バルジェロとヨルン、温泉に行く。「相棒、温泉旅行に興味はないか」
持たざる者の襲撃からほどほどの時間が経ち、ようやっとヴァローレが落ち着きを見せたころ。西方遠征から戻ったヨルンが久方ぶりにヴァローレに立ち寄ると、バルジェロから少々珍しい旅の誘いを受けることになった。
「温泉?」
「回復効果のある風呂みたいなものだそうだ」
「唐突だな」
「シャナから勧められてな」
曰く、大抵の傷に効くのだという。傷は塞がっても痛む場合があるがそれを治療したり、緩和する効果があるらしい。
傷、と聞いて思いつくのは持たざる者との戦いで昏睡状態陥るほどの大怪我をしたバルジェロの姿だ。シャナからの入れ知恵ということは、恐らくその傷をシャナに見られたのだろう。それからどんな会話を繰り広げたかはヨルンであっても想像するに容易い。
「オスカから受けた傷の治療か」
「あぁ。俺は別に痛もうが問題はないんだが、この傷を残すことでファミリーたちが気を病むのは望ましくない」
「なるほど」
随分殊勝なことだが、こうになるまでメタメタに叱られたらしい。復興作業にも結局通しで参加していたのがバルジェロだ、ファミリーとしては何としても休んでもらいたいのだろう。……人のことはあまり言えないが、彼らも苦労しているようだ。
「ただ少々遠い場所にあるらしい、相棒個人にそこまでの道案内と護衛を頼みたい」
「真っ当な護衛仕事か、珍しいな」
旅団に対してではなく護衛人としての依頼と聞いて、ヨルンはふと己の右手に視線をやった。瞬くたびに何かと厄介事に導く聖火神の指輪は、今日はいない。指輪は指輪の意思があるらしく時折勝手に持ち主を変える、それがいないということはしばらく指輪からヨルンへの用事はないということだ。
休め、とも言われている気がしないでもないが。ともあれヨルンには誘いを断る理由もなかった。
「いいだろう、ちょうど暇になったところなんだ」
「助かる。実のところ、優待券が二枚しかないんだ」
おもむろにバルジェロが見せたのは、東方を思わせる意匠が施されている年季の入った木の札だった。シャナが旅の途中で手に入れたものだそうで、見てくれだけでもかなり貴重なものであることが伺える。
二つしかないのなら連れて行けるのは一人だ。旅の経験を買われているといえばその通りなのだろうが、バルジェロがヨルンを指名した理由は別にあるらしい。バルジェロがふと微笑んだ、企みがある時の顔だった。
「……というのも含めて名目だ、本音を言えばお前とサシで旅をしてみたい」
ピエロ・デッラに羽を伸ばしてこい、と言われたのだそうだ。仕事から離れて気を抜いていられる相手を考えると、相棒であるヨルンが候補に残ったのだという。
確かにバルジェロと二人旅はしたことがなかったなとヨルンは思い出し、物好きだなと思いながらも「お前が期待するほど面白いことはできないぞ」と苦笑して見せた。仕方がないから付き合ってやる、とそんな程度のことだった。
「構わないさ。お互いにとって、なんてことのない旅にしよう」
きっとそんな程度のことだとバルジェロも分かっているのだろう、本当にただ散歩に繰り出すだけのように歩き出した。
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ハイランド地方南方、ベルケイン山道をある場所で逸れると整備された石畳の道が隠されていて、その道を進んでいくと誰にも見つからないようにひっそりと温泉宿が建っている。
火山の力で温められた特別な水を利用した温泉は、かつてホルンブルグの王族にも愛された秘境の泉。戦場で傷ついた体を癒し、激務をひと時忘れて休息を得るために作られた王のための宿だった。王の泉と称されたそこはホルンブルグ滅亡後主を亡くし、残された一族は泉を旅人たちにひっそりと貸すようになった。しかし温かな心意気もそう長くは続かなかった。旅人に貸すなんてもったいない、もっと金を落とす客を呼ぼう……と一族の長が泉を占領してしまったのだ。
