【始春】蝶尾揺らめくの恋「ちょっとだけ寄ってもいい?」
仕事帰り、春が指差したのはペットショップだった。今日の夕食は葵が担当だし、少し寄り道したところでそう遅い時間にもならないだろう。
「何か用なのか」
「可愛い可愛いホケキョくんの餌がなくなりそうなので」
ああなるほど、と二つ返事で了承する。ありがとうと笑って店までの僅かな距離、彼は俺の手を握った。
店内に入ると、すぐのところには猫や犬のショーケースが並んでいる。中を覗き込めば、昼寝から起きたのだろうアメショの子猫が欠伸をしているところだった。隣では青いボールを追いかけて、子犬がくるくると駆け回っている。微笑ましい光景ではあるが、なんとなく切ないような気持ちになる。うちの寮で、伸び伸び暮らしているヤマトやコロッケを見ているからかもしれない。
「すぐ買ってきちゃうから、待ってて」
春は手を離すと、さっさと目的物を探しに行ってしまった。ちょっとだけ寄ってもいい、の言葉に偽りなしという感じだが、取り残された俺は、ちょっとだけ寂しい。
どうしたものかと周囲を見渡して、結局ショーケースの前を後にした。子猫のくせに貫禄のある、モフっとしたノルウェージャンフォレストキャットなんかには大層心惹かれたのだが、ひとまずぐるりと店内を見て回ることにする。
俺はペットを飼ったことが無い。今は寮でかなりの種類の動物と、ついでに謎の魔界生物らしい箱とも生活しているが、自身で動植物の世話をするという経験には乏しい。その為、ペットショップにも必然的に縁がなかった。こんな風に見て回っていると楽しくなってきて、おもちゃや餌など、むやみやたらと買っていきたくなってしまう。
あちこち見て歩くうち、今度は違うショーケースに行き当たった。今度その中にいるのは、猫や犬ではない。
「あれ? てっきり猫か犬のとこ見てるかと思ったのに」
買い物を終えたのか、ビニール袋を下げて俺を探しに来た春は、珍しいところにいるねと笑った。まあ、確かにいそうなのはそっちというのもわからなくはないが。
俺が立っていたのは水槽の前だった。ライトの青と水草の緑の中を泳ぐ色とりどり。その中でも一際目を引くのは赤と白の美しいシルエット、――金魚だ。
隣に並んだ春は、綺麗だねと、紅を指で追って無邪気な笑みを零している。もう一歩ガラスに近付き、倣って水槽の中を覗き込んだ。よく見ると、尾鰭が蝶の形をしているものもいて、なんとなく親近感が湧く。隣で揺らめく尾鰭は鳥の羽にも思われて、無意識に春を重ねた。
一言に金魚と言っても、含む種や色形は数え切れない。有名な種ならば和金や琉金、出目金、ランチュウなど。色も様々で、猩々、更紗、素赤にキャリコ、パンダと呼ばれる白黒カラーリングの個体もいるらしい。他にも数え切れない程の種や色が存在しているのだが、……こういうのは詳しそうな奴に話を振ってみよう。
「じゃあ、春さん? ここで金魚にまつわる春ペディアをどうぞ」
「え、ええ? 突然? えーっと、そうだなあ……。ヒブナからの突然変異を金魚のスタートとするなら、この子たちの誕生は今からだいたい千六百年ぐらい前。実際に日本に伝わってきたのは、室町時代って言われてるね。もっとも、当時は高級品で、庶民が飼える代物じゃなかったらしいけど。養殖が広まったのは江戸時代、世間一般に金魚を飼うことが広まっていったのは江戸も中期になってからでした。この子たち、とっても長い歴史の中で、こうして生きてるんだよね……と、こんな感じでいいかな?」
困り顔が見たくて結構な無茶振りをしたつもりだったのに、見事な豆知識を披露してくれた。さすがは雑学王、と感心して頷いていると春は照れて。
「なーんて。水族館でやってた金魚展の受け売りだけど」
