宇宙に行かなかった。33
べろりと、生ぬるい湿ったもので頬を撫でられる感触で飛び起きた。
「ひゃ、あ!?」
全身に鳥肌が立つような不快な感触。おばけとかエイリアンとか、嫌なものを想像した乱数の目の前に一匹の犬がいる。グレーの毛並みと蒼い瞳の、乱数が両腕で抱えても余るほどの大きな犬。
「び、っくりしたぁ〜……なに、おまえ、野生? 迷子?」
何もないただっ広い草はらのような場所に寝転がっていた乱数の横で、行儀よくおすわりをして。ふりふりと尻尾を揺らして。澄ました顔がなんだか少しふてぶてしい気もするし、すんすんと乱数の首筋の匂いを嗅ぎ鼻先を擦り付ける様は愛嬌がある気もする。やめてってば、くすぐったい。満更でもない気分でそう言いながら毛並みを撫でれば、ふわふわサラサラとした感触がとても気持ちが良かった。
「首輪……は付いてないね? ってことは野良かなぁ……というかおまえ犬種なに? 柴犬? ゴールデンレトリバー? シェパード? いや、犬なんてそんな詳しくないけど、なんかおまえは……」
犬っていうより、狼みたい? そんな言葉が浮かんだ気がして、犬以上に狼のことなんて知らないじゃんと首を振る。でもそうだ、この犬は狼に似ている。乱数の想像する狼はだいたいこんな感じ。でもなんでこんなところに狼がいるのだろう。そもそも狼って、今こんな風に日本で見られるものだったっけ?
そんな乱数の困惑なんて知らないように、その犬……狼? はまたぞろ乱数の顔を舐める。先程の大ぶりなストロークではなく、今度は甘えるようにぺろぺろと。ちらりと覗く鋭い牙が少し怖いけれど、案外人懐こいらしい。ちょっと、やめてってば、くすぐったい。そんな戯れを繰り返していれば、なんだか少し、愛着が湧いてしまう。
「なぁに、おまえ、僕のこと気に入ったの? 見る目あるじゃん。飼い主とか、いないんなら僕のとこ来る?」
乱数の一応の居住地として充てがわれているあのマンションは確かペット禁止だったけれど、おとなしそうだからこっそり飼ってもバレないかもしれないし。ダメなら事務所か、もしくは幻太郎の家で飼わせてもらおう。乱数に甘い幻太郎のことだ、一生懸命お願いすればきっと許してくれる。変なスイッチが入っていると「も〜らむだちゃんってばまぁたそんなもの拾って! 元の場所に返してらっしゃい!」とかウザ絡みされるかもしれないが。
──あれ。でもそもそも、乱数は今どこにいるんだっけ?
「ダメよぉ」
泡沫のような疑問が意識の水面に浮かぶと同時に、不意に乱数の手の中から狼が消えた。柔らかで、けれど少しチクチクとした感触が離れる感覚が思いの外心許なく、縋るように手を伸ばしかけギクリと身体が強張る。上げた視線の先には、乱数にとってとても、怖いものがあった。
「うふふ、乱数ちゃん、この子が気に入っちゃったのね? でもザァンネン、この子はね、もう宇宙に行くことが決まっちゃってるから、乱数ちゃんといっしょにはいられないの」
「う……宇宙?」
「そう、宇宙。この子はねぇ、宇宙船に乗せられて、そのままポーンと宇宙に行くの。しかも帰り道のチケットはない、片道切符の宇宙旅行。この子の最期は毒入りの餌で安楽死とか、機械の欠陥による過熱とか、そんな悲しいものにもう決まっちゃってるの。ふふ、でも大丈夫、心配ないわ。だってこれは、とても名誉なことなのだもの。ちっぽけな人間にとってはちぃさな一歩かもしれないけれど、人類皆々様にとってはとおっても大きな躍進なのよ?」
へたり込むように座り込む乱数の前で、その粘つくように甘ったるい声を扱う怖いものは、狼の首根っこを乱暴に掴んだまま甘く甘く微笑んでいる。やめて、返して。そう言いたいのに、その声が乱数の喉に絡みつくように気道を塞いで言葉が出てこない。手を伸ばしたいのに、指先が震えて動かない。何故かはわからないのに、身体が確かに知っている。ベルが鳴るとヨダレを垂らしてしまう犬のように、経験則が身体を、心を縛る。
そんな乱数を見て、それはとても満足気に「良い子」と嗤った。乱数の前でしゃがみこんで、とても近い場所で囁く。
