未成熟ボーダーライン「なぁ斉士ってちゅーしたことある?」
「は?」
帰宅途中、突然爆弾が落とされた。穏やかな春景色、頭の中も桜満開の話題に眼鏡もスクールバッグもずり落ちる。
「なぁどうなんだよ?したことあんの?」
のし掛かってきた桐ケ谷のせいで肩が重い。興味津々、やたら口調も浮ついて距離も近い。
「どうしてそんなこと」
「こないだクラスのヤツが話してたんだよ」
「人に聞く前に自分はどうなんだい?」
「俺?」
中学生にもなれば多少なりとも色気づいてくるものだ。桐ケ谷も例に漏れずクラスメイトの色恋沙汰を耳にしていたらしい。かく言う刑部も周りが勝手にはしゃぐ声を自分の意思とは関係なしに耳にさせられていた。しかし桐ケ谷もそういった話題に興味を持つとは意外だ。
「俺はさぁ……」
珍しく神妙な面持ち。此方を真剣に見つめる眼差しに思わず立ち止まる。
「俺は……あるぜ!」
「………誰と?」
「おふくろと!ほっぺだけどな!」
「はぁ………」
「もちろんガキの頃だけど」
満面の笑みと自信満々の声色。真剣に耳を傾けた自分が馬鹿だった。中一にもなって幼い頃の母親との思い出をお出しされるとは頭が痛い。
「で、お前は?」
「……あるよ」
「マジ!誰と!」
がくがくと肩を揺さぶられ、見開かれたガラス玉が期待と好奇心を浮かばせている。
「さぁ、誰だと思う?」
「うーん……斉士の母ちゃん!」
「ならそういうことにしておこうかな」
「はっ……!おい!ずりぃぞ!」
納得いかない桐ケ谷は声を上げ、先に歩き出した刑部を追いかける。隣を歩く横で抗議しても何食わぬ顔でかわされ桐ケ谷の真っ赤になってしまった頬がどんどんと膨らんでいく。
「別に俺が誰とキスしてようとお前には関係ないだろ」
「……ま、お前が言いたくないならいっか」
いつもの調子で歩き出した背中を揺らぐ金色が見つめていた。
「はぁ……」
穏やかな春の気温が閉じ込められた室内。いつもは心地よい筈なのに今日はやけに体に纏わりついて気持ちが悪い。家の者が干してくれてたであろう寝具はふかふか。ぼふっとダイブしたらお日様の香りが嗅覚を刺激して昼間の、桐ケ谷とのやり取りを思い起こさせた。
小学三年の頃水戸に転校してきてからの付き合い。友愛の「好き」から恋愛対象の「好き」に変わるのは時間の問題で。男同士であることは刑部にとって些細なことに過ぎないと思えるほど桐ケ谷が欲しくてたまらなかった。
「……晃」
何かに縋るようにシーツを手探りに寄せては皺を作る。
『俺が誰かとしてたらお前はどう思うんだ?』
『してみるか……キス?』
深追いされなくてよかった。自分の醜い感情を見せてしまうから。
深追いされたかった。身を焦がす衝動を曝け出してしまいたかった。
駆け巡る衝動は矛盾していて答えを見失う。
「………どうするべき、だったのかな」
ぐるぐる感情が渦巻く。気分が悪い。どうしたら隣に寄り添ってくれる男の気持ちを手に入れられるのだろう。
室内に差す鬱陶しいほどの夕陽にカーテンを粗雑に引っ張る。薄暗くなった室内、けれど今の気分には丁度良い。のろのろベッドに倒れれば他の誰でもない自分の汗の匂い。
『で、お前は?』
『……あるよ』
刑部のルックスだ、ない訳ないと頭の中では理解している。
「斉士の良さは俺が一番分かってんのに……」
ルックスだけで好くその辺の女子なんかより自分の方が刑部の良さを知っている。優等生の顔から想像つかない子供じみたところも自分と同じくらいの悪ガキなところも。
「はぁ………」
出会った頃から早いもので数年が経っていた。隣にいることが当たり前になって、刑部の良き理解者だと思っている。だからこそ自分の知らない刑部がいることに焦燥した。