俄にタネ明かしをしてみせる。だからといって春がすごくないとは、ちっとも思わないのだが。見聞きしたことを知識として集積する、彼の生き字引っぷりは素直に尊敬する。
と、そんなことを考えているうちに、ふと思い出した。彼の言う水族館でやってた金魚展には覚えがあるような。
「……それ、一緒に見に行ったやつか?」
「そうそう」
金魚の形の照明や金魚鉢ソーダなんか素敵だったよね、と。目を細め、春は遠く夏の日に想いを馳せる。語られる思い出を共有しているはずの俺はといえば、ぴんと来ていない。
確かに、行ったのだ、一緒に。
水族館で、揺らめく幾多数多の金魚を一緒に眺めた。けれど、覚えているのは赤橙に照らされる春の横顔ばかり。パネルでなされていたという説明も、進化の順を追って並べられていたという金魚も忘却の彼方。どうやら自分はあの空間を楽しんでいたわけではなかったようだ。春と一緒にいられる時間を、ただひたすらに堪能していたらしい。どおりで、くるくると変わるその表情ばかりを、よく覚えているわけだ。
「……始、聞いてる?」
機嫌を損ね、僅かに頬を膨らませて春が話しかけてくる……可愛い。その様は一匹の金魚のようだなどと思いながら。
「ああ、悪い。なんだ?」
「……もう。不思議だと思わない、って言ってたんだ」
「何が」
「これだけ長い歴史を持ちながら、皆人に愛されながら、それでも金魚を題材にしている物語って少ないなあって」
言われてみれば、そんな気もしてくる。金魚にまつわる物語……と言われて、これ、というものをすぐには思いつかない。着物や小物、絵画などに、和を代表する意匠として用いられることはあれほど多いのに。確かに、彼の言う通り、不思議かもしれない。
「昔の人も、今の人も。こうして金魚の揺らめく様を見ているとき、そこに言葉は必要ないと思っていたのかもしれないね」
目の前の水槽では、自分達を巡ってそんな会話がなされているなんて知りもせず、ひらひらと長い尾鰭を揺らして紅の華が泳いでいく。
こうして彼らが水と戯れている様を見ていると、時の止まりそうな心地がする。それは金魚の魅力の為せるものでもあるだろうし、隣で同じく黙あって、赤と白のダンスを眺めていてくれる春の為せるものでもあるだろう。
――そう、過ぎた夏も。こんな風にぼんやりと金魚の揺らめきを眺めながら、実際には隣にいる春を盗み見て、春にばかり、想いを馳せていた。
「せっかくだし、飼ってみるか?」
寮に連れ帰れば、部屋でもその様を堪能できるだろうかと、そんなことを思って誘う言葉に、春は笑いながらも首を振り。
「遠慮しとく。これ以上、始に言葉少なになられても困るし?」
告げられる言葉はささやかな俺への苦言。……別に、言葉を惜しんでいるつもりはないんだが。饒舌に愛を囁いたら、それはそれで、照れてらしくないと怒るくせに。
お前が望むんだったらと俺が愛の言葉を口にするより先に。
「それに、ゆらゆら揺らめくこの子たちにまた会いたくなったら、始をデートに誘うよ。ね、いいでしょ?」
細められる瞳、そのあどけない色香。……不意に一つ思い出したのは、こんな風に思わせぶりな赤井の恋人に振り回される老作家の御伽。彼は彼女は恋に溺れ、あはいでこんな気持ちだっただろうか。
まったく、と思いながら、乱暴に春の手を攫う。僅か見開かれる鶯の瞳、それでも握り返してくる左手。
デートに誘ってもらっても、どうせ俺はお前しか見てないんだろうが。それでもいいなら連れ出してくれ。狭い水槽の中だけで、満足できるような性質じゃないだろうから、お互いに。
「――ちょっとだけなら?」
蠱惑的に口の端を上げれば、俺と彼の笑みと共にひらり、水槽の中で紅い尾鰭が美しく閃いた。