ジャストマリッジ!!ジャストマリッジ
頭が痛い。
ズキズキどころじゃあない。割れているのかもしれないと思うほどの痛みにこめかみを押さえると自然とうめき声が漏れた。焼けたような喉の渇きからゆうべの酒を思い出す。
もう酒は飲まないと破るための誓いを立てながら起き上がると隣に仗助が寝ていた。薄く口を開いたのんきな寝顔には落書きがしてある。露伴の手で岸辺露伴と署名してあった。額にでかでかと、サインとは違う、役所で書くときのようなきちんとした楷書の文字だ。
その途端に脳は一気に覚醒してきのうのやらかしが走馬灯のようによぎった。泥酔したままカジノの横にあったチャペルに駆けこんでフィリピン人のプレスリーそっくりさんを立会人にした。チャペルですることなんてひとつしかない。
「結婚したのか!」
自分の声で頭が割れた。
いっそ木っ端微塵にちりぢりになってしまえばいいが、露伴は酔ったときの出来事を覚えているほうだった。やらかしというには酷すぎるイカレた結婚式に対する後悔やどうにもできない怒り、苛立ち、割れそうな頭の痛みをすうすうと眠る仗助にぶつけた。
「起きろ仗助ッ」
平手打ちされた仗助が寝ぼけ眼をこすりながら何すンですかと低く問い、あとから思い返せば寝起きの声の低さを知ったのもこのときだ。
「やっちまった」
「気にしなくても大人のお漏らしもたまにあるらしいっスよ」
「オイ、起きろ!」
失礼にもほどがある。とんでもない誤解に怒った露伴が文字通り叩き起こすとようやく目を覚まして何事ですかとまだのんきにあくびしている。
「ぼくたちが同じベッドで寝ている不快な事実について思うことはないのか」
「そりゃあ、あんたがお漏らししたからでしょ。ていうかここおれの部屋だし」
「寝小便なんかしない! ふざけんなッ」
思わず声を荒げたがこめかみが痛くなって、露伴は頭を押さえる。
「結婚してるぞ、ぼくら」
「何て?」
「笑い事じゃあないんだよ! 覚えてないのか」
そもそもの発端はカジノに仗助を同行させたことだ。たまたまテレビで見かけた闇社会の裏側に興味をひかれて、コネを手繰り寄せたのがアメリカの不動産王ジョースター家。そのカジノ取材の代わりに仗助を連れて渡米することが条件だった。
季節は夏休み。無駄に長い大学生の休みを有意義に過ごさないかと誘ったのが一回目、仗助は迷わず断った。いわく百万円積まれてもあんたとは旅行なんかしたくないと言ったのだ。そうなると露伴も意地になって是が非でも連れて行ってやると、報酬金額を釣り上げ、機嫌取りのように仗助の好きそうなブランドの限定品を買い与え、同行者がいないとカジノで万一のトラブルがあるとなど気弱な演出しつつ、やっと了解を得られたとき、それだけで一つの達成感さえあった。もとより嫌っている相手だ。調子に乗りやがってという怒りが沸いて、ラスベガス旅行を含めた夏休みのアルバイト代金、二百五十万円を手渡して誓約書を書かせたあとは馬車馬のごとく使い倒した。
金につられた仗助はバカなのでなんでもしますと軽々しい約束を律儀に守った。屋根裏部屋にある書架の棚替えに分厚い百科事典を下から運ばせ、そのあとは炎天下に自宅周りの草抜きをさせた。取り決めにはきちんと出発までの雑用もこなすことが条件になっていたし、破った場合は支払った報酬の十倍を返金するという記載もある。最初は不平不満をだらだらと口にしていた仗助も段々と無口になって、国際線の搭乗口についたときには会話もなかった。
乗り換えを挟んでも無言のままマッカラン国際空港に着いた。到着したその夜にはカジノで遊び、スロットマシーンで千ドル稼いだ仗助は上機嫌ですっかり普段通りになって露伴を呆れさせた。千ドルくらいで機嫌が治るなら金でも払えばよかったのかと一瞬でもよぎって、その考えは金で若い女の関心を買いたがる下劣な中年男とそう大差がないと自戒した。
露伴はジョースター家のコネでカジノの運営側を覗くことができたし、仗助はギャンブル三昧。それぞれがしたいことをして、三日目の晩に事件は起こった。ブラックジャックのテーブルにいた個性的な頭は目立っていた。
声をかけたのは気まぐれで、露伴はすでにほろ酔いだった。タダ酒だからというわけではないが、グラスを重ねてそこから先はうろ覚えだ。どういう流れで結婚したのか全く記憶にない。ネバダ州の法律で同性でも結婚は合法だが日本に住む日本人には当然無効だった。
「誰か来てません?」
仗助が指差す先、ドアから控えめなノックの音がする。お前の部屋だお前が対応しろと露伴が言えば、唸りながら仗助は一生のお願いっスと言う。高いツケにしてやってドアを開けると銃声に似たパンと弾ける音に露伴がスタンドを呼ぶより見覚えのあるシルエットが庇った。紙吹雪をコンマ何秒かで受け止めたクレイジー・ダイヤモンドは呆けたようにそれを見ている。
「Congratulations!」
Just marriageと書かれた色とりどりの風船を露伴に押しつけるとUberで雇われたような小汚いTシャツの男はこちらスピードワゴン財団からですと恭しく封筒を差し出した。受け取りたくない。露伴が嫌な顔をすると男はへらっと親しげに笑って黄ばんだ歯を見せた。
仗助が起きてきて、封筒を受け取って男を帰らせると目を見合わせてどうしようと探り合う。口にすれば現実になってしまう気がした。これは現実だが、言ってしまうと後に引けないような気がする。言霊と同じだ。露伴は一度口にしてしまったが、結婚はとうてい現実とは思えない。悪ふざけにしてもありえない。なぜ仗助と結婚式を挙げてしまったのか。
「スピードワゴン財団? きみはもう親に喋ったのか」
「言ってないっスよ、言うわけない。なんて言うんですか、露伴先生と結婚したって?」
仗助の口からでも聞きたくなかった。結婚した。結婚してしまった。
カジノでの取材をそこそこに、露伴はもう一秒もこの場にいたくなかった。せっかくラスベガスまで来てギャンブルもしてないが勝負なんてする前からわかりきっている。負ける。仗助には別行動を申し出たが、言葉に自信がないと言って一緒に帰国することになった。行きよりもっと暗雲立ち込める帰路はさよならの挨拶もなく駅で右と左に分かれる。
