同じ地獄で待つ2/五夏 この世界には、男女という大きな性別の区分のほかに、思春期頃になってようやくわかる第二性というものが存在している。それは大きく、アルファ、ベータ、オメガ、という三種類に分けられていた。
アルファは、世界の支配層だ。格別優秀な者が多く、オリンピックで活躍したり、世に名前を轟かせる経営者になったりする。オメガは、それに対して産む性である。定期的な発情期を持ち、その期間の性交では高い確率で妊娠する。アルファは、アルファやベータ相手の着床率が致命的に低い。しかし、それさえも孕むことを可能にするのがオメガという種だ。アルファとオメガの番いで相性のいいものは、高確率でアルファを妊娠、出産すると言われている。そうなると世界はアルファとオメガに支配されてしまうように思われるが、アルファとオメガは出生率自体が低く、ベータに比べて極めてその数が少なかった。特に、オメガはその特殊性から人身売買の標的にされることもあり、第二性が大きく隠されなくなった今の時勢であっても、番いを持たない者は第二性を公言せず、身を潜めて生きているというのが現状だ。
夏油と五条は、アルファとオメガの番いだ。けれど、夏油がオメガである五条を抱くことはしない。それは番いになった時から変わらない取り決めで、一度として違えたことはないものだった。
夏油が五条と初めて出会ったのは、小学六年の時だ。夏油が喧伝して回っていたわけではないが、夏油の出生はどうしたってすぐに話題になる。あからさまに周囲から浮いた存在となっていた夏油のクラスに、季節外れの転校生としてやってきたのが五条だった。まだお互い第二性は診断前だったが、五条は明らかにアルファであろうと、一目見た時から思っていた。それは夏油も同じことだ。殆ど真面目に授業を受けていないのに学年で一番の成績を保ち、運動だって何をさせても簡単に熟してしまう。頭ひとつ抜けていた夏油の存在に待ったを掛けたのが五条の登場だった。
「なにそれ、変な前髪」
それが、五条が夏油に対して発した第一声であった。その頃、夏油は髪を伸ばし始めた頃で、後ろでひとつにまとめるように結んでいた。ちょうどそこからは長さが足りず、落ちてしまう前髪を見て、五条は無造作にそう言い放ったのだ。
もちろん、その場で大きな喧嘩になった。何人も集まってきた教師が止める声も聞かず、問答無用でその綺麗な顔を殴り飛ばした。けれど、五条の方もやられっぱなしでは終わらない。殴り返し、蹴り返し、と続くうちにお互い、何だか楽しくなってしまって、けらけらと笑いながらも殴り合った。それが五条との出会いだ。
それからは、誰とも連むことがなかった夏油が、五条と共にいるようになった。
ふたりがそうしたところで、まわりは完全に遠巻きに見ているばかりで、何か言ってくる連中はひとりもいない。元々、極道の家というレッテルの貼られた夏油には誰も寄ってくることはなかったし、そこにくっついた五条にも、みんな深く考えることもせず、ただ恐れをなしていたように思う。
連むとは言っても、そこまで深い関係だったわけではない。学校ではいつも一緒に過ごしていたが、夏油は五条をあの家に連れて行きたいとは思わなかったし、五条も夏油を自分の家に連れて行くようなことはなかった。ただ、授業が終わってもすぐには別れがたくて時間をかけて一緒に帰り、分岐点となるあたりにある公園でしばらく時を過ごす。それくらいのことだった。
「傑はさぁ、なんで俺といてくれるの」
「なんで? 不思議なことを聞くね」
五条はそんなことを言うが、自分なんかより五条といたがる連中は、もっとたくさんいると思った。五条は美しいし、賢い。まわりを徹底的に排除して生きている夏油なんかより、ずっと人好きのするタイプのはずだ。並んで公園のブランコをギィギィと揺らしながら、五条はそんなことを聞いた。
「俺、前の学校では浮いてて。まぁ仕方ないんだけど」
仕方ない、の理由が何なのか、問い詰めようとは思わなかった。たぶん五条も話したくないだろうし、別に夏油だって無理に聞きたくはない。それよりも今、五条が傍にいてくれることの方が重要だった。
「たぶん、ここもそんなに長くいられないと思うんだよね。それが今はやだ」
「なんで? なんでいられないの?」
