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    hanihoney820

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    hanihoney820

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    そのうち再録本に収録するかもしれない話の早く読んで欲しいだけのサンプル
    ブロックパーティ後時空、アニメ2期とヒプステトラ5前提。ステオリキャラの存在あり色々捏造

    “君はピアニストになるべきだった“0





     埃っぽさとも異なる、古びた紙の匂いが年輪のように積み重なる書斎で、乱数はそれを見つけた。
     年の瀬の頃、年に一度の大掃除だと寂雷と衢が家中の窓という窓を開け放ち、それに伴い押し寄せる冷気から逃げるように辿り着いた二階最奥の部屋。
     意図的に盗み見ようとしたわけではない。けれど開きっぱなしでデスクの上に置かれたそれが、自然と目に入ってしまった。
     びっしりと神経質そうな文字で埋まったそれが手紙であることは、隣に添えられた時代錯誤な封蝋つきの封筒から一目瞭然で。盗み見よう、と思ったわけではないけれど、有益な情報であれば儲け物、と思ったことは否定できない。
     けれど、いくらも読まないうちに目を背けてしまった。それがあまりにも他愛のない内容だったからか、見るに堪えない罵詈雑言だったからか、抱腹絶倒もののラブレターだったからか。今となっては、もう覚えてはいないけれど。 



     “君はピアニストになるべきだった。“



     恐惶謹言代わりのように末尾に穿たれた言葉だけを、今でもたまに思い出す。






    1





    「げ」

     スマートフォンに映る『勘解由小路無花果』のいかめしい文字。
     それに「出なきゃ」と憂鬱に思って、「出なくてもいいんだ」と噛み締めるように呟いて。
     そして結局、少し迷ってから『応答』のボタンを押した。

    『──私だ』

     女性にしては低く威圧感のある声に、相変わらずえらそうなやつだ、と思ったのも束の間。その声はすぐにどこか弱々しく『その、なんだ……今、大丈夫か』とこちらに伺いを立てる低姿勢なものに変わった。かつてなら絶対に乱数に、『道具』になど与えられることのなかったそれに、目まぐるしいまでの世界の移り変わりを感じてしまう。

    「べつに、だいじょーぶだけど……というか、無花果おねーさんたちこそだいじょーぶなわけ?」

     そーりさま、引退するとか聞いたけど。そう呟けば無花果は、『まだ世間には明かしていない、機密事項のはずなんだがな』と、呆れとほんの僅かな賞賛を含んだため息を吐いた。
     「The Block Paty」と名付けられた萬屋山田が発起人となったフェスからしばらく。そして同時に、中王区の一部要人──総理である東方天乙女や行政監察局局長その他以下略である勘解由小路無花果が投獄され、更に解放されてからもしばらく。今となっては中王区と直接的な関わりのない乱数にも、内部のごたごたの噂はそれなりに耳に届いていた。
     そう、もう乱数には関係ない。いっそいい気味だ、とも思う。そのまま失脚してしまえばよかったのに、と嘲笑った夜だってあった。
     けれどこうして面と向かって疲れ果てたような声を出されては、いくら乱数とて労いの言葉のひとつくらいはかけてしまう。

    『そのあたりに関しては現在色々と調整を行なっているところだ。大丈夫……とは言い難いが、ひとまず問題はない』
    「ふ~ん、それはなにより。──んで? そ~んなお忙しいおねーさんが、いったいぜんたい僕になんのご用事かな?」

     かつてなら過剰なまでに高く飾り立てた声を出し、媚びへつらい時にからかいを混ぜてみたりもしたが、もうそんな必要もない。そう考えれば変わったのは世界よりも乱数の方なのかもしれないが、どちらにしろ同じこと。鶏と卵の先後を論じても意味はなく。いくら嫌いな相手でも向こうが先に刃を向けなければ、わざわざこちらから刺しに行くほど好戦的なつもりもない──はずだ。
     そんなことを頭の片隅で考えながら水を向ければ、電話越しにも僅かな安堵を察してしまい調子が狂う。お互いに一枚皮を剥いてしまえば、互いが互いにどうしようもなく『人間』で、今更そのことに気づいて戸惑う。

    『以前、特別刑務所が邪答院仄仄の手で破られた件があっただろう』
    「あ~、うん、フェスのときの」
    『大半はその場で捕らえ、残りも現在ほとんどを収監することができた。だが一部どうしても行方が知れない囚人がいてな』

     そこまで口にして、無花果は言いにくそうに間を置いた。以前は腹が立つことくらいしかわからなかった。それが、今となっては。
     勘解由小路無花果とは、こんなにもわかりやすい女だっただろうか。

    『──その中に、あのD4の連中がいる』
    「D4……」

     谷ヶ崎伊吹、有馬正弦、時空院丞武、阿久根燐童──その四人からなるデスペラード、ならず者集団。
     かつて乱数たちがThe Dirty Dawgと呼ばれるチームを組んでいた頃交戦し、そしてその結末において、彼らは中王区により特別刑務所に再収監された。
     こんなことでもなければ思い出すことすらなかった連中。けれど言われてみれば、確かに彼らが脱獄していることも、そしてそのまま逃げ仰せてしまっているということも、納得がいく。

    『もうとっくに国外逃亡を果たしているかもしれないがな、奴らは貴様らに恨みがある可能性もある。万が一がないとは言い切れない。念の為用心しておけ』
    「まあ確かに。じごーじとくとは言え、あいつらがまた捕まっちゃったの、僕らのせいみたいなもんだもんねぇ。で?」
    『……なんだ?』
    「そいつらを捕まえろってこと? それとも情報収集でも手伝えって? 消しとけってのは勘弁してよ」
    『いや……要件は、それだけだ』
    「それだけ? って──」

     どれだよ、と言いそうになって、直前に無花果が言っていたことを思い出す。「念の為用心しておけ」。

    「……もしかして、ほんとにそれだけ?」
    『なんだ、悪いか』
    「………………え~~~~~~なぁに? 心配してくれたわけ? 無花果おねーさんってばやっさし~!」
    『うるさいその気色の悪い声をやめろ! 暇だったから気が向いただけだ妙な勘違いをするなしばくぞ!』
    「あはは……はいはいわかりました。ちゃあんと用心しますよ~」

     笑って軽口を叩きながら、しかしかつて無花果を茶化していたときとは明らかに異なる質感の言葉たちに、なんだかやけに胸が弾んだ。
     中王区のことを許すことはおそらく一生できないし、無花果のことだって憎い。今だって、本当はその声を聞くだけで竦みそうになる身を、震えそうになる声を隠すだけで必死だ。こんなことを言いながら、どの面下げて、と思う気持ちだって、ないわけではない。
     でもそれとは別に、嬉しい、と思う気持ちもちゃんとある。変わった周囲を。そしてそれをきちんと許容できる、自分自身を。

    『ああそれと、できればこの件を神宮寺寂雷にも伝えておいてくれ』

     しかしそんな弾んでいた気持ちも、続いた一言に呆気なく地に落ちた。熟れたトマトがぐしゃりと地面に叩きつけられたような感触が、胸の中に広がる。半分は条件反射。もう半分は、確かな実感として。

    「……なんで僕が、あいつに伝えてやんなきゃなんないの」

     かつてならこんな命令は珍しくなかった。神宮寺寂雷にあれをしろこれを言えそれをさせろ。中王区の手足として、乱数はいいように使われていた。
     しかし今の乱数は違う。幻太郎と帝統の助力により乱数は中王区から解放されたし、我ながら奴隷根性が染み付いてしまっていることには辟易としたが、今の乱数には彼女たちからの理不尽な命令を拒否できる権利がある。嫌なものを嫌だと言うことだって自由なはずだ。
     かつてチームを組んでいて、裏切り、互いに蛇蝎の如く嫌い合い、そして辛うじて和解し、今となっては気まずい相手。
     そんな人間相手に手軽に伝書鳩代わりにされるのはごめんだと──そんな嫌悪感を込めた言葉だったが、無花果から返ってきたのは純粋に驚いたような声だった。

    『ああ……いや、そうだったな……。貴様らは、もうチームではなかったな。悪かった。この件はこちらで神宮寺寂雷に伝えておく。忘れてくれ』

     その反応でわかった。無花果にとっては今乱数が誰とチームを組んでいるかなどたいした関心事ではない。それと同時に、彼女の中ではそれほどまでに、乱数と寂雷がチームである、という事実が深く根付いている。明日当たり前のように会う人間に要件を伝えることなど、ほんのついででしかないだろうと、そんな認識でいる。
     そうではないのに。そんなわけもないのに!
     誰のせいだと思ってる、という言葉が喉元まで出かかり、けれどぐっと飲み込んだ。
     代わりに乱数は、過剰な反応をしてしまった自分自身を恥じるかのように、努めて明るい声を出す。

