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    湯豆腐

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    湯豆腐

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    流洋があんまりに大好きすぎてとりあえず書き始めたものの進捗です。平成設定。土地勘は無いので、薄目で見てもらえたら嬉しい。
    ぷらいべったーに一度上げたものを少し変更&追加しております。人称間違いなどあれば都度直していきたい所存。

    映画未見の民&原作勉強中。

    雨の日、星の日 夢を見ていた。
     ふかふかで大きな黒い猫が、水戸の顔を覗き込んでぼたぼたと泣いている。そう、黒猫の金色の目玉からは大粒の涙が次から次へと湧いてくるのだ。可哀想で、でも可愛くて、その涙を拭ってやりたいのにどうしてだか腕が動かない。黒猫は水戸をすっぽり覆ってもあまりあるほどに大きい。
    「泣くなよ」
     にゃあ。
     猫は返事をした。そして慰める水戸なんてお構いなしにますます涙をこぼす。
     にゃあ、にゃあ。
     だって、だって。
    「だって、オメーが」

     オレに、なんにも心配させてくれねーんだもん。



    ◇◇



     流川の初恋が始まったのは、高校一年生最後の土曜日の午後だった。前日までの花冷えが嘘のようにうららかに晴れた日だった。練習は午前中で切り上げられたのに、まだもっとバスケがしたいと流川は思った。跳びたい。もっともっと、思い切り走りたい。今日が自分にとって居ても立っても居られないほどのとびきり「良い日」なのだと言う予感がした。
     「良い日」は、今まで生きていた流川の十五年の人生の中に、時折星のように姿を現した。流川は本能と勘でもってそれを二つに分類した。一つ。偽物の「良い日」。浮かされて無理をして怪我をしたりしやすい日。もう一つが本物の、「良い日」。調子が良くて、動けば動いただけ何もかもがうまくいく日。バスケを始めた日。初めて試合でシュートを決めた日。初めてダンクが出来た日…。流川はこの二つの分類を、今まで誤ったことが無い。だから彼は自分の判断に、絶対の自信を持っていた。
    (今日は、ぜってー間違いない方の日)
     春のにおいがする。空の色も、それから芽吹いた街路樹の若芽も、わくわくするほどに鮮やかだった。昼食もそこそこにボールを持って飛び出した。近所のストバスコートを一人で駆けること二時間。一旦家に戻って母親に握ってもらった大きなおにぎりを平らげ、流川は再び表に飛び出した。
    「走ってくる」
     そんな息子の背を母親の笑い混じりの声が追いかける。夕飯までには戻りなさいね。



    (今日はぜってー、良い方の日、だったのに)