そこに最近、ある旅人が現れた。家族がかかってしまったある難病を治す方法を探すべく放浪していたその旅の女薬師は、王の泉の効能が治療に役立てないかと宿にやってきたのだ。治療に手を貸したい、かつての宿を取り戻したいと決意した一族と彼女は協力し、そして最後には一族の長に直談判をして王の泉を勝ち取ったのだという。
女薬師は言った。
”分け合おう”と、”分け合った分だけ、きっと大きくなる”。”それは私たちを、みんなを幸せにしてくれると思うから”と。
「どうして優待券なんてものをシャナが、と思ったが……なぁ」
「旅の途中で立ち寄って、世話になった……世話をした? とは聞いていたんだが、まさかここまでとは……」
講談師の話を聞きながら、ヨルンとバルジェロはその冒険をしたであろうシャナの姿を想像した。さすが薬師、そのバイタリティはどんな職業にも負けることはない。
温泉宿にたどり着いたヨルンとバルジェロを出迎えたのは、ちょっと驚くほどの歓迎だった。シャナが寄こしてくれた二つの優待券は、この宿にとっては救世主のご友人の証だったのだろう。そうだと分かった瞬間の従業員の盛り上がりようは中々のものだった。”救世主の恩人からお代なんていただけませんっ自分の家だと思ってゆっくりくつろいでいってください!”と言われては、むしろ遠慮してしまうもので。まだ落ち着きがあった女将に”普通に宿に泊まりに来ただけだから普通の部屋で……”と頼み、とりあえず最上クラスの部屋に放り込まれることだけは回避できた。
とはいえ、やっぱりちょっとだけ上のクラスのものと思しき部屋を宛がわれた感は否めないが。きっとそれだけシャナが彼らに寄り添い、助けた結果なのだろう。遠慮しがちな二人はそれでようやっと己を納得させ、ちょっと遅めの昼食をとることになった。
そこで講談を耳にすることになったのだが、これである。多少演出が盛られているとはいえどう聞いてもシャナだ。ちょっと笑いそうになった。悪い意味ではなく、あいつやるなぁという方向の意味で。
「粉中毒の治療のために様々な治療法を探っていたら、ここを通過することになったらしい」
「湯治といったか。……効くのか?」
「どうだろう、正直俺も半信半疑だ」
温泉の力を使って作った饅頭という風変わりなものを摘まみつつ、”どうなんだろうな”とお互いワクワクする様子を隠せないこと自体が珍しい。
「だが、こうしてゆっくりすることに専念する……というのも体験なんだろう」
でないとせっかく招待してくれたシャナに悪い、とバルジェロはまんざらでもない顔で笑う。
「忙しいからな、いつも」
「相棒ほどじゃない」
「それはこっちのセリフだ」
気負うことが常だった二人にとって、今回の何でもない旅はまた少々変わったものだった。普段は節約するだろう旅費に糸目は付けず、船や馬車を使って移動。休んでこいと言われたから全力で楽をしよう、というバルジェロの提案だ。ちょっとだけ余裕をもって自分で許せる範囲だけ楽をするというのは、むしろ新鮮なもので。
楽しむための旅、というのはヨルンにとってもバルジェロにとっても初めてのものだった。これでまだ温泉に浸かるのと、数日間泊まるのと、帰り道まであるのがなんだか途方もないことのように思えた。
「にしても不思議な造りをしている宿だな。見たことがない様式だ」
「湯治そのものが東方由来のものらしい、だからそちらの意匠が濃いのだそうだ」
「トウホウ、東の海の先か……。相棒はいったことあるか?」
「まだないな。仲間にそっちから流れてきたやつがいるから、いつか行くかもしれない」
「行くようだったら教えてくれ。俺が見たい」
「気が早い」
バルジェロのテンションは相変わらず変わらないなぁとヨルンが思う一方、バルジェロもほとんど同じことを考えていたのだが、そのゆるさにツッコミをしてくれる人もいないので本当にただのほほんと時間が流れていくだけである。
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「いつ見てもすさまじい傷だ」
