ジェシーズガール
エレンの提案はテキメンに効いた。
これまでジャンが講じたどんな対策よりも効果があった。これにジャンはすっかりヘソを曲げた。
時間を遡ること数日前である。
ジャンは大学を卒業して働き出した会社にやっと馴染んだところだったのだが、なんとなしになりゆきでジャンの指導係となっている男の先輩がジャンに好意を示し出した。
はっきりと声に出して言われたわけではないのだが、ジャンはこれまでにこういう事が度々あったので、大体の所は察してしまった。
ジャンはとてもモテた。男にとてもモテた。学生時代から今に至るまで途切れることなくモテ続けた。しかしジャンは男性に興味を持ったことが一度も無かったので、ひたすらただ酷く煩わしいと思っているだけだった。
「なんだって俺を口説いてくるんだよ」
ジャンは会社の帰りに、電車が同じエレンによくボヤいた。
「俺のどこがそんなに良いんだ。」
エレンとは中学から就職先まで同じという腐れ縁なのだが、そんなに距離が近いと言うほどではない。ジャンは容姿端麗で昔からアイドルみたいな人気を女性から得ているエレンをやっかんでいるところがあった。
なのでエレンが、「ジャンは人気あると思う」といったのには悪い気はしなかった。
「そうか?」とジャンは言った。小声になった。
「そうだと思う。なんか。」
「ハッ。」
ジャンは馬鹿にしたように笑ったが、これは照れ隠しのためによくやる笑い方だった。
「ああ、面倒くせえなあ。どうすっかな。」
ジャンはイライラしながらボヤいた。今回面倒なのは何しろ相手が会社の先輩だということである。毎日顔を突き合わせないとならないし、何かあったら困るのは立場の弱い自分の方だろうということである。
ジャンは面倒が起こる前に牽制しておきたいと思った。
出来るなら先輩が何も行動を起こしていない今の時点で身の安全を確保しておきたい。
「言われても無視して適当にあしらっとけば良いか」
ジャンがぽつりと言った。
「俺、ジャンがそう言ってて、しばらくしたら告白を断ってケンカになったとか、押し倒されそうになって殴って帰ってきたとか言うの、何回も聞いたぞ。」
エレンが言った。
ジャンの眉間にシワが寄った。ジャンはこういう事にほとほと嫌気が差していた。
気の無い相手に告白されたりするのは嬉しい思い出とは言えなかった。何度か男に押し倒されそうになった事で若干の人間不信に陥っていた時期もある。
ジャンがたまたま体格もよく、腕力もあるからこれまで無事でいられたものの、そうでなければどうなっていたか分からないと思っていた。
ジャンは先輩がこのまま何も言わないでくれたら良いなと思った。あるいはジャンに興味が無くなるとかしてくれればベストだった。自分に気があるなんてのがジャンの気のせいならもっと良かった。
しかしこれまでの経験からいうと、ジャンの希望通りになることのほうが少なかった。エレンが言った。
「なあジャン、俺と付き合ってる事にしないか?」
ジャンはかなり素っ頓狂な声を上げた。
「は?」
エレンによると、エレンはこれまで幼馴染のミカサアッカーマンに話を合わせてもらい、ミカサを恋人ということにして異性の猛烈なアプローチを避けてきたのだが、ミカサが総合格闘技の王者になるという目標を達成するためにアメリカに渡ってしまったので、とても困っているのだという。
「俺はジャンみたいな立場のやつの気持はよく分かる。興味のないことに時間を取られるのは面倒くさい。」
「付き合ってることにする?俺とお前を?」
ジャンはものすごく怪訝そうな顔をした。
「話を合わせるだけだ。今度聞かれたら俺の名前を出して良い。俺もジャンの名前を出すから。そうしてくれると助かる。ミカサに言われてその通りにしてからずっと楽だったんだぞ、俺。」
「そんなの効き目があると思うか?恋人がいるとか嘘ついても誰も聞きゃしなかったぞ、これまで。」
「ジャンに付き合ってる相手がいないのは学校の友達はみんな知ってただろ。先輩は会って間もない訳だし、信じるんじゃないか?」
ジャンは半信半疑という面持ちだったものの、エレンの話に乗ってみることにした。嘘がバレていても特に困ることはない。とりあえずの牽制にはなると思った。