     家を出て、去年まで通った中学校の正門前を通り、商店街を通り過ぎ、湘北高校の敷地をグラウンド前で北に折れれば海沿いの国道に出る。進路を東に取ってぐんぐん走った。交通量が増えてくるあたりで砂浜に降りてさらに東を目指す。強い海風はあたたかさと潮のにおいを含み、遥か水平線は薄い青色にかすんで見えた。やっぱり今日は調子が良い。岬も灯台もあっという間に背中側へと置いて来て、いっそ由比ヶ浜を目指すか、と言う気分になる。
    (いや、でも、今何時だ?それともそろそろ…)
     時計を目をやれば走り始めてから小一時間が経っていた。午前中の宮城の言葉をふと思い出す。オーバーワーク禁止。やっぱりこのあたりで引き返そう。スピードをゆるめて足踏みをし…そしてやっと彼は違和感に気づいた。春霞の淡い青色にけぶっていた空は、今は低く垂れた雲に覆われている。まだ日没には猶予があるはずなのに水平線に光は無く、波はぼったりと溶けた鉛のようにうねっていた。
     流川は海を身近に育った子どもだったから、雨が来る前の潮の匂いがわかった。
     案の定、踵を返して十分も走ったところで鼻の頭に雨粒が落ち、瞬く間に本降りとなった。
    (どうする。来たまんまの道を走ってだと、家までもう四十分ぐらい、かかる。七里ヶ浜のとこから中道登って、公園突っ切った方がはえーか)
     砂浜から国道へと上がる。春先の雨は鋭くて冷たい。走って汗をかくほどに温まっていた体があっという間に冷えていく。
    (風邪ひくのとかぜってー、駄目。バスケできねー)
     アスファルトを叩く雨の粒がさっきよりも大きくなった気がして思わず舌打ちをする。歩道橋で反対車線へと渡り、フードをかぶった。
     来た道をひたすら戻る。駅で国道を離れると道はわずかな上りとなった。住宅地の向こう側を透かせた先微かに、雨でけぶった木々が見える。それを目指して彼は走った。
     湘北高校にも程近いその公園は、運動部の走り込みにはうってつけで、だから流川にとってもそこらは勝手知ったる場所だった。想定外だったのは、五つあるうちの公園への出入り口の一つが──流川が通り抜けようと思っていたまさにその一つが、工事のために閉じられていたこと。抜け道が無いか。代わりの入り口が用意されていないか。しばしあたりを見て回ったが結局見つかったのは、一つ先の別の入り口への誘導灯だけだった。どうする。このまま公園のふちをぐるりと大回りしても、おそらく自宅まで距離は三キロと言ったところ。──ただし不案内で雨も降る夕暮れ道を、だ──を走り通すことになる。もう一度国道へ戻り、海沿いを来た通りに走った方が早かった。肩を落として再び住宅地を海に向かって引き返す。日没が迫り、連れて、気温が下がった。雨は弱まる気配も無い。フードで覆い切れなかった長い前髪から垂れた雨水が目に入って不快だった。それは首元まで流れ、彼はぶるりと胴震いした。寒さがじわりと身に迫る。
     遠雷が聞こえた。風が吹きつける。
    (…ついてねー)
     雨は止むどころか雷鳴と競い合うようにその勢いを増していく。たまらず、とうとう流川は道脇の建物の影に駆け込んだ。近くで踏切の音がする。電車が通り過ぎる音が雨音の向こう側に聞こえる。知らず、国道近くまでは引き返しては来れたらしい。
    (母さん心配してるだろーな。)
     ドッ、と、一際大きく風が吹いて、頭上で建物のどこかが大きく軋む音がした。顔を上げれば階段の裏側が見えた。茶色く錆が浮いて、ぽたりぽたりと水滴が落ちて来る。道に面した二階の角部屋、それから一階の一番奥、その二つに明かりがついている。流川が雨宿りに飛び込んだのは、どうやら古めかしいアパートだったらしい。雷が鳴る。雨も風も更に勢いを増す。街灯が灯りはじめた。かろうじて海の方からさしていた残光も厚い雲に遮られ、夕闇が濃くあたりを包み込む。
     流川はずっと、自分の勘を信じていた。オレが良い日だっつったらぜってー良い日。今まで外したことが無い。
     無いのだけれど。
    (あー、今日は初めて、外したの、かも)
     濡れて重くなった上着を一度脱いで、大きく振るった。軒先から首を伸ばして空の様子を伺うも、雨の止む気配、なし。
    (走る、しか、ねーか)
     しゃあねえ。
     頭を守るようにフードを被り直した。そうして走り出そうと足に力を入れた瞬間に、不意に名前を呼ばれたのだ。

    「流川」

     男の声だった。なんとなく聞き覚えがある気がして、振りあおけば二階の窓から誰かが顔を出している。彼はもう一度呼んだ。
    「流川だよな?」
     逆光で顔が見えない。誰だ?目を凝らせば、男はにわかに前髪に手を添えてそれを押し上げる仕草をした。
    「オレだよ。水戸洋平。」
     それから続けて言った。
     そこ寒いだろ。こっち上がれば?