「そう。なんともならないの。乱数ちゃん。あなたはおバカで、救いようがないくらい愚かだから、きっとこれから先も何度もおんなじことを繰り返す。なんとかなるとか、これくらいなら大丈夫とか、そぉんな甘〜い考えでカンタンに私達を裏切るの。でもね、大丈夫よ乱数ちゃん。オネェサンは優しいから、そんなおバカな乱数ちゃんに、何度も、何度も、何度だってちゃあんと教えてあげる。私達に逆らうのがいったいどういうことなのか。この世界にあなたになんとかできることなんてなぁんにもないってことを。その身体と心に、何回でも、何回でも、何回だって……ね?」
クスクス、クスクスと楽しそうに怖いものは笑う。笑いながらそれは悲しそうに眉を下げる狼をポイと放り投げて、その着地点では大きなロケットが大口を開けて待ち構えていた。ロケットはパクンと容易く狼を飲み込むと、そのまま呆気ないほどあっさりと宇宙に旅立ってしまった。
『──というのが、スプートニク2号に搭乗し、世界初の地球気道を周回した動物となった犬、ライカの物語です。人の都合で実験まがいに宇宙船に乗せられその死を華々しく見送られた生き物、というとあまり聞こえはよくありませんが、その存在が今日までの宇宙開発の礎となっている事実は否めません。そも我々は当たり前のように様々な科学実験にモルモットなどの小動物を利用する。人間がその領域に安全に踏み入ることができるよう、他の生き物を犠牲にする。それをどうこう言うつもりはもちろん小生にはありませんが、せめてそう、百年も前に宇宙に飛び立った勇敢な生き物に祈りましょう。それになんといっても、ライカには記念碑だって建てられているのです。人の都合で失われた多くの命の中で、むしろその名前は残酷なまでに特別視されているとも──』
幻太郎のラジオ、その二週目を聞いている最中に、乱数はいつのまにかうたた寝をしてしまっていたらしい。テーブルの上に、うつ伏せで。すぐ耳元ではお気に入りのラジオが、耳に心地いい幻太郎の声を、もうすぐ終わりを迎える宇宙の話を延々と垂れ流している。
その話の内容のせいだろうか。なんだかとても、嫌な夢を見た。
「……シャワー、浴びよ」
不快な冷たい汗でベタベタの額を拭いながら、乱数は深く息を吐き事務所のイスで身体を丸める。
* * *
「ほい、お疲れ、乱数」
「ひゃ、あ!?」
突如頬を襲った冷たい感覚に思わず叫び声を上げれば、そこには乱数と同じくらい驚いた顔をしている一郎の姿があった。
「っと……ワリィワリィ、んな驚くと思わなくてよ」
「や……僕こそごめん、ボーッとしてた。なに? 差し入れ? アリガト──というかこれくらい、僕が買ってきたのに」
「いやいや、大切なお客様にそんなことはさせられませんよ」
「あはは、オキャクサマね」
頬に触れたものの正体は、目にも彩な赤いアルミ缶に入ったコーラだった。そこらの自動販売機で買ってきたのだろう。未だキンキンに冷えたそれを、一郎は乱数に手渡し、自分もその傍に腰を下ろしプルを開ける。カシュ、という金属の破ける音と炭酸の弾ける気持ちのいい音が響き、そんなものに「夏だなぁ」という感慨を得る。
もっとも、そんなものなくても本日の最高気温は七月半ばで三十九℃。十二分に過ぎるほど夏だ。
「にしてもなんか朝からぼーっとしてんな。夏バテか?」
「ん〜ん、ちょこっと寝不足なだけ。なんか夢見が悪くて」
「へぇ、どんな夢だ?」
「それがあんま覚えてないんだよね。楽しい夢じゃなかった気がするけど」
「ま、楽しくないなら覚えてないほうがいいに決まってんな。でも体調良くないのにあんまり炎天下で無理してもだしな……今日はこれくらいにしとくか?」
「ううん、平気だよ。スケジュールもそんなに余裕ないし、もうちょっと進めちゃおう」
「了解」
休憩時間おしまい、とばかりに一郎は一息にコーラの残りを飲み干すと、すぐ後ろを振り返る。元は一面純白だったはずのその壁は、今や半分ほどがカラフルなペイントで埋め尽くされている。
乱数と一郎は、今この壁にグラフィティを描いている。
ヒップホップの四大文化と言われるラップ、DJプレイ、ブレイクダンス。そして、グラフィティ。けれど乱数がラップ以外にこれといって手を出したことはなく、今のこれだって特に趣味でやっているわけではない。