つい、気が急いて繰り返し訊ねてしまった。五条の過去に土足で踏み込むつもりはないが、ここにも長くいられないというのは夏油にとっても大きな問題だ。
夏油は、とうにずっと五条といたい、とそう思っていた。
初めて対等に話が出来る相手だったし、何より五条と一緒に過ごすのは息をするよりも楽だったのだ。家にも学校にも居場所がない夏油にとって、五条の隣はいつのまにか何物にも代え難いものになっていた。
「……うち、借金まみれで。前のとこからも逃げてきたんだ。どうせここでもすぐに同じことになる」
五条が物心ついたころからずっと、遠い親戚なんかを頼って、隠れるように逃げて生きてきたのだと言う。それを聞いて、夏油は不安になった。今までは上手く逃げてこられたから良かったかもしれないが、それは奇跡みたいなものだ。いつ失敗してもおかしくない。
そんなことになったら、見目の良い五条はどこかに売られてしまうかもしれない。まだ小学生の五条は、第二性こそはっきりとしていないが、アルファと思われる子どもを欲しがる富裕層は少なくなかった。
「毎回夜逃げみたいにしてさ。……クラスメイトにお別れも言えないから、友だちは作らなくなった」
だから、お前は初めての友だちかも。
どこか遠くを見るように五条にそんなことを言われて、胸がきゅっとなる。五条を、救いたい。夏油は、自然とそう考えていた。そして、自分にはそれが出来るだけの環境だってあるのだ。
「……どこから、借りてるの?」
「わかんない。一カ所借りられなくなったらまた別のとこ、ってやってるみたい」
聞く限り、それはあまりいい状態だとは言えなかった。たぶん民間のキャッシングで使えなくなった後は、地域の闇金にも手を出してしまっているのだろう。それでよく今まで逃げてこられたものだとすら思った。
「どうにかする」
「どうにかするって」
五条は、そんな夏油の言葉に弾かれたように顔を上げる。それを安心させるように頭を撫でて、夏油は任せて、と笑った。
夏油は、これまで家の力に頼ろうと思ったことは一度としてなかった。逆に、あんな家なんて絶対に継ぐものか、とすら考えるようになっていて、それは父親にももちろん伝わっていた。そのせいで酷く折檻されたことは数え切れないし、義務教育を終えたら、あの家からはこっそり逃げようとすら思っていたのだ。まさか、あの家が役に立つことがあるなんて思ったこともなかった。
五条の家が、一体いくら借金しているのかは知らない。だが、交渉材料のひとつにくらいはなるだろうと思った。どうせ闇金のケツ持ちは自分の家だろうし、そうでなかったとしても債権を買い取るくらいは簡単に出来るはずだ。
夏油は渋る五条を一旦家に帰らせて、父親の部屋の前に正座した。父がいつ帰ってくるのかは知らないが、別に待つのは苦でも何でもない。義母が今日は帰ってこないかもしれないから、と宥めるのを他所に、夏油はずっとそこに座り続けた。
そこに座り込んで何時間経ったかはわからない。けれど、辺りが随分前に暗くなって、それからさらに時間が経った頃、父親はようやく家に帰ってきた。
「傑、どうした」
「お話があります」
家を継ぐ、継がない、の話にでもならない限り、夏油は父親とそれなりに穏やかな関係を築いている。父親は優秀な夏油に期待しているらしく、何もしなくてもいつかは大人しく家を継ぐと言い出すと思っているのだ。それは随分とお目出度い話だった。だが、今はそれすらも交渉の材料にしようと思っている。
「ひとり、買い取ってほしい人間がいます」
「ほぅ、これは大きく出たな」
夏油は、五条の家の事情を話した。ギャンブル好きの父親のこと、それに逆らえない母親のこと、そして悟のことを。
「それで? その家を救って欲しいのか?」
「いいえ。悟だけ助かればいい」
そう夏油が言い放った時、それを聞いた父親がうっすらと笑ったのを覚えている。たぶん、この時に夏油は、人であることをやめたのだと思う。五条の家の借金がいくらあるのか知らない。それをこの年で何の資産も持たない自分が易々と買い取れるわけもない。出来ることといえばヤクザである父親を頼ることくらいだ。だが、何の将来性もない話に投資してくれるわけもない。だから、夏油はこう続けた。
「悟は、私の番いになる相手です。悟がいるなら、家を継ぐ」
「まだ第二性は診断されていないだろう」
「そんなの、オメガ化させる薬、あるでしょう? あなたが母に使ったものだ」