しかしこれがテキメンに効いたのである。
ジャンは出社して先輩の顔を見るなり、にっこりしながらこう言った。
「俺、やっと恋人が出来たんですよ。」
先輩はかなり面食らったようだった。
先輩が鳩が豆鉄砲をくらったみたいな顔をしたので、ジャンは内心面白くなってしまった。
「俺、そういう事はすっかり諦めてたんです。今まで良い事無かったから。でもひょっこり出来るもんですね。」
「それは良かったな」先輩は力ない声で言った。
「子供の時から知ってるやつだし、そんな事思ってもなかったんだけど、ようやく自分の気持ちに気が付いたんです。」
先輩は自分の坊主頭を所作なさげにかいた。
「距離が近すぎたのかも知れないな。学校も一緒だったし、会社も同じだし、毎日嫌でも顔見ますからね。青い鳥は家にいるってやつかな。」
「うちの会社のやつなのか?」先輩がちょっと身を乗り出した。
ジャンが言った。
「エレンですよ」
エレンの名前はまるで水戸黄門の印籠のような効力を発揮した。
あるいはよく効く聖水とでもいうのか、エレンの名前を振りかけられた者は邪な思念を消滅させられるようだった。先輩はジャンにいやらしい目を向けることをすっかり止めたみたいだったし、他にも数名ジャンに目を付けていた者が退散した。(ジャンは何人かをすでに把握していた。)
厄介事が何処かに飛んでいってすっかり気楽になったものの、まるでみんなエレンには敵わない、勝てない、と全身で表現しているようで、これはジャンは全く気に入らないと思った。
「何だってんだよ、クソ、お前のどこがそんなに良いんだ。イノシシ野郎で、鈍感で、ただ顔が綺麗なだけじゃないかよ。」
「俺の顔が綺麗だとは思っているんだな?」
「うるさい黙れ」
ジャンは会社の食堂でエレンを捕まえると、すっかり不貞腐れて不満を言った。
ジャンとエレンは世間の人間は『うわさ』と『恋バナ』が好きということを失念していた。特に社内でも注目度の高いエレンが関わると話の伝達速度が数倍になった。
つまりエレンとジャンが付き合っている、という話は2日と待たずに社内にすっかり広まったのである。
「おい、お前は社内の女の子全員にツバつけて歩いてんのかよ、俺は廊下のかどを曲がるたびに女子に睨みつけられたり、泣かれたりしてんだぞ」
「人にツバはつけない」
「そのまんまの意味じゃねぇよ。クソ、乗るんじゃなかった。机の上に良くわからない呪いの手紙みたいのはあるしよ」
「それミカサも言ってたな」
「いつまで続くんだ、これ」
「どうだろうな。俺の方は平和だけど。」
「よっ、お二人さん、昼間っから会社でいちゃつくなよ。」
例の坊主の先輩がのんびりした様子でやって来た。先輩は売店でホットのコーヒーとサンドイッチを買って席を探しているところだった。
ジャンとエレンは食堂の隅の席に陣取ってこっそりと話をしているつもりだったのだが、2人で居るとどうしても目立った。
「どうも」エレンが軽く会釈して言った。
「付き合いたてで浮かれるのは分かるけどな、会社では控えてくれよ。もうすっかり噂になってんだぞ、お前ら。」
先輩が言った。
ジャンは完全にうんざりして先輩を見た。どうせこいつが言いふらしたんだろうな、とジャンは思った。ジャンがエレンと付き合っているという話をしたのはこの先輩だけだった。そもそもこの先輩が妙な気を起こしていなければ、ジャンはエレンと付き合っているフリはしていない。
「先輩、良かったらこの席使って下さい。俺はもう行くんで。」
ジャンは愛想良く笑って言った。
「そうか?じゃあそうするか。」
先輩がジャンとエレンの席までやって来た。
「もう行くのか?」
エレンが言った。
「お前と居るといちゃついてると思われるみたいだからな。厄介事が増えるだろ。」
エレンはキョトンとしている。
全くこいつのどこが良いんだよ、とジャンは思った。俺だって見てくれは悪くないはずだ。少なくとも男には相当モテている(正確に言えば狙われている、だが)。俺を良いと思う女子がいても良いはずだろ、クソ。