仗助の父親がどこで知ったか、カジノに併設された式場だからそのツテだろうが、誤解はといておくようにと口を酸っぱくして言ったし、祝いにもらったクルージングだか自家用ジェットの遊覧チケットは熨斗をつけて返すように念押しした。あまりにも露伴がうるさく言うから仗助もしまいには閉口した。
たった一週間ほどの旅行だったが、予定を切り上げて帰ってきた郵便受けには編集部からの封書が着ていた。中身を確認しながら玄関に入るとその一行が目に飛び込んでくる。ご結婚おめでとうございます、と書いてあった。
「はあ!?」
どこで誰に聞いたのか、とんでもないことになっている。受話器を握って番号を押すと担当者はこともなげに、ニュースになってますよと答えた。
「露伴先生が式を挙げた日、日本人がいたんですよ」
録画したビデオは式場が売っているもので、当事者にしか買えないはずのものが39ドル95セントでその日本人の手に渡り、あとは芋づる式だった。ワイドショーで取り上げられたことが大きいと聞き、露伴先生の旦那さんハンサムですねと言われた瞬間通話を切った。旦那さんとあの男がイコールでつながって、冗談じゃないと叫んだ。
「見たやつの記憶全員消してやろうか」
露伴の能力をもってすれば不可能ではないが、鼠算式のビデオのコピーはとうてい手に負えるものじゃない。酔っ払った自分が何をしたのか、インターネットにアップロードされている動画を見た。
簡素を通り越して貧相なチャペルでいきなりキスシーンが映った。情熱的に口づけをかわすのは露伴と仗助だった。舌を使う動きまでわかるほど激しいキスに呼吸すら忘れて見入る。キスが終わると仗助が愛してますと言って、露伴も同じ言葉を返した。
「嘘だ!!」
愛なんかあるわけがない。
神父だか牧師だかが尊い誓いの言葉をのたまうあいだもチュッチュチュッチュとキスの応酬で、どう見ても新婚だった。立会人らしきカツラをかぶったコメディアンに露伴は財布から大枚を握らせて、仗助と幸せになりますとテレビカメラの前で誓う。露伴と呼ぶ仗助の声に返事するあまったるい響きは聞いたことのない音程で、頭が痛かった。
「なんだこれは」
いっそ作り物のビデオだと、合成だと言い切ってしまえたらいいのに、露伴はそのようすを少しだけ思い出した。
あのとき、たしかに仗助を愛していた。何があって結婚したのかさだかではないが、いとしい、愛していると思ったから結婚した。何をどうトチ狂ったらそうなるのか、酒のせいに違いないがもう何も信じられない。自分さえ信じられない。
結婚してしまった。大嫌いな男と、法的効力は何もないが結婚式だった。
酒でも飲んで憂さ晴らしできたらいいが、もう酒は二度と飲む気がしない。気持ちが落ち着いたところで編集部へもう一度電話をかけ、結婚は悪ふざけであること、もし集明社も下世話な雑誌にとりあげたら二度と原稿を預けないと脅しをかけて通話を切った。椅子に座るともう根が生えたように動けそうになかった。長旅から帰ってくる道中、何度か岸辺先生ですかとファンに声をかけられてそのつどおめでとうと言われた理由がやっとわかった。
「……」
声も出ない。
深いため息をついて、誰にぶつけようのない怒りは原稿に発散させた。
「fuckってその意味だろうなァ」
悪趣味にもほどがある。発送済みと聞いていた出版社からの祝いの品物が届いた。ピンク色のセロファンで包まれた枕はfuckとsleepで下品すぎるセレクトに呆れてものが言えない。低反発で寝心地が良さそうなのがまた不愉快だった。同封されているファンシーなカードは読者からのもので、祝いの言葉が書かれている。
ため息をつきながら枕を段ボールに詰めこんでいると呼び鈴が鳴った。今度はなんだと玄関へ向かうと仗助だった。
「もうぼくに近づかないでくれ」
「被害者ぶる気ですか」
家に入れるのはいやだが、話している姿を見られることもいやだった。誰も彼もこのイカレた結婚を知っている気がした。向こうからバイクが来るのが目に入ると露伴は仕方なしに仗助をドアの内側に入れた。
「結婚のビデオみた?」
「ああ」
「どうしましょう」
「どうもしない。人の噂も七十五日っていうだろう。二、三ヶ月すればみんな忘れるさ」
そう簡単なわけないが、仗助の深刻な様子に年長者として諭してやった。
「おれたち……その、キス、したんスよね」
「知らねーよ」
初めてのキスでもあるまいし、男とのキスなんかカウントする必要ないさと露伴が言うより先に初めてでしたと言われる。誰が見ても、どう見ても端正な容貌をした男がファーストキスだったんです、と言った。
「返してくれよ」
「初めてにはならないが、きみの気が済むなら記憶を消してやろう」
ヘブンズ・ドアー、とスタンドを呼べばいきなり肩を掴まれる。
殴られると咄嗟にからだを硬らせた露伴を抱き寄せるとくちびるが重なった。ぬるい感触がした。目を開くとけぶる視界に長いまつ毛が見える。かさついたくちびるが離れると、二度目のキスは図々しく舌を突っ込んできた。
「オイッ」
突き飛ばすと仗助はその勢いのまま倒れ込んで、ソファに置いていた枕も床に落ちる。fuckと書かれた枕を見ると、今度は露伴を見上げ、交互に見られしょうがなしに口を開いた。
「言っとくけどぼくの趣味じゃあないからな」
「記憶を消すくらいじゃあ割に合わないっス。初めてだったのに」
「さっきのきみと同じ言葉を返してやる。被害者ヅラか?」
押し黙った仗助にキスの意味を聞くべきだった。
露伴はこのときいくつか間違いを犯している。玄関先に週刊誌の記者がいたが気づかなかったこと、それなのに仗助を家に入れてしまったこと、ブラインドをおろさない一階のリビングだったこと、このキスを責めなかったこと。
「訊かれたら全否定しろ。余計なことは言うな。あれは悪ふざけだった。アメリカで結婚式を挙げても日本では何の意味もないだ。あれは、悪ふざけだった」
繰り返す露伴に仗助は何も言わなかった。話は終わりだ帰れと追い出して、忌々しい枕をカッターナイフで切り付けると少しだけ気分がスッキリした。
七十五日も世間は待ってくれない。