「……あいつは、そこまでお前に話したのか」
それは別に新しい薬でも何でもなく、ただその作用の強さから未だ日本では認可が下りていない未承認薬だった。それを服用すれば、誰でもオメガになれる。アルファでも、ベータでも関係なく、だ。
母は、もともとは優秀なアルファだった、と聞いていた。それをこの男に目をつけられて、オメガにさせられた。そこからは囲い者の生活だ。それまで没頭していた研究も、何もかも取り上げられ、ただの女として死んでいった。オメガであることを素直に受け入れれば、もっと長生き出来ただろう、と医者には言われた。最後まで母はオメガ専用の強い抑制薬を飲むことをやめず、発情期を無理やりに抑え続けた。彼女はオメガとしては生きられなかったのだ。
「悟にさえ、類が及ばないように出来るなら、それでいいんです。親のことなんてどうでもいい」
「死んでもか?」
「悟は悲しむかもしれないけど、このまま苦しむよりずっといい」
たぶん、どうしたって五条の両親は変わらない。たとえ今回リセットしてやったとしても、これからもずっと同じ生活を続けるだろう。それに五条が巻き込まれてこれ以上苦しむのは、嫌だった。
「まぁいい。明日、連れてきなさい」
無事五条と会ってもらう約束を取り付けて、その日は終わった。五条にすぐにでも知らせたかったが、五条は携帯電話なんて持っていないし、家の電話番号もわからない。そうなると明日になるのを待つしかなかった。けれど、それをまんじりと待つのも辛くて、夏油はそっと家を抜け出した。よくやっているから慣れたものだ。五条の家は知っている。また五条が外に出されているようなら話をすればいいし、もう寝ているようなら諦めよう。そう思って近くの公園を通り過ぎると、まさしく五条はそこにいた。
「悟」
「傑?」
ブランコをギィギィと音を立てて漕いでいた五条は、夏油の声に弾かれたように顔を上げた。その綺麗な顔には、まだ新しい痣がある。殴られたのだ。きっと父親だ。あの気の弱い母親が何か出来るわけもない。
「……傑。俺、話さなきゃいけないことがあって」
五条が困ったように口を開く。けれど、それを遮るように悟を呼ぶ女の声が聞こえた。
「…………ごめん。もう行かなきゃ。また逃げるんだって」
そう告げた五条の手を取って、反射的に夏油は走り出した。それを見た女の声が夜の空に高く響いたが、そんなのは知らない。五条も驚いたような表情はしているが、特に抵抗する様子はなかった。一緒に夏油の家の方に走り出すと、女は追ってくる気配もない。しばらく走って、誰もついてきていないことを確認すると、夏油はようやく走るのをやめた。
「うちで暮らそう」
「へ?」
「私と、番いになって」
その突然の言葉に、五条は心底驚いたようだった。だって、お互いまだ第二性も診断されていない。その診断は中学に入ってからだ。小学生のうちに受けられる診断もあるが、ホルモンの状態が落ち着いていないため、信憑性が低い。それを受けたとしても、あとになって診断が変わることもあるという。
「傑と俺が、番いになるの?」
「そう。……嫌?」
性教育の授業で、第二性についてはもう説明を受けている。まわりからは五条はアルファだろうとみんな言っていた。その五条が、夏油と番いになる。それを、五条はどう思うだろう。
「傑はアルファだろうから……俺が、オメガになる?」
「……たぶん、そうなる」
「……~~なにそれ、サイコーじゃん!」
そう大きな声で叫ぶと、ぴょん、と飛び上がって五条は喜んだ。その白い頬を熟れた林檎のように紅潮させて、興奮したように言葉を続ける。
「俺、傑といられるならアルファでもオメガでもどっちでもいいって思ってた。だから、アルファ同士だったらやだなって。なぁ、それって、サイコー!」
「……ほんとに、そう思ってる?」
当たり前じゃん、と声高に言い放つ五条に対して、夏油は恐ろしく不安だった。五条は、ちゃんとわかっていないのではないだろうか。オメガになるということは、決していいことばかりではない。周囲の偏見にも晒されるし、場合によっては身の危険が及ぶことだってあるのだ。その上、五条はこれから任侠の家なんかに囲われることになる。
「親とも別れることになるよ?」
「べつによくない? ふたりとも俺がいなくて困んないよ。傑は、困るだろ?」
「困る、けど。でも」