    「な~んてね。いいよ、別に。僕から伝えといてやっても」
    『いや、お前の手を煩わせるほどのことでもない。この後にでもこちらで──』
    「い~ってい~って。ちょうど近々会う予定もあるしね」
    『会う予定……神宮寺寂雷とか?』
    「今の文脈で他の誰に会うっていうのさ」

     努めて、なんてことのないように。努めて、ぶっきらぼうに。
     それに対して『そうか』と頷いた無花果の声音がやけにほっとしているように聞こえたなんて、それもおかしな話だ。
     色々と言いたいことや訊きたいことがありそうな気配を滲ませながらも、無花果は『なら頼む』とだけ告げ要件を結んだ。情も愛着も微塵もない相手だけれど、やり取りの回数だけはそれなりに積み上げてしまった。互いに暗黙の了解で、通話の潮時を理解する。
     じゃあね、と通話を切ろうとし、しかしその不文律を、無花果の方から破った。

    『飴村乱数』
    「……なに?」

     けれど結局、しばし逡巡した彼女の口から出たのは『いや、なんでもない』と味も素っ気もない一言。でも無花果が何を言いたかったのか、なんとなくわかるだなんて、さすがに思い上がりが過ぎるだろうか。
     でも、乱数にもその気持ちが、痛いほど身に沁みるのだ。おそらく、彼女よりもずっと。
     言いたくても言えないことがあるし、言いたくなくても言わなくてはいけないことがあるのだと。とても、とてもよくわかる。

     



    2




     忠犬ハチ公の前で人を待つ。お決まりでありきたりな待ち合わせスポット。
     けれど、そんな乱数の元に先に着いたのは待ち人ではなく予期せぬ着信で、画面に映し出された人名も、また少しも予期していないものだった。
     なんだか最近は、珍しい人間から電話がくる。そんなことを数日前の無花果からの着信に想いを馳せつつ考えながら、乱数は『応答』のボタンを押した。

    「はいは~いらむらむのスマホだよ。どうしたのかな、おサブサブ~?」
    『だから、その呼び方やめろって言ってるだろ、飴村乱数』
    「え~? そういうならサブサブも、僕のこともうちょ~っと親しみを込めて呼んでくれてもいいと思うんだけど?」
    『はあ? なんで別に親しくないやつを親しみを込めて呼ばなきゃいけないんだよ』

     相変わらず辛辣だなぁ、とけらけら笑い軽口を叩きながら、けれど内心でサブサブこと山田三郎からの着信に理由を探す。正直に言えば心当たりは全くないし、三郎の言葉を借りるわけではないが実際さして親しいわけでもない。少なくともなんの用事もなく着信を受ける理由がない程度には。
     それとも乱数が忘れてしまっているだけで、何か、あっただろうか。三郎がわざわざ乱数に電話をしてくるような、理由。

    『おい、飴村乱数』
    「なぁに? 山田サブローくん?」
    『………………今日は』
    「うん」
    『………………いい、天気だな』
    「……そうだね?」
    『……………………』
    「えっ待ってなにほんとどうしたの!?」

     さして親しいわけではないが、かといって全くの無関係でもない三郎らしからぬ奇行に、思わず乱数はスマホに向かって大きな声を出してしまう。案の定、向こう側でスマホを耳から遠ざけたらしい三郎の「うるさ」という呟きが聞こえてきた。

    『別に、どうしたわけでもないよ。暇つぶしに電話しちゃ悪いかよ』
    「え~、え~? 悪くはないけどさあ……サブサブ、そんなタイプだっけえ?」

     さして親しいわけでもないが、全く知らぬ中でもなし。そんな乱数の知るところの三郎は意地っ張りで小生意気で、でも一生懸命で頑張り屋で、少しばかり対人関係が苦手な子供だった。世に出てからの年齢はともかく、設定上は彼よりだいぶ大人な乱数から見ると、そんな不安定さがかわいらしくもあり、心配でもあり。そんな子供。少なくとも、こんなふうに無用の大人に気軽に電話ができるようなら、そんな心配を抱く必要がない程度には。
     案の定、乱数の露骨に訝るような声音に、三郎は電話口でぐっと喉を鳴らして黙り込む。あらま、せっかく意を決して電話をしてくれただろう三郎相手に余計なことを言ってしまっただろうか、と慌ててフォローをしようとしたが、口を開いたのは三郎の方が早かった。

    『……そろそろ、なんだろ?』
    「え?」
    『あいつに、見せるの』

     そういえば、そんな話をしたことがあった。
     薄情ながら乱数でさえ忘れていた話を、三郎は覚えていてくれて、しかもそれを案じてこうして電話までしてくれた。前言撤回だ。山田三郎という子供は、乱数が思うよりもずっと大人で、乱数程度の心配には及ばないほど、やっぱりしっかり大人なのだ。
     乱数と三郎の縁が繋がったのは、先日から何かと話題に上がる、あのフェスでのこと。フェスの主催側であった三郎と、総合演出を担当した乱数は最中も何かと関わりがあったが、ここで話題に上がっているのは小規模ながら後日に行われた、打ち上げでの話だ。



    * * *



    「襲われたって聞いたぞ。大丈夫だったのかよ」

     フェスの最中に起きた特別刑務所の集団脱獄事件。その後始末に追われていたせいで、当然ながらフェスの当日に打ち上げをするような余裕はなく。後日イケブクロの萬屋関係で山田家と縁のある居酒屋を貸切にしてもらい、簡単な慰労会が行われた。フェスの参加者協力者には遠方からの人間も多かったため、残念ながらあくまで参加できるメンバーのみ、という小規模なものとはなったが。

     初めはなんとなくディビジョンごとに固まって乾杯をし、けれど一時間も経つ頃には自然に席替えが行われた。世話になった人間に挨拶に行く者、単純に仲のいい人間とつるもうとする者、さりげなく仲の悪い人間を避ける者、これを機にとあまり縁のない人間と関わろうとする者。思惑はそれぞれながら、案外いい塩梅で宴は回る。参加者のひとりである乱数もまた物珍しい、いかにもな大衆居酒屋の雰囲気を楽しみつつ酒とつまみに舌鼓を打っていて。
     ちょうど彼の周りに人が途切れた、そんな時だった。何気なさを装って、けれどほんの少しの気まずさと緊張を携えて、三郎が声をかけてきたのは。

    「ん? ああこれ? へーきへーき。たいしたことないよ」
    「その頭の包帯見てると大したことがないようには見えないんだよ」

     持参のオレンジジュースを手にして乱数の隣に腰を下ろしながら、三郎が自身の頭を小突いて見せる。そして乱数の頭の同じ位置に、ぐるりと念入りに巻かれた包帯があることを、乱数自身よく知っていた。フェス後からいったい何人の人間にその指摘を受けたか、もう数えたくもない。

    「それみんなに言われる。これはあいつがカホゴでカジョーなだけ。ほんとにたいしたことないの」
    「あいつって」
    「あいつはあいつ」
    「神宮寺寂雷か」

     あっさりと合点がいったように頷かれ、無性に苛立った。固有名詞をわざわざ伏せたのは乱数自身だが、そんなに簡単に暴かないでほしい。苛立ちをぶつけるように同時に用意していたカシスオレンジと焼酎のうち焼酎の方を煽り、大きく切り分けただし巻き卵を一口で飲み込む。
     フェスの最中、催しを台無しにしようとした輩の一人、帳残星に刃向かい危うく殺されかけていた乱数を助けたのは確かに寂雷で、その後乱数の傷の手当てをしたのも、確かに寂雷だった。シンジュクディビジョン麻天狼のリーダーで、天才と呼ばれるお医者様。かつては様々あり自他ともに認める犬猿の仲で、けれど今となっては、どうなのだろう。ピンチに助けに来てくれる相手を嫌い、の一言で片付けるのはいかな乱数とて抵抗がある、が。

    「そうそうそうなの。僕が襲われてるとこにサッソーと駆けつけてきてね~サッソーと助けくれたの~。もーなんか正義のヒーローみたいな~? きもいよね」
    「情緒大丈夫かよ」
    「そのくせ助けるだけ助けて手当てするだけ手当てして余計な説教して。そのくせさぁ……」
    「なんだよお前、酔ってるのか?」
    「別に酔ってません~!」

