強固にした方がいいのだろう。頭の隅ではそう思う。でも、僕の心が言っている。取られるぞ。離れるぞ。取り返しがつかないぞ。って。そんなことは分かってんだって。
ふいに、膨らんだ腹を撫でる伊地知が脳裏に浮かぶ。その隣にいる男が、自分ではないかもしれないという可能性の高さに、アイマスク越しに手で目を覆った。
己の妄想力の高さと、あり得てしまう近未来の可能性に、腹の辺りで呪いが廻る。これは洒落になっていないな。小さく息を吐いた。
「まいったなー……」
脳内で喚く獣を宥めつつ、とりあえず補助監督室へと足を向けた。
終