「傑から言い出したんじゃん! 俺がいいって言ってんだからいいんだよ、な!」
心底気が晴れたとでもいうようにけらけらと笑って、五条は楽しそうに夏油の手をとった。そうしてその場で何度もくるくると回ると、続けてひょい、と夏油を抱き上げて、またくるくると回る。
それが、五条がこの家に来た経緯だ。五条はその時からこの離れをあてがわれ、以来ずっとここで生活をしている。中学までの生活に関する費用は父親の世話になったが、それ以降の高校も大学も、夏油が金を出して通わせた。もちろん、大人になって金を稼ぐようになってからは、中学までの費用だって全額返済した。あの男に、少しでも借りを作るというのは嫌だったのだ。夏油は高校に入る頃には投資にも手を出していたし、いくつかの手頃な不動産も譲り受けていたので、それらの収入で大学まで五条を養うことはじゅうぶんに出来ていた。とはいえ、五条も、そうして養われるばかりではなかった。投資の才能は五条の方がずっとあって、アタリを引き当てるのは五条の方がずっと多かった。ふたりでマネーゲームに興じるのは、正直楽しかったとしか言いようがない。
ふたりの第二性が明らかになったのは、中学の頃だ。
それは誰しもが当たり前に受けるものであって、通っている学校で血液検査を受けて、数日後にその結果が通知される。
その時ばかりは、すこしだけ緊張した。そもそも、夏油がアルファでなければこの父との契約は成立しない。たぶん、夏油がアルファでなければ父親も次第に夏油から興味を失うだろう。そうなれば、夏油に付随する五条の扱いもどうなるかわからない。
けれど、そんな緊張を他所に通知された紙に記されていたのは、アルファという文字だった。屋上でその通知を見て、ほ、と息を吐いていると、駆け込むように五条が走ってくる。手には通知を持っていて、「俺、再検査!」と叫んだ。
「……再検査?」
「って書いてあるよ? なんか病院行くんだって」
そう言われて通知をまじまじと見てみたが、確かにそう書いてある。五条ならアルファ一択だろうと思っていたのに、少し気が抜けた。まだ、アルファでない可能性があるのだ。
病院への検査は保護者の同行が必要だったので、この時だけは義母に頼んだ。父親は忙しくてとてもそんな時間は割いて貰えないだろうと思ったからだ。義母は幼くして母を亡くした夏油に同情的で、いろいろ融通をきいてくれる。その懐の大きさはさすが大きな組の姐さんというところだった。
五条は、戸籍上は五条のままである。遠縁を頼って、夏油の家に辿り着いたことになっている。あの晩、結局五条がいないまま、予定通りに夜逃げした五条の両親の行方は、誰も知らない。もうどこかで魚の餌になっているかもしれないし、今も無事逃げ果せているのかもしれない。五条はそれを気にしなかったので、夏油も特に気にすることはなかった。
「再検査というのは……」
義母が医師にそう問いかけるのを、夏油も横に座って静かに聞く。本来、バース検査というのは本人と保護者のみで行われるものだが、そこは義母が金でいうことを聞かせてくれたらしい。自分の番いのことなんだから直接聞きたいだろう、というのだ。ありがたいことだった。義母は、オメガではなくアルファである。アルファの夫と結婚しただけで、他にオメガの番いはいない。
「数値がね、安定しないんですよ。今は数値の安定しないベータというところですが、来年はどうなっているかはわかりません」
「それは、オメガになるということ?」
義母の問いかけに、医師はかなり逡巡してから言葉を紡いだ。
「……その、可能性もあります。坊ちゃんはアルファですね。強いアルファの傍に長くいると、第二性にまで影響を受ける子はいるんです」
たぶん、その説明を悲痛な思いで聞く人間が多いのだろう。けれど、五条と夏油は目を見合わせて、ぴょん、と跳ね上がった。これで一緒にいられる可能性が高くなったのだ。オメガ化の薬は、使わなくていいなら使いたくない。どの国でも未承認の薬だし、副作用もはっきりしていない。そんなものを積極的に五条に使いたいとは思わなかった。
「俺、オメガになりたいな」
「そんなことを言うのは悟くらいだよ」
「だって、そうすれば傑とずっと一緒にいられる。最高じゃん」
その五条に発情期が来たのは、それから三年後のことだった。茹だるように暑い、夏の日のことだった。