     言葉とは裏腹にぐで、と腕を伸ばし、グラスや皿を避けつつテーブルに突っ伏す。乱数はかなりのザルではあるが、ここ数日はフェスの関係で滞っていた仕事を片付けたり色々と考えることがあったりであまり眠れておらず、酔いが回るのが早い。ぼんやりと霞む頭でなんとはなしに視線を巡らせれば、離れたテーブルに渦中の人を見つけた。
     隣にいるのはヨコハマ・ディビジョンの入間銃兎で、正面にいるのは幻太郎だ。あまり縁のない人間とこれを機に、なんて考える者代表がまさに寂雷で、物珍しい取り合わせに自然と眉根が寄る。するとそんな乱数に気付いたのか、ふ、と寂雷と視線が合ってしまった。慌てて逸らそうとし、けれどそれより先に寂雷は乱数に向けて軽く会釈をし、すぐに二人との歓談に戻っていく。
     視線が合ったのは、時折寂雷の方が乱数を気にかけているからだ。ちらりちらりと伺う視線に、気づかないとでも思っているのなら随分と舐められたものだ。けれど以前だったらずかずかとその無駄に長い手足を振り回しながら脇目も振らずに駆け寄ってきたくせに、今はああして適度に距離を置かれている。

    「……そんなに気になんならこっち来ればいいのにさ。ストーカーみたいできもいぞ~……」
    「なんか言ったか?」
    「なんでもないよっ」

     そんな乱数の一挙一動を怪訝そうに眺めてくる三郎の視線を振り払うように身体を起こし、今度はぐいっとカシスオレンジを一息に飲み干す。強烈な甘酸っぱい味が口内に広がり、アルコールを摂取しながらも酔いが覚めるような心地がした。
     ほらほらサブサブも、もっと食べてもっと飲みなよ。唐揚げのおかわりとかどう? 天ぷらもあるよ! と半ば押し付けるようにメニューを手繰りページを捲る。そんな乱数を鬱陶しそうにあしらいながら二、三追加の注文を済ませた頃、三郎がふと、意を決したように口を開いた。

    「……なあ、飴村乱数」
    「ん? なぁに?」
    「お前、フェスで神宮寺寂雷に助けられたんだろ」
    「え、その話する?」
    「しかも手当てまでされて」
    「まあ、そうだけど……やめようよこの話。せっかくのお酒がまずくなるし~……」
    「……ちゃんとお礼、言えたのかよ」
    「え?」
    「だから! 助けてもらって、治療までしてもらって、それでちゃんとお礼、言えたのかよ!?」

     こちらこそ「酔ってる?」と訊きたくなるような唐突さで声を荒げた三郎は、先ほどの乱数顔負けにオレンジジュースを飲み干し、テーブルにグラスを叩きつけた。
     その勢いに腰が引けている乱数もお構いなしに、いじいじと空のグラスを弄っていた三郎は「どうなんだよ」と畳み掛ける。話題を変えることを許さない強引さと、そして真剣さ。茶化したりからかっているわけではないらしいその問いを混ぜっ返せるほど、乱数も人間をやめていない。

    「言えてない……けど」

     フェスの最中、催しを台無しにしようとした輩の一人、帳残星に刃向かい危うく殺されかけていた乱数を助けたのは確かに寂雷で、その後乱数の傷の手当てをしたのも、確かに寂雷だった。けれど、それだけだ。乱数を助けた後はすぐにまた他の誰かを助けに行き、唐突に戻って来て乱数の治療をした後は、またも他の誰かを治療しに行っていた。それはまさしく風の如く、さながらスーパーヒーローのように。
     それこそ、乱数に一言の礼を告げる暇すら与えない颯爽さで。
     今日だってそうだ。開幕早々乱数に怪我の経過を訊きに来たかと思えば、それっきり近寄ろうともしない。
     わかっている。それは寂雷なりに、乱数のことを想ってのことだろう。未だに寂雷のことを嫌いだと公言しているのは乱数自身だし、実際別に今更近しくなりたいわけでもない。視線がどうのやら北風と太陽がどうのやら、あからさまに気を遣われているのは苛立つが、なんの不都合もないはずだ。

    「フェスのとき、僕も、二郎に助けられて」
    「ん?」
    「機材とか、色々、守らなきゃいけないのに。マイクを使えない僕は非力で、そういう危ないこと、全部二郎にやらせちゃって」
    「あ~……ジローくん、ケンカ強かったもんねぇ」
    「まだ、何も、言えてないままだから」

     下を向いて、グラスを見つめたまま、もごもごと、今にも消え入りそうな声で。
     そんなふうに三郎が語った言葉に、ようやく彼の話の趣旨が見えてきた。周囲を見回せば、少し離れたところでナゴヤ・ディビジョンの波羅夷空却と盛り上がっている三郎の兄、二郎の姿を見つける。人当たりがよく運動神経万能だと聞いていた。ついじっと見つめていれば、あちらも乱数の視線に気づいたらしく少し戸惑ったような顔をした後、小さく会釈をされる。「三郎のこと、頼む」と、そう言われたような気がした。こちらもケンカばかりで困る、なんてよく一郎が愚痴っているが、少なくとも彼は、いい兄なのだろう。

    「……わかってるよ。なにか言わなきゃいけない、っていうのはさ」

     会釈に対し小さく微笑み返すだけに留めれば、下を向いたままの三郎はきっとそんな頭上のやり取りには気づいていない。
     今乱数が二郎と目が合ったのは、おそらく二郎が定期的に三郎のことを気にしているからだ。
     そして先程乱数が寂雷と目が合ったのも。ちらりちらりと伺う視線に気づいているのも。時折乱数の方だって、寂雷を気にかけているからだ。
     気になるなら、乱数が自分から行けばいいのだ。あそこには幸い幻太郎もいる。あの三人の組み合わせがそもそもおもしろい。あそこに乱数が混ざっておかしな理由など、何ひとつないのに。
     言いたくても言えないことがあるし、言いたくなくても言わなくてはいけないことがある。いつか、何か、言わなければいけない。ずっとそう、思っている。

    「でも、ああいうやつらはさ、当たり前みたいにそういうことするじゃん。なにか騒動があったらまるで世界に自分しかいないみたいに矢面に立とうとするし、他の誰かより自分が一番危ないところに行くのが常識だと思ってる。自分の身を顧みず、誰かのためにみたいなのが、なにも特別じゃない。他人よりも自分が損をすることに、これっぽっちも頓着してない」

     乱数が、萎える心を、震える足を奮い立たせて、それでもその場に踏ん張るだけがせいぜいなのに。
     彼らみたいな人種は、そんなものを易々と飛び越える。

    「そんなやつらに『ありがとう』なんて言ってもさ、どうせお気になさらず~君が無事でよかった~なんて笑顔でいなされる。何百回何千回何万回と言われただろうお礼の言葉の中のひとつに埋もれて見えなくなって、こっちの罪悪感とか、惨めさとか、情けなさとか──感謝とか。そういうのが何万分の一も、どうせ伝わらないんだ」

     それでも、そうだとしても言わなくてはいけない。それが人間として当たり前の、道理だ。
     わかっている。わかっているけれど──と。そこまで語ってしまって我に返る。他人に、しかもよりによって自分よりずっと年下の三郎相手に随分長々と持論を語ってしまった。明るく楽しくかわいく、そして適当な乱数ちゃん。そんなイメージで売っているはずの乱数が突然こんなことを言い出せば、三郎からすればドン引きだろう。
     やはり酒の力は恐ろしい。慌てて取り繕うように笑顔を作り「なんてね!」と三郎に向き直る。しかしそんな乱数は、いつの間にか真っ直ぐこちらを向く、非常に真剣な顔の彼に出迎えられた。

    「わかるっ……!!」
    「わ……わかってくれる~!?」

     そうそうそうなんだよ二郎もさあ! あ~っわかるわかるそういうとこあるよね!! そうなんだよほんとあいつはさあ!! 明らかに二人共シラフではない調子で丁々発止、そんなやりとりがしばらく続いた。善人あるある。余計なお世話あるある。お節介あるある! 未だかつて三郎相手にここまで盛り上がったことはないというほど、盛り上がりに盛り上がった。
     ひとしきり盛り上がった後、さすがに話すネタも尽き喉も渇き、ドリンクのオーダーを済ませて呼吸を整え仕切り直す。

    「──なんか、ないのかな」

     酔っている、わけでは、もうない。多少の酩酊感はもちろんあるが、今話している自分が酔った勢いではないことを、乱数も自覚している。むしろ長らく発酵させ、熟成させた言葉、想い。寂雷たちに許されたときからずっと、そこはかとなくあり続けた、誰にも言えなかったもの。店員から渡された冷たい烏龍茶を一息に半分ほど飲み干し、独り言のように呟く。