     水戸のことは、もちろん知っている。
     流川の同級生で、「どあほう」こと桜木の取り巻きの一人で、──それから、バスケ部全員の恩人。けれど知っているのはそれきりで全部だった。招かれるまま頼りない外階段を登ってすぐの扉を開けると、リーゼントでも短ランでも無い姿の水戸が、タオルを広げて待ち構えていた。流川の頭からそれを被せ、遠慮なく髪をかき混ぜる。拭かれながら、彼の肩越しに部屋の中全部を見渡せた。狭いキッチンスペースの向こうに六畳ほどの居間。この寒いのに窓は開いていて、窓枠にはアルミの灰皿が置いてある。灰皿のフチではまだ長いタバコが細く煙を上げていた。
    「わー、お前ずぶ濡れじゃん。どうしたの?…え?昼過ぎから走ってたら雨が降ってきた?」
     彼は不意に声を上げて笑った。流川は初めて、こんな近い距離で水戸が笑うところを見た。もしゃもしゃとひどく乱雑に触られているのに寒すぎて腹も立たない。冷えた体に乾いたタオルのあたたかさが気持ちいい。ぼうっとなされるがままにしていた流川は、しかし水戸の言葉に我に返った。
    「頑張ってんなーお前。もう六時だよ?」
    驚いて聞き返す。
    「六時?!」
    「そう。」
    そんなに時間が経っていたなんて。確かに公園あたりでそこそこに迷ってはいたと思ったけれど。
    「やばい。母さん、心配する。夕飯までには帰れって言ってた」
    「ありゃ」
    狭い玄関には洋平の革靴とスニーカーとサンダルが一つずつ並んでいる。それから、壁際に黒い傘が一本。
    「お前家どのあたり?──あー、結構距離あるね。傘貸しても良いけど…。もう暗いし、このあたり入り組んでるからなあ」
    上着脱いで。こっちに貸して。言われるがまま、濡れてまとわりつくパーカーをなんとか脱いで渡した。かわりに乾いたバスタオルが肩を包む。タオルはみるみる水を吸い込んで重くなった。すげー冷えてるね。呟いて、水戸は、首を傾げて思案しているようだった。
    やがて彼は流川を見上げて言った。お前が嫌じゃなければだけど。
    「泊まって行けば?泊まるなら階段下に公衆電話あるから、家に電話してきな」
    流川は思った。これ、あれだ。前に国語の授業で言ってたあれだ。
    地獄に仏。

     結局電話をかけるための小銭も水戸が貸してくれた。母親は、流川を叱りもせずにただ身を案じ、それから言った。良かったね。お友達のお家の方にもよろしくね。借りた傘を差し、とうとう横殴りになった雨の中を水戸の部屋に取って帰した。再び水びたしになった流川に、灯油ストーブに火を入れていた水戸は次々命令を下す。全部脱いで。お前の真横にあるドアが風呂。脱いだ服は洗濯機の中入れな。ウチ、湯船無いからなんとかシャワーだけであったまって。ぬくもるまで絶対に出てくんなよ。はいこれ着替え。
     言われた通り、水戸の部屋にはシャワーブースしか無い。それも半畳にも満たない狭さで、大柄の流川は壁に膝をぶつけ、棚に置かれたシャンプーボトルを肘で倒し、それでも四苦八苦しながらも頭を洗い、体を洗った。熱いくらいの湯を背中から全身に浴びていれば改めて体の芯の方から震えが来る。そうして始めて、自分がどれだけ冷え切っていたのかを知った。シャワーを終えて浴室を出れば、脱衣所の隅で洗濯機が音を立てている。ずぶ濡れの流川の服は、上着から、靴下から、下着に至るまで洗濯槽の中ですっかりあわあわに泡立って回っていた。着替えにと渡されたスウェットの肌触りが飛び切りに気に入って、思わず感嘆の声を漏らした。あったけー。
     すっかり凍えた捨て犬から人間の姿に戻って出て来た流川を、水戸が笑って手招きする。
    「カレー食う?」
     もちろん食う。水戸の声に被せるように流川は返事をした。

