1.
窓ガラスの向こうで小さく鳥が囀るのが聞こえた。この部屋で目が覚める時に最初に聞く音は、大抵ガラスの仕切り一枚向こうで何事かを囁き合っているその声だ。窓の外には背の高い木が生えていて、その葉の影が時折風に揺れて窓の向こうに見える。小さなお喋りは多分その木の枝の上で行われているのだろう。
ぼんやりと目蓋を開いて横を見れば、青白い顔が枕の間で寝息を立てているのが見えた。起きている時に比べると何の威圧感もなく、あどけないようにすら見えるそれをぼんやりと眺めながら、晶はこの景色を見ながら目を覚ますのは、一体何度目だろうかと考えていた。――多分八回ほどだ、彼がこの家に住むようになってから、約一週間が経過していた。
このベッドは本来一人分とちょっとほどの大きさしかなかったのだけれど、魔法使いの神秘の力は物のサイズを変えることくらい、ものともしないらしい。晶の隣に眠る男はこの家に戻ったその日に呪文一つでベッドのサイズを変え、二人で寝ても狭くないような大きさにしてしまった。おかげで身体の距離は離れている――泊りに来た友達を隣に寝かせていると言っても、言い訳の利く距離感だった。
未だ開くことのない、長いまつ毛に縁どられた目蓋を眺めながら、晶はこんな人間離れした男でも子供のように無防備な顔をして眠るのだなと考えていた。どことも知らぬ見知らぬ浜に打ち上げられ、マナ石もないので箒と魔法を使ってなんとか帰宅したその日、フィガロは晶がこの家に留まれるようにいくつかの雑用を済ませた後、それきり眠りについてしまった。それは長い眠りだった――もう目覚めないのではないかと晶が不安になるほどの。
勿論晶も溺れかけたり、界を超えた疲れからたくさんの眠りを必要としたけれど、フィガロよりはずっと早く疲労から回復した。恐らくフィガロは自分の故郷とする世界から遠い場所で長く暮らし、気力、魔力共に疲弊していたのだと思う。彼が眠っている間、晶は遠慮しながらも、仕方なく勝手に家の中のものを使って、時々果物や水を運んだりして、彼の世話をした。そうされている間、フィガロは朦朧としているように見えることもあったけれど、二日ほどで元通り、いつもの軽口を叩けるくらいには回復した。
フィガロの口がむにゃむにゃと何か呟こうとしているかのような動きをして、それからその手が布団の一部を握り締めたのを見て、晶は思わず微笑んだ。一体何の夢を見ているのか、何千年も生きたらしい男がそうやって柔らかいものに身体を預けているのを見ると、どこか安心するような気がした。この人と自分の間にも、まだ何か共通点があって、理解することができる可能性があるのだという風に考えられたからかもしれない。
晶はフィガロを起こさないよう、そっと布団から這い出ると、裸足の足で少し冷える木の床を踏んで、台所へ立った。教わったようにやかんを火にかけて、それから食料貯蔵庫に卵を取りに行った。本来火をつける道具だとか、そういったものを必要としないフィガロの家には、マッチなどがなかったが、三日目にはさりげなく台所の隅に似たような道具が用意されていた。
どういう仕組みか、スイッチを押すと柔らかに顔を出す魔法の炎の上にフライパンを置いて、晶は目玉焼きを作り始めた。今日はフィガロが診療所を開けなければならない日だということがわかっていた。放っておくと、フィガロは適当なものだけ口にして、あまりまともに食事をしないことが多いというのは、ここへ来てからわかったことだった。台所の使い方を覚えてからは、なるべく早く起きて何か食べさせることにしていた。――フィガロが晶の家でそうしていたように。