    「なんか、なに言ってもなにやっても、全部上滑りしてる気がする。感謝しても、謝っても、あいつにまともに届いてる気がしない。あいつからしたら、感謝されようがされまいが、やると決めたことはやるだろうし。謝られようがどうしようが、許すって決めたら、きっと許しちゃう。僕の言動に対して今更あいつがなにか思うことなんて、きっとない。そう思っちゃう」
    「さすがに……そんなことはないんじゃないか? 感謝をされたら嬉しいだろうし、謝罪されれば反省してるんだなと思うだろ」
    「それはまあ、そうなんだけど~……」
    「要は特別がいいんだろ、お前」
    「とっ……そういうわけじゃないけど!?」
    「いいよ別に。わかるよ僕だって、おんなじようなこと、思ったことあるし」

     くぴ、くぴと三郎も届いたばかりのあたたかな緑茶を飲んでいる。意地っ張りで見栄っ張りで強がり、そんな印象があった三郎だけれど、ひとしきり吐き出し憑き物が落ちたせいか、やけに落ち着いてひと回り小さくなったように見える。それはもちろん、いい意味で。山田三郎という人間の、本質に触れられている気がする。
     対局にいるようでいて、乱数と三郎がよく似ていることを、お互いに気付き始めている。

    「あいつは友達も知り合いも多いけど、あいつにとっての弟は僕だけだ。だったら僕があいつに何かを言ったとき、他のやつらと全く同じようにしか扱われなかったら、なんか悔しいだろ。僕にとってのあいつは──まあもちろん一兄がいるし? それより特別ってことはぜんっぜんないけど!? ……でも、唯一無二の兄なんだから」
    「……うん」
    「お前もそうだろ。お前と神宮寺寂雷の間になにがあったのか僕は全然知らないけど、でもお前らは昔チーム組んでて、それで仲違いして、色々あって仲直りしたんだろ。家族とか大親友とか、そういうわけじゃないかもしれないけど、でも他人ってわけじゃない。だったらやっぱり特別に思われたいって思ったって、きっとおかしくない」

     特別に思われたい。それは別に大切に扱われたいとか、逆に嫌われたいとか、そういうわけではなくて。
     ただ、飴村乱数という人間が、神宮寺寂雷という人間に感謝をすることが。謝罪をすることが。厚かましいけれど、傲慢かもしれないけれど──どれほど特別で、どれほどの勇気を奮い立たせて成り立っていることなのか、わかってほしい。
     口先だけではなく、本当の本当に、それはひとつの人生の転換点になるほどのことなのだと──伝えたい。

    「でも、意外だったな」
    「え?」
    「だってお前って、能天気でちゃらんぽらんで適当で、もっと考えなしに生きてると思ってたから」
    「いやいきなりひどくない?」
    「ちょっと見直した」
    「え~……」

     あはは、と三郎らしからぬ、というと失礼かもしれないが、軽やかな笑顔で、彼は続ける。

    「喜ぶようなこと、してやればいいんじゃないか」
    「喜ぶようなこと?」
    「よく言うだろ、言葉より行動で示せって。たぶんお前にとってのそれが今回のフェスとか、そういうことだったのかもしれないけど、あいつらみたいなタイプはそんな遠回しじゃ伝わらない。面と向かって言葉で言ったって伝わらないんだ。じゃあ、もうなんか喜ぶようなことしてやるしかないだろ」
    「……なにさ、あいつが喜ぶようなことって」
    「それは僕よりお前の方が知ってるだろ。元チームメイトなんだから」
    「あいつの喜ぶことって……そりゃ世のため~人のため~みたいな?」

     ボランティア活動でもする? ゴミ拾いとか、募金活動とか? 自嘲気味に笑えば、対照的に三郎は真面目な顔で考えこんだ。意外、なんてこちらのセリフだ。こんなに親身になってくれる子だということを、少しも知らなかった。世の中は広く、まだまだ知らないことがいっぱいだ。

    「なあ、お前、ディビジョンラップバトルで優勝したんだよな」
    「そうだよ? サブちゃんたちを倒してね」
    「王者の貫禄ってものが少しもないよな」
    「ちょいちょい刺してくるよねサブちゃん」
    「だったらさ、勝者の権利ってやつがあるんだろ──」



    * * *



    「うん、そうだよ、今日だよ」
    『今から?』
    「うんそう。タイミングぴったし過ぎない?」

     打ち上げでのやり取りを思い起こしつつ「すごいね~」と笑うが、電話の向こう、三郎の声は真剣なまま。

    『じゃあ、ついでにちゃんと言ってこいよ』
    「え~……うん、まあ……」
    『なんだよその煮え切らない反応。何のためにここまでやったんだよ』
    「わかってるけどさぁ……。でもサブサブだって、どうせまだ言えてないんでしょ? おんなじ家の中にいても言えないくせにさぁ、人にばっかりよく言うよ」
    『う、うるさいな』

     電話越しにも三郎が顔を真っ赤にして唇を尖らせている様子が見えるようで、少しおかしい。一郎が弟たちをかわいいかわいいと豪語しているのを聞いて、とはいえさして年も変わらない男相手になにを、と思っていたが、確かにこれはかわいいだろう。
     あの後、幾度か三郎と定期的に連絡を取り合うことはあったが、『今日』だということは伝えていなかった。せいぜい近々、と仄めかしたくらいだ。それなのにまさかのあまりにドンピシャすぎるタイミング。けれどこれは偶然とか奇跡というより、たとえばランダムながら頻繁に視線を送り合うせいでうっかり目があってしまうような。そういう瞬間によく似ている。

    『とにかくっ! これで借りはチャラだからな!』
    「借り? なんてあったっけ?」

     首を傾げる乱数にう、と言葉に詰まった様子の三郎。しばらくの間、電話越しにぼそぼそとノイズが響く。「電波が悪いのかなぁ?」と更に首を傾げた頃、向こう側の声がようやく意味のある言葉として乱数の耳に届いた。

    『……フェスのときは、お前のおかげで助かった。僕らだけじゃどうなってたかわからない。本当はあの時からずっと、お前のこと見直してたよ。……だから、ありがとう、な』

     気恥ずかしさと、緊張でいっぱいで。うまく素直になれなくて、でも伝えなければという誠実さの間で板挟みになって。
     そんな人間の在り方が羨ましくて、そして今の乱数には、とても愛おしいものに思えるのだ。

    「……サブちゃんも、僕相手にならこんなに素直に言えるのにね~」
    『なっ、馬鹿にして! 僕は、真剣にっ……」
    「こちらこそ、ありがとうね。いいフェスになってよかったよ」

     楽しかったねぇと、鼻歌にのせるように呟けば、一気に鎮火した様子の三郎の「そうだな」という相槌が返る。
     そのままニ、三言葉を交わして、そろそろ時間だから切るね、と伝えれば、三郎も応じた。
     最後、電話を切る直前に告げられた「喜んでくれるといいな」という一言が、あたたかな灯火のように胸に灯っている。

     


     案の定その直後。約束の時間のぴったり十分前に、待ち人は訪れた。先日からずっと渦中の人である、神宮寺寂雷が。

    「お待たせいたしました、飴村くん」
    「別に、待ってなんかないよ」

     正確に言えば、乱数が勝手に待っていただけ、だ。今が約束の時間の十分前。ならば乱数がいったいどれほど前から待っていたかなど、推して知るべき。事務所にいても落ち着かず早々に到着してしまっていたが、三郎のおかげでいい具合に暇も潰れ緊張も和らいだ。三郎からすればあの電話は何気ないものかもしれないが、それが乱数にとってどれほどありがたいものだったか、いつかきちんと伝えたい。
     背を任せていたハチ公像から身を離し、いつも通りの白衣を見に纏う寂雷に向き直る。身長も、髪も、衣服も。存在感というか、どこか威圧感があって、不仲の後遺症もあり条件反射的に噛みつきそうになるのをぐっと堪える。今日の目的は、そんなくだらないことではない。

    「悪かったね、せっかくの休みなのに呼びつけて」
    「いえ。君から声をかけて頂けるのは嬉しいですよ」

     ほらやっぱり、この男はそういうことを容易く言ってのける。あまりに容易く言ってのけるから、本当にそう思っているのか否かが、乱数には少しもわからない。
     本心を探ろうと様子を伺うが、それっきり寂雷もじ、と乱数を見つめたまま黙り込んでしまう。以前の居酒屋と同じだ。今の寂雷は乱数に対して、どうやら『太陽』であろうと心がけているらしい。意味がわからない。
     そしてそれはつまり、寂雷と関わるときは基本乱数の方からリアクションをしなければいけない、ということだ。特に今回、乱数は寂雷に対して日時を指定しただけで、肝心の要件を何も伝えていない。そんな状況でほいほい来る寂雷も寂雷だが、乱数も乱数だ。やりたくないことを後回しにしたツケが、今きている。
     小さくため息を吐きつつ、覚悟を決める。

    「その……用ってのはほんとたいしたことじゃなくて……。期待とか、逆に心配とかさせてたら悪いんだけど……見せたいものが、あって」
    「見せたいもの、ですか?」

