パティシエのタルタリヤと大学の先生な鍾離先生の話⑥「公子殿、ちょっとそこに座ってくれないか」
酷く真剣な顔で呼ばれ、示されたのはリビングに敷かれたラグの上。毛足の長いそれは、直接腰を下ろしても冷たくは無いだろうが、正直さっきまで布団の中にいた身としては、座りたくないなぁと思うのが本音だった。え、いきなりなんで…?とまだ眠気から覚醒しきれていない頭で考えつつ、しかし、相手の雰囲気は明らかに逃がしてはくれそうになくて。とりあえず「はい」と答えて大人しく腰を下ろした。呼びつけた張本人が正座をしていたのでそれに習い、同じように足を折って。膝を突合せたところで「あれはどういう事だ?」と、スラリと長い指が示したのは、キッチンの片隅にある冷蔵庫だった。
「冷蔵庫…だね?」
「それは分かっている。ではなく、中身だ」
「中身…」
はて、一体なんのことだ。言われている内容が分からず首を捻るオレに、目の前の人――鍾離先生は、その形の良い眉をきゅう、とよせて重々しく口を開いた。
「何も入っていない」
まるで死の宣告か何かかのように、告げられた言葉はやっぱり意味がわからなくて更に首が傾く。えー、なんの事?と。暫し考え。あ、もしかして、とぽんと手を打った。
「あ、何も入ってないから電気代無駄ってこと?」
「違う」
あまりに早い否定に、あそうなの、と。思わず口を閉じたオレに、先生は長い息を吐いた。
「以前から薄々感じてはいたが、矢張りそうか」
どこか呆れたような……しかし、それだけではなく、なんとなく心配そうな雰囲気も含ませて。独り言のように呟く先生に、何の話?と眉を顰める。すると、綺麗な石珀色の目が、まっすぐオレを映した。
「公子殿、毎朝朝食はどうしているのだ?」
「え」
「冷蔵庫の中は調味料の類しかなく、パンや米もない。見つけたのは、これだ」
「あ」
重々しく取り出されたそれは、クッキー状の栄養食。オマケにモンスターなエナジードリンクや、十秒で飲み切れるゼリー飲料なんかを次から次へと取り出され、一つ一つラグの上に並べられていくのに背中に冷たい汗が伝う。
「いや、あの」
「以前、朝食は食べていると言っていたな?」
「そ、れは…」
言った。たしかに、オレはこの人に「朝食はたまに食べてる」的なことを言った記憶があった。忘れるわけが無い。だってその日は、散々悩んだ末に、この人と一緒に暮らすことが決まった日、なのだから。先生がここ――オレの家にいる。そんな現実を決定付けた日のことを忘れることは無い。忘れることは無いが、今だけはぶっちゃけ忘れていたかった。その顔は覚えているな?とこちらの心情をしっかり察している鍾離先生の片眉が跳ねるのを見ながら、おもわず顔が引き攣る。
「……いやほら、仕込みで忙しいからさ…でも、朝ごはん食べられる時にはちゃんと食べてるよ?」
「まさかその朝食とやらは、これの事か」
「う゛」
プラりと目の前で揺らされる、バランス栄養食。それからそっと目を逸らし、「いやぁ、まぁ…ははは」と返したオレに、先生は本日何度目かの溜息をついたのだった。
十二月の頭。冬にしては暖かな日曜日の、朝八時半。いつものように開店前にその人はひょこりと顔をのぞかせた。よろしく頼む、と頭を下げるのに、好きに使っていいからねと、ポケットから鍵を取り出し、手渡したのはオレ自身の物だ。
「先生の鍵は今度作るから」
今日のところはこれ使ってて、と。渡したそれを、目の前の人はぎゅうと大事そうに握りしめて分かった、と頷いた。栗から始まり、腌篤鮮を経て結果ルームシェアで幕を閉じた騒動から二週間。一人きりだった我が家に、先生がやってきた。キャリーケースを三回入れ替えて運んだのだという荷物はそこまで量はなく、彼の為に掃除した一室は、ベッドと少しの書籍、それにノートパソコンがある程度の、随分とシンプルな部屋になってしまった。
「もっと物が溢れるんだと思った」
なんとなく、スッキリとした部屋が意外で。仕事が終わり部屋を覗いて「これだけ?」と呟いたオレに、先生はふむ、と頷く。
「さすがに全て持って来るのは物理的に不可能だった。この家の床が抜けたら困る」
