ダイラー記憶喪失ネタ「お前の名は、ラーハルト」
不安でいっぱいの目が二度瞬きをした。次に唇が、ラー、ハルト、とオウム返しする。
彼が自分の名を呑み込んだことを確認すると、頷いて先を続けた。
「おれはダイ。こっちはクロコダイン」
「……ダイ。クロコダイン」
そうだよ。と平静を装いながらも、この時おれは雷が落ちたような衝撃に見舞われていた。だってそうだろう。どんな時でも頑なに従者の立場を崩さなかったラーハルトが、こんなにあっさりとおれを呼び捨てにしたんだから大事件だ。
「そうだよ、ダイだよ」
「ダイ」
わざとらしくない程度に誘ってみると、また言った。頼りなさそうに眉を下げて、まるで縋るみたいに。
胸いっぱいに込み上げる昂りを押し殺すと、おれはラーハルトに背を向け、クロコダインに耳打ちした。
「どうしよう……」
「うむ。ここでは医者にも見せられんし。かと言って、地上へ引き返そうにも深く潜りすぎている。道中も危険だ」
おれはトベルーラは使えてもルーラが使えない。修得する機会がなかったのだ。バーンと戦っていた頃はポップがいて、おれはトベルーラが使えれば十分だったし、魔界へ来てからも特に必要な場面はなかった。地図もなく、右も左もわからない魔界をただ前に進むしかない状況では。ポップはルーラからの応用でトベルーラを身につけたと言っていたけれど、その逆を独学でやるのは難しい。単に空を飛ぶのと、思い描いた目的地へ一瞬で行くのとでは勝手が違うからだ。おれは苛立ち紛れに地面に拳を打ちつけた。ルーラが出来れば、せめて地上との境界までは行けたのに。
焦るおれをクロコダインが宥めてくれた。
「ダイ、ひとまず今日はここで野営しよう。少し休んで落ち着けば、打開策が浮かぶかもしれん」
「そうだね。ありがとうクロコダイン」
焚き火の傍にラーハルトと並んで腰かけた。
クロコダインは少し離れたところで見張りに立ってくれている。
「二人で話をしてみろ。他愛ないことでも、何か思い出すきっかけになるかもしれんぞ」
そう言って。クロコダインはおれとラーハルトの関係を知っているから。
でも一体何から話したらいいのだろう。急に赤の他人になってしまったみたいな彼に、どう話し掛けたらいいものか。変なプレッシャーを与えてしまうかもしれないから、迂闊なことは口に出来ない。別に初対面で緊張したりはしないタイプだけど、なまじ元々知り合いだけに変な感覚だ。
けれど、ラーハルトも今きっと同じことを考えているのだろう。何も憶えていないから余計に何を話したらいいかわからず不安なはずだ。
おれがしっかりしなくちゃならない。とりあえず、お腹が空いてないかとか無難なことを訊いてみればいいんだ。意を決して口を開いた。
「ねえラーハルト」
「あの」
声が被った。
「な、何?どうぞ話して。おれの方は大したことじゃなかったから」
「あ……すまない。ええと……さっきの話の繰り返しで悪いんだが。ここは魔界で、俺たちは旅の途中、で」
「うん」
ああ、そんな場合じゃないのはわかってるけど、やっぱり新鮮だ。おれに対等の話し方をするラーハルト。
「俺とクロコダインは戦士で、ダイは勇者で。俺は戦闘中に、頭を打ったか何かして記憶をなくした」
「うん」
「…………俺は、弱かったのかな」
「違うよ!ラーハルトは凄く強かった。おれを庇ってくれたんだ。おれが……連戦でエネルギー切れして。隙を突かれてやられそうになった所をお前が守ってくれて。その時に」
「そう……か」
「さっきも言ったけど、そこにある鎧の魔槍がラーハルトの武器だよ。それを持って鎧化って唱えると、変形して鎧になるんだ」
「……へえ」
へえ、だって。何て普通の反応。ラーハルトが記憶を取り戻した時この会話を憶えていたら、不敬の償いをとか言って死んじゃうんじゃないだろうか。
ラーハルトは立ち上がると、恐る恐る魔槍を握った。
「アムド」
呟くと、魔槍の外殻がまるで生き物のように展開した。ヒッと息を詰めて驚くラーハルトの体に、みるみるうちに装着されていく。一瞬で甲冑姿になったラーハルトは、しきりに瞬きしながら自分の体と槍を見つめた。
「凄いな……どうなっているんだこれは」