「好き……なんだよな」
刑部を好きと自覚して戸惑う事はなかった。むしろ喉の奥の骨が取れたかのように自分の心に収まった。幼き頃から刑部が笑ったり怒ったりすると心がくすぐったかったのはそういう事だったんだと。
だから焦ったんだ。キスをしたのは越してくる前の東京でだろうか、それとも水戸に来てから?……かまなんてかけるんじゃなかった。『したことないよ』と言って欲しかった傲慢さと自らはぐらかした臆病に吐き気がする。
「斉士……」
鼻の奥がツンと痛い。きっと汗の匂いのせいだ、そう思い込ませくしゃくしゃの寝具を引き寄せた。
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「おっやっぱり誰もいねぇな」
「荒らされた形跡もないね」
暗がりの河川敷の下、中学生になって以来訪れていなかったこの場所に来たのは刑部が久々に行かないかと誘ってきたから。つい数年、数ヶ月前を昔のことのように懐かしく思えた。
汚さないよう草の生い茂った上に荷物を置き日に日に増す暑さに勝手に流れる額の汗を乱暴に拭う。一足先に地面にへたり込んだ刑部に持ってきた飲み物を渡せば額に押し当て俯いた。
「あっつ………」
ペットボトルの水滴か汗かそのどちらもか滴る物が斑点模様を地面に描く。伏せられた睫毛とだらしなく開いた口に思わず生唾を呑み込む。
「ふっ……そんな急いで飲んだら危ないぞ」
冷静さを欠いた頭を冷やさなければ。手に持ったペットボトルで水を流し込んでいたら、その様子に暑さで険しい顔をしていた刑部からふっと気が抜けた。
普段は背丈の関係でお目にかかれない上目遣い。草っ原をぽんぽんと叩き隣に座るよう催促され惜しみつつも腰を下ろす。
「はぁ……きもちい」
汗で気持ち悪かった衣類も川辺を吹き抜ける風のお陰で幾分もマシになる。ぼんやり眺める視線の先に水面を二羽の鴨が揺らいでいた。
確かあれは番、って言っただろうか。いつの日かもっと幼かった頃に刑部と見た事がある。
『あの二匹ダチなのかな?』
『番だね』
『つがい?』
『ずっと一緒にいるペアってことだよ』
『へぇ、俺らみてぇ!』
『残念だけど友達同士ではないね。番は恋人同士って意味だよ』
過去の刑部の話を思い返し目の前の番を改めて見てみれば確かに恋人同士の仕草であり距離であった。自分達もあんな風になれたらどんなに幸せだろうか。
「どうした?鴨に嫉妬でもしたのかい?」
「っなんでそうなんだよ!」
揶揄ってきた刑部に上手く対処出来ず思った以上に声を張り上げてしまう。しまった、案の定イタズラを成功出来てご満悦の笑顔がすぐ隣で顔を覗き込む。
「晃は好きな子でも出来たのか?」
「へっ、何で?」
「鴨の番に嫉妬してたから」
「だから違うって言ってんだろ」
「それにキス、したがってただろ?」
さっきまでそんな話の流れではなかった筈だ。刑部の不意打ちに手に持っていた楽譜がばらばらと地面に散乱する。
「……キスに興味を持つ、番の鴨をじっと見つめる。だから好きな女子の一人や二人出来たのかと思ってね。お前は余計目立つからな」
「そんなんじゃねーよ。ほんとクラスの奴らが話してたから気になっただけ」
嘘だ。本当はかまかけて勝手に落ち込んでました。鴨の番見て羨ましくなってました。心内で誰に言えるわけでもない謝罪を述べ勝手に意気消沈し河川敷の下に沈黙が訪れる。気がつけば番の鴨達もいなくなっていた。
「……晃」
名を呼ぶ声が沈黙を破る。自分の手に刑部の手が触れた。
「して、みるか?」
緩やかな唇の動きに囚われる。俺と刑部が?