週刊誌に男と結婚した露伴の記事がデカデカと写真入りで載って、仗助の隠し撮りも誰が撮ったものか旅行中のものだったり、例のビデオテープの画像もあった。四ページも割いてくれた出版社は漫画誌も発行していたが、露伴は何があってもその仕事だけはしないと決めた。転送を断ることもできず、ファンから届くお祝いは玄関をひっ迫している。
「末長くお幸せに」
色違いのルームシューズにメッセージカードが添えられていた。
悪気がないからこそタチが悪い。扱いに困る贈り物は一通り開封したが、あらかじめ編集部が確認しているから悪意のない純粋な祝福に溢れている。
そんな中、久しぶりに親友が電話をくれた。県外の大学に通う康一からは開口一番よかったですと言われ、酒のあやまちだと何度言っても信じてもらえなかった。
『露伴先生はお酒に飲まれたっていやなものは絶対いやじゃあないですか』
露伴をよく知る親友はそう言って軽やかに笑う。
あのとき仗助に抱いた愛情のようなものの正体がつかめずにいる。全国紙に顔写真の載った反響も康一経由で聞いたが、露伴はあれきり仗助には会ってなかった。電話は何度かかかってきた。そのたびに明らかに嘘だとわかる理由で遮って切った。
『今度帰ったらお祝いさせてください』
仗助くんは遠慮してたけど、と康一のやさしくて温かな声がいとまを告げる。
「ちょっと待ってくれ、康一くん」と引き留めたが、露伴は次に言う言葉を持たなかった。
『まだ一緒に暮らしてないって聞きました』
「まだ?」
『仗助くん、早く露伴先生と一緒に暮らしたいってのろけてましたよ。先生にベタ惚れじゃあないですか。大事にしてやってくださいね』
今度こそ電話は切れて、露伴は空で覚えている電話番号を押しかけて途中でやめた。直接顔を見て言ってやりたい。噂が絶えないのは仗助が否定しないからだ。火消しする露伴の反対側で、仗助が油を注いでいればそれは消えない。怒りのまま車を飛ばして仗助の家に乗り付けると呼び鈴を連打した。
「せっかちな人ねェ〜! はいはーい!」
ワンレングスの女が咎めながらドアを開け、露伴を見とめると顔を綻ばせる。
「あら、露伴先生じゃあないですか! 仗助!! 先生が来たわよ!」
その口数の多さにはさしもの露伴もたじろだ。息つく暇もなく、矢継ぎ早に露伴のこと、結婚のこと、これからのことを捲し立てながら靴を脱ぐように急かされた。リビングに通され、いつ同居するのかと訊かれる。その理解のありように露伴は自分の親と比較した。何も聞いてないが、彼らにこんな理解があるとは思えない。
「うちに来てもらってもいいのよ、部屋はあまってるし。でも新婚で小姑と同居はいやよね」
「そのことですが」
「露伴先生連れてきてって何度言っても忙しいからってあいつつっぱねるし、本当に結婚したのか週刊誌で読んでも半信半疑だったのよ。そういうデマってあるでしょ?」
お茶も出してなかったわごめんなさいと慌ただしくキッチンに立つ仗助の母親は朗らかで、露伴はその好意的な様子に驚嘆していた。息子が男と結婚式を挙げて笑顔で迎え入れる豪胆さは性格なのか、創作のネタにしたくなるような人柄だ。
「え、どうしたんですか?」
ひょっこりと姿を現した仗助に用事があった。
「話がある」
「じゃあ、……おれの部屋で」
お茶もっていくからエッチなことしないでよと仗助の母親が言って、しねえよと言い返す仗助の乱暴な返しは露伴の聞いたことのない響きがある。リビングから廊下を隔てて移動するとそれなりに片付いた洋室に案内された。食べかけの菓子とジュースがあるところから部屋で寛いでいるところだったらしい。
「片付けろよ」
「あっ、触んなくていいっス」
足元にあった洋服に手を伸ばしかけると話はなんですかと口火を切る。
「康一くんにお前なんて言った?」
黙るということは後ろめたいという意味だ。露伴が睨みつけると仗助は目を逸らし、なんて言ったかなとトボけたことを言う。結婚式を挙げたことは事実だが、あれは酒に酔った悪ノリだ。なんの意味もない。たとえ結婚証明書にサインしても日本ではなんの効力もなかったし、露伴の戸籍も汚れない。
「きみはぼくを好きなのか?」
「そんなことあるわけないだろ! あんたとんでもない自信家だな!?」
「じゃあなぜ否定しない」
康一は仗助の言い分を信じていたし、露伴がどれだけ言葉を尽くしても照れて誤魔化しているように受け取った。悪夢のようなやりとりを思い出すと怒りで頭が沸騰しそうになる。仗助はため息をついてベッドに座り込み、うずくまった。寝乱れたシーツはぐちゃぐちゃで、だらしない男だと露伴は心中で呆れる。こんな寝室を見せてなんとも思わない時点で価値観からして違った。
「とにかく、金輪際、ぼくはきみと関わらない。一生の恥だ」
「恥、だって?」
低く恫喝する声色にいつかを思い出す。
初めて東方仗助に出会った日、露伴が一ヶ月の休載を余儀なくされたあの悪夢のような出来事。パーティークラッカーから庇ったスタンドはけれど、露伴をボロ切れのようにした。
「おれは恥ですか」
「男と結婚なんて醜聞がいいか?」
「違うだろ、あんたはおれだから嫌なんだ」
まるで露伴が同性愛者のような口ぶりをする。生まれてこの方、男に一度も惹かれたことはないし、性的嗜好もストレートだ。奇跡のように見栄えのいい男にだってよろめかない。男と付き合うくらいなら女を知らないまま死んだっていい。
「おれだから結婚したくせに」
「それは酔ってたから」
「違う! あんたはおれを愛してるって言った!」
「言わねえよ!」
「言いました! ビデオ見た? あんた十三回もおれを愛してるって言った!」
正視に絶えず、最後までは見てないがそんなことを言ったのか。キスだってした、と仗助が叫んだところでドアが開いた。
「あら、ごめんなさ〜い。お邪魔だった?」
仗助の母親が紅茶をサイドチェストに置くとにっこりと笑った。仗助とは姉弟のように若く、きれいな母親だった。雑多なものの重なりを手早く片付けるとティーセットを用意する。
「露伴先生は紅茶がお好きだって聞いてるのよ。ウチはコーヒーばかりだけど、きょうのために買っといて良かったわあ」
開けっぴろげで屈託のない笑顔は仗助によく似ていた。ひまわりとか牡丹とか、あざやかな花が開くように笑うひとだった。露伴がそう思いながら見ていると遮るように仗助が大きな図体を割り込ませる。
