彼女とわたしの猫時間(サンプル)00
とある大手通信会社の調査によると、現在我が国の個人における携帯電話の保有率は九割、スマートフォンだけに限定しても八割を超えているという。実に十人中九人が携帯電話を、十人中八人がスマホを保有しているのだから、ちょっとした調べもの―たとえば知らない言葉の意味を調べるのだってわざわざ分厚い辞書を引いたり電子辞書を準備したりしなくとも、ほとんどのひとは時を選ばず場所を選ばずいつでもどこでもスマホひとつでことが足りてしまうのだ。
便利な世の中になったものだ。
とはいえ、どんなに世の中が便利になったとしても、お仕着せに近い状態で押しつけられたこどもケータイを惰性で持ち歩いてるようなわたしの場合、少しばかり事情が違ってくる。
そもそもわたしに支給されたこどもケータイに搭載されているのは通話機能と簡単なメッセージ機能と防犯ブザーのみなのだから、何でもかんでもスマホでちゃちゃっとやっつけてしまうというわけにはいかない。先ほど例として挙げた辞書にしても、スマホユーザーではないわたしは、紙の辞書もしくは電子辞書に頼らざるを得ないのだ。
(もっとも、わたしが通う私立指輪学園では授業中のスマホ及び電子辞書類の使用を禁止しているので、授業時間内に限っていえば児童生徒が使っているのはもっぱら紙の辞書ばかりなのだけれど)
調べ方は千差万別。
スマホユーザーの中には、ネットで検索したり電子辞書を使ったりするよりも紙の辞書の方が使いやすいというひとがいるかもしれないし、どちらが優っていてどちらが劣っているというような話でもない。
スマホを使うのも紙の辞書の使うのもそのひと次第。
わたしに言わせれば、マジョリティに属するひともマイノリティに属するひとも、それぞれがそれぞれにやりやすいやり方を選べばいい。その程度のことだ。
前置きはこのくらいにして、ここらでページの向こう側にいらっしゃる読者の皆様にお願いしたいことがあるのだが、スマホをお持ちのひとはスマホの画面をタップして、スマホをお持ちでないひとは本棚からお手持ちの辞書を抜き出して(もしくは電子辞書を取り出して)、ぜひ『押し倒す』という言葉の意味を調べてみてほしい。
誤解のないよう予め断っておくけど相撲の決まり手じゃあないわよ。
まあ、読んで字の如くの意味であるから、この言葉がどのような状況を指しているのかは調べるまでもなくそれなりに察してもらえるかと思うけれど。
どうしてわたしがこんなにも回りくどい言い方をしているのかというと、回りくどい言い方をしないと到底正気を保っていられない状況にいるからに他ならない。
端的にいえば、わたし『美観のマユミ』こと瞳島眉美と『美食のミチル』こと袋井満くん―不良くん―のふたりは、今まさに現在進行形で、誰の目から見ても『押し倒す』以外の言葉では言い表すことができないシチュエーションに置かれているのだ。
事故ではない。
事故だったらまだしも救われようがあったかもしれないと思うけれど、生憎と事故ではない。
ひっそりと静まり返った保健室の、三方をカーテンに囲まれた仄暗いベッドの上で、瞳島眉美の肉体は確固たる意志の力に動かされて袋井満の身体を押し倒しているのだ。
仰向けになった不良くんの腹の上に馬乗りになって彼を組み敷いているのは、他ならぬわたしなのだ。
中学生ふたり分の体重に耐え兼ねたように、スチールベッドのパイプがみしりと軋む。
消毒液の匂いが鼻をつく。
「まゆ……み……?」
まんまるに見開かれた不良くんの瞳に、彼をのぞき込むわたしの顔が映っている。
「おまえ、何して―」
続く声を封じるように、不良くんの唇にわたしの指が触れる。
ふみゅっ。
指の先に伝わる、あたたかくて少し湿った、やわらかな感触。わたしの心臓が、とくんと小さな音を立てて跳ねる。
不良くんの瞳に映るわたしの口もとが、勝ち誇ったように歪む。
「つかまえた」
わたしの唇からこぼれるわたしの声を―恋する乙女みたいに甘い熱を帯びたその声を―わたしはタチの悪い白昼夢にうなされるような心地で聞いていた。
―だーかーら! 不良くんと相撲を取っているんじゃないってば!
