春の花※当然のように冥界暮らし
「なあ、地上に花を見に行かないか?」
ハデスに提案され、二つ返事で頷いた。花を見たいという気持ちもあったのだが、誘うハデスの顔にわくわくしている心が滲んでいたので、断ろうだなんて微塵も思いつかなかった。
冥界で過ごしていると季節の変化は乏しいのでよく分からなかったが、いつの間にか春の季節がやって来ていたらしい。地上に出ると青々とした緑や花々の彩りが美しく輝いていた。
しかし、それよりも太陽の眩しさがたまらない。目が眩むほど明るいので、すぐに外へ飛び出す訳には行かなかった。
「ははっ、まだこの差には慣れないか?急がなくても今日一日で花が散り終えることは無いさ、ゆっくりして行こうぜ」
ハデスは慣れているのか、それとも神の身には問題にならない変化なのか、ケロッとしていた。日陰に腰かけると、ハデスも隣に座って頑張れと言うように頭に触れてくる。彼の力に頼れば一瞬で眩しさが消えそうな気もするが、あちらからして来ないということは、やはりゆっくりしたいのだろう。
少しずつ順応してきて景色をしっかり見られるようになってきた。ハデスにもう大丈夫だと教えると、よしと口にして立ち上がる。
「じゃあ行こうぜ、俺の目当てはそう遠くない。道なりに進んでいけばすぐ見つけられるさ」
ハデスが案内するように歩き出したので、その背中に続く。早く見たい気持ちがあるのか、歩く速度がいつもより早い。置いていかれるほどではないが、ほんの少し前のめりに足を動かす必要があった。
鳥の声や体を撫でる風が、よく知ったものなのに不思議に感じる。住めば都とはよく言うもので、すっかり冥界が体に馴染んでいるようだ。それはほんの少し寂しくて、とても誇らしい事だった。
しょっちゅう見かけていた鳥が懐かしくて珍しくて、遠い姿を眺めながら歩いていたら、ぼすりと体がぶつかった。
余所見をしながら歩いていたらハデスが立ち止まっていたらしい。お互いに驚いた顔を見合せたあと、ハデスが可笑しそうに破顔する。
「なんだ、俺の背中にしがみついて進みたいなら貸してやるぜ」
ハデスが背を向けたまま手を広げたが、そういったつもりでは無い。違う違うと顔を押さえながら首を降ったら、残念そうに肩を竦めた。
「ほら、もう見えるだろ?あれだけ大きな木なんだからな」
ハデスが身体をずらし、前の景色を見せてくれる。緑の中を彩る美しい花が、ぶわっと咲いていた。
立派な体を持つ桜の木が堂々とそびえ立っていて、辺り一面が桜色に染っている。太陽のように自ら光っている訳では無いのに、眩しい美しさがあった。
自分で意識する前に足が前へと進んでいく。風に揺られながら咲き誇り続ける桜の花はもちろんのこと、そこから役目を終えて空へと舞い、花吹雪となって世界の全てとなっている姿が、とても幻想的だった。神の世界をたっぷり見ているはずなのに、心の震えは素直に起こった。
確かにこんな光景なら、神様だって眺めて酒宴でも開きたくなるものだろう。綺麗だ、なんて月並みの言葉を言いながらハデスを振り返ると、無邪気な顔で嬉しそうに笑っていた。
「やっぱりな。思った通りのものが見られたぜ」
どうやら、ハデスにとっても嬉しい景色のようだ。それほど素直な笑顔だった。
見られよかったねと、ハデスの感情を肯定する言葉を口にしたのだが、何故か目を丸められてしまい、同じようにきょとんとする。ハデスがこの桜を見たいと言い出したはずなのに、なぜそんな反応を返されたのだろうか。
「おいおい、俺が見たかったのは、花は花でも、こっちの花だぞ」
ハデスの手が伸びる。舞い散る桜の花びらをするりと避けて、真っ直ぐにこちらの頬へ触れてきた。
「お前のそうやって喜ぶ顔が見たかった。そして、こうやって花とともあるお前の姿が見たかったんだ」
親指が頬を撫でる。あまりに愛おしそうな顔を向けられて、いきなりの甘さに喉が詰まって熱が上がる。
確かに、この美しい光景を見てとても嬉しかった。目に焼き付けたいくらいの素晴らしい光景だ。けれどハデスが真っ直ぐに見ていたのは自分だったのかと思ったら、急に景色が目に入らなくなる。
同じように真っ直ぐにハデスを見つめ返した。光の元、花吹雪の中にいるハデスは、まさに神々しくて、共にいることが幻想であるような気がしてくる。
ハデスの顔がまた無邪気な子供のような笑顔になる。長い年月を生きてきて、冥界という暗い場所を与えられて、その闇に心を蝕まれてなお、彼の眩しさは絶えていなかった。
「それじゃ、もっと近くで堪能するとするか」
ハデスの手が離れたかと思いきや、それが腰へと回る。ぐっと抱き寄せられ、距離がほとんどなくなる。
まさか、なんていう想像をしかけた瞬間、体が軽くなったように宙へと飛び上がり、ふわりと空を飛んでいた。ハデスが地を蹴り、巨大な幹へと近づいていく。
その立派な枝のひとつにこれまたふわりと足を下ろし、桜の木に入り込むような形になった。
「見上げるってのもいいが、こうして一つになるように眺めるっていうのも、悪くないだろ?」
ハデスの言葉に少し大袈裟なくらいに返事をする。自分の考えがあまりに恥ずかしくて吹き飛ばしてしまいたかった。
ゆっくり腰かけようとするハデスを追い越し、そそくさと座る。枝は、体重を乗せたところでびくともしなかった。
「……なーんか隠してないか?」
探るハデスに首を振り回してから頭上を見上げる。華の天井が視界いっぱいに広がっていてとても美しかった。
ハデスがまだつついてきていたが、美しさだけを脳内いっぱいにするために気づかないふりをして、邪心をかき消した。それに対してつまらなさそうに、けれど可笑しそうにハデスが声を漏らす。
ひときわ強い風が吹き、地面に落ちようとしていた花弁を巻き上げて天へと登っていった。この光景はきっとこれから何度でも見ることが出来るのだろう。隣に、彼がいる限り。
ちょっとだけ手を伸ばして、ハデスの手に触れる。大きな手は抱きしめるように、握り返してくれた。