     首を傾げる寂雷に、しかし怪しんでいるような様子はない。ただただ純粋に、先が読めず不思議に思っている顔。これでも眼前にかつて己を裏切った人間がいて、しかも意図不明の行動を取っているのだからもう少し警戒してもいいものだが。その手放しの信頼に、逆に心配になる。
     複雑な気持ちを抱きながら頷き、着いてきて、と寂雷を促し歩き出した。

     シブヤ駅を環状線上に北に歩くことたった十五分の位置が、本日乱数が目指すべき場所だった。戦前はこのあたりもシブヤの街に相応しい華やかな都会だったらしいが、戦後にひとしきり更地になり、その後の復興で都市と郊外の境のような様相を呈している。表通りに比べぐっと人通りが少なくなり、静けさと穏やかさに満ちた場所。
     シブヤの中でも異質なその場所を乱数は案外気に入っていて、だからこそ、ここに決めた。

    「ここ」
    「これは……学校、ですか?」
    「元々はね。中も入れるよ、着いてきて」
    「いいんですか? 工事中に見えますが」
    「うん、大丈夫」

     結局、目的地までの十五分間を乱数達は沈黙と共に過ごした。最初こそ寂雷の方から体調や近況についてニ、三質問があったが、いやあれは質問というより問診か。どれに対しても乱数が素っ気なく対応すれば、それ以上喰い下がることはしなかった。だがこれに関しては意図的にそうしたわけではなく、この後のことを考え気もそぞろだっただけなので悪気はない。後から気づいて少し頭を抱えた。
     乱数が先導し、その少し後ろを寂雷がついてくる陣形。そして乱数が足を止めたのは、擬洋風建築、という手法でもって建てられた三階建ての建造物の前だった。
     白を基調とした西洋風の建物で、敷地面積は百五十平方キロメートルほど。そのうち三分の二ほどを建物が占めていて、それ以外の場所に庭と、二棟ほど工事中のため布に覆われた別の建物が存在する。外観は、寂雷の言う通り小洒落た学校、と表現するのが最もしっくりくるだろう。
     周囲はこれまた白いレンガ造りの塀で覆われており、正面は柵で封鎖されている。乱数はポケットからそこの鍵を取り出し寂雷を伴い中に侵入した。寂雷も口にしたように絶賛工事中で、中には業者の人間が大量に出入りしている。そしてそんな人間達は乱数を見て一様に「お疲れ様です」と、予想外の客人を前にした時のように慌てて頭を下げていた。

     中も寂雷が口にした通り、世間一般で言うところの学校によく似ている。各階ごとにたくさんの部屋が林立し、そこは大量の机と椅子で埋め尽くされていた。これだけ見れば、どこからどう見ても学校だろう。しかしその特殊性は、その教室にも似た部屋のおよそ半分ほどに、机と椅子の代わりにベッドやタンスが設えてあるところにある。

    「ここは、寮付きの学校……いえ、もしかして、孤児院ですか?」
    「そ、ピンポーン大正解」

     ひとしきり見回り、初めは訝しげだった寂雷が強く興味を持ち、隅々まで吟味するように眺め終えた頃。彼はようやくそう結論を出し、乱数は花丸をもってそれに応えた。
     かつては学校として機能していたが、諸般の事情によりここ数年使用されていなかったこの建物を買い取り、リノベーションを行い、ゆくゆく孤児院として運営していくことを想定とし建物。それがこの場所の正体だ。

    「ま、まだ開院できるのは当分先だけどね。外観内観だけおおよそ整って、近いうちによければ見に来てくれって言われたから、今日来てみたんだ」
    「来てくれ、というのは? それに先程も、半ば顔パスだったようですが……」
    「ん~……、なんというか、僕がここの……オーナー? 責任者? 担当者? だから、そういう感じで」
    「き、君は孤児院の院長にでもなるのですか……!?」

     お、と思ってしまう。寂雷のこんなにも、素直に仰天したような顔を見るのは随分久しぶりだ。目を白黒させている様子はそこにあるものがただの疑問だとしても、感情がわかりやすくて安心する。
     我ながら単純で悲しくなるほどだが、そんなことで少しばかり気分をよくし、笑いながら手を振った。

    「ちがうちがう。基本的な権限はぜ~んぶ国、中王区サマだよ。僕が口出したのは本当におおよその方針とか、内観外観のこだわりとか、一部業者やスタッフの推薦とか、せいぜいそんなもん」
    「中王区……? しかし君は、もう彼女達とは……」
    「うん。だからそっちじゃなくて……寂雷も覚えがあるはずだよ。ディビジョンバトル優勝者に与えられる、権利のこと」

     乱数の言葉に、ようやく寂雷も合点がいったような顔をした。
     ディビジョンラップバトルの勝利チームには賞金一億円と、中王区が認める範囲内ではあるが、他ディビジョンの支配権が与えられる。この『支配権』の解釈は多岐に渡り、地図を書き換えることから人事を掌握し都合のいい条例・規則・訓令を敷くことまで可能だ。詰まるところ『中王区に睨まれない範囲内ならなんでもしていい権利』、というのが最も端的な説明かもしれない。
     そしてその権利を、第一回ディビジョンバトルの勝者である寂雷は、医療が行き届いていない地方ディビジョンに病院を建設する、という、まるでお手本のような品行方正な使い方をした。本来王者の理不尽な要求で他ディビジョンの連中を煽り、男達の抗争を激化させることが目的だったはずのものを、ここまでお行儀よく利用されるとは当時中王区も思っていなかっただろう。
     そして乱数もまた、彼女達の掌の上で踊ってやるつもりなど、毛頭ないのだ。

    「前回チャンピオン様が随分とご高尚なことに勝者の権利を使ったみたいだからさ、僕もちょ~っとは真面目なことしとかないと世間の皆さまに批判? とかされるかな~って思ってさ。だって腹立つじゃん? 前回王者は立派だったのに、今回のは~みたいなこと言われたらさ。だから、まあ、適当に?」

     フェスの打ち上げのときに、三郎に気持ちを伝えたいのなら寂雷が喜ぶようなことをすればいいと言われた。じゃあ実際、彼が喜ぶこととはなんだろう。そう考えたとき、三郎は「あいつが喜ぶこととは少し違うのかもしれないけど……」と前置きを入れた後、こう言った。

    『僕ら、幼い頃は孤児院育ちだったんだけどさ。そこがもうひどい場所で、院長が不正に手を染めて子供にろくに食事も与えないは非合法な組織に売り飛ばすは、それはそれは最悪なところだったんだ。だから、そうだな、もし神宮寺寂雷の喜ぶことが世のため人のためになるようなことで、もしお前が勝者の権利をそういうことに使いたいと思ってくれるなら──僕は、身寄りのない子供たちが安心して眠れて、お腹いっぱい食事を取れるような、そんな孤児院が欲しいなって、そう思うよ』

     適当なんて大嘘だ。三郎の言葉に、それしかないと思うほど賛同した。恵まれない子供たちのための居場所。そんなもの、あの聖人君子を絵に描いたような男が喜ばないはずもない。
     早速中王区に連絡を取り立地の候補を洗い、三郎にも意見をもらいつつ専門分野ではないながらもできる限りの口出しをした。せいぜいそんなもん、とは言ったが、おおよその検討が立つまではそれこそ寝食も惜しんで土台作りに邁進した。おかげで立派な寝不足だ。厚めに塗った目の下のコンシーラーに気づかれたら少し困る。

    「……んでさ、でも、その、適当だから。僕そもそも孤児院がどういう場所だったらうれしいのか、そういうのよくわかんないし? どれもろくに行ったことないから知らないけど、学校も病院も孤児院もどれも似たようなものでしょ?」
    「それは少し乱暴に過ぎませんか?」
    「いーからいーから。細かいこと気にしな~い! ……んで、だから……どう? おまえから見て、ここは」
    「私から見て、ですか?」
    「ん、そう。なんかもっと、ここ改良した方がいいとか、こういうとこがよくないとか。あったらまだ全然、直せるけど……いや、というかそもそも、孤児院って寂雷からしたら、どう? 今の世界に必要だって、そう思う? それこそ学校とか病院とか、別のもののほうがよければ今からでも──」

     緊張とか不安とか焦りとか、そんなものを隠そうとするせいでどんどん自分が早口になっていくのがわかる。聞いて欲しくて喋っているはずなのに、乱数のどの言葉にも反応して欲しくない。だって今の乱数は知ってしまっている。独りよがりながらも一生懸命考えて、知恵を振り絞って、力を尽くしたこの一連に対して。
     寂雷から否定されるような言葉を頂戴したら、きっと自分は、とても傷つく。