     水戸の部屋には、流川家のようにエアコンもファンヒーターも無かったけれど、かわりに小さなこたつと小さな灯油ストーブがあった。水戸は濡れ鼠に濡れていた流川を気遣って、一番温かい場所に座らせ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。白い皿に山盛り盛り付けたカレーをスプーンいっぱいにすくって食べると腹が減りすぎていたせいでぎゅうっと胃が鳴る。昼間に食べたおむすびなんてもうとっくに消化が終わっている。
    「カレーうめー」
    「そう?おかわりあるよ。…おいコラ、サラダも食えよ。わざわざオレがさあ、一枚ずつ葉っぱちぎってトマトも切って…おい、聞いてんの?」
    「おかわりする」
    「だから、野菜食えって」
     そうして鍋の底までさらう勢いで三杯食べて、やっと人心地がついた。腹がくちくなったら今度は眠気が来た。
     こたつを部屋の隅に片付けて、六畳の部屋にギチギチに布団を並べた。今まで嗅いだことなんて無いくせに、消された灯油ストーブのにおいを、なんだか無性に懐かしいと思った。
    「お前明日部活は?」
    「九時からある。」
    「一回家に帰るだろ?道はわかる?」
    「国道に出たらわかる。」
    「中道通った方が近いし車も少ないよ。オレ明日朝からバイトだから学校の前までなら送ってやる」
     ぽつりぽつりと喋るうち、瞼が重くなった。まだ耳元でザアザアと冷たい雨音が弾けるようなのに、体はあたたかく乾いた布団に包まれている。安心する。全身の筋肉から力が抜ける。うとうとしながら流川はやっと母親の言葉を思い出した。"お友達のお家の方にもよろしくね。"
    「水戸、親は?」
    「いないよ」
     眠りの淵で遠くに彼の声を聞く。そっか。居ないのか。夢うつつで、あくびをこぼし、流川はもう、そのあたりからのことはよく覚えていない。
    「夜勤?」
    「ああ、まあ、そうね」
     布団、きもちいい、いいにおいがする。ひなたのにおいだ。流川は早くもこの場所を、自分のねぐらのように気に入ってしまった。
    「おやすみ」
     水戸の声に返事を出来たかどうかは覚えていないけど、一つだけ、流川は強く思った。
     こいつ、いいやつ。
     ほら、良い日になった。
     やっぱオレの勘は、外れなかった。


     目が覚めたのは潮騒が聞こえた気がしたからだ。
    一瞬、自分がどこに居るのか分からなかったが、まばたきを繰り返すうちにやわやわとゆうべの記憶が戻って来る。そうだ、水戸の部屋に泊まったんだ。なんだか余計に布団の中が心地よく思えて思い切り伸びをする。水戸の布団は既に畳まれていた。隣の部屋から食器の触れ合う音がする。卵を割る音。ジュウッと、何かがフライパンに落ちる音。焼けたばかりのパンにおい。いいにおい。あー、腹減った。
    「流川起きたー?起きたんなら窓ちょっと開けといて」
     部屋の中にはカーテンの隙間から差し込んだ朝陽が一筋線を引いている。昨日、水戸が灰皿を置いていた窓枠には、今はもう何も乗っていない。
    「ほら布団畳んで顔洗って来い。メシ食うぞ。朝メシ」
     両手に皿を持ってあらわれた水戸は、日頃見知った通りに髪を整えている。彼は流川を見て、昨日と同じように声をあげて笑う。お前、寝癖すげーよ。
     カーテンを開ければ、空は昨日の雨が嘘のように晴れていた。
     家々の隙間から、朝焼けの海が見えた。



    ◇◇



     水戸は約束通りに流川を高校の側まで送ってくれた。
     たった一晩だったけど、流川の水戸に対する印象は大きく解像度を上げている。
     彼は何だか大人みたいに優しいこと。
     いっつもつるんでる連中と離れて一人でいる彼は、存外静かなんだということ。
     飯がうまかった。寝床があたたかくて気持ち良かった。
    「またお前ン家行きたい。良い?」
     勢い込んで聞けば、水戸は少し目を見開いてからおかしそうに笑う。
    「良いよ。良いけど着替え持って来てね。」
    「なんで。昨日のが良い。あれはダメなの?」
    「だめ。あれ花道のだもん」
     瞬間ムッと胸の下あたりから嫌な感じが込み上げて、正体も分からない初めての感触に流川は戸惑った。
    「お前のかと思った。…どあほう来んの?」
    「オレの服がお前に入るかよ。花道?よく来るよ」
     またいやなものが濃度を増す。
     いや、だってそりゃ、来るに決まってるだろ。こいつらいつだって団子みてーにひっついてるし。センパイたちが前に話してんの聞いた。水戸と桜木は中学からのツレ。大の親友。…なんでオレ、こんなに嫌な気持ちになってんだ?
     とうとうその湧き上がるいやなものは、真夏の入道雲のように膨らんでしまって、流川はもう、自分のコントロールを離れて揺れる心がどうなっているのか分からなかった。
     水戸が手を振って背を向けるのをただ突っ立ってぼうっと見送った。
     そう言えばきちんと礼を言っていないことに思い至ったのは、帰り着いた自宅の玄関を開けた頃だった。あんなに良くしてもらったのに、とひどく落ち込んだ。
     なんでこんなに気持ちが忙しい。
     おい、なんだってんだ?
     オレはいったい何が気に入らねーんだよ。