乱数がこの場所のグラフィティに手を出すことになった発端は、なんとシブヤ区役所からの依頼だった。シブヤは元からオシャレに言うのならグラフィティ、悪く言えば混沌とした落書きに溢れた街。その無法地帯ぶりはH歴、ラップが特別な意味合いを持つその時代に連動するように悪化した。今となってはシブヤのガード下でグラフィティのない場所を見つける方が難しい。
もちろんあまりに目に余る場所は壁面の塗り直しなどで対処をするが、それも一時凌ぎにすらならない。三日もすれば再び混沌が覆い、いくら罰則を重ねどその勢いは衰えない。頭を抱えた区役所の人間は、ひとつの解決策を提示した。
それが、いっそ落書きをされる前に、先に落書きをしてしまえばいい、というもの。
「にしても久しぶりだなぁグラフィティ、昔……左馬刻なんかと会う前は、空却や他のヤツらとよく描いてたけど」
「え〜一郎ってばワルなんだぁ。でもどーりでうまいと思った」
「はは、そうか? まあこんなんで乱数の役に立てるってんなら何よりだよ。あの頃はまあ……これはラップと同じで、縄張り争いのためみたいなもんだったからなあ」
「逆にゴーホー的にやってる今が変な感じ?」
「そう、それ」
グラフィティを描く者達、通称ペインターの間には、ひとつのルールがある。それが既存のグラフィティに上書きする場合、それ以上のクオリティのものを描かなければいけない、というものだ。より能力のある者がその場を制する。それはラップ、ひいてはヒップホップという文化に共通の精神なのかもしれない。もちろんそれは暗黙の了解に過ぎず、そんなルールすら無視する輩とて少なくはないが。
けれど実際、効果はあった。一度塗り直した壁に有名アーティストが完成度の高いグラフィティを施すことで、その場所が雑多で下品な落書きに塗れることは稀になった。その効果を認識して以来、シブヤ区は定期的にその筋で名のある人間にグラフティを依頼する。
そしてこの度、乱数にもそのお鉢が回ってきた。まあ実際、ディビジョンバトルやヒプノシスマイクという文化が若者の流行り廃りのように過ぎ去った今でも、飴村乱数a.k.a easy Rにヒップホップの領域で喧嘩を売ろうだなんて命知らずは少ないだろう。効果は覿面、お役所は英断だ。
足元に無数のスプレー缶を散らしながら、乱数と一郎はそんな奉仕活動に勤しむ。
「でも一郎が手伝ってくれてホントに助かったよ。僕はほら、デザインとかには自信あるけど、こういうグラフィティとか初めてだったからさあ」
「そこで自信あるけど、って自信満々に言えるのがお前のすごいとこだよな。でもうん、俺もいいと思うぜ、この図面。お前の好きなものでめいっぱい! って感じで」
「へへ、でしょ? 自信作だからね」
大好きなシブヤの街の片隅に、乱数の好きなものを描いていい。お偉い様からのそんな誘いは乱数にとってもなかなかに魅力的で、世のため人のためになるその素敵なお仕事に一も二もなく了承した。けれど区から派遣された職員が作業を手伝う、というのは乱数にとってあまり面白くない。そもそも乱数はそういうケンリョクシャサマみたいなものがとても嫌いだ。けれどだからといってグラフィティのノウハウがあるわけでもなく。困った彼が頼ったのが元チームメイトが経営し従来から乱数も贔屓にしていたなんでも屋、萬屋山田だった。
乱数と一郎の和解は、数ある中でもかなり穏当な部類だったと思う。諸々の騒動が収まった後改めて「ごめんなさい」をした乱数を「いいよ」と一郎が許した。元から乱数の中に一郎個人に対する悪感情はなく、一郎とて乱数の真実を知ったのは乱数が元凶に切り捨てられ尚且つ後悔と反省を経た後。そんな状況では人のいい一郎からしてみれば、今更怒りを再燃させる方が難しい。
だから今回の依頼も。乱数からの「手伝って欲しい」という電話に、彼はやはり一も二もなく頷いてくれた。
乱数からしてみても、気まずさが全くない訳ではない。どんな理由があれ乱数は一郎から彼の友人である空却を奪ったものの一因であるし、左馬刻との諍い、TDDの解散の原因だ。けれど今一郎はそんなものなかったかのように笑ってくれているし、何よりこうして一郎と一緒に同じことができるのは、乱数にとってもとても楽しい。