ジャンは腹たち紛れに勢いよく立ち上がった。が、その拍子に思ったよりも近くに来ていた先輩と思い切りぶつかってしまった。
「わっ」
先輩は手に持っていたホットコーヒーとサンドイッチを乗せたトレーを床に落とした。サンドイッチが潰れた。その上に勢いよくぶち撒けられたコーヒーが辺りに散らばっていった。
「うわ、すいません」
ジャンはポケットからハンカチを引っ張り出して床を拭こうと屈んだ。
突然、拍子木を思い切り打ったみたいな、パァンという大きな音が響いた。
ジャンがびっくりして音のした方を見ると、小柄な清掃員の男がモップを片手に立っていた。
ジャンは一瞬あっけに取られて止まっていた。
男は作業服の青いつなぎを着ていて、灰色のキャップを被っている。小柄なのに首か太くて肩幅かある。つなぎの上からでもかなり身体を鍛えているのが分かった。
男はなれた手つきでジャンがこぼしたコーヒーをモップで拭き始めた。
ジャンはすぐに我に返った。ジャンは男に声を掛けた。
「あ、あの、すみません、ありがとうございます」
「俺の仕事だ。座ってろ」
男はぶっきらぼうに言った。ジャンはキョトンとした。ジャンは先輩に言った。
「昼食代、払います。」
「良いよ、これくらい。大した事ないから。」先輩はあっさりしている。
「払わせてくださいよ。俺のせいだし。そ」
ジャンが続けて何か言おうと口を開いた瞬間、エレンが叫んだ。
「リヴァイさん!」
ジャンは面食らってエレンを見た。
男はエレンに見線をやると、キャップを少し上げて「おう」と言った。ひさしの影になって見えなかったアイスグレーの瞳が見えた。
「リヴァイさん!そうか。うちの会社にも来てるって言ってましたね。」
「まあな」
「エレン君、知り合いなの?」
先輩が言った。
「あ、はい。知人の親戚のおじさんです。」
他人じゃねえかよ。とジャンは思った。
エレンはジャンと目が合うとこう言った。
「ミカサの親戚の人なんだ。」
「ああ、」ジャンは言った。ミカサの親戚か。
「小さい時はミカサと一緒によく遊んでもらったんだ。うちの会社にも清掃に来てるって言ってたけど、会えると思わなかった。」
エレンは先輩をリヴァイに紹介した。先輩はどうも、と軽く会釈して言っただけだった。
それからエレンはジャンを指して「こいつは同期のジャン・キルシュタイン、俺の恋人です」と言った。
恋人という語にジャンは完全な無表情になったが、先輩の前でエレンが忘れずにこう言ったのには少しばかり感心していた。
ミカサ程長くはないものの、エレンとは中学時代からの付き合いである。こいつも人に気を使えるようになったんだな、とジャンは思った。完全に不愉快だが。
エレンの言葉を聞いたリヴァイは片方の眉を釣り上げた。「恋人?」と言った。
エレンが答えた。「あ、はい」
リヴァイはジャンを見た。頭の先からつま先まで射るみたいだった。ジャンは固まった。リヴァイが言った。
「嘘じゃねえんだな?」
「はい」
リヴァイはジャンを指さした。
「こいつはどう見ても修練してる身体じゃねえ。」
リヴァイはそう言うと、突然、光みたいな速さで動いてジャンの襟元を引っ掴んだ。いきなりでジャンは反応出来なかった。「は?」と声が出た。エレンも戸惑ったようで、驚いた顔をした。
「ちょ、ちょっと」エレンが言った。
「ろくに反応出来てねえ。こんなのが襲われたらどうする。お前はちゃんと対策打ってんだろうな」
「対策?」エレンは不思議そうな顔をした。
リヴァイの額にピシリと青筋が入ったのが、襟首を掴まれているジャンには見えた。
リヴァイはパッとジャンに向き合った。距離が近い。ジャンはドギマギした。こんなふうに臆面もなく人の顔を真っ直ぐ見るのはジャンが知ってる人間ならエレンぐらいだと思った。
「あ、あの、」
ジャンは何か言おうとしたが、声が詰まった。
「エレンはお前になんにも説明してねえんだな?」
リヴァイが言った。
「は、」
「俺と来い。きっちり仕上げてやる。」
「は?」
リヴァイがそのままジャンを引き立てて連れて行こうとしたので、エレンは慌てて止めた。
「ちょ、ちょっと、何してんですか」
「何じゃねえだろうが。お前の恋人を助けてやる。そこをどけ。」