     まるでジェットコースターに乗ってるように目まぐるしい一日だった。




    ◇◇◆◆




     月が改まって四月が来た。流川は無事に進級し、水戸と同じクラスになった。
     "や"行のクラスメイトは居らず、"み"と"る"で出席番号の近い二人は、班分けや席順でも身近に配置されることが増える。自然接する機会は増え、だから流川は、再びの水戸宅への訪問の約束を苦もなく取り付けることができたのだ。
     息子に仲の良い友達が出来たと流川の母は喜び、二度目の「お泊まり」には焼き菓子の詰め合わせを用意し、お家の方にくれぐれもよろしくねと息子を送り出した。水戸の親は居なかった。流川は、そう言えば家族で住むには水戸の部屋は小さすぎると思った。三度目には流川は今度は上生菓子の詰め合わせを持たされた。一度ご挨拶に伺いたいわと母は言った。やっぱり水戸は一人で、菓子を受け取りながら、あんま気を使わないでって親御さんに伝えてよと苦笑いをした。それから、なんでもないふうに教えてくれた。親とは離れて暮らしているんだ。母さんは旦那さんと一緒に東京に居るよ、と。
     一人暮らしをしているなんて水戸は大人みたいですごいと流川は思った。
     水戸が近くに居ることに、流川はすっかりと馴染んで行った。うたた寝をするかわりに黒板を見つめる彼の後ろ頭をぼうっと眺め、移動教室ではカルガモのように小柄な背を追う。もちろん相変わらず水戸の優先順位の一番上は桜木が独占しているようだったけど、それでも、オレだってすごく水戸と仲良くなっていると流川はくすぐったい気持ちで自負していた。
     季節が初夏を迎える頃には、流川は全くこの日常に懐き、遠慮もせずに水戸のそばに自分の居場所を作ってしまった。バスケ、バスケ、水戸。バスケ、バスケ、睡眠、バスケ、水戸、だ。水戸はそんな流川を、人見知りしない猫みたいだと笑う。グイグイ来るじゃん。流川はやっと不安になって、怖ず怖ずと尋ねる。
    「メーワク?」
     そして、そんなことを聞いた自分に、ひどく流川は驚いた。なにせそんなふうに他人の感情をおもんぱかるのは初めてだったもので。
     迷惑だと言われたら困るな、と流川は思う。だって水戸が迷惑だと言うのなら、もう彼のそばに居ることが出来なくなるのだから。
    「お前も人並みにしおらしいとこあるんだね」
    水戸は流川の不安を笑い飛ばし、それから、人が居るのは好きだから構わないよと言った。夏が近付いていた。
     何でオレはこんなに水戸のそばに居たいんだろう?
     流川はふとした時に自分の心を支配する新しい「何ものか」に目を凝らしたが、それの正体を知ることはできなかった。何故なら「それ」は彼の運命であるバスケットのように明確な形を持ってはいなくて、なんだか小学校の遠足で見た、ふわふわ漂うクラゲのように曖昧な手触りをしていたので。
     流川は水戸と共にする食事を確かに大好きになったけど、それは決して母の手料理のようにバランス良くも、見目良いものでも無かっただろう。風呂は脚を伸ばせる浴槽どころか狭い狭いシャワーブースで、くつろぐもヘッタクレも無かったし、静かな住宅地に建つ自宅と違って、水戸の部屋にはひっきりなしに行き来する江ノ電の音が響いていた。けれど流川は、水戸のそばが良かった。
     何でだろう?
     流川はその後も何度か首を捻ったが、とうとう、きっと水戸がとびきりにいい奴だからオレはあいつと居たいんだ、と雑に結論を出しておしまいにしてしまった。
     訪れを重ね、新しく知ったことがいくつかある。
     水戸は平日には三日、週末にはずっと、アルバイトをしていること。
     物騒な格好をしているクセに、存外穏やかな性質であること。
     玄関扉右側にアロエの鉢植えを置いていて、不用心にもその下にスペアキーを隠していること。
     時々大人みたいな顔をすること。