「瞳島さんの四股名は何ですか」とか「ただいまの決まり手は『押し倒し』ですか」なんて質問は一切合切受けつけないわよ。
01
時間は少し遡る(回想開始)。
今日は二月十四日、バレンタインデー。
世間は右を見ても左を見てもチョコレートの話題で溢れ返っているけれど、わたしが通う私立指輪学園では、数年前に中等部で勃発したというチョコレートをめぐる流血沙汰によって学園内でのバレンタインに関する行為は一切禁止されている。したがって今年のわたしもバレンタインとは無縁のマユミだ。―校則云々に関係なくバレンタインとは無縁のぼっちじゃないのか、なんて声はちっとも聞こえないわね。
放課を告げるチャイムの音とほぼ同時に、授業中からすでにそわそわしていた生徒達が足早に教室を飛び出していく。学園内ではバレンタイン禁止でも、敷地の外に出てしまえ話は別だ。今頃校門の向こう側では、生徒達がスクールバックに忍ばせていたチョコレートを取り出して、ある者は意中の相手へ渡し、ある者は親しい相手へ渡しているに違いない。
折りよく今日は美少年探偵団の招集もかかっていないし、急ぎで済ませなければいけない生徒会の業務もない。
教室に残って、誰かが置き忘れていったチョコレートのカタログ(四百ページもある。ほとんど凶器だ)をぱらぱらしながらひまをつぶして数十分、そろそろ外も落ち着いてきた頃合かしらと、わたしは教科書とノートと筆記用具しか入っていないスクールバック片手に席を立った。
遠回りになってしまうが、ひとごみを避けるため管理棟へ回る。人気のない東階段を下りているときだった。
「―くんが好きなの」
二階と一階の間の踊り場に差しかかったところで、階下より聞こえてきた声に足が止まる。
え?
今、誰か「好き」って言った?
頭の中で赤信号が点灯する。本能がそれ以上進むなと警告する。
わたしはその場に屈み込んだ。手すりの陰から首を出して階下の様子を窺う。
階段下倉庫の扉の前に、向かい合って立つ女子生徒と男子生徒の姿が見える。長い髪をポニーテールに結った女子生徒の顔に見覚えはないけれど(もっとも、交友関係の広さは猫の額級だといっても過言ではないわたしの場合、顔と名前が一致する生徒なんて数えるほどしかいないのだが)、男子生徒の後ろ姿―ぴょこんと跳ねた猫っ毛に見覚えがあった。というより男子生徒が誰なのかすぐに分かった。不良くんだ。
わっ!
わわわっ!
なんてことだなんてことだ、クズとは無縁の甘酸っぱい青春の一ページ、生の告白現場に―それも不良くんへの告白現場に遭遇してしまった!
おいおい、学園内でのバレンタインは禁止じゃないのかと思ったそこのあなた。バレンタインに関する行為というのはいわゆるチョコレートの受け渡しのことを指しているのだから、チョコレートが絡まない愛の告白ならばいつなんどき学園内で行われていても校則違反には該当しない。見た限りでは女子生徒も不良くんもチョコレートを所持していないようだ。けれども、女子生徒の手の中に封筒のようなものが見える。あれはもしや……ラブレター?