「派手にやってくれたからな。おかげで冷えると結構痛い」
「……」
それは普通に治療が済んでいないのでは? ヨルンは訝しんだ。
かつて王族が使っていたというだけあってその温泉は大きく、しかも様々なものが点在しているそうでまた二人を悩ませた。その中で二人の目を惹いたのは目玉の大浴場……ではなく、部屋に併設された個人用の温泉だった。二人で入るぐらいでちょうどいい大きさなのがもうすごい。そもそも個別にあるだけでも驚きだ、やはりこの部屋結構高いものでは……と慄くことにもなったものの、その物珍しさから一番最初に利用する温泉はここにしようということになった。
そして衣服を取っ払ったところでお互いが目がいったのが、お互いの傷の多さだったのだ。
バルジェロは己の腹部に残った大きな大きな刀傷を、懐かしむように指でなぞる。一時は昏睡状態に陥るほどにバルジェロを追い詰めたその傷は、相棒であるヨルンにとっても印象深いものだった。
そうして少し熱めの湯に浸かり、少々慣れたころ。
「オスカのこと、恨んでいるか」
「そうだな。それなりには恨んでいるのかもしれない」
ぽつり、と。ヨルンの零したその傷に触れる発言を、バルジェロはなんてことのない世間話のように掬って返した。
バルジェロにとって持たざる者の所業は、たとえオスカがファミリーだったことを加味しても許せるものではない。多くのマフィアを束ねる身となった今、許していい立場ではなくなってしまったとも言うべきか。ともあれバルジェロはオスカを許してはいなかったし、恨んでもいた。壊されたヴァローレ、失われた命、それらの価値はけして軽くはなかった。
しかし、こうとも思うのだとバルジェロは言う。
「半分は、俺自身への怒りだ」
思った通りの答えだ、とヨルンは思った。
「たらればの話にはなるが、俺がもう少し奴と腹を割って話していたら……そう思わないこともないんだ。だからこの傷が痛んでも、それでいいと思っていた。これは俺自身の失敗であり罪だからだ」
傷が痛むたびにバルジェロは彼を思い出すことが出来た。まるで今でも彼がそこに立っているかのように、その傷はバルジェロの傍にあった。
「だが……。……いつまでも引きずっていては、それはそれであいつにため息をつかれる気がしてな」
バルジェロの脳裏に、心配そうに顔をめしゃめしゃにしながら文句を言うファミリーたちの顔が浮かぶ。傷を見るたびにピエロ・デッラは眉を下げ、レヴィーナはそれとなく体調を気遣ってくれる。ロッソはそれを思い出すたびにイラつき、現場にいなかったシャナでさえも話を聞くだけで泣きそうで。そんなみんなとバルジェロを見て、フラもどこか哀しい目をするのだ。
そうなるたびに、バルジェロの傍に立つ傷は”何やってんだよ”と肩をすくめている。それをバルジェロは悔しく、そして寂しく思った。だがそう思う時点でバルジェロは己がどうするかを決めていたのだろう。
「眠らせてやるのもいいと思ったんだ」
シャナから聞いた温泉の効能には古傷の痛みを和らげるものとは他に、残ってしまった傷痕を薄くするというものがあった。バルジェロはこの傷を忘れることはできやしないが、四六時中背負い通して倒れてもまた傷にため息を気がしたのだと。墓に遺体を納めるように、傷を己の内に納めてみよう……と。
「そうか」
そのバルジェロの試みに、ヨルンは安堵するのを感じていた。バルジェロのことだからないとは思ったが、あの事件のことでふとした瞬間気を病んでいるのならそれは哀しいと心配していたのだ。
だが心配するまでもなく、バルジェロは自力でその解答を見出していた。その解決に今回は護衛という形で手を貸せたことを、ヨルンは嬉しく思った。
「ところで相棒、その傷は何だ」
「どれだ?」
「右の脇腹にあるそれだ」
珍しく己自身のことに関して語った気恥ずかしさからか単なる興味からか、バルジェロは話題を切り替えるようにヨルンの傷に目をやった。