一服を終えて炎天下の下、時折一郎の支持を仰ぎながらスプレー缶を振り回す。白紙のペイントをカラフルに染め上げる瞬間はいつだってワクワクして、胸が踊る。
「──そういえば乱数、寂雷さんの宇宙行きの件、聞いたか?」
眠気も吹き飛ばすそんな高揚感が最高潮に達していた時だった。一郎がそんな、つまらない話題を振ってきたのは。
「……あは、やっぱり一郎も知ってるんだ」
「そりゃまあ、な」
「寂雷から聞いた?」
「いや、テレビで」
「そう」
「その感じだと、乱数もそうみたいだな」
「……」
そしてたぶん。平然とした様子を装いながら、それでもスプレー缶片手にチラチラと乱数を横目に伺う一郎は、今日一日ずっとこの話題を口に出すタイミングを見計らっていた。乱数の方から口にするだろうか。きっとするだろう。いやでも。そんな逡巡を幾度も幾度も繰り返して、今、ようやく。
「すげぇよな、寂雷さん。昔っからなんかこう、色々スケールのデケェ人だとは思ってたけど、宇宙とか、千年後とか。SFとかファンタジーアニメみたいで、正直俺には想像もつかねえよ」
「そ〜だね。まあでも元からブッ飛んでるとこあるやつだったし、外国の紛争地フラフラするのも宇宙に行くのも、似たようなもんなんじゃない。地球全部のこと自分の手の届く庭だと思ってるよ、きっと」
「……本当にそうなのかもな。俺、テレビ見てビックリして、迷惑とか考えずついすぐ電話しちまったんだよな、寂雷さんに。そしたらなんか、すんげぇたくさん小難しい話しされた後、めちゃくちゃ嬉しそうに『素晴らしいことでしょう?』って言われて。だから俺も、スゲーなーって思って……」
喋りながらも、一郎の手は淀みなく動いている。TDDが解散してからも和解してからも、乱数が一郎を頼ることが多いのはこの辺りだ。まだ若いのに、本当にしっかりしている。絶対に仕事に手は抜かない。
それでも、だからこそ珍しかった。こんな、依頼中に一郎が自分から仕事に関係ない話をしてくるなんて。
しかも話している内に何を言いたかったのか迷子になってしまったらしい。言葉に詰まった一郎は「あー……」と言い淀むと乱数を見て、少し困ったように笑うと肩を竦める。迷子になってしまった、大人の仕草。
「でもさ、なんか、変だよな」
「変? 変ってなにが? 大それた使命だかなんだかにウッキウキなんて、いかにも寂雷らしいと思うけど」
「いや、そうじゃなくて。いつもの寂雷さんならそんな大事なこと、自分から言ってくれそうなのにな、って」
「……」
「みんな、知らなかったらしいから」
あんなふうに、テレビで始めて知るんじゃなく。寂雷さんなら、きちんと順を追って、大事な人にはちゃんと報告してくれそうなのにな。
「特に乱数、お前には」
「……そうかな。僕にこそ、特に言わなそうだけど」
「何言ってんだよ、ぺあ……ペアレントフレンド? なんだろ」
「昔の話だよ」
もっとも、その昔だって実際のところいったいどうだったのか。寂雷の本心は分からなければ、乱数自身の本心だって、よくわからないけれど。
おもむろに懐を弄り、取り出した煙草に火を付ける。昔は散々隠していた喫煙者だという秘密も、今となってはこの通り。始めはギョッとした様子だった一郎もすっかり慣れてしまったのか、乱数のその動作にも何も言わない。うまいか? と聞かれて、別に、と答えれば、なんだかおかしそうに笑われる。
でも確かに、一郎の今の疑問は、乱数もうっすら思っていたことだった。てっきり乱数だけが蚊帳の外なのだと思っていたけれど、どうもそうではなかったらしい。一郎も、左馬刻も。それどころか麻天狼の一二三や独歩もあのテレビ中継で初めて知ったらしい。衢が知ったのですら、ほんの数日前だったとか。
驚愕した周囲からの連絡は当然寂雷自身に殺到して。そして彼はその驚愕を全て「素晴らしいことでしょう?」の一言とあの一分の隙もない笑顔で完封した。素晴らしいことでしょう? すごいことでしょう? だから、祝福してください。