「いいから出てけよ」
「ドアは? 開けとく? 閉めたほうがいいかしら?」
「どっちでも」
しかしドアはきっちりと閉じられて、仗助が蒸し返す。
「キスだってした」
「あれはきみが無理矢理だ!」
「……おれ有名人っスよ、岸辺露伴の恋人だって日本全国に知れ渡ってるんです。どうしてくれますか」
要は金ということか。仗助を黙らせる方法なんて簡単だった。露伴が財布を出そうとすると金で片付かねえぜと先手を打たれる。
「同性婚したパートナーっスよ」
「だから! 人の噂も七十五日って言うだろ!」
「あんたにも味わってもらいたい。おれがどんな思いをしてるか」
後ろ指を指されるのか、陰口を叩かれるか、差別を受けるのか、想像の中の仗助が阻害されるが、事実じゃあないのだから後ろめたさはないし、否定すれば問題ないと露伴は考えている。
「否定しろよ」
「誰が信じます? 証拠あるんスよ」
「証拠って大袈裟な」
いくら旅先で浮かれたって男と結婚するようなバカな真似はしないかもしれない。実際に挙式し、恥ずかしいビデオは衆目の知るところだ。仗助だけじゃない。露伴だって迷惑している。
「そもそもどっちが言い出したんだ」
「あんたでしょ」
「なんでぼくが」
「おれなんとなく思い出したよ、あんたがチャペルあるぜって言い出して、おれがこんなとこで結婚する人いるんですかって訊いたら、じゃあぼくたちがしようかって連れ込んだ」
記憶がないと思って適当を言っているに違いなかった。
そのとき、ふと仗助を愛していると思った感情がよぎった。なぜいとしいと思ったのか、あの不可解な心情を思い出せば、少なくとも水掛論を制することができる。露伴は自分がプロポーズしたとは到底考えられなかった。仗助なんて圏外どころじゃない。眼中にもなかった。
「そもそもぼくがきみとだ」
それまで饒舌だった仗助が押し黙って、逸れた視線の先に湯気を立てている紅茶があった。せっかくだからカップに口をつけると舌に乗せた紅茶の味は風味が良い。茶葉はダージリンとオーソドックスだが、丁寧にいれられた味がした。
「きみのお母さん、すごく若いんだな」
うちの母親はと言いかけたところで手を握られる。
カップをもつ右手を仗助は質のように握った。邪険にすれば火傷する。
「なんだよ」
「おふくろ、あんたの好みなんスか」
「ない。きみの母親だぜ」
呆れて失笑する露伴はくだらんと一笑したが仗助は真剣な顔つきでああいう女がいいのと質問を重ねる。
「自分の親を女扱いするのはどうかと思うよ」
「だって、目が違った。優しい目をしてた」
仗助の母親によこしまな感情などあるわけがなかった。いくら若く見えても大学生の息子がいるし、その息子は仗助だ。絶対にありえない。優しく見えたなら母親という存在に対してだ。
「きみやっぱりぼくのこと好きだろう」
気づいてしまった。これだけ固執する仗助の感情は好きな人に構ってほしいという幼児性に似ている。でもあいにくだが失恋確定だ。露伴は男と付き合う趣味はない。結婚式はしたが何の効力もないし、いざとなれば法廷で争ってもいい。そんなくだらない裁判があるとしたら、また週刊誌のネタになるかもしれない。ネタにする分はいいが、されるのは性分に合わなかった。
「おれがあんたを好きだって?」
「好きだからあれを現実にしたいし、母親にも嫉妬するんだろう」
「いや」
「いやじゃあない。ぼくの目を見ろ」
メデューサに魅入られたように仗助は瞬きを忘れじっと露伴を見つめる。まだ握られたままの手にさらに左手を重ねて握ってやった。
「嫌いだと言え。ぼくを見て、嫌いだと言ってみろ」
いつから好かれていたのか想像もつかない。
仗助から好意を感じたことは一度もなかった。結婚式を挙げたからか、事実婚だと周囲に承認されたからか、その前からか。康一から聞いた話も辻褄が合う。それに、あのキス。
「ほら、言えよ」
「……」
ファーストキスだったからというわけのわからない理由で二度もキスされた。嫌がらせだと思ったが、舌まで入れてきた時点でふつうじゃない。身銭を切る真似をした理由は何か。
「悪いな仗助、ぼくはきみを好きじゃない。好きになることもない」
悪いなんて思うわけがなかった。
露伴は悪辣に笑って、挑発的に仗助を見上げる。俯いた仗助は顔の色をなくして季節外れの汗をかいている。
「でも、ぼくにできることがある」
「何……っスか」
小さな声にこめられた期待に気づかないほど愚鈍じゃない。
「ヘブンズ・ドアー!」
「嘘だろ、露伴やめてくれ!」
さっさとこうすればよかった。後ろ向きに倒れ込んだ仗助の胸がめくれあがって、本の形態になる。後ろの方のページには露伴の名前ばかり書いてあった。
まず岸辺露伴への攻撃を無効にする。じっくりと読むのはあとにして最後のページを引きちぎると、痛みなど感じないくせに痛いと仗助は叫んだ。
「オイ、静かにしろよ。きみのお母さんもちょっと書き換えさせてもらうけど、今現在ひどい五回をされてそうでいやだなァ」
からだをバタつかせて逃げを打つ仗助を見るのも最後だろう。
なにしろ、ここに書き加えると接点はなくなる。露伴は躊躇いなく、その文言を書いて仗助の記憶を奪った。懇々と眠る顔はホテルでの目覚めを思い出す。年相応の幼い寝顔にあのときと同じサインをしたくなって、露伴は破り取ったページを慎重にポケットにしまうと部屋を出た。自分のものだと記すような楷書の文字は残してない。
ひとりひとりの記憶を書き換えるには手間がかかる。
事実にしがみつこうとした仗助を始末すればあとは世間が忘れてくれることを待つばかりだった。半年もすると露伴の結婚が話題に上ることもなくなり、またいつも通りの生活に戻った。
「げえ、岸辺露伴」
コンビニでばったりと顔を合わせた仗助が苦虫を嚙みつぶしたような顔で舌を出す。
「ご挨拶だな、東方仗助」
知り合った頃よりずっと険悪になって、仗助から気さくな挨拶や愛想笑いも消えた。露伴も望むところなので同じだけ嫌な顔をして見せる。
「意識高いもん食ってんスね」
サンドイッチとコールスローを手にした買い物をあざけって仗助はOLの飯みたいだと嘲笑した。そういう仗助は手ぶらだった。露伴が口を開きかけると派手な女が仗助くんと呼ぶ。話をしている露伴に気づくと軽く会釈したから、見た目より育ちが良いらしい。
