メメント・モリ 最初の名前はゼロだった。
これは八〇〇年ほど前から始まる魔法使いの話だが、それが始まった正確な日付は誰も覚えていない。記録にも残っていないし、ゼロを含めた誰もゼロの歳をちゃんと数えていなかった。八〇〇年ほど前というのは長命の魔法使いの証言の寄せ集めで、おおよそそうと言われているだけだ。誤差は一〇〇年程度あるともされている。なにせかの魔法使いより長く生きるものなど存在しないのだから、これは仕方のないことなのだ。
ゼロは、魔法使いを神として祀っていた少数部族の村で育った。ゼロの他に青髪の者など見かけなかったから、両親が村の外の者ということだけが確かだった。
祀られているだけあって村での扱いは丁重だったが、人道的な教育など指の先程も為されていなかった。ゼロが自身の年齢を把握していないのは、自我の確立が遅かったせいだろう。
ゼロに知識や自我を教えたのは、神が幽閉される塔に突如侵入した不届き者の魔法使いだった。金色の癖毛が特徴的な、女の姿をした魔法使いは、気まぐれに塔を訪れた。その度に文字から哲学、果ては魔法まで、ゼロに様々なことを教えたが、ゼロを塔から連れ出そうとはしなかった。
ゼロは特に医学や薬学に興味を持ち、名も知らぬ魔法使いを師と仰ぐようになったが、前触れもなく、彼女は姿を消してしまった。
ゼロは彼女がまた現れるのを待ちながら、村の守り神としての務めを果たした。雨を降らせ病を治しては感謝され、敵対する村を滅ぼしては崇められた。村はどんどんと大きくなりやがて国となったが、何年経っても何百年経っても彼女は来なかった。
ある日――その日が二七〇年前の冬だったことを、ゼロは確かに覚えている。目を覚ますとベッドに手紙が届いていた。知らぬ名前からの手紙だったが、レージュと綴る文字には見覚えがあった。ゼロはその日初めて、自分の意思で塔を出た。
記された場所でゼロを迎えたのは、自分を置いて消えた魔法使い、それによく似た少女と、金色に輝く結晶の入った瓶だった。
「あなたがゼロね? これ、ママから。よくわからないけど、報酬って言ってたわ」
そう言って少女は結晶の入った瓶を差し出した。受け取って中身を見るが、欠片がすべてでないことは明らかだった。おそらく、半分ほど。少女を見ると「殺されたってあげないわ」と震えた声で囁かれた。少女はただの人間であるようだった。部屋を見渡しても、レージュと少女以外の痕跡はない。一五歳ほどの、無力なひとりぼっちと、金色の報酬。
相変わらず、難解だ。ゼロはあの手紙が彼女のものだと確信した。
「来い」「ええ?」「対価を受け取った。務めは果たす」
手を引いたが、少女は動かなかった。この家を出たくないと喚く少女の我儘を、ゼロは聞くことにした。それは務めを果たすためでもあり、しかし何よりも、この顔でヒステリーを起こされては頷く他がないのだ。
「おまえ」「お前って言わないで」「……名は?」「レージュ」「それは、お前の親の名だ」「そうね。でも私もレージュなの」「……奇妙な話だ」「そりゃ、ママは魔法使いですもの」
少女、レージュとの日々は穏やかで、ゼロの中にはかつてのレージュからは与えられなかった、曰く情緒とか心とかいうべきものが与えられていた。少しずつ侵食するそれは色鮮やかで、とても残酷だった。
「殺しちゃったの?」「魔法使いの石を奪おうとしたからだ」
「どうして殺すの」「私を塔へ連れ戻そうとするからだよ」
「殺さないで」「おまえを殺そうとしたんだ、許せるはずがないだろう」
よく似ていたはずの顔にはいくつもの皺が刻まれていた。それは彼女が人間である証だった。医学に長けたゼロには、彼女の寿命がありありと見通せた。
「ゼロ、お願いがあるの」
ベッドに横たわった彼女は、骨の浮いた手でゼロの手を取った。慎重に握り返して、ゼロは先を促した。
「ゼロは血に塗れてる。知ってる? 巷じゃあなた、死神なんて言われてるのよ。昔はちゃんと、神様だったのに」
「いいんだ。もう私を神と崇めるものはいない」