程よく固まった卵に蓋をして、野菜に刃物を入れていると、やがて後ろから僅かな足音が聞こえた。振り返ると、寝間着姿のフィガロが目をこすりながら寝室から出て来たところだった。彼は晶の背後に立つと、そっと後ろから腕を回して来たので、包丁を傍らに置かざるを得なかった。柔らかく込められる腕の力には、若干の遠慮のような、様子を伺うような気配が感じられる。晶が胸元のその手に触れて見上げることで、ようやく腕はほんの少しだけ晶の身体を引き寄せた。
「おはようございます、ごはんできてますよ」
晶が微笑むと、フィガロは目を瞬かせて僅かに首を傾げた。
「――今日はなに?」
「目玉焼きです、あなたの好きなエッグベネディクトを作るにはマフィンがなかったので」
「――じゃああとで買ってこないといけないね」
彼はやわらかく言って身体を離すと、それから既に湯気を上げているやかんを取って、ティーポットに湯を注ぎ始めた。
「なんのお茶がいい?」
フィガロの問いに、晶は「なんでも」と答える。正直なところどれも晶の生きる世界のものとは味が違っていて、慣れるまでに時間がかかりそうだった。魔法舎で過ごした一年があるとはいえ、一度慣れた故郷に戻った後では、味覚の癖のようなものは完全にもとに戻ってしまっていた。
「これが一番癖がないのかな」
晶の思うところを理解してかしないでか、フィガロはオレンジ色の缶をとってその中身を少しポットに入れ、それから食卓にそれを運んだ。
目玉焼きと季節の野菜を並べた皿をつつきながら、二人は静かな朝食をとった。この国の朝の時間はとてもゆっくりと流れるので、晶の家で共に過ごした朝とはまた違っていた。何度もそうやって朝食を共にしたはずなのに、若干のぎこちなさのようなものもあった。急に場所が変わったせいかもしれないし、テレビも何もなくて、家の周りもごく静かなせいもあったかもしれなかったが。
「――料理が上手になったね」
フィガロがそう言うので、晶は苦笑した。
「ただの目玉焼きに、野菜を切っただけじゃないですか」
「こういう時は褒めておいた方が喜ばれるのかと思ったのに」
自分の言葉が思ったような効果を得られなかった時の小さな落胆を表情に浮かべながら、フィガロは言った。
「――でも実際、黄味が固まりすぎてない」
「フィガロが色々道具を改良してくれたので。――火をつけるのがだいぶ楽になりました」
「俺は魔法でやっちゃってたからね」
フィガロは事も無げに言って、レタスのような野菜の切れ端を口に運んだ。
「――そう言えば、今日は何をするの?」
その問いに晶はすぐに答えることができずに唸った。
「うーん、どうしましょう……フィガロは俺にやっておいてほしいこととかありますか?」
「――そうだな、家の中の掃除とかしておいてくれたら、なんか嬉しい気がする」
「嬉しい気がするだけですか」
独特の答え方に晶は笑う。時々この男は自分の感情を表現するとき、まるでそれに対して確かな実感がないような言い方をすることがある。
「あとは、昼ご飯を作って待ってくれてたりだとか。……ああ、でも買い物に行かなきゃだめなのかな」
「簡単なものなら家にあるものだけでできるはずですよ」
晶がそう言うと、フィガロはほんのりと嬉しそうに微笑んだ。
「楽しみだな、どんなものが食べられるのか」
「――一人だったらほとんど食べないのに?」
晶がそう返すと、フィガロは笑って「そんなもんだよ」と言った。
診療所が開く時間が来たので、フィガロは診療所のある別棟へと移動し、晶は朝食の片付けと掃除を始めた。ここへ来てから一週間ほど、それは晶の毎日の習慣になり始めていた。晶の家でフィガロが家政夫の役を担ったように、今度は晶がそれをフィガロと、フィガロの家の為にする。それは一夜にして役割が逆転してしまったような奇妙な経験だった。
それに呼応するかのように、晶とフィガロとの間に流れる空気も、ほんの少しだけ変化していた――奇妙なことに、