「ああ……」
不良くんが何やら言いかけたみたいだけれど、彼が言葉を続ける前にわたしは両手で自分の耳を覆っていた。
たまたま通りがかっただけとはいえ、名前も知らない他人の告白の行方を聞いてしまうなんて(しかも想いを告げている相手はわたしの数少ない知人のひとりだ)悪趣味にもほどがある。クズはクズでもわたしもそこまでクズじゃない。クズにだって矜恃はある。ここは何としてでも未遂で済ませなければ……と、力を込めて耳を押さえつける。
生憎、人間のてのひらにノイズキャンセリング機能は搭載されていないので、周囲の音を百パーセント遮断することはできない。耳をふさいでいても、もごもごとくぐもった―会話の内容までは聞き取れない程度に聞こえていたふたりの声が、ようやく止んだ。話が終わったのだろう。
時間にするとほんの数分だが、気配を悟られないようにずっと息を殺していたからか、胸の左側がちくちくしてきた。喉もからからだ。
会話が終了したということは、この後、不良くんないし女子生徒がこの階段を上がってくる可能性だって充分考えられる。このままこの場所にいて鉢合わせでもしたら厄介だ。
ぐずぐずしていられない。来た道を戻ることになるけれど、校舎の反対側―HR棟へ戻ってから昇降口へ向かうとしよう。
ひとつ息を吐いてから立ち上がり、踵を返したそのときだった。
ちりりり……と、何処からかふいに鈴の音が聞こえてきたと思った途端、風が吹き抜けるように、わたしの足もとを白い影がよぎった。慌てて避けようとして目測を誤った。
踊り場の端で靴底が滑る。重心が揺らいで、身体が背中側へ傾く。
一瞬、此処は階段の踊り場なのに校舎の屋上にいるような、今は昼間なのに星空を見上げているような錯覚に襲われた。そうだ、あの夜はリーダーが助けてくれたんだっけ。
既視感に浸る間もなく、わたしの身体は宙を舞った。
02
はっとして、目を覚ます。
わたしは美術室にいた。すっかり定位置となったひとりがけソファのひとつに腰を下ろしていた。
あれ? わたし、階段の踊り場で足を滑らせて、背中から落ちたはずなのに……。
背中も腰も、頭もお尻も、手も足もどこも痛くない。
あれは夢? 美術室でうたた寝しちゃってたのかしら。
ソファに座ったまま、きょろきょろと周囲を見回す。部屋にいるのはわたしひとり、他にひとの気配はしない。
ふと違和感を覚えた。
重厚な造りのホールクロック。
ぎっしり本が詰まった書架。
猫足のチェスト。
天蓋つきの円形寝台。
絵画や彫刻といった美術品―
見慣れた美術室なのに、いつもと様子が違って見える。
もう一度、今度はじっくり時間をかけて、慎重に辺りを窺う。
その甲斐あってか、わたしは違和感の正体を突きとめた。それは全部でみっつあった。
ひとつ目。ホールロックが止まっていること。止まっているというより壊れている? 長針と短針が文字盤から外されているし、振り子も揺れていない。
ふたつ目。シャンデリアには煌々と明かりが灯っているのに、どういうわけか部屋全体にうっすら靄がかかっているように見えること。まるで乳白色のサングラスをかけているような具合だ(乳白色のサングラスって何だ? 風呂場の眼鏡か?)。
そして、みっつ目。『美脚のヒョータ』こと足利飆太くん―生足くん―がいつも猫のように寝そべっているソファの上、筒状のクッション(正式にはボルスターと呼ぶのだっけ)の手前に、見たことのない白猫のぬいぐるみが置いてあったこと。
ふかふかとやわらかそうな毛並みといい、アーモンド型のぱっちりした瞳といい、本物と見分けがつかないほどリアルな造りの白猫ちゃんだ。首輪代わりに結んだばら色のコットンレースが白い毛並みに映えている。下世話な言い方になるけれど、ずいぶんお高そうだ。
こんなところにぬいぐるみなんてあったっけ? 誰かの忘れもの?
白猫ちゃんの持ち主として可能性がありそうなのは、ぬいぐるみを自室に持っていそうな『美学のマナブ』こと双頭院学くん―リーダー―もしくは、ぬいぐるみを贈りそうな相手(小学一年生の婚約者)がいるロリコン、もとい、『美声のナガヒロ』こと咲口長広先輩―先輩くん―はたまた、ぬいぐるみをモチーフにして作品を制作していそうな(或いは自らぬいぐるみを拵えていそうな)『美術のソーサク』こと指輪創作くん―天才児くん―だけど……と、
「ご機嫌いかが」
「ひゃっ!」
ふいに聞こえてきた声に肩が跳ねる。
「だ、誰?」
思わず手近にあったクッションを引き寄せて身構えた。少なくとも探偵団のメンバーが発した台詞ではない。そう断言できるのは、その声がわたしと同年代くらいの少女の声だったからだ。
前述した通り部屋の中はひっそりしていて、わたし以外にひとがいる気配はない。とすると―到底信じられないことではあるが―声の主が誰なのか、可能性はひとつしかない。
ちょこんと座る白猫ちゃんのぬいぐるみに、わたしはおそるおそる視線を向けた。
「ぬいぐるみが喋った?」
白猫ちゃんの耳がぴくりと動く。
可愛らしくも尖った声で、
「失礼ね。あたし、ぬいぐるみじゃないわ」
やっぱり喋った!