    「素晴らしい試みだと思います」

     え、と我ながら呆けた声が出た。いつの間にか拳を握りしめ俯いていた顔を上げる。その先で寂雷は、そんな乱数を見ることすらなく、この建物を──孤児院を、心底感心したように見回していた。
     心底嬉しそうに、心底愛おしそうに──目を細めている。笑っている。

    「孤児にまつわる数多の問題に関しては、私も早急に手を施さなくてはならないと思っていました。しかし私が支配権を行使できた期間に行えたのはせいぜい医療などの専門に関わることくらいで、心残りがそれはもうたくさんありました。敗北したこと自体は悔しくはあれど己の力不足故、仕方がないと割り切ることができましたがそれだけが忸怩だる思いで……けれどそれを君が引き継いでくれるのなら、これ以上のことはありません」

     そうですね、強いて私から言わせて頂けるとするなら、とその後寂雷はいくつかアドバイスをくれた。それは内装や外装のことだったり、現在想定している収容人数や雇用予定の職員の件だったり。そしてそれ以上に、ここがいい、ここが素晴らしい、などという惜しみのない賞賛も頂戴した。
     そのひとつひとつを忘れないように必死に脳にインプットしながら、それでも乱数はその全てが素通りしていくような、おかしな気持ちを味わっていた。なんだかまるで雲の上を歩いているような心地だ。一気に緊張の糸が緩んで吐きそう。




    「こう言っては失礼かもしれませんが……正直私は、君はもっと無茶苦茶な権利の使い方をするものだとばかり思っていました」

     娯楽施設やいかがわしい建物ばかりを建てたりとか、己に都合の良い決まりばかりを作ったりとか。と、一通り内見を終えた頃、寂雷はそんなふうに切り出した。
     いつもの無神経な、癇に障る物言い。以前までならきっとこの時点で乱数は怒りのボルテージをマックスまで跳ね上げ怒っていただろう。けれど今はあえて否定はしない。寂雷のこの言葉がさしたる意味もない前置きだとわかっているし、何より、その通りだと思うからだ。だって実際、一昔前の乱数だったら、そうしていた。寂雷や、中王区やそれ以外の人間への当てつけのように。そのあまりに都合の良い権利を、濫用していただろう。

    「……ま、僕だって少しはセイチョーするんですよ。人間だからね」
    「ええ、そうですね」

     茶化すようにあえて軽くそう言えば、あまりに簡単に肯定された。調子が狂う。いっそ突っ込むか笑い飛ばしてくれればいいのに、本当にやり辛い。これでは、普通に喜ぶしかできることがない。
     否定されるような言葉を頂戴したら、きっと傷つく。それと同時に、寂雷に肯定されたとしたら、今の乱数は、それなりに嬉しいのだ。

    「んで、要件ってのはまあこんなもんなんだけど……この後どーする?いい時間だし、どっかでご飯でも食べてく?」

     気を取り直すように時間を確認すれば、少し早い昼食程度の時間。こんなふうにぽっと思いついたように口にはしているが、実はすでに予約も取ってある。最近人から聞いたオーガニック野菜が中心の個室レストラン。味がおいしいだけではなくて、栄養バランスや健康にも気を遣っていて、という言葉を聞いたとき、つい寂雷のことを思い出した。
     そこで、もう少し孤児院に関する話をして。あと無花果から頼まれていたD4に関する話もして。それで話の流れで、どうにか上手いことさりげなく、礼の一言でも口にできれば──。

    「すみません、ここのところ少々立て込んでいまして。今日はここでお開きにさせてください」
    「えっ。あ、そーなんだ……た、たいへんだね、忙しくて……」

     しかしそんな乱数の一人相撲は、あっさりと土俵を外れることとなった。ごろごろと観客席にまで転がっていく。
     かなり直前の誘いになってしまったし、寂雷が忙しいのなんていつものことだ。前もって伺いを立てず、一人で勝手に先走った乱数がどう考えても悪い。だから別に、これくらいはどうということもないのだけど。しかし困った。他の何を置いても、D4の件だけは今日のうちに話しておかなければ。

    「じゃ、じゃあ、帰りがてら少しだけ歩かない? ちょっと話しておきたいことがあって……」

     我ながらなんだか不自然な切り出し方になってしまった。けれど寂雷は特に頓着した様子もなく賛同してくれたので乱数たちは孤児院を出て歩き出す。あと数十分も歩けばシンジュク駅に着くので、そちらに向けて歩きながら乱数は口を開く。

    「この前の、特別刑務所が破られた件あったじゃん。あの、フェスのときの」
    「ええ、大変な騒動でしたが、なんとか落ち着いたようでよかったです」
    「それがそーでもないみたい。あのとき逃げ出して今も捕まってないメンツの中に、D4のやつらがいたんだって。覚えてる? D4」
    「ええ、TDD時代に戦った彼らですよね」
    「僕らのこと恨んでて、もしかしたらホーフクしに来るかもしれないから気をつけろってさ」
    「……そうなんですか。いえ、知らせてくださってありがとうございます。君も、くれぐれも気をつけてください」

     話すべきことがたくさんあると思っていたのに、いざ切り出せばこの程度で終わってしまった。別にこの話題で寂雷と大盛り上がりできると思っていたわけではないが、彼は乱数の言葉にどこか神妙な顔で考え込んでしまう。
     だがこれはチャンスでもあった。折よくフェスのときの話になったし、適度に会話も途切れた。お礼を言うとしたら今だ。今言わなくては。そう思いながら、すでに包帯の取れた頭部に触れる。

    「君は、本当に変わりましたね」

     しかし先に口を開いたのは乱数ではなく、寂雷だった。

    「先程の孤児院のことはもちろん、今私にそういった情報をわざわざ教えてくださったことも、それに、この前のフェスの件もそうです。あのとき君は、マイクを使用できないにも関わらず、己より大柄な男性相手に一歩も怯まずに立ち向かった」
    「いや、別に、なにもできなかったし。そんなたいしたことしたわけじゃ」
    「君も言ったように、反省し、成長し、変化する。それは人間の、とても素晴らしい特性だと思います。君のそんな姿を見ることができるのが、私は、素直に嬉しい」

     ですが、と寂雷は続ける。

    「私にはそれが、いいことばかりだとは思えない」

     続けて言葉を発しようとしたのは寂雷だったか、それとも乱数だったか。最初の一音が鳴る前に、着信音が響いた。デフォルトの音から変更していない味も素っ気もないその音は、乱数のものではなかった。
     いいよ、出なよ、と促せば、寂雷はそれでは失礼して、と電話に出る。聞こえてきた声音からするに、仕事がらみのようだ。忙しいというのは本当のよう。そんなこと、疑うべくもないが。

    「……いいこととは思えないって、なにそれ」

     こんなに、こんなに一生懸命やったのに。
     そんな呟きが漏れ、慌てて口を塞いだ。そもそも乱数は、寂雷に許されただけで奇跡のようなものなのだ。今日だって理由も聞かずにここまで来てくれて、その上求めるままにアドバイスまでくれた。どう考えたって、十分すぎるほどだろう。
     それが、いつものようにほんの少しお説教をされただけで、誰のためだと思ってる、なんて。
     押し付けがまし過ぎて、我ながら笑える。

     お待たせしました、と通話を終えた寂雷を、顔の下半分から意図的に力を抜いて迎えれば、それが奇妙な半笑いになっていたらしい。どうかしましたか、と訝しむ寂雷は、すでに先程己が言ったことなど忘れているようだった。言葉の真意を問い質したいような、わざわざ触れたくないような。
     結局、君子危に近寄らずが勝ち、乱数は「なんでもないよ」と今度こそ笑顔を浮かべて歩き出した。これでまともにお説教などされたら、たとえば、乱数の浅はかな魂胆を指摘されでもしたら──きっと羞恥ときまりの悪さのあまり、彼と大喧嘩をしてしまう。仮にも礼を言おうと心がまえをしていた日に、そんなことはしたくない。
     シンジュク駅までが、なんだか妙に遠くに感じられた。




    3




     切り替えよう。うん切り替えよう。切り替えよう。
     寂雷の物言いが乱数の癇に障るのは元からだし、癇に障るだけで、乱数に怒る権利がないことも元からだ。寂雷が喜ぶかもしれないので支配権を孤児院の建設に使おう、と思ったことが乱数の勝手なら、今日こそ礼を、と思ったのも、食事でもと思ったのも、全部全部乱数の勝手。独りよがり!
     わかってる。わかってはいる。わかっているけど、ままならない。