「知ってるわ! だってあなたが絶やしたんじゃない!」
例え皺が増えたって、ゼロはレージュのヒステリーに弱かった。ほとんど反射的に謝罪を口にすると、彼女は首を振った。
「もう終わりにしましょう、ゼロ。本当は、対価とか務めとか、そんなものなしにあなたを解放してあげたかった。だけど、人間の私に、もう時間は残ってないみたい」
彼女が反対の手で引き出しから取り出したのは、金色の結晶が詰まった瓶だった。ゼロが持つものと同じ量の破片が、ゼロの前に差し出される。
「私が死んだら、あなたはゼロをしまいなさい」
「……共に死ねということか?」
「いいえ。いつか取り出せるように、ということよ」
「難解だ。何を言っている?」
「わからなくていいわ。わかるようになるまで、ゼロはおしまい。あなたは、次のレージュとして生きなさい」
レージュ・レクシオンとして。と、彼女は言った。
Lege Leccion――初めて聞いた、彼女のフルネーム。法と教えを冠する、らしい名前だとゼロは思う。とはいえレクシオン姓は己の師のものではないのだろうが……そう思いを馳せた次の間に、ゼロははたと気付く。
resurrection。その言葉を教えてくれたのもまた、彼女だった。
復活。あるいは蘇生。
人と共に生きて、その時間の流れを知った今、考えてみれば違和感がある。自身の前から姿を消してから、手紙が届くまで、誰かと恋をしていたにしてはあまりにも長い。薮蛇を突くのが嫌で目を背けていた事実が、今更のようにパズルのピースを埋めた。
「レージュ…?」
呆然として彼女を見ると、彼女はとびっきりのいたずらが成功した顔で笑った。白くなった癖っ毛が額の上で踊る。
「遅いのよ。全然聞かないんだもん。とっておきのジョーク、披露し損ねるかと思ったわ」
「聞きたいはずないだろう。だって……、……」
「『惚れた相手が選んだやつの名前なんて』よ、ゼロ。はいまた落第ね。頭硬すぎるのよあなた」
溜息をつきながら、レージュがベッドへと沈む。呑気な態度を気取っているが、たとえゼロがどれだけ騙されやすくても確かなことがある。彼女は、魔法使いのレージュは確かに死んで結晶となり、人間のレージュは死の際に立っている。そして、魔法で時は戻せない。
魔法使いの与えた知識は未来を知らしめ、人間の与えた感情は涙を誘った。それを見て、レージュは心底満足そうに微笑んだ
「いいわ、及第点じゃない。あなたも、私も」
あの日、あなたを塔で見つけたとき、決めたのよ。あなたを神の座から引き摺り下ろすって。
「こんな物騒な形にはしたくなかったし、結局あなたは神様のままだったけど。まあ、あとは、私以外に頼むとするわ。だからそれまで、レージュ・レクシオンとして穏やかに生きなさい。あなたそんなに強いわけでもないのに、死神のゼロなんてやってたら、あっという間に死んじゃうわ」
急くように捲し立てるレージュがゼロの髪を梳いた。口とは反対に、ゆっくりと、何かを確かめるように。
「青い髪も良いけど、目立っちゃうわね……、そうだ、黒とかどう? きっと、似合うわ」
ゼロは頷いた。瞳には水滴が溜まっている。頬から落ちることはなくても、ゼロの一生分の涙だった。レージュはそれを見つめるだけで、涙を拭うことは無い。彼女はいつも、与えられるだけを与えて、それだけだ。ゼロから何かを受け取ろうとはしない。
「ああ、でも、その瞳は――目立つけれど、それだけは、変えないでほしいわ」
私、好きだったの。そう零して、レージュ・レクシオンは息絶えた。そのとなりで、ゼロも死んだ――否、しまわれた。だれかが、それを開けていいと言うまでは。
次なるレージュは瞬きののちに立ち上がった。砕け散らない彼女を、埋葬しなければいけないからだ。死神としてではなく、師(レクシオン)――つまり、医師として。
レージュ・レクシオンは呪文を唱える。
それは誰のものでない、レージュだけの呪文だった。
メメント・モリ
死を忘るることなかれ