「仗助くんの好みはどっち?」
しかし女は恥じらいもなくコンドームの箱を仗助に差し出して露伴の前で品定めし始めた。
「見た目かわいい方がレジで買いやすいけど、薄い方がアタシは好きかな。ナマに近いってゆーか」
「じゃーそっちで」
「わかった、コレ買ってくるね」
女をレジに行かせて平然としている仗助はファーストキスもまだだと言ったはずだ。露伴が初めての相手だと言ったのに、半年で何が変わったのか、露伴が唖然としていると含み笑いが聞こえた。
「センセーには縁がないでしょ、女とかアレとか」
「きみ、初めてキスしたのはいつだ?」
「はあ?」
怪訝な顔をしながらも小学校か幼稚園じゃないっスかと答えた。
「嘘だろ!」
あのときの仗助に嘘をついている様子はなかった。もし見抜けなかったのなら、露伴の目が節穴だったということだ。おれの初キスなんてあんたには何も関係ないでしょと冷静に言われて返す言葉がなかった。そうだ、露伴には何も関係がない。女が金を払ってビニール袋を下げてきた。仗助が笑いかけて肩を抱くとふたりはそのまま店を出て行く。
破いたページに書かれた恋心を捨てられなかった。独白めいた好きでたまらないと書かれたそのどこにも露伴の名前があった。仗助は露伴を好きだった。好きだった仗助は今の仗助と違う。記憶を改竄したのは露伴だが、むしょうに腹が立った。追いかけてお前の相手はぼくだと言ってやったら頭がおかしいと失笑するだろうか。
今更だ。
仗助には付き合っている相手がいる。コンビニで避妊具を買って行くところなんて、女の部屋かホテルか、仗助の家かもしれない。女だったら堂々と親にも紹介できるだろう。後ろめたいこともない。それが普通だ。
食欲など失せて商品を棚に戻すと露伴はコンビニを出た。ふたりがどちらの方向に向かったのか見てなくてよかった。もし見送っていたら探そうとしたかもしれない。駆け出したかもしれない。仗助に、お前が好きなのはぼくだろうと問い詰めたかもしれない。
39ドル95セントのビデオを正規のルートで購入し、露伴は最初から最後まで見た。愛を誓い、署名し、キスを交わし、幸せそうに笑っている。テレビの中の露伴は自分の知らない顔で笑っていた。仗助と手を取り合って、涙ぐんでありがとうと言った。
『おれずっとあんたが好きだったんスよ』
仗助はぼろぼろと大粒の涙をこぼして泣いて、しんみりした結婚式はプレスリーのそっくりさんがlove me tenderを歌いだしたところでソフトフォーカスがかかった。いつか仗助が言った通り、露伴は仗助に十三回も好きと言ったし、仗助も負けじと答えてくれた。
「もしかしてぼく、アイツのこと好きとかないよなア」
ありえない。
ありえないのに、なぜ塞ぎ込んでいるのだろう。仕事をしていると忘れられるが、漫画が一段落すると女とコンドームを使う仗助の姿がよぎった。事後にのんきな寝顔だってさらしているだろう。寝起きの低い声だって、あの女は知っている。
「それどころじゃあないか。アイツと結婚式を挙げたのはぼくだけど、あの女はセックスしてる恋人だもんなァ」
酔った挙句の挙式なんてノーカウントだ。
なかったことにしたくてしょうがなかった結婚を、露伴は取り戻したかった。破ったページを仗助に返したって、以前と同じようにはいかないだろう。仗助はあれでうまいこと好意を隠していた。露伴に嘘をついてまでキスしたし、ずっと好きでいたことも知っている。
好意を打ち明けられても露伴は自分の気持ちを認められたかどうかわからない。仗助に感じた愛情をあのとき追求しておけば結末は違ったかもしれない。
どれも、過ぎたことだった。
「未練かねえ」
引き出しにしまった仗助の心を広げる。
A4のサイズだからけっこうな大きさだ。面積の広い部位が本になったからだろうか。引きちぎるとき、仗助は痛いと騒いだが、心を破られると痛みを感じるように思うのかもしれない。露伴の名前がいくつも書かれたページを丁寧に畳むと、仕事部屋を出る。
キッチンに降りてコンロに火をつけると焚べようとしてほんの少し躊躇した。燃やしてしまえばたった一つの事実が消えてしまう。
結局また引き出しにしまってまるでよすがだと笑えた。
うだるような夏がきた。
一年前、仗助をこきつかった夏だ。七月の終わりに杜王町を中心にしたような熱帯低気圧が発生した。海沿いのこの街はときおり台風の通り道になる。
停電になるかもしれないと水と食材の買い出しに出かけた先でもう雨が降り出した。車で来ればよかったが、空の色や街並みの変化を見てみようと歩きで失敗した。スーパーでばったり顔を合わせた仗助は日焼けして精悍な印象を受ける。コンビニで出会ったとき以来で、ずいぶん久しぶりに感じた。今までの偶然が必然だったのだろうか。
露伴を見とめると仗助の表情が歪む。
いやなもの見ちまったぜと言葉より雄弁な表情に喉に小骨の刺さったような痛みを感じた。そんなことはおくびにも出さず、露伴は鷹揚に微笑んで仗助に声をかけた。
「やあ、仗助」
「露伴先生も買い物っスか」
仕方なしにという態で答える。
憮然とした顔つきのまま、何がそんなに不愉快なのか、仗助は露伴を睨みつけたままじゃあと立ち去ろうとした。
「待てよ」
引き止めたが言う言葉がない。
「何スか」
焦れて仗助が訊いても何も返す言葉がなかった。咄嗟に覚えているかと言って、露伴は仕方なしに弁解する。
「きみとカジノで結婚したのが一年前だな」
「ああ、あれ……すげえ馬鹿なことやっちゃいましたよね。おれホモだって噂されてさんざんでした。男に迫られたりしてマジ勘弁だったぜ」
記憶は書き換えたが、事実はそのままだ。なかったことになってない。結婚した経緯にまつわる感情を消しただけで、仗助は露伴と結婚した記憶が残っている。
「あんたも男に迫られたりしなかった?」
軽いため息をついて仗助が何の気なしに訊いた。そして露伴はその問いかけに賭けた。もし、最後に破ったページ以外に露伴の名前が書いてあったのなら、やり直しができるかもしれない。せめて、昔のように笑ってくれるだけでよかった。