     そんな雑念を振り払うように、行きとは打って変わって帰りはよく喋った。他愛のない、くだらないことでも話していなければ、余計なことを口走ってしまいそうで嫌になる。そういえば以前の打ち上げのとき、珍しく三郎くんと盛り上がっていましたね。どんな話をしていたんですか? と訊かれ、答えられるはずもなくはぐらかした。お返しとでもいうように寂雷こそ、幻太郎とウサちゃん……ジュートさんとなに話してたの? と訊けば、何故だかこちらもはぐらかされる。本当に何の話をしていたのだろう。おかしな意地を張らず幻太郎を問い詰めておけばよかった。
     そのとき、どこからかピアノの音が聞こえてきた。初めはどこかの店が流している音かと気にも留めていなかったが、それにしてはどこかおかしい。辿々しかったり、突っかかったり、突然消えてしまったり。かと思えば全く異なる曲が始まったり。
     そして音の正体は、すぐにわかった。

    「あ」
    「おや」
    「ピアノだ」
    「ストリートピアノ、というやつですね」

     シンジュク駅のとある出口付近の壁際に、一台のピアノが置かれていた。そこに子供たちが数人群がり、楽しそうに弾いているというか、戯れている。習い事でもしているのか全く弾けないわけではないらしいが、気恥ずかしいのかただ単に弾けないのか、少し触ってはやめ、少し触ってはやめを繰り返しては、楽しそうにくすくすと笑い合っている。
     この場所に存在していることは初めて知ったが、シブヤの商業施設に置かれているし、動画サイトなどで演奏動画を見たこともある。プロ顔負けの実力の人間が道端で突然名演を繰り広げて、驚愕する大衆。ラップ以外の音楽にあまり詳しくはないが、そんな光景を見るのは楽しかった。サプライズっておもしろい。

    「そういえばあの孤児院、元々はミッション系の学校で礼拝堂もあるんだけど、明日あたりには礼拝堂にピアノも搬入する予定だったんだよね。結構立派なグランドピアノ」
    「では、あそこでもこんな光景が見られるかもしれませんね」
    「あはは、楽しそうで賑やかでいいかもね。でもな~夜中勝手に鳴り出したりしたらイヤかも」
    「まさか、そんな」
    「あるんだよ! 今だってなんか夜中に人影が~とか、あったはずものが別の場所に~とかちょいちょいあるらしいし……廃校になった原因もなんか不穏な噂がある~とかなんとか……」
    「どこにもあるんですね、そういう七不思議、みたいなものは」
    「ほんっと勘弁してほしいよね……」
    「ふふ、君も弾いてみては?」
    「ジョーダン、楽器とかできないよ、僕」

     そんな軽口を叩きながら、どちらが言い出したわけでもなくしばらくその場に留まる。子供たちはしばらくしたら去っていき、次に女子高生らしき少女がふたり、押し付け合うようにしながら片方が座る。嫌そうにしていた割に弾き始めた有名な映画音楽はなかなか上手だった。その後はきっちりしたサラリーマンらしき男性がふらりと来て座り、あまり耳馴染みのないクラシック音楽を一曲だけ弾いて去っていく。上手い下手というより慣れた、といった様子で、出退勤のときにでも毎回弾いているのかもしれない。
     ランチに行く主婦、昼間から呑んでいるらしいおじさん、また子供。入れ替わり立ち替わり現れる人たち、それぞれの物語を想像しながらピンキリの演奏に耳を傾けるのは、驚くほど飽きない。

    「……寂雷こそ、弾いてくれば? 得意なんでしょ、ピアノ」

     なんとなくそんな提案をしたのは、あそこに座る寂雷の姿に、なんの違和感もなかったからだ。椅子に座ってなお地面につきそうなほどの長髪を揺らしながら、あの長い指先で音楽を奏でる姿。しかし寂雷は、乱数の言葉に不思議そうな顔をする。

    「得意……そんな話を、したことがありましたっけ」
    「あれ、なかったっけ。弾けない?」
    「いえ、そういうわけではありませんが」

     やっぱり、と思いながら、乱数も内心小首を傾げる。そういえば、なんでそんな印象を持っていたのだろう。神宮寺寂雷は、ピアノを弾ける。勝手にそう思い込んでたが、寂雷自身からピアノにまつわる話を聞いた記憶はない。中王区からの資料にでも、書いてあっただろうか。

    「自慢ではありませんが、中学くらいまでは全国コンクールで優勝したこともあるんですよ」
    「いやそれは自慢しろよ」

     乱数に音楽界隈のことはよくわからないが、それは途方もなくすごいことなんじゃないだろうか。全国って。少なくとも、昨日大きな魚を釣ったんですよ、程度のノリで話すことじゃない。もしかしたらそれは、プロになっていてもおかしくないくらい。
     いえいえ本当にそんなたいしたことはないんですよ、趣味程度で、と謙遜する寂雷になんだか無性に腹が立って、乱数は人が途切れたタイミングでピアノに向かって寂雷の背中を押す。ぐいぐいぐいぐいぐい、ぐいぐいぐい。
     困ったような顔をしていた寂雷だが、ピアノの前まで来てしまえば、諦めたように腰を下ろした。あまり自信はないのですが、と言いながら手を軽く握ったり開いたりを繰り返す。

    「では、どんな曲がいいですか?」

     このとき、一番好きな曲とか、一番得意な曲とか、そんなふうにリクエストをすればよかったのだ。でも直前に、コンクールなんてインパクトのある話を聞いてしまったから。

    「じゃあ、そのコンクールで優勝したときの曲」

     もう何十年も前の曲だろうに、寂雷は事もなげにわかりました、と頷くと鍵盤に指を添えた。感触を確かめるようにぽん、ぽん、ぽーんと幾度か音を鳴らし、響きを楽しむように目を細める。そしてすう、と小さく息を吐くと、演奏を始めた。
     そのとき聞いた曲のことを、乱数はおそらく、生涯忘れることはできない。穏やかな昼下がり、人通りの多い通り。そんな場所に到底不似合いな、どこか不穏で高速のアルペジオ。そんな不穏を切り裂く雷のように鳴り響くオクターブの和音。この段階ですでに、油断していた人々がびくり、びくりと肩を揺らしながら足を止め始めた。
     そのまま高速のトリル、不穏を撒き散らすような指遣いが続く。雷は鳴らないものの、激しい雷雨の中でもみくちゃにされているような、脳みそを箸で掻き回されているような。でもその中で、突然現れたバレリーナが軽やかに踊っている。そんな感覚になるような音だった。そして更にテンポは増していき、バレリーナですら足をもつれさせて無様に転ぶ。にも関わらず踊り続けることを強いられるような、まるで童話の『赤い靴』。
     更に畳み掛けるような繊細なアーティキュレーション。押し寄せるようにとめどなく、突き刺すような強弱。しかしこれまでよりはどこか明るい曲調に僅かに呼吸が緩みかけ、その隙をつくように再び雷鳴が鳴り響く。

     後から聞いた話だが、このとき寂雷が弾いた曲は、ベートーヴェン、ピアノソナタ第十四番。世間には『月光』の第三楽章の名で知られている曲らしい。超絶技巧、などと言われることもある曲は確かに難易度が高く見えて、それ以上に、ただひたすら、恐ろしかった。
     そもそもこの曲の正式なタイトルは『チェンバロまたはピアノのための幻想曲風ソナタ』という味も素っ気もないものだったそうだ。『月光』の名が付いたのはレルシュタープという詩人がこの曲の第一楽章をして、「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と表現したからだという。後世には「ベートーヴェンが月光の夜に聴いた盲目の少女のピアノから着想を得た曲」などというお伽話も伝わっているらしいが、全部デマだ。ベートーヴェン自身が何を思ってこれらの曲を書いたのか、誰にもわからない。
     ただ乱数は、寂雷の奏でる第三楽章を聴いて、嵐を思い起こした。ちっぽけな人間の存在など簡単に踏み潰してしまう、恐ろしい嵐。

     そして同時に思い出した。寂雷がピアノを弾けることを乱数が知っていた理由。昔、寂雷の家の書斎で手紙を読んだのだ。
     意図的に盗み見ようとしたわけではない。けれど開きっぱなしでデスクの上に置かれたそれが、自然と目に入ってしまった。
     びっしりと神経質そうな文字で埋まったそれが手紙であることは、隣に添えられた時代錯誤な封蝋つきの封筒から一目瞭然で。盗み見よう、と思ったわけではないけれど、有益な情報であれば儲け物、と思ったことは否定できない。
     けれど、いくらも読まないうちに目を背けてしまった。それがあまりにも他愛のない内容だったからか、見るに堪えない罵詈雑言だったからか、抱腹絶倒もののラブレターだったからか。今となっては、もう覚えてはいないけれど。 