右の脇腹、と言われてヨルンは苦々しい体験を思い出す。生傷が絶えない生活上どうしてもヨルンの体に残る傷が多い。その中でも右の脇腹にある傷は、焼けたことで変色していることもあってそこそこ目立って見えるのだろう。手で触れれば、あの日受けた残酷な灼熱が蘇るようだった。
「エドラスで尋問を受けたときに貰った傷だな」
「将軍殺しの冤罪を吹っ掛けられたとかいう時のか」
「あぁ」
火傷。熱された鉄の棒を押し付けられたことによってできた、ヨルンにとっての失敗の象徴だった。
「あの日ほど己の詰めの甘さを呪った日はないよ」
エドラスでの戦いでヨルンは策略に嵌められ将軍殺しの冤罪を被った。そしてエドラスの牢に捕らえられ、処刑まで言い渡されるところまでいってしまったことがあった。
仲間と引き剥がされ一人で蹲ることしかできなかったかの日、主犯だと濡れ衣を掛けられたヨルンはエドラスの兵によって尋問を受けた。尋問というよりかはただ痛めつけるだけの、簡単に言ってしまえば八つ当たりだった。それだけかの将軍は愛されていたのだろう、冤罪であっても押し付けられた責め苦と嗚咽をヨルンは覚えている。
これはその際できたものだった。
「いつまでたっても消えない、……戒めのようなものだった」
「もういいのか」
「ちょうどいい機会だからな」
考えていることは、バルジェロとほとんど同じだった。
この火傷はヨルンにとって戒めであり、それと同時仲間たちを不用意に苦しませてしまう代物だ。尋問を受けたことであの旅でのヨルンは殆ど本調子を出せず、何日も後遺症に悩まされた。そのたびに面倒を見てくれた仲間たちのことを思うと、こんな失敗繰り返すわけにはいかないとボロボロであっても当時は立ち上がれたことも確かではあるが。
「指輪の回収もじきに終わる。俺の、選ばれし者としての役目も終わる。あの日の……どうしようもなく無力だった自分も、そろそろ許してやらなければな」
傷を見るたびに哀しむ彼らはヨルンの傷を痛んでいるのではなく、やせ我慢を続け無茶をしつづけるヨルンを心配してのことだということを最近ようやっと知った。
己に対して怒りを向ける力は凄まじい。だが、それもいつかは手放さなければならない。そして、きっとそれはこの指輪にまつわる旅の終わりなのだと。
「区切りか」
「そうなる」
ふいに選ばれた救世主の役目から、正しく降りる準備をしなければならない時期なのだと。ヨルンは、バルジェロから誘いを受けた時にそう予感したのだ。
旅には終わりがある。新しい何かをはじめるにせよ、大人しく休むにせよ、はじめたものは正しく終わらせる必要があった。神から委託を受けた指輪回収の任がちょうどその時だ、きっと寂しく思うことだろうがせめて気持ちよく終わりたいなと思うのだ。
そうして指輪から離れた手足で、また新しい旅に出よう。服についた土埃を払って、どうせなら新しい靴でも買って。それが足になじむまで仲間たちと歩くのだ。
きっとそれも、お互いにとっていい旅になるだろうことを祈って。
「旅団長としての責任に集中したい、というのもあるがな」
「副職が多いのも考え物だな」
「まったくだ」
だからヨルンにとってもこの旅の誘いは、とてもちょうどよかったのだ。
「あぁ、それにしても変な感じだ。こうして長く風呂に浸かるのは初めてだ」
「俺もだ。そもそも風呂自体滅多に入らない」
「水浴びで済むからな」
「ウッドランドの特権だな、あそこはいい。木が多いから水も綺麗だ」
「相棒もそのうち住まないか」
「候補には入れておく」
そうしてなんてことのない話をしながら、特に決まっていないいつかを積み上げていく。湯治には最低でも二週間はかけるものだ、しばらくは本当にゆっくりすることになる。
ゆっくりする、というのが初めてな二人にとってはそれでさえおっかなびっくりみたいなところはあったが。それはそれで面白い体験に、そして忘れがたい思い出になるだろう。
「シャナたちへのお土産、何にするか」
「明日見て回ろう。決まらなかったら明後日もある」
「そうだな……せっかくの休みだ、気楽にいこう」
まぁそれでもやっぱり仲間たちのことを考えてしまうので、きっと自分たちは骨の髄まで長なのだ。