「魔界の名工って呼ばれてた人が作ったんだよ。おれのこの剣もその人が作ってくれた。ロン・ベルクさん」
「魔界の名工……。ロン・ベルク……。君の剣もこんな風に鎧になるのか?」
君、だって。
「いや、おれのは変形しないけど。その鎧は魔法とか魔物のブレスとかを弾いてくれるんだ。道中それを着てれば少しは安全だから」
「わかった。で、これはどうやったら元に戻るんだろう」
「あー……それは聞いたことなかったな。特に合図とかはないみたいだよ。戻れって思ってみたら?」
ラーハルトは目を閉じた。直後、鎧が体を離れ、元のように槍の外殻を形作った。
「上手くいったね」
「ああ。ありがとう、ダイ」
ふわりと笑ったラーハルトを見て、おれは今度こそどうにかなるかと思った。呼び捨て。ありがとう。笑顔。あのラーハルトが〝主君〟のおれに。
おれがこんなに舞い上がりまくっているとも知らず、ラーハルトは魔槍を置くと、また隣に腰をおろした。小さく巻き上がった風に乗って、ラーハルトの匂いがした。
つい手を伸ばして抱き締めた。
「ダイ?」
「……。ごめんラーハルト。ひとつ大事な話したいんだけど、いいかな」
ラーハルトの顔に緊張がよぎった。それでも頷いてくれた彼の背中を撫でて宥めながら、耳元で囁いた。
「あのね……おれたち、ただの仲間じゃなかったんだよ」
「え?」
「おれとお前。こうやってハグしたり……キスしたりしてたんだ」
「……それは……。つまり……恋人同士ということか?」
「そうだよ。おれはラーハルトが好きなんだ」
「…………俺も、ダイを」
ラーハルトはまだ呑み込みきれていない様子で目を伏せてしまった。それはそうだろう。彼にしてみればおれは初対面の男。いくら何でも早まってしまったと後悔が押し寄せる。
「ごめん急に。ビックリしたよな」
「いや、俺の方こそ。大切なことを憶えていなくてすまない」
「信じてくれるのかい?」
「…………。そうか。嘘の可能性もあったんだな」
「はは。言っとくけど、ホントだからね?」
そう、本当だ。抱き合ったりキスしたり、おれがラーハルトを好きなのも。でもひとつだけ、おれはラーハルトに嘘を教えた。恋人同士だったと。その言葉そのものは後ろめたくて口にはしなかったけど。
記憶をなくす前のラーハルトがまだそれを了承してくれていなかったから。彼の中ではあくまでこれは主君から部下への〝寵愛〟で、対等な恋人同士ではなかったから。
でも本当は彼もおれのことを好いてくれていると解っていたし、いつかその本音を見せてほしいと思っていた。実際少しずつ歩み寄ってくれるようになってきていたし、別に焦るつもりはなかったのに、何もかも忘れてしまった彼を見たらつい魔が差した。つけ込むような真似をした自分に嫌悪感が込み上げる。
「……嘘ではないと思う」
出し抜けにラーハルトが呟いた。
「え?」
「ダイの言ったことだ。こうしていると、ここが落ち着かなくなるから」
自分の胸に手を当ててそんなことを言うものだから。
おれは弾かれたように彼にキスをした。抵抗しない唇を割って、舌を絡める。ん、ん、と苦しげな鼻息が聞こえてくる。角度を変えて何度も。手が背中に縋り付いてきた。遠慮がちな手つきじゃなく、しっかりと抱き締め返されて、こっちまで心拍数が上がる。
唇を離して訊ねた。
「どう?ここ、やっぱり落ち着かない?」
「ああ……。物凄く恥ずかしい」
「でも嫌じゃない」
食い気味の誘導。気が付いたら始めのぎこちなさはもう跡形もなかった。
でもやっぱりいつもと違うのは、彼がまっすぐにおれの言葉を肯定したこと。
「ああ。不思議だ。ついさっき出会ったばかり……、いや、俺自身さっき生まれたばかりのようなものなのに。……この体が憶えているんだな」
彼の両手がおれの頬を包む。瞳が熱っぽい。
体が憶えている。おれへの気持ちを。
いつか聞きたいと思っていた本音を、本人の預かり知らないところで暴いてしまった。我慢出来なかった自分のせいなのに、胸が痛んだ。これはフェアじゃない。
「ダイ」
何も知らずに恋人の顔をして、ラーハルトが微笑んだ。
ごめんな。お前は何も悪くないんだ。