どこで会っても気さくに露伴に声をかけてくれた。挨拶くらいしろと言ったことがもとだろうが、それでも確執がなかったように愛想笑いをくれた。
「した」
「はァ〜物好きもいるもんスね」
話半分、どうでもいいような口振りにやめておけばよかったが、止まらなかった。
「襲われて全治二週間」
「は!?」
「宅配業者を装って、スタンガンで一発。あんなの、忘れるしかないね」
よくも嘘がペラペラとつけるものだと我ながら呆れるが、創作する人間が作りごとを言うくらいわけない。瞠目する仗助を見て、胸がスッとする。
「ぼくを縛り上げて足をひらかせ、無理矢理つっこんできたんだ」
「……嘘でしょ」
おぞましい話を聞いて青ざめるのは嫌悪感か、別の感情か、判断がつかない。たとえもしその話が真実なら露伴は男に犯されたことを黙って墓場に持っていく。誰にも言わない。言えるわけがなかった。
「ぼくの全身をまさぐって、気持ちいいかと訊いて、やめろと言ってもやめてくれない」
失敗した。
露伴を見下ろす仗助の目には同情と憐憫が浮かび、黙って露伴の手を握った。買い物をしている右手を握って、無言のまま荷物を引き取った。
「そういうの聞くと、ひとりじゃ帰せないよ」
憐れみなんかいらないと突っぱねるどころか、思い通りの展開に安堵する。
傘をさしても意味のない横殴りの雨は会話を許さなかった。それがちょうどいい。余計なことを言ってこれ以上墓穴を掘るより黙っている方が利巧だ。
家に着くと黙ったまま荷物を差し出して、仗助は一つ頭を下げた。謝罪のような礼を受け入れるわけにはいかない。何も仗助が責任を感じることはないのだ。それでもここで帰すわけにはいかなかった。
「なァ、仗助」
鍵を開けると薄暗い家の中から湿気に紛れてまとわりつくような生温い風が通り過ぎる。意味深に見えることを計算づくの上で露伴はあえて視線を逸らしながら誘った。
「ちょっと寄っていかないか?」
断ったっていいのに、仗助の黄金のたましいは汚れがない。嫌いな相手だろうが、労わる気持ちを持っていた。居心地悪そうにしながらソファで借りて来た猫のようにしている。
紅茶を出してやると口をつけたが、黙ったままじっと窓の外を見た。まるで時間が過ぎるのを待っているようだが、長くいればいるほど台風はこの街に近づく。
「そろそろ帰った方がいい」
赤裸々な作り話の続きを披露して同情を買って醜い計算をすればするほど、荒唐無稽で馬鹿げていると気づいた。出会い頭にスタンガンを使われたら、さしものスタンド使いだって何もできないかもしれないが、露伴は警戒心が強い。たとえ宅配業者だとしてもそれが見覚えのない顔だったら油断はしない。
「馬鹿なことしなきゃあよかった」
ぽつりと独白めいた小さな声に反応が遅れた。
「おれあんまり覚えてないんスよ、アメリカ行ったこと」
パスポートのスタンプや父親の話、アメリカで買ったもの、それらは思い出として手元にあるが、実際の記憶にリアリティがないと言う。藪蛇に露伴が舌を打ったときはもう遅かった。
「あんた、何かしたでしょ」
「何かって」
「おれはアイツが好きかもしれないってノートに書いてた」
「コンビニで見かけた彼女のことだろう」
自分の美貌を武器にしたような女、ボディラインを強調した服装に原色のネイル、流行りのブランドに身を包んだ派手な女は仗助のとなりにふさわしかった。
「彼女じゃあないっスよ。一回だけだし」
爛れたことを聞いて、仗助がそれを言ったことにショックを受けている。
露伴の知っている仗助は女と遊びで関係を持つような男じゃあなかった。大学生ならごく普通のことかもしれないが、露伴の知っている仗助は女遊びなどしなかった。媚びてまとわりつく女子生徒に対して丁寧ではあったが、一線を引いていた。あのページを破いたことで変化させてしまったのなら、それはたましいを歪めたことになりはしないか。
「寝たのか」
「おれのことはどうでもいいよ」
「それが初めてだったのか?」
「……いいじゃあないっスか、おれのことなんか」
キスしたことがないといったことも嘘だったし、露伴が知らなかっただけで遊んでいたのだろう。勝手に燃え上がって馬鹿みたいだ。
激しい音が庭先で聞こえた。窓の外は灰色の風が渦巻いて滝のような雨が降り始める。台風の通り道になることなんて数年に一度あるかないかのビッグイベントだ。海に行ってそれを見ようと思う物好きではないが、自宅で観察するぶんは嵐を堪能したい。
「帰ったほうがいい。風も強くなってきた」
「もう無理っスよ」
おれは自分のことは治せないからと仗助は言って脚を組み直した。
「時間たっぷりあるんで、いろいろお話しましょうよ、露伴先生」
改めてビデオを見たが、仗助の反応は始終にぶかった。証明書にサインし、結婚したことで歓喜するふたりと対照的に、一年後の露伴と仗助は言葉もなく淡々と画面を見ている。
「プレスリー歌うまいね」
優しく愛してと歌う甘い声は本家と遜色なく聞こえた。
「露伴は、人生を完全なものにしてくれる人と結婚するんだろうなぁ」
「結婚なんかしない」
歌詞から連想したのか、そんなことを聞かれた。二十代半ばになると縁談の話がいくつもあるが、露伴はそのどれにもいい返事をしなかった。自分の相手は自分で決める。けれど結婚願望があるわけでもない。
「したじゃん、おれと」
まぜっかえすように言って、仗助が以前と同じように親しみのある笑顔を見せてくれるから露伴は期待したのかもしれない。
「でも、おれとじゃあね」
天国から地獄。何の含みもないから余計に突き刺さった。バチが当たったのだ。スタンドで人の心を簡単に操る露伴を、神が罰したのかもしれない。
もし、神がこの世にいたらそれくらいですむとは思えなかった。口数の減った露伴を気遣ってか、仗助は寒くないかと訊いた。会話のきっかけにもなりはしない。それを汲んでやれるほど露伴は大人じゃあなかった。
言葉少なに食事を済ませ、交代で風呂を使うと露伴は仗助を客間に案内した。この家を建てたとき、誰を泊めるんだと思いながらも設計図にあった客間が初めて使われる。
「あのさ、おれ、結婚したとき本気だったと思う」
ベッドに入りながら仗助はそんなことを言い出した。眠気があるのか、声に張りがなく少しゆっくりした喋り方をする。