「さみしくなるな」
「……え」
謙遜なんて欠片もなく、不遜にもそう言い放つ声を思い出していたからだろうか。一郎のその一言が、なんだかとても異質なものに聞こえた。煙草を吸う手を止め一郎をまじまじと見つめてしまう乱数に、一郎は「そんな変なこと言ったか?」と苦笑している。
変なこと。変なことではない、けれど。
「……それ、寂雷にも言ったの?」
「ああ、言ったよ。さみしくなりますねって」
「そしたら寂雷、なんて?」
「そうですね、って」
「……」
「なんだよ、どうしたんだよ、乱数」
「いや、なんか、寂雷がいいことだって、祝ってくれって、そんなことばっか言ってたから」
「それがいいことなことと、会えなくなるのがさみしいことは両立するだろ」
それはそう。それはそう、なのだけど。
だってたぶん、そんなふうには言えないけれど、乱数だってこの前寂雷に会った時に、そういう話をしようとしていた。どうして話してくれなかったのかとか、なんでこんなことになっているのかとか、そんな恨み言と一緒に。そう遠くない未来、地球から寂雷がいなくなることを。おそらくもう二度と、会えなくなることを。でも当の本人が、あんな調子だったから。
「……それでも、さみしい、なんて。そんな水を指すみたいなこと、言っていいのかな」
「よくわかんねえけど……じゃあおまえは、おまえがどっか行ってしばらく会えなくなるって時に、さみしいって言われるの、嫌か?」
「……イヤじゃない」
むしろ、嬉しい。たとえば幻太郎に、帝統に。一郎に、左馬刻に──寂雷に。さみしいと言われるのは、嫌じゃない。
嫌じゃない。
「……僕も、数日前寂雷に会ったんだよね。たぶん、そういう話をしに」
「そっか」
「その時はなんか、突然のことでいろいろよくわからなくなってて。それで寂雷もあの調子で、だからなんか強がっちゃって、むしろヒドいこと言っちゃった。おまえの顔見なくて済むとか清々する、みたいなこと。でも本当に言いたかったのは、たぶん、そんなことじゃなくて……」
「……」
「いろいろ終わった後さ、寂雷の方から結構いろいろ、誘ってくれたりして。まああいつの誘い方がヘッタクソなのも悪いんだけど、でも僕はまだあいつとどういう顔して会ったらいいのかわかんなくて。昔みたいに『寂雷と遊べてうれしいなっ♡』って笑えば正解? それとも『なんでせっかくの休みにジジイといなくちゃいけないわけ?』って悪態つけば花丸? ……そういうの、まだよく、わかんなくて」
「……ん」
「でもそういうの……一年とか、五年とか、十年とか……ゆっくり時間かけて、探していけばいっかって、そう思ってたんだけどなぁ……」
人類の命の刻限は克服できていないけれど、乱数の短命は克服した。千年後の未来は乱数に保証されていないけれど、真っ当にいけば平均的な人間程度の寿命は生きられる。だから今うまくいかなくても、まだまだ時間はある。そんなふうに、悠長に構えていた。
それなのに、神宮寺寂雷はこの夏宇宙に行くらしい。乱数を地球に置き去りに。千年後の未来に向かって、乱数の明日のことなんて忘れて。
「そういうのさ、全部寂雷さんに伝えてみたらどうだ? 案外、なんとかしてくれるかもしれないぞ」
「なんとかって……どうやって?」
「それはわかんねえけど。でも寂雷さんなら、どうにかしてくれそうじゃん」
「どうにかなんて、ならないよ」
どうにかなんて、ならない。繰り返し言い切る乱数に、一郎は少し驚いたようだった。なんだろう、こんなの、乱数らしくない? でも残念、一郎は知らないかもしれないけれど、もしくは一郎もよくよくご存知の通り! 本来の乱数は、たいがいこんな感じだ。マイナス思考で悲観的。いいことと悪いことがあったら、悪いことばかりを見てしまう。だからTDDだって解散した。
「なんとかなるかって、そう思ったことはたいていどうにもならなかった。そんな楽観的にいて、そのせいで何度も痛くて苦しい思いをした。そうやって何度も何度も繰り返すと、バカな僕でもいいかげん学習する。ああ、なんともならないんだなって。どうせがんばってもなにしてもなんともならないんなら、逆らわないで言いなりになって笑ってた方が楽だなって」