     “君はピアニストになるべきだった。“

     恐惶謹言代わりのように末尾に穿たれた言葉を、今、また思い出した。

     演奏が終わる頃、周囲には驚くほどの人が集まっていて、けれど信じられないほど一帯は静まり返っていた。ピアノを中心に半径二メートル程度誰も近寄らず、にも関わらず去りもしない。拍手すら起こらない。百人近い人間がこの通りすがりの演奏会に足を止めたのに、罵声も歓声も、何ひとつ言葉にできない。
     ただひとり寂雷だけが周囲の異様に気づかないようで、傍の乱数に「久しぶりだったので、かなり鈍りましたね」と照れたような笑みを浮かべていた。つい先程まで己を中心に嵐を巻き起こしていた人間とは思えない。場違いにも程がある。
     そのとき、不意に聴衆の中から大きな泣き声が聞こえてきた。見れば女性の抱いた赤子が、火でも付いたように盛大に泣き喚いている。そしてその音を合図にしたかのようにそれ以外の人間も足早に歩き出した。まるでその場から逃げ出すように。
     そのあとは恐れを知らず近づいてきた子供にリクエストされた曲を弾いたり、連弾したりと、ままごと遊びのような演奏が続く。寂雷自身もとても楽しそうで、先程の演奏中のような恐ろしさは微塵もない。けれど未だ周囲に離れがたいように留まり続ける人々が忘れることができないのは、流行りのポップスでも懐かしのアニメソングでもなく、一番最初に弾かれたあの嵐のような曲だろう。
     けれどそれを「もう一度聞きたい」と口にすることは誰にもできなかったし、それは乱数も同様だった。




    4




    「……んで、結局ほんとに帰っちゃうしさ~……」

     とぼとぼと、シブヤ駅までの道を蜻蛉返りしながら乱数はため息を吐く。
     結局あの後しばらくピアノと戯れた寂雷は「ひとり十分程度がマナーですから」と子供たちと、そしてひっそりと立ち去り難くその場を見守っていた聴衆たちに惜しまれながら舞台を降りた。そして乱数に向き直るや否や「それでは、私はここで」とそそくさと去って行ったのだった。
     確かに「ちょうどシンジュク駅の方で用事がある」と言ったのは乱数だったが、こんなことならもう何がなんでも家まで送るとか言って付き纏ってやればよかった。いやそれはないだろう過保護な彼氏か。めちゃくちゃなことを考えながら自らの吐いた嘘に首を絞められる。本当に最近の乱数は、何をやってもうまくいかない──寂雷に関してだけ、ではあるが。

    「でもごはんくらいよくない? どうせ帰ったって食べるんでしょ? いっつも人にはちゃんと食べろちゃんと食べろって言ってんだからさ~……ファーストフードとかならすぐ食べ終わるし……ってそれじゃダメなのか……。いやでもじゃなくてもお茶の一杯くらい……あれ、もしかしてフェスのお礼に一杯くらい奢るって言えば一番スムーズだったんじゃ……?」

     ぶつぶつと独り言を呟き、わ~! と頭を抱える。
     本当に嫌になる。やっぱり寂雷なんて嫌いだ。だって寂雷と一緒にいるときの乱数が、乱数は世界で一番嫌いなのだから。
     結局、お礼を言いそびれてしまった。遠からず今日の結果を求めてくるだろう三郎になんて言おう。きっと彼は「喜んでもらえたか?」と訊いてくる。
     全く喜んでもらえなかった、わけではないと思う。でもその質問に、乱数はあまり答えたくない。

    「……それにしても、すごかったな」

     ふと先程の演奏の光景と、そしてかつて見た手紙のことを思い出す。内容のことはあまり覚えていないが、けれどその手紙の主が寂雷のピアノの腕を絶賛していた理由はよくわかった。中学時代以降は趣味程度にしか触れていない、なんて嘘だろう。乱数はクラシックピアノ業界なんてろくにわからないが、あんな演奏をできる人間がごろごろしているような世界だとは到底思えない。あれはきっと、ピアノだけで食べていける人間の腕前だ。

    「ほーんと、なんでピアニストにならなかったんだろ、あいつ……」

     嫌味半分、心底からの感嘆半分でそんなことを呟きながら歩いていると、どん、と背後から誰かにぶつかられた。反射的に謝ってしまい、しかし多少ぼんやりしていたとはいえ普通に歩いていただけの乱数に非がないことに遅れて気づく。しかもぶつかってきた相手は、ぶつかって乱数の背中に張り付いたまま何故か離れようとせず。

    「ちょっと君さあ、そっちこそぶつかっといて──」
    「動かないでください」

     ぐり、と、背中に、背骨に何かが押しつけられる、嫌な感覚。肉と骨が擦れて痛い。
     聞き覚えのある声に、一気に血の気が下がった。ずっと雲の上を歩いていたのに、いきなり地の底に叩きつけられた気分だ。やば、と呟きそうになるのを抑えて一呼吸。乱数は努めて、振り返らないまま笑顔を作り、馬鹿みたいに明るい声を出してみせる。

    「──やっほ〜! お久しぶり、センパイ。ケームショのごはんはまずかった〜?」
    「おかげさまで、案外悪くなかったですよ。最近の刑務所はそれなりに人道的で、快適で」
    「それはそれはなによりで。ならその快適な生活に免じて、ここは見逃してくれないかな〜? なんて」
    「命乞いですか? 案外みっともない真似しますね。それにこうなることは予想できたはずなのに、随分と無警戒で。それとも、君からしてみれば僕らなんて、警戒にも値しませんかね」

     ごり、と、背中に当てられた何かがまた背骨を抉るように動かされる。結構シャレにならなく痛い、が、痛いだけで済めばマシだろう。突き付けられているのはナイフか、拳銃か、それとももっと物騒なものか。想像するのも嫌になる。
     阿久根燐童。聞き覚えのある声は、おそらく彼のものだろう。D4のメンバーのひとりであり、『飴村乱数』以前に中王区の汚れ仕事を一手に引き受けていた男。だからこそ乱数は皮肉を込めて彼のことを先輩と呼ぶし、今となっては元先輩、か。
     どうする。フェス後マイクは再び使えるようになった。今の乱数だって、しっかり懐に忍ばせている。しかし今まさに背後を取られているこの状況では、マイクを起動するまでの間に致命傷を喰らってもおかしくない。
     本当に、安易な真似をした。人にはあれこれ言いながら、現実にこんな状況になることを、少しも想定せず浮かれていた。

    「──ま、冗談ですよ」

     と、流れる冷や汗を握りしめながら打開策を見つけようとする乱数が拍子抜けするほどの気軽さで、背後の男は乱数から身体を離した。慌てて飛び退くように距離を取れば、案の定そこには阿久根燐童の姿がある。中王区の趣味なのか、男にしては低い身長にとっくに成人をしている割には高い声。愛らしい造形の顔に、慇懃無礼さすら感じる恭しい所作。
     彼は「改めまして、お久しぶりです。そちらこそ元気にしていましたか?」と手にしていたスマホをひらひらと振ってみせた。それ以外に何も持っていないところを見るに、「冗談」というのは本当に冗談ではないらしい。どっと、身体から力が抜ける。

    「笑えないジョーダンやめてくれないかなぁセンパイ? コーハイいじめは今時ハヤらないよ?」
    「あいにく古い人間なもので、次があったら参考にするとしましょう。君も変わりないようで何よりですよ。その先輩を敬わない態度とか減らず口とか、特にね」
    「……それで? ただ出所のあいさつに来た、ってわけじゃないんでしょ? てっきり僕らへのお礼参りかと思ったけど、それこそさっきそのままヤっちゃえばよかったもんね。そうしないってことは、なにかそれ以外に目的があるのかな?」
    「あはは、君も相変わらずの演技上手ですね。そんなこと、本当はわかりきっているんでしょう?」

     いまいち噛み合わない会話に、乱数は首を傾げる。わかりきっているんでしょう? って、こっちは本当に何もわかっていない。年単位で久しぶりの相手のことを全てお見通しだとでも思っているなら、燐童は乱数のことを買い被りすぎだ。
     しかし眉を潜める乱数のことを、燐童は燐童で不思議そうに見ている。何をそんなに不思議そうにしているのかわからない、そんな顔だ。

    「君に、時空院さんのことを訊きに来たんですよ。つい先程まで神宮寺寂雷といたんですし、全く知らないわけではないでしょう?」
    「時空院……時空院丞武のこと? なんで僕に」
    「なんでって……別にいいですよ今更しらばっくれなくて。時空院さんが現在神宮寺寂雷に匿われていることくらいは、僕も掴んでいますから」
    「……え?」
    「だから、今時空院さんは神宮寺寂雷と一緒にいるんですよね?」
    「え?」

     時空院。寂雷。一緒。単語の意味はわかるのに、その文章の意味が、全くわからない。
     阿久根燐童は、なんの話をしているのだろう。

    「え?」



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