「あのときあんたを好きだと思うんですよ。気持ち悪いだろうけど」
「ぼくも」
咄嗟に本音がこぼれたが、仗助は気にもかけなかった。
そっかとだけ答えてこちらに背を向けて眠りの体勢につく。おやすみと言って部屋を出ると、露伴は仕事部屋に向かった。仗助にこのページを返してしまおう。恨まれても、憎まれても、嫌われても、今よりはいい。露伴に注意を払わない仗助に我慢できない。いやだった。
丁寧に畳んでいたページを持って客間に戻るとき、廊下の明かりが消えた。停電だ。壁伝いに客間に入り、健やかな寝息の聞こえるベッドに足音を忍ばせて近づく。引きちぎったページが音もなく吸い込まれるように消えた。
「仗助」
揺さぶり起こせば、何スかといつかのように低い声で問いただす。
「停電した」
「寝るしかないっスよォ。台風過ぎたらピーカンなのなんでだろ」
ふわっと笑う気配がして、それだけ言うと仗助はまた眠りに戻った。寝ぼけて記憶がはっきりしないのだろう。記憶を返したことへの反応はない。
暗がりに何も見えないからこそ想像だった。露伴はまた壁伝いに部屋を出て、今度は自分の寝室に向かう。あしたの朝がこわかった。奪った記憶を知る(・・)仗助がどういう反応をするのか想像もつかない。
台風は一晩中うるさかった。うねるような風の音、それから地面を叩きつけるように降った雨。やがて遠ざかり、いつも通りのおだやかな朝だった。
寝つきが悪かったせいか目覚めは時間がかかった。仗助のことを思い出して部屋を出ると客間を開けて、きちんと畳まれた寝具が目に入るとリビングに降りたが室内は無人だった。とっさに玄関を開けると夏のまばゆい太陽がじりじりと照りつける。道路の白い照り返しをしばらく見つめて、まだ寝巻きであることに気づいた。
のろのろと邸内にとって返し、頭を抱えた。
仗助がここにいない理由は火を見るよりも明らかだった。
奪った恋心を仗助は責めなかった。
責めなかったが、なかったことにされたのだろう。電話することも、会いに行くこともできず、忘れるために仕事に精を出していると二ヶ月先の原稿まで描いてしまった。
没頭したが、完全に忘れることはできなかった。ふと気がつくと、ペンをインクに沈める一瞬だったり、紙を差し替える隙間に仗助を思い返した。
長い夏の終わり、やっと訪ねてきた。
「一発殴ってやろうと思って」
覚悟はできていたので了承すると戸口でいきなり突き飛ばされる。転びそうになったからだを支えて、胴に腕を回したまま奥へ連れて行こうとした。殴られようが蹴られようが何も言えなかった。弁解もできない。
リビングのソファに投げ出され、露伴はおとなしく目を閉じた。歯を食いしばってしまうのは仕方ない。力を込めてないと殴られた衝撃で口の中を噛んでしまう。
これも仗助に教えられた。襟首をつかまれ、ひぐらしの鳴く夕方、口付けられた。声が出ないほど驚いて目を開けば、真剣な目と合う。
「あんたがうちに来てくれて、浮かれてた。隙があったおれが悪い」
「そうじゃあない」
卑怯な真似をしたのに仗助は自分のせいだと言った。それからごめんと抱きしめられて露伴はまた言葉を失った。
「襲われたのもおれが……おれが馬鹿みたいに遊び歩いてるときで」
コンビニで見かけた女のことが過ぎって、一端のプレイボーイだった仗助を思い出した。露伴に無関心で、見る目には感情がなく、どうでもいいような口の聞き方をした。歓心を買うように声色を変えたり、気を引きたくて突っかかったり、生意気な仗助のほうがずっとよかった。
「そいつ殺してやりてーよ」
嘘だと言いづらかった。
それこそ仗助の顔色を窺うために使った嘘だった。
抱きしめられて、啜り泣きが聞こえるとさすがに罪悪感が芽生える。泣くほどのことかと訊けば、くやしいと答えるからなんだと気づいた。仗助に戻した心は何も変わってない。変わってないから露伴が男に襲われた嘘をかなしんでいる。
「許してくれるか」
「でももうスタンドはダメだぜ」
謝罪の向きが違ったが、誤解を解くより既成事実が先だった。
「じゃあ許すって言ってくれ。全て水に流すと言ってくれ」
「何されてもおれ、あんたが好きなんだ」
血を吐くような告白は愛よりは死を告げるような重みがある。悲痛な声音は仗助の覚悟だろうか。露伴だって心を決めた。
「嘘だ」
「何が」
「襲われてない。あれはぼくの創作だ」
「は?」
引き剥がされて唖然とした顔に一度だけ謝ってやる。ごめん、と。
「あんたねえ! おれ宅配業者ってやつずっと探してたんスよ〜! 夏休みあちこちバイトして! 絶対復讐してやるって」
「いないものをどうやって探すんだ?」
「……嘘でよかったけど、よかったけど、あんたどれだけおれを騙してんだ」
もうないと言っても信じてくれなさそうだった。
「よかった。……よかった」
赤らんだ目元をなぞるとなついて、仗助は露伴を抱きしめた。恥ずかしくてむずむずする。どういう顔をしていいかわからないし、突っぱねてしまいたいのをなんとか堪えている。
「きみだってぼくが初めてじゃあなかったくせに」
キスの件を責めると好きじゃあない人といくらしたってノーカンですよと言って呆れさせた。
「手がつめたくなるほど緊張したのも、ふるえるほど怖かったのも、ドキドキして心臓が飛び出そうになったのも、うれしくて泣きそうになったのも、あんただからだ」
「する?」
ぎこちなく近づいてきた目がじっと露伴を見ている。熱に浮かれたように目の色が違った。ぼうっとしたような、何かに見惚れているような、心もとない目の色を見ていると胸が騒がしくなる。柄にもなく緊張して喉が渇いてきた。仗助はぼんやりと呆けてキスをしそうにないし、また今度仕切り直しをしようかと申し出たら唇が重なった。
無遠慮に入ってきた二回目のディープキスと違う。全然違った。やさしく舌先が触れてくると露伴をたしかめるようになぞり、根元から先端へ舌を這わせる。からだが震えるような電気が走って息が漏れた。
「んっ」
恥ずかしくて死にそうな目に遭いながら、けれどキスを拒むことができない。口の中を大胆に愛撫すると今度は食むように舌を吸った。