突っ込む事はいくらでも出来た、正常な頭ならそうしていた。
「……すまない、気持ち悪いこと言った」
「待って」
嘲笑し逃げようとする刑部の手首を咄嗟に掴む。バランスを崩した刑部を河川敷の橋のコンクリートに押しつけるように倒れ込んだ。
「いいの?」
「……おかしいと思わないのかい?」
「……わかんね、けどその……斉士とするの嫌じゃないかも。してもいい?」
怯えた声に刑部は頷いてみせた。睫毛が触れ合いそうな距離、本当にどうしてこんな状況になったのだろう。押し当てた胸の鼓動が刑部も緊張してる事を伝え、自分も同じと分かって欲しくて更に身体を密着させた。
「斉士」
こめかみから流れた汗が包み込んだ両の手を伝う。やっぱり現実味がない。蒸し返す暑さと何処かで鳴いてる蝉の声、目の前の光景は真夏の幻影だろうか。
「んっ……」
唇に重なる柔らかな感触。触れるだけの優しいキスは一度だけでは物足りなくてどちらともなく何度も重ね合わせた。
「はっ……」
かしゃり、汗で眼鏡がズレた。整った顔がぐにゃっと歪んでズレたレンズからいつもより色の濃く茹だった金色が顔を覗かせる。自分の顔も刑部と同じくらい歪んで情けない自信があった。上がる息遣いだけが場の空気を揺らしていく。
「……どう、だった?」
「…………あちぃ」
きゅう、と茹で上がった桐ケ谷の背中をぽんぽんとあやし目を弧に細めた。
「んっんぁっ……」
あれからというもの人知れず二人で貪り合うのが日課になってしまった。
「んぅ……ぁき、ら……んっ」
「ふっ、ふっ……斉士、せぇじ」
母親不在の時を狙い自身の部屋へと連れ込む。互いにこんな事は許されないと理解していても止め方が分からない。それどころかどんどんとイケナイコトを刑部に試してみたい欲望が腹の奥底で渦巻いた。
「んくっ、んっんっ……♡」
最近舌を入れる方法を知った。最初は噛みそうで噛まれそうで怖かったけど慣れたらすっごく気持ちいい。カサついた下唇を舐めると薄く口が開く。いいよ、って言ってるみたいで可愛い。差し込んだ口内は熱くて火傷しそう、刑部が暑さに弱いのはこうして体内に熱を燻らせているからだろうか。
「っぁ………♡」
舌と舌とがぷつりと銀糸で繋がり重力に逆らわずに落ちていく。刑部の腰が抜け咄嗟に支えシーツへと一緒に横抱きに倒れる。空気を求めてはくはくと動く口、見開かれた金色の瞳からは雫がぼたぼた溢れ寝具に染み込んでいく。
「っふ……ふっ……ふぅ…♡」
一度たりとも刑部は自分の前で泣いたことはない。だからこうして涙を流す姿を惜しみなく晒されると非現実から現実へと引き戻される感覚が襲った。上手く息が出来なくなって酸欠で全身が酷く冷たくなる。
「もっかい」
「あきら……んっ♡」
けれどそれと同時に優越感が心を満たす。こんな姿知ってるのは自分だけなんだって。刑部が何を考えているか分からない、考えてみた所で自分の都合の良い結果ばかり思い浮かべてしまう。
期待なんてするな、親友の延長線上。もっと気持ちよくなりたい快楽への好奇心。そう言い聞かせ来るべき未来に怯える腕がずっと隣にいる親友の身体を抱き寄せた。
穏やかな春の日のやり取りがずっと忘れられなかった。だからあの茹だるように暑い日俺は賭けに出た。
勝率は不明。勝負に出る前の下調べは入念に。桐ケ谷の行動とクラスメイトに目を配らせ分かった事は桐ケ谷に浮ついた話はないこと、桐ケ谷を好いてる女子はいてもあくまで憧れに止まっていること。
「して、みるか?」
だからあの日俺はかまをかけてみた。今の関係が崩れる事が怖かったのは本当だ。けれど桐ケ谷は優しい、もし拒絶されたとしても笑って過ごせる日々がいつか来ると自分に言い聞かせる。声も手も震えていないか不安だった。
賭けは見事に俺の勝ち。桐ケ谷は優しく実直だけど自分の心に素直な男だ。いくら親友の申し出であっても嫌なら嫌、駄目な事は駄目と真っ向から向き合う。そんな男が普通なら異常と見なす行為を受け入れた。触れた手に跳ねる肩、間近の翡翠色は今まで知らなかった炎を灯す。
「んくっ、んっんっ……♡」
それからというもの桐ケ谷は深い触れ合いに夢中になってくれた。互いに余裕などない筈なのに先に腰が抜けたのは自分だった。桐ケ谷に好き放題される多幸感。初めて自分だけの特権を貰えた子供のように喜んだ。
(あぁ……好きだ……すき………)
親友と恋人の狭間で致す行為の背徳感。少し前の自分からは想像もつかない現実。抱き寄せられ幸せ過ぎて震える身体を愛しい人へと全て委ねた。