結婚してください 傾いた夕日が窓の木枠を黒板に投射していた。それがまるで十字を逆さまにしたようで、この不穏な空気により悪い気を運ぶのではないかと不安に駆られてしまう。
「人が話しているのによそ見とは……あなたの耳も目も飾りなんでしょうか」
「飾りなんかじゃありません。ちゃんと聞いてました。先輩の言い訳」
「言い訳。ああそう。そういう態度を取りますか。へぇ……随分とまあ偉くなりましたね」
「謝る人の態度じゃないんですよ」
「なぜ僕が? あれはフリでしょう。全く理解に苦しみますよ」
明らかな苛立ちと煩わしいという素振り。僕の時間は安くないんだぞとでも言いたげに、彼、アズール先輩は腕時計を確認して「埒が空きませんね」と息を吐き出して「謝ればいいんですか?」と譲歩を申し出る。私がそれを承認などするはずがないのを、どうしてわからないのか。普段は人の繊細な心を見透かして商売をするような小賢しさを持っているくせに。
唇を噛み締めて、泣いてはいけないと眉を寄せる。悔しい。悲しい。そんな感情を飛び越えて腹立たしかった。
私だって、昨晩のゴーストの花嫁へのプロポーズが本心だなんて思ってなどいない。それどころかあれをプロポーズだなんて彼女として到底認めることはできない。それくらい酷かった。そこじゃない。
私はそんな小さなことで怒ったりなんてしない。
「僕があなた以外に愛の言葉を贈るわけないじゃないですか」
「猫撫で声で宥めないでください! もう! 全然わかってない! ホントムカつく! バッカじゃないの?!」
「バ……バカではないと思いますが?」
作戦変更とばかりに甘い声と優しい触れ方で「よしよし」と子供をあやすような手法にでた。そうやって宥めていい包めてしまおうっていうずる賢い手だ。大っ嫌い。
「心配したんです」
「……は?」
「イデア先輩にはホントに申し訳ないって思いますけど、アズール先輩が見初められてしまったらどうしようって、もしキスされて冥婚してしまったらって、私……」
ついに耐えられなくなって泣いてしまった。彼は私が強かでいるのを好むから、弱さを見せたらいけないと気丈に振る舞っていたかったのに、もしもを考えたら怖くて不安で、体がカタカタと震え始めてしまった。
「…………結婚しましょう」
「……え」
「結婚してください」
「えっ、え?」
アズール先輩は私の前で膝をつき、これまでで一番男らしく真剣な顔でまっすぐ私の目を見つめ上げた。左手をとると、まるで御伽噺の王子様のような自然な所作で手の甲にキスをして「僕と結婚してください」と祈るように私の手に額を押し当てる。
どうして突然そんな、と状況についていけなくなって、ぼろぼろと流れるいろいろな意味を孕んでしまった涙を右手で拭いながら、嗚咽まみれに「なんで」とどうにか問いかける。
「守りたいと、そばにいたいと、強く思いました。あなたが泣くのが僕だけの前であるように、そしてそれが幸福なもので溢れるように……ああ神の御前で誓いたければそうします。あなたの望む形式で、どんな場所で式を挙げたって構いません。なんだって叶えましょう。だから僕と結婚してください」
「先輩、展開が……」
「あなたの答えは一つでしょう? さあ、答えて? さあ!」
「えっ、あ……結婚、ですよ? そんな」
ぐるぐると回る思考。確かに答えなんて決まってる。でも、今? 私まだ学生、というか先輩もそうだし、何より私は異世界人で、先輩は人魚で……ああもう……なんで昨日は回りくどいやり口でプロポーズしてたのに、本番は「結婚してください」ゴリ押し一択なの?!
「不束者ですが、私でよければお受けします」
「……や」
「や?」
「やった!……っと、すみません嬉しくてつい……。キスしても?」
「……いいですよ」
逆十字は悪魔崇拝と謙遜と全く違う意味を持ち合わせている。けれどそんなのどうでも良いことだ。
風に煽られてレースのカーテンが十字の影も二つの影も覆い隠す。誓いも祈りも、神になど願わない。契る術は互いだけでで十分だ。
でも……
「正装した先輩の隣でウェディングドレスは着たいなぁ」
「……奇遇ですね。僕もあなたのドレス姿が見てみたい」
鼻先にキスがひとつ降り注ぐ。甘やかな声には、先ほどのような小賢しい打算は感じなかった。