    ◇◇



     試合と遠征と魔のテスト期間が重なって少し間の空いた五度目の訪問時、流川はついに水戸宅で桜木とエンカウントした。
     その日、水戸はアルバイトで居らず、流川は勝手知ったる他人の家と植木鉢の下から鍵を拝借し、ついでにシャワーも借りた。髪を拭きながら浴室から出たところでドアが勢い良く開く。水戸かと見遣ればそこには似ても似つかない赤い髪の男が立っていた。
    「なんでここに居やがるクソギツネ!ここは、洋平の、家だぞ!」
     目が合うなり吠えられ、反射で言い返す。
    「テメーこそ何で居んだ。オレは、水戸ン家、泊まりに来ただけだ」
     流川の返事に桜木は一瞬面食らったようだった。が、
    「オレだってそうだ!」
     桜木の背越しには夕焼けが輝き、彼の赤い髪をますます赤く燃え立たせていた。互いに一歩も譲らず睨み合っていれば、桜木の後ろから場違いに呑気な声が上がる。
    「いらっしゃい。今日は二人お揃いで?」
    「よーへー!なんでクソギツネがここに居んだ!」
     水戸の帰宅に気付いた桜木が振り向きざま抗議の声を張り上げる。
    「オレは今日、泊まるって水戸と約束してた。テメーこそ何ノコノコ来てやがる」
    「オレはよーへーの家にならいつ来たって良いんだよ!テメーこそ誰の許可取って!」
    「水戸の許可取って、だ。オレがいつ、何しようと、テメーにゃ関係ねーだろうが」
     水戸は、しばし怒鳴り合う背の高い同級生を見上げていたが、やがて笑顔のままで首を傾げた。
    「うるせーな。わめくなら二人とも放り出すぞ」
     頭ひとつほども低いところから凄まれ、二人は続く罵倒をそれぞれの喉の奥に押し込んだ。


    「どあほう、なんだそれ」
     台所に立った水戸に桜木が手渡したビニール袋が気になったから、流川は聞いてみたのだ。
    「どあほう言うなキツネ」
    「テメーこそキツネ言うな」
    「何って、見りゃわかんだろ?米だよ」
     そして、返ってきた答えがこれだった。桜木は眉を吊り上げる。
    「は?何お前、持って来てねえの?…おいよーへー。コイツ甘やかすな」
     それからまた流川に向き直って言う。
    「あのな、自分の食う量考えろよ。空から食うモンが降ってくるわけじゃねぇんだ。よーへーン家の米櫃カラにする気か」
    「…あ」
     指摘されて、初めて気がついた。彼はにわかに恥ずかしくなった。
     そうだ。言われてみればそうだった。
     流川が水戸の部屋に泊まるのは大抵は土曜日の部活終わり。腹を減らした自分に、水戸は腹一杯に夕食を食べさせてくれていて…それから、日曜日の部活前にも朝食を。
    「まあまあ。食うっつったって、高宮ほど量行くわけでもなし…」
    「高宮引き合いに出すな。コイツ初めて来たわけでもねえんだろうが。
     おいキツネ。テメーこれからもここ来んなら、テメェの食う分の米ぐらい持ってこい」
     桜木の肩越しに、気まずく苦笑いした水戸が見える。
    「まあ、花道、オレも悪かったよ。流川お客さんだし、ね?」
     客、と彼は言った。
     水戸のその言葉は、心のどこかに刺さって鋭く痛んだ。けれどやっぱり流川には、自分がどうして、何に傷ついているのかが分からない。自分の内側で生まれては消える、その、「何か」を捉えることが出来ない。黙り込むしかなかった。
     桜木は流川の様子を怪訝そうに見つめ、(彼には珍しく)なにやら言い淀んだようだった。けれど。
    「花道、今日生姜焼きだけど材料足りないから半分鶏まぜるよ。良い?」
    「全然構わん。洋平の作るの、美味くて好きだ。風呂貸してくれ」
     と、そのままシャワーへと行ってしまった。