「これ通報したほうが良いやつ?」先輩が言った。
「大丈夫です」とエレンは先輩に言ったが、顔が引きつっていた。
「オイオイ、お前と付き合うならそれなりの覚悟はいるだろうが。襲われるぞ。」
リヴァイは行く手をエレンに阻まれてかなりかったるそうな様子になった。青筋がハッキリと分かるくらい鮮明になった。
「お、襲われる?」ジャンが言った。
リヴァイはまたジャンを見た。リヴァイの視線が自分に向くたび、ジャンはなんだか変な気持ちになった。
「放っといても俺には関係無いが、何かあったら目覚めが悪くなる。テメーには俺に付き合ってもらうぞ。そこのバカと付き合うってんならな。」
「襲われるって何ですか?」エレンが言った。
リヴァイは完全に無の顔になった。ジャンは顔が近すぎてリヴァイの微妙な表情の変化が分かった。リヴァイはまたジャンに視線をやった。
「エレンがミカサと付き合っていた、というより、付き合っている振りをしていたのは知っているか?」
ジャンは上手く声が出せなかった。ジャンはうなずいた。
「ミカサがエレンと付き合っているということになってから度々エレンに求愛してる人間に襲撃されてたのは知っているか。」
ジャンは口をパクパクさせてから首を振った。
「襲撃?」エレンは怪訝そうである。
「襲撃…?」先輩は不思議そうである。
「正確に言えばそいつらに雇われた奴らだ。金で何でもやるゴロツキの類だ。エレンに求愛していたのは政治家の娘からゴロツキの娘までいるんだ。ミカサなら放っといても問題無いが、お前は対処出来ると思えない。俺について来い。」
ジャンはやっと声が出せた。
「は?」
「そんなの聞いたこと無いですよ」
エレンが言った。
「俺はミカサが襲撃されるたびに複数人に襲われた時の格闘術を教えてやっていた。」リヴァイが言った。「聞いたことがないわけないだろ。」
「そんな事言ってたかな、聞いたこと無いけと思うけど。」エレンがかなり不思議そうに言った。「本当に?」
エレンは全く屈託が無かった。エレンの様子を見たリヴァイはごくゆっくりと目を細めてチベットスナギツネみたいな顔になった。
「そんな訳の分からん嘘をついてどうする。」リヴァイが淡々と言った。
「そういえばミカサがたまに河原でおっさん達と殴り合いをしてたけど…あれのことか?」エレンがぽつりとこう言ったので、ジャンは叫んだ。
「お前はマジで言ってんのか!!!」
「格闘技の訓練かと思ってた」
「お前はマジで言ってんのか!!!」
「話はついたな、行くぞ。」
リヴァイがジャンを引っ立てて行こうとしたので、ジャンは叫んだ。
「ちょっと待って!!!ちょっと待って!!!」
「ジャンをどうするんですか?」エレンがのほほんと聞いた。
「襲撃に備えて鍛えてやる。感謝しろ。先祖代々継承したアッカーマン柔術を叩き込んでやる。」
「なにそれ?ねえなにそれ?」ジャンは襟首を引っ掴んでいるリヴァイの腕を外そうともがいた。
「嫌ならエレンと別れるしかないなァ。」リヴァイものほほんと言った。
「別れたいです一刻も速く別れたいです」
ジャンは服が破けちゃても構わないという勢いで暴れた。リヴァイは少しばかり微笑んだ。
「オイオイ暴れるなよ。活きが良いな。お前は躾がいがありそうだ。」
「ジャン、リヴァイさんは頑固だからもう無理だ。リヴァイさんは昔総合格闘技の王者だったんだぞ。きっと立派な格闘家にしてもらえるよ。」
エレンが言った。『可哀想だけど、助けてあげられないネ』という顔をしていた。
「フザッケンなよ!!!」
ジャンは顔を真っ赤にして叫んだ。
「今日のところは道場で身体能力を見るだけにする。週7で来い。短期で身体に教え込む必要がある。」
「週7!?」
「いつ襲われるか分らん。俺がしばらくはガードしてやる。」
「週7!?」
「逃げるなよ。逃げたらサボった分3倍にして修練させるからな」
ジャンの抵抗も虚しく、リヴァイは暴れる麩菓子でも連れているような軽い様子でジャンを引き立てて行った。エレンは、リヴァイにしては珍しく楽しそうだなと思った。
先輩はポカンと突っ立ってその様子を見つめていたが、ぽつりと言った。
「あいつは可哀想な時が一番可愛い」