と、妙に真剣な顔で言うものだから、思わず笑ってしまう。いや、逆にどれくらいの量のものがあるんだろうか…気になって聞けば、今度うちに来てみるか?と誘われて。じゃあ、遊びに行こうかな、と返したところで丁度よく、オレの腹が鳴った。
「夕飯、どうする?」
「あぁ、俺が作ってきたぞ」
「え、ほんと?やった」
「自宅の食材を使い切らねばならなかったからな」
ごくごく自然に交わされる会話。そのやり取りはなんだかもう何年も一緒に暮らしているような…そんな、自然なもので。同居初日で既に違和感も何も感じないことに、可笑しさと共にこの人となら上手くやれるな、という安心感を感じながら、キッチンへと足を向けたのだ。
そんなこんなで始まった新生活。前日の夕飯に先生が作ってくれたご飯を食べ満足感のまま布団に入ったオレは、まさか翌日…こうして正座で説教を受けることになるなんて想像もしていなかった。
「公子殿」
ただ、説教されているだけならば、人の生活に口出さないで、とでも反論は出来ただろう。しかし、こうしてオレのことを呼ぶ声に、表情に、明らかに心配が含まれていることを感じ取れてしまって、どうにもバッサリと切り捨てることが出来ない。そんなこちらの心情を知ってか知らずか、真剣な顔をしたこの人は、真っ直ぐと俺を見つめてくる。
「朝食は大切だ」
「うん、知ってます」
「貴殿が仕込みに忙しいことは理解している。だが、カロリーだけを摂取したところで人体を動かすには不十分だぞ」
「……一応、栄養も入ってるよ」
言われっぱなしもなんだから、と。反論をしてはみるが「そうだな」と一言返されて終わった。ダメだ、勝てる気がしない。そりゃ、オレだって朝ごはんが大切なことは分かってるさ。ちゃんと食べた方がいいこともわかってる。だけどもまぁ、うん。
「仕込みしてると忘れちゃうんだよね」
その日何を作るかとか、新しいレシピのこととか、焼き時間、焼き加減、寝かせ時間、生地の状態…そんなことで頭がいっぱいで自分の事はどうにも適当になってしまう。これではだめだとは思いつつ、やっぱり好きな事を目の前にすると理性なんて吹っ飛ぶもので。改善する気もされる可能性もあまりない現状に、苦笑いを浮かべつつ頭を掻くオレに、先生はじとりと半眼を向けた。
「まぁこれもなにかの縁だろう」
軽く肩を竦めて。呟く先生にぱちぱちと瞬きをして、え、なにが?と首を傾げているオレの目の前で、ぴ、と長い指が一本立った。
「矢張りこれからは、俺が朝食を作るとしよう」
それでいいな、と。腰に手を当て、納得するようにウンウン頷くのに、一瞬、理解が出来なくて。言われた内容を理解すると共に、は!?と思わず声がでた。
「なんで!?」
「前々から気にはなっていたのだ。それに『衣食住』のうち『住』を提供して貰ったのだ、ならば『食』くらいは提供させてくれ」
言葉のやわらかさの割に、拒否を許さぬ眼光を浮かべつつ、ふ、と笑を零して言う先生に、反論なんてできる訳もなく。ぐぬぬ、と唸ったあと、負け惜しみのように「夕飯は、オレも作るからね」と返すことしか出来なかった。
「ふ、そうだな。俺も公子殿の作る夕食は食べたいな」
「じゃあ、夕食は作れる人が作ろう」
「あぁ、そうしよう。さて、食事に関して決まったはいいが、今日の朝食はどうするか…」
「あ、これあるよ」
ようやっと正座から解放され、多少痺れの残る足でそろりそろりとリビングを横切りカウンターテーブルの上に乗ったそれを取る。楕円に成形され、ぴっちりとラップに包まれているのは、二週間寝かせた、シュトレンだった。
「ちょうど頃合だし、これ朝ごはんにするのは?」
「あぁ、それは…いいな」
さっきまでの気配はどこへやら。途端、頬を緩ませる先生に、ほんと甘いもの好きだよね、と言うと、石珀色がパチリと瞬いた。
「公子殿の作るものが、好きなんだぞ?」
何度も言っているが。
当たり前のように返されたそのセリフ。確かにそれは何度か聞いた事のあるセリフだけれど、それでも。何度聞いたって、慣れることの無いその賛辞に、緩む頬を隠すよう顔を伏せて。手にしたシュトレンを、いつもより厚めにカットしたのだった。