一つの付き合い。仕事の付き合いでバーに行かなければならなくなってしまった。
そりゃただの社会人だ。俺だって仕事の付き合いはある。だから、行かないといけねぇかぁ、と頭を抱えながらため息をついた。ここから、20分は歩かないといけない飲み屋。
前髪で隠れた目をこらしてトイレの鏡に映る自分を見つめる。
「ご飯いんないの、メールしとかないとなぁ。」
時刻は7時手前。彼は俺と違って計画性がある男だから、きっともう食材も揃えてしまってるだろう。ほかほかの暖かくてうまい飯が待っているはず、……だったのに食えないストレスに歯を食いしばれば、自分の機嫌は自分で取らなければならない今が実に面倒臭くさくこの時ばかりは感じてしまった。にっ、と無理やりに歯を見せて笑えばそのまま、どうせ秒で酔ってしまうという事を嘲笑しながら、ゆっくりと上司の元へと踵を返した。
ああ、かえりてぇなぁ。
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1杯目を飲みきった時点でもう、案の定だった。ぐらり、とくる頭痛に眉を顰めるもこれも飲みと言えど仕事の場。笑顔でにこやかに言葉を返す。嗚呼、こんなくだんねぇオッサンのくだんねぇ話と汚ぇ笑い声なんかよりあの子のかわいい控えめな笑い声が聞きたい。俺だけのために話してくれる、自己満足でも自慢話でも無い話が聞きたい。頭に浮かぶ眉を下げて頬を赤く染めて笑う顔を思いだしては、変わらずに そうですねー!とそんな言葉らと共に2杯目の酒を流し込む。
早く時間が過ぎる事を願いながら、ぐっと、グラスを掴んでは、無駄に作り笑いだけは上手くなった口角を上げて、社会の歯車らしく、また、聞き役に徹するのだ。
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タダ飯の時間がようやく終わった。最後の一仕上げ!と言わんばかりに、へぇこら、頭を上司に下げながら、へらへらとタクシーに乗る姿を見詰める。オッサンはさっさとドアを閉めりゃいいのに、『独り身で寂しいだろーからまた奢ってやるよ!』だなんて、クソ要らない事を言ってくる。喉まで家で可愛いうさちゃんが待ってるんでいらねぇっすよ、と言う事を言いたくなったが、俺みたいな女っ気ない喪男に突然そんな影ができたと言うと部署がめんどくなりそうだからと、ぐっ、と堪えて息を吸って、『自分、めっちゃ食っちゃって悪いんでいいですよー!』と作り物とは分からないだろう満面の笑顔で言ってのけた。なんか返してくる言葉は聞き流して、ぱたん、と就業の音を奏でる。
ふぅ。
遠のくナンバープレートに、ぞろめって珍しいなぁなんて呑気に思いながら、そのまま少し、ぼう、と眺めていた。早く帰らないとな、と くるり、と向き直れば、ぽふ、と人に触れた感覚があった。
「わ、!すみませ、…?」
「お疲れ様でございます。」
「!?」
家で待ってるはずの彼だった。
「り、りんねさん?!」
家にいる時とは違いスーツを羽織ってイカニモな見た目をした彼が目の前にいた。
ぽかん、と口を開け、前髪の中で瞬きを繰り返せば そっ、と腰を抱き寄せられる。
「ちょま、りんねさんここ、おそと!?!?」
無言でにこにことしたまま俺の腕を掴んで自身の背へとまわさせようとする。無意識に身体が覚えているように彼にこたえるように腕を回す。
「お酒、弱いのにたくさん飲まされたのでしょう?」
少し心配したように眉を下げながら覗きこんでくる。すると空いている手でかちゃり、とメガネをあげながら、彼は言葉を続けた。
「私が表に立てる身ならば、そんな輩に近付け無いようにもできますが……今はお嬢に会社の人には手を出すな、と言われていますので。……せめて、アシガワリになる事くらいはお許しください。」
にこ、と目を伏せて朗らかな笑みを向けられる。
車の走る音が何も耳に入ってこない感覚と、安心感に俺は小さく頷いて、ぽつりと、ありがと、とこたえた。
「くふふっ。夜のお散歩、というのも、悪くないやもと、思っただけですので。それに……私が、早くご一緒に居たかっただけですから。」
じっと見つめられる視線を歪ませると彼は道の先を見つめ歩みを進めた。
耳飾りが車のライトできらり、と光るのがまるで一等星のようで、それなら、きっと瞳も、と彼の色の目にそっと、気が付かれないように視線を向けた。