     桜木はよく喋った。食事の間も、その後も。水戸はその全てに相槌を打って笑う。楽しそうに。嬉しそうに。
     水戸が風呂に入っている間、流川は桜木と、命じられたままに洗濯物を畳んでいた。とうに夕陽は海へ落ちた。白っぽい蛍光灯のあかりの下、二人ともが黙り込み、互いに一言も口を聞かない。が、やがて桜木は、流川の手つきを見兼ねたのか、ああでもないこうでもないと文句をつけ始めた。テメータオルひとつたためねえの?ド下手くそだなキツネ野郎。
    「シワクチャにすんな。…ちげーよ。端と端を、まずは合わせるんだよ」
     じゃあテメーはどうなんだと相手の手元を見れば、(腹立たしいことだが)確かに彼に引き取られた洗濯物は、流川のものと違ってまあまあ見栄えのする形に整っていた。
    「…おいどあほう」
    「なんだキツネ」
    「ここ、よく行くのか?」
    「ああ?」
    「水戸ン家。よく泊まりに行くのか?」
    「あ?…あー、まあ。近えしな」
     なんだか、嫌だ、と流川は思う。この部屋に来るようになって、初めてだった。「今日は楽しくない」なんて感じたのは。そして、そんな自分のことを、なんだか子どもみたいだと恥ずかしく思った。初めて水戸の部屋に泊まった日の翌朝に、胸いっぱいに湧き上がって流川を苦しめた真夏の入道雲が、またもくもくとやって来る。
     寝る段になって、入道雲はとうとう真っ黒く色を変えてしまった。
    「花道もうちょい詰めて」
     何故って、水戸と桜木が、一つの布団に潜り込んだからだ。
    「…テメーら、一緒に寝るのか…?」
    「だって布団足りねえだろ。さすがに畳で寝るのは、まだ勘弁」
     あかりが消されて暗くなった部屋の中で、流川は天井に目を凝らした。時々、下の道を通る車の音がする。踏切と、江ノ電の音も。それから、桜木と水戸の寝息。
     やけに響いて、流川はその日、長いこと寝付かれなかった。



    ◇◇



     流川を苦しめる彼の心に住み着いた「何か」に真っ先に気付いたのは、流川自身ではない。桜木だ。
     眠れない夜を過ごした流川をよそに、無常にも朝はやって来る。午前中から開始される部活に合わせ、肩を並べて高校を目指す。珍しい寝不足に目をしばたかせる流川へ、突然桜木は言った。
    「テメー、よーへーのこと好きなんか?」
    「…は?」
    「あ?そうだろうが。オレが洋平とつるんでんのがムカついたんだろうが。昨日のテメー、まるでガキみてえだった」
     好き?
     突然目の前に降って湧いた二文字に驚き、それから持て余し、怖々と胸の内で転がしてみる。それはなんだかとても上擦っていて、淡い色をしていて、到底自分には不似合いに思えた。
     好き、だとか、流川は知らない。
     知らなかったし、必要ないものだった。自分を時々呼び止めて、声を掛けてくる女たちが口にする言葉だ。好きです。付き合ってください。わけわかんねーと思って、適当に無視をしたり、断ったりしているのに次から次へと降ってくるもの。
     お前は洋平に恋をしているんだと桜木は言う。
     どあほうがまたバカなこと言ってやがると言い返そうとして…流川は自身の内側で、ここ最近自分を苦しめていた「何か」がピョコンと跳ね起きるのを感じた。

    「…マジか?」
    「知らねーよ。…マジなんじゃねえの?」

     マジか。
     困惑して、戸惑って…なのに胸の中では桜木によって名前を与えられた「何か」──もとい恋心が、ぴょんぴょん好き勝手に跳ね回るもので。流川は顔を覆って空を仰いだ。




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    映画未見の民&原作勉強中。
    雨の日、星の日 夢を見ていた。
     ふかふかで大きな黒い猫が、水戸の顔を覗き込んでぼたぼたと泣いている。そう、黒猫の金色の目玉からは大粒の涙が次から次へと湧いてくるのだ。可哀想で、でも可愛くて、その涙を拭ってやりたいのにどうしてだか腕が動かない。黒猫は水戸をすっぽり覆ってもあまりあるほどに大きい。
    「泣くなよ」
     にゃあ。
     猫は返事をした。そして慰める水戸なんてお構いなしにますます涙をこぼす。
     にゃあ、にゃあ。
     だって、だって。
    「だって、オメーが」

     オレに、なんにも心配させてくれねーんだもん。



    ◇◇



     流川の初恋が始まったのは、高校一年生最後の土曜日の午後だった。前日までの花冷えが嘘のようにうららかに晴れた日だった。練習は午前中で切り上げられたのに、まだもっとバスケがしたいと流川は思った。跳びたい。もっともっと、思い切り走りたい。今日が自分にとって居ても立っても居られないほどのとびきり「良い日」なのだと言う予感がした。
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