「……それって、乱数の昔の話?」
「さあ、どうだろ」
「お前が、これまでどんなふうに生きてきて、今までどんな辛い目にあったのかは、俺にはわかんねえよ。お前が話してくれるってんなら聞きたいし、話したくねえってんなら無理強いはしない。それは前に言った通りだ。でも、よくわかんねえけどさ……結果的に全部なんとかなったから、今こうやってみんなで笑ってられるんじゃねえの?」
「………………………………それは、そうだね」
思わぬ的確な反撃に、返す言葉が見つからない。確かにそうだ、その通り。なんとかなったから、ここにいる。
乱数は今もここで生きていて、中王区からも解放されて、かつて解けた絆だって、こうして細々とでも繋ぎ直している。確かにそれは、なんとかなった、ということなんだろう。なんとかした、寂雷達が。
それでも、どうしても拭えないものがある。乱数にだって、なんとかなるという楽観を抱いて中王区を裏切ったことが、ないわけではない。中王区より、大事だと思えるものを選んだ記憶が、ないわけでもない。でもその記憶には、必ず後悔と苦痛が付随する。ベルを鳴らされただけでヨダレを垂らしてしまう犬のように、『なんとかなるか』には、恐怖の記憶が染みついている。
なんともならなかった。きっと今回も、なんともならない。
「……だとしても、でもやっぱり僕たちはもう、そんな感じじゃないし。だいたい今更僕がそんなこと言ったって、おかしいし気持ち悪いだけでしょ」
「でもあの人がもし今の乱数の立場だったとして、そんなこと簡単に言いそうじゃねえか? 関係がどうこうとか気にしないで、当たり前みたいに」
「………………………………言いそう」
寂雷が、今の乱数と同じ立場だったとして。こんなふうに悶々としている乱数を、鼻で笑うように。
「君がいないと、寂しくなるねなんて、本当に簡単に、あっさり言って。僕がこうやって同じような場所でぐるぐる考えてるなんて思いもしないで、涼しい顔で。それで僕はそんなふうに簡単に言うあいつに、また負けたみたいな気持ちになって、きっとイライラするんだ」
だから、飴村乱数は神宮寺寂雷のことが嫌いだ。そんなつもりなんてないだろうけれど。そんなつもりなんてないからこそ、乱数を負けた気にさせる。寂雷の方が乱数より優れていると、当たり前みたいに見せつけてくる。いつだっていつだってあの男はそうだった。こんな想像の中ですら、置いてく側になっても置いて行かれる側になっても、寂雷は乱数に勝ち誇る。第二回ディビジョンバトル。優勝したのは乱数達Fling Posseだったが、あの後だって乱数は「君のことは救ってみせる」などと言い切った寂雷に、負けた気になった。試合に勝って勝負に負けるって、このことだろうか。
「なら、試しに言ってみたらどうだ?」
「言ってって……なにを?」
「今言ったみたいなことだよ。別にいいじゃねえか、これでたとえば失敗しても気持ち悪がられても恥かいても、もしかしたらもう明日には地球にいない人かもしれねえんだから」
「……寂雷に?」
「そうだよ。言ってやったらいいじゃねえか、簡単に、当たり前のことみたいに」
「そんなの……」
「案外、呆気なく勝った気になるかもしれないぞ」
そう言って一郎は気持ちよくニカ、と笑うと、また淀みなくスプレー缶を動かし白紙を彩る。乱数のブランド名のロゴ、Fling Posseのチーム名に、幻太郎や帝統、乱数の名前。甘いキャンディにかわいいハートや星のモチーフがたくさん。乱数の好きなものばかりで埋め尽くした、最高にキュートなシブヤの片隅。時折すれ違う人達が、乱数達を認めては「あれ? 乱数ちゃんじゃん」「バスブロの山田一郎もいんぞ」「すげー! これグラフィティ? あのふたりが?」なんて注目しては去っていく。
少しだけ想像してみたその光景はそんなに悪いものではなかったし、乱数は昨晩幻太郎がラジオで口にした言葉を思い出していた。
『人間が想像できることは、必ず人間が実現できる』
かつてジュール・ヴェルヌという作家が残した言葉。大砲の弾に乗って月に行くという、途方もないファンタジーを描いた男。