思い違い庭に蝶が飛んでいる。それを止まらせるために手を伸ばす。
細い指先にそれが止まろうとしたが、あと少しのところで逃げてしまった。
「…済まない」
どうやら、歩み寄ってきていた夫…鄧艾に反応して蝶は逃げたようだ。
妻である彼女が首を横に振ると、まだ申し訳なさそうにしながら鄧艾は言う。
「これから少し、任務で家を空けることになる、それで、その…」
「大丈夫。頑張ってきて」
鄧艾が言い終える前に短く答えると、彼女はすてすてと何処かに去ってしまった。
「……嫌われて、いるのだろうか…」
渡そうと思っていた玉の腕飾りを懐にしまって、鄧艾は任務の支度をすることにした。
「妻に嫌われている。ですか」
幕舎の中で作戦会議をした後、上司である郭淮に妻の態度が冷たいことを相談した鄧艾。
「司馬懿殿の仲介で縁組をしたので、離婚する訳にも行かず…ですが、妻が自分と居ることを良しとしないのなら……」
やはり、名家の方に自分は釣り合わないと付け加えてため息を深くつく鄧艾。
それに対し、郭淮は優しく肩を叩いた。
「鄧艾殿の気持ちをちゃんと伝えてから、一度話し合ってみてはいかがでしょう」
「郭淮殿………」
流石は愛妻家、的確な助言だ。
その頃。
肉屋にて。
「あ!鄧艾殿のとこの!」
「……王夫人、ご無沙汰してます」
郭淮の妻、王夫人が声をかけてきたので短く挨拶をする。
「何買うの?」
「豚足を、沢山…。鄧艾様の好物だから」
「そ、大好きなのね、鄧艾殿のこと」
「はい」
でも…と、表情を曇らせる。
「もしかして、なんかあった?」
小さく首を縦に振る。
「そうね……あなたって表情出にくいし、なんなら無口だから、鄧艾殿に冷たいって思われてるって、考えてない?」
また首を縦に振って、か細い声で。
「…嫌われて、ないかな……」
すると、王夫人は彼女の肩に手を置いて言った。
「料理に込めて伝えましょ。『貴方が大好き』って」
「王夫人………」
前向きになれたのか、彼女は豚足を二十本程買うと、軽い足取りで家に戻った。
帰ってくると、香ばしい匂いがしているので、それを辿るように調理場に足を運ぶと、妻が小さな体を忙しなく動かしながら夕食を作っていた。
「ただ今帰った」
「……お帰りなさい。夕食、もう少しだから…お風呂、入ってていいよ」
「…わ、分かった……」
変わらない顔と態度に、上手く自分の気持ちを伝えられるか不安になりながら、鄧艾は汗と土埃を流しに向かった。
着替えて食卓に来れば、料理が並べ終わった所であった。
「これは、豚足か…?」
訊いても小さく頷くだけだが、自分の好物を覚えていてくれたことを嬉しく思いながら席について手を合わせてから鍋から一つとる。
空腹を満たすために大きく齧りつき、口いっぱいに薬味の効いた豚足を味わう。
「……美味い」
「良かった」
僅かに口元を綻ばせる妻。もしかしたら、初めて笑顔を見たかもしれないと感じる。
「沢山、あるから、お腹いっぱい食べて…」
「ああ、そうしよう」
自分の気持ちを話すのは食べ終わってからにしようと考え、今は目の前の好物に没頭することにした。
鍋にあった殆どを平らげると、妻は嬉しそうにしながら、食後の茶を淹れる。
「…その、唐突なのだが……。自分は不器用で、地図が好きな変わり者だ」
茶を一口啜ってから、鄧艾は自分の思っていることを口にし始めた。
「名家の貴方に釣り合う男ではないと、重々承知している。……もしも、貴方が自分の事を良く思ってないのなら、自分がこの家を出ていこう」
「………」
妻は無言で椅子から立つと、鄧艾の膝上に乗って抱きついてきた。
「…ごめんね、私がこういう女だからそんな気持ちにさせて。私、口下手だから…でも、覚えていて欲しい、私があなたを大好きなこと」
耳の端を赤くして、言い終えると食器の片付けを始めようとする妻に向けて、鄧艾は返す言葉を口にする。
「(自分の、思い違いであったか)…自分も、貴方を愛している」
懐にしまっていた緑と赤の玉の腕飾りを渡す。
「自分は家を空けることが多い。その間、これを、自分だと思って…」
「…ありがと、鄧艾様」
腕飾りを受け取ると早速左手首に付ける。
「綺麗。大事にするね」
今度は満面の笑みを見せて、妻は後片付けを始めた。
その笑顔の可愛らしさに、鄧艾は暫く惚けていたのだった。