だから言ったのに「ッたくあの先生しつこかね〜…ちょっと授業中に寝とったからって…」
猪里が制服を脱ぎながら、ぶつくさと文句を言う。普段はどちらかと言うと温厚で、人の悪口なんて言わない猪里がそこまで言うのも無理はない。
話題の教師は前々から運動部に厳しい人で、授業態度が気に入らないと一緒に放課後、補習を受けさせられてしまった。お陰様で部活にはこうして遅れて参加している。
もうストレッチの時間も終わっとーけん早くみんなに追いつかないけん、とか
そもそもあん先生、野球部には特に偏見もっとらん…?などと、着替えながらも続けた。
相当腹が立ったのだろう。
返答さえも求めないその言い様に、少し珍しく思いつつも、時々 相槌を打ちながら苦笑した。
ふと、猪里が口を止めてまで、そんな自分を不思議そうに見つめてきた。
なんだろう…相槌が軽すぎた自分への文句だろうか。
「…虎鉄、ちと顔上げ?」
「…?」
「…やっぱり。虫刺されしとる」
ここ、と猪里が自分の首元を指差した。
季節はもう初夏だ。蚊がいてもおかしくはない。もうそんな季節か なんて頭の隅で思ったが、そんなところ、痒かった覚えなど一切ない。
「ハァ〜これは…たくさん噛まれとるねぇ、うわあ…」
指先で こちらの顎を触ってくるような ふいな仕草に少しドキッとしながらも、その時ようやく その痕の原因を思い出してひやっとした。
というか、思い当たるフシはそれくらいしかないのだ。
「ちょっと。もっとよく見せてみ?早くよくなる方法 知っとーけん」
「……Aー………。…いや……」
まいったな。
何と言おうか。
何と言おうか、というか。正しくは
何と誤魔化すか、だ。
考えあぐねて目線を仰ぐ。
今さら隠したってどうしようもないのに、すべて無かったことにしたくて、なるべく仕草が自然に見えるように、手のひら全体で隠すように首元を押さえた。
「…猪里ちゃんには分かんねーYo…」
その瞬間、猪里が ぴくりと目の端を動かした気がした。
「…なんね?虎鉄が知っとってオレが知らんことがあると?」
猪里の声のトーンが明らかに変わる。
あ、これは まずい。
言葉を間違えた。
焦りがさらに酷くなる。
まずい…とは思ったが紡いだ言葉はもうどうしようも無いくらい、猪里の目の色を変貌させてしまっていた。だからといって今さら取り消せもしないが。
「ッてゆーか……ゥ……知らなくていーッ…つーか……?」
時間がない分 思考が回らなくて、うまく言葉が出てこなくて、その返答の曖昧さに、更に猪里が苛立っているのが分かった。
「…虫刺されじゃないんなら、何たい?説明すればよか」
口を尖らせて言う。いつもなら空気を読んで軽く流してくれるのに、よりにもよってこんなところで変にしつこい。
面倒なことになった。
「はっきり言ったらよかろ?どういうこったい。」
まあるくて大きな目で上目遣いに覗かれると、まるで心の底まで覗かれている気がした。
背中の後ろはロッカーだし、逃げられない。
前には、仁王立ちの、男。
漫画みたいに背中や額から汗が吹き出してくる。
そもそもだ
何でこんなことになったんだろう。
一体誰が悪いんだ。
何が悪かったんだ。
考えても今更仕方ないけど
…でも、考えたら だんだん腹が立ってきた。
元はといえば猪里が悪いんじゃないか。
オレはずっとずっと女の子が好きなのに。
これまでも。いや、これからだって
女の子が好きでいたいだけなのに。
勝手にオレの心を混乱させて。
今も混乱させられてる。
何なんだよ、猪里。
猪里はオレの何なの?
オレ、困ってるよ。
もう、最近ずっと。ずっとだ。
苦しい。
重くて長い瞬きをした後、目を開けると、猪里の 日に焼けていない柔らかな首元が目に入った。
その瞬間、カラダが吸い寄せられ、気付いたら猪里の首元に噛むように千切るように赤い痕をつけていた。
「こういうことだよ……」
茫然として、その場にへたり込んでる猪里に脇目も振らずにその場から逃げ出した。
あーあ
だから言ったのに。