舌を吸われるたび湧いてくる唾液を、仗助は躊躇いなく飲む。きもちがよくて鼻息が荒くなった。頭の芯が痺れるような快楽は露伴の知っているキスとは違う。息継ぎがうまくできず、目の前が霞んでこのまま死んでしまいそうなのに拒絶できなかった。死んだっていい。このまま息絶えたっていいくらいのキスだった。
「べろ出して」
キスが終わると仗助は濡れた唇のまま命じる。
躊躇いを読んだようにもう一度同じことを言われたら従うしかなかった。舌を出すとキスをしないまま、舌同士を音がするほど絡ませあって脚が震える。
「あ、……あン」
目尻に涙がたまるのがわかった。鼻から抜けるいやらしい喘ぎ声を止めるために露伴からその舌を食んだ。
口の中に入れるとキスはもっと深くなる。さっきまで宥めるように愛撫した仗助が今度は攻撃的に噛み付いた。きもちよさと痛さの中間点、痛みはジリジリと炎天下に放り出された氷のように露伴も溶けた。いつのまにか膝に抱かれてからだを預け、夢中になってキスをしたが窓の外はまだ夜にもなってない。
「ベッド、行く?」
欲情に枯れた声を仗助は同じくらいあまったるい声で答えた。
「まだ早い」
「うん?」
耳を疑うことを聞いた。露伴が目を丸くすると仗助は咳払いしながら頭を撫で付ける。スプレーで固められた頭髪は何も乱れがないのに、丁寧に後ろに流して髪型を気にした。頭なんかどうでもいいだろと言いそうになって、寸前で堪える。
「早いって、ぼく生娘でもなんでもないんだけど。……男だからか」
「違うって! そうじゃあないです、おれずっとあんたが好きだったのに」
「ずっとっていつだ」
「……高校ンときから」
嘘だろ、と今度こそ叫んだ。
高校生の仗助から好意を感じたことなど一度もない。
クソがつくほど生意気で顔を見れば金をせびって、何度煮湯を飲まされたか知れたものじゃなかった。好きだからガキっぽく見られたくなくて大人ぶってましたと告白されるとますます困惑する。
「いや、きみの態度は大人じゃなくてガキだったよ」
露伴の口元を拭ってくれるしぐさは経験豊富な様子が見え隠れして歯痒くなった。
「オトナの東方仗助はぼくを抱くくらい朝飯前だろう?」
わざとアクセントを置いて嫌味を言っても仗助は手を出そうとしない。キスをするとき主導権を握ったのは仗助だったが、抱かれたいのかと気づいて露伴は提案した。
「わかった。抱いて欲しいのか」
「全然わかってない!」
「どっちでもいい。抱いてもいいし、……抱かれてもいい」
きみが選べと言うより先に噛みつかれた。
引き寄せられてキスをして、すぐにあの生ぬるい舌が入ってくると露伴は頭に靄がかかった。音を立てて、下品な食事のようなキスに例えようもなく興奮する。吐く息は熱く、エアコンの冷房はちっとも追い付かない。汗が吹き出てくらりと眩暈がした。
「おれたち結婚したんですよ」
「ああ」
「初夜ならこうやるのがルールでしょ」
膝の裏に腕を通して抱かれるとほんとうに初夜の花嫁のような心地がした。おとなしく仗助の胸にしがみつく自分が信じられなかった。心臓の高鳴りは全力疾走したときよりやかましい。誘ったものの、寝室の所作なんか知らない。どうしたらいいかわからない。
「こっち?」
ドアの前で仗助が聞く。
うなずいたらもうやめようなんて言えない。この部屋に入ったら始まってしまう。露伴を知らないところに連れて行ってしまう。怖気付いた気持ちを読んだか、困ったようにほほえんで小さな声がした。
「きょうはやめようか」
あまのじゃくな性格を知られている。露伴は見るなと言われたものが見たくなる。したいと答えてしまった。視界の端で口角があがって、ドアが開けられる。
もう恥ずかしいことなんて何もなかった。
からだの隅々を開示して、露伴もおなじだけ仗助を知った。分け合う体温の心地よさも身をつらぬく痛みも、痛みだけではない快楽も、きのうまでと違うからだの仕組みも。
「オイ、仗助、起きろ」
あの朝と同じように揺さぶり起こす前、露伴は身支度を整えた。シャワーを浴びて髪を整え、清潔な服に着替え、見た目だけならさわやかな朝を演出している。
「起きろってばッ」
「んん」
ベッドの中で大きく伸びをする健全なからだはシーツもまとってなかった。均整のとれた肢体は美しく、フィルムに収めたいほどだったが、それはまた別の機会にしたい。
「きれいです」
そう言った仗助こそ夢のようにきれいな男だった。美しい容貌を上回る美しく強い心を持っている。露伴の知る誰よりもきれいな男は目を細めてまた言った。
「いつもきちんとして、露伴はきれいだね」
「きみが言うか?」
「どーゆー意味?」
見目の良い顔立ちも、街中で際立つそのスタイルの良さも、ちょっとした仕草が驚くほど人目を引くことも、仗助は他人から見られることに無関心なのかもしれない。露伴が見とれる甘い笑顔のまま、手招いた。
「新婚なんスよ」
「一年遅れのな」
「一年分したい」
「……だめ」
きのう一晩だけで頭がおかしくなりそうな快楽を知ったのに、それを覚えてしまったら色々とまずい。仗助がいないと夜も明けないとか、欲しくてからだがうずくとか、好色なおのれの性を自覚させられてもっとなんて望みたくなかった。
「なんで? よくなかった?」
「きみは慣れてるけどぼくはそれほどね」
「それほど? また嘘かよ」
嘘というより見栄だった。経験値のなさはわざわざ言うまでもない。
そういうことは野暮だった。仗助が遊んでいることを知っている手前、口が裂けても言いたくなかった。蒸し返して藪蛇になるより話題を変える。
「朝帰りに言い訳がないくらい爛れた生活を送っていたのか」
「電話しましたよ。露伴先生ンち泊まるって」
いつの間にだと訊くより、あんたが寝てるときにねとこともなげに言って仗助は話を戻した。
「おれも嘘ついてる」
「何を?」
「誰ともしてません」
「はあ? お前ゴム買ってただろ!」
「ああいうの平気で買う人はなんかチョット」
「ぼくだって買うぜ。後始末大変だったんだからな!」
恨み言こそ藪蛇だった。何が興奮材料だったのか、マジっスかと押し倒されてしまった。もう風化して等しい結婚話が事実になったところで誰も構うものはいない。
再び記憶を書き換えた仗助の母親はやっぱり理解がありすぎたし、露伴は一年遅れの新婚生活を楽しんでいる。