喋ったといっても、白猫ちゃんが人間のように口から言葉を発したわけではない。白猫ちゃんの思考が、あたかもテレパシーで語りかけるように、わたしの頭の中に直接伝わってくるのだ。
十四年の人生で一度だって猫を飼ったことはないし身近に猫がいたこともないから猫の年齢なんて見当もつかないけれど、声の調子や『あたし』という一人称(一猫称? 一匹称?)から察するに、白猫ちゃんは、おそらくまだ年若い雌猫なのだろう。それにしても、お喋りする猫にお目にかかるのは、わたしにとって生まれてはじめてのことだった。
多少のことでは動じないほど鍛えられたわたしでも、さすがに心中穏やかではいられなくなる案件だ。
「どうして美術室に猫―それも、お喋りする猫がいるのよ」
白猫ちゃん―どうにもまどろっこしいので、ここから先は白猫ちゃんのことを『彼女』と呼ぶことにしよう―彼女は、ガラスのような琥珀色の瞳をきらりと光らせた。
「理由を教えてあげる。此処があなたの夢の中だからよ。猫は人間の言葉を理解しているし、いつだって人間に話しかけているわ。日本の猫なら日本語で、アメリカの猫なら英語で、イタリアの猫ならイタリア語で……といった具合にね。でも、猫と違って人間は、猫の言葉を理解することができない。だけど夢の中―心や精神と呼ばれる世界の中でなら、種の垣根を越えて猫と人間は言葉を交わすことができるのよ」
「夢―ってことは、わたしは眠っているの?」
「あら、覚えていないみたいね。あなたは階段から落ちて気を失ったの。あなたの肉体は保健室へ運ばれて、今はベッドで眠っているわ。かすり傷ひとつ負ってないから安心してちょうだい」
階段から落ちたことは記憶違いじゃなかったんだ。夢の中なら時計が止まっていたことも部屋の様子がいつもと違って見えたことも腑に落ちる―うん? ちょっと待てよ。
「わたしが階段から落ちて気を失って、夢を見ているってことは分かったわ。でも、今の説明だけだと、あなたがわたしの夢の中にいることの答えになってなくない? この夢はわたしが自発的にみている夢? それとも強制的にみせられている夢?」
わたしが問いかけると、「ああ、それはね……」と、彼女はどこか申し訳なさそうな顔をして言葉を継いだ。
「あなたが階段から落ちるように仕向けたのがあたしだからよ。あなたの精神世界へ入り込むために―あなたにあたしの話を聞いてもらうために、まずあなたを眠らせる必要があったの。そういう意味では、強制的と呼べるかもしれないわね」
何だって?
「じゃあ……、階段から落ちる直前にわたしの足もとをよぎった白い影は……」
「ええ。あたしよ」
彼女が頷く。ちりりりと鈴が鳴る。その音に聞き覚えがあった。
彼女の首ねっこの辺り、蝶々のかたちに結ったコットンレースの結び目のところに小さな金銀の鈴が揺れているのが見えた。―わたしを転がした犯人はおまえか!
「より正確にいえば、あなたを転がしたのはあたしの精神体だけどね。あなたの肉体が保健室で眠っているように、あたしの肉体もあたしの寝床で眠っているの。肉体が眠っている状態なら精神体を飛ばすことができるから。ずっと寝ていて家のひとに不審に思われないかですって? ほら、猫の名前の由来の話、『寝る子』から『寝子』……『ねこ』という名がついたって、あなたも聞いたことがあるでしょ? 兎角猫はよく寝るものよ。多少長く眠っていたとしても、ご主人に『今日はよく寝ているな』と感心されることはあれど怪しまれることなんてないわ」
いや、別に訊いてないし、「聞いたことあるでしょ?」と言われても、『寝子』なんてワードは初めて耳にしたぞ。
「ええっと……」
何がなにやら、こんがらかってきた。
「つまりあなたは、わたしに聞いてほしいことがあった。でも、人間と猫は目覚めているときだと話ができないから、あなたはわたしを階段から落とすという強硬手段に出て、わたしを眠らせた―ということ?」
「概ねその通りよ。そうそう、順番が前後しちゃったけど、あなたに謝らないといけないわね。手荒な真似をしてごめんなさいね」
彼女はちらりと舌を出した。そこはかとなくあざとい。
「それで、そこまでしてわたしに聞いてほしいことって何なの?」
いたずらっぽい表情から一転、彼女は居ずまいをただし、琥珀色の瞳をきらめかせてわたしを見据えた。
「単刀直入に言うわ。あなたの肉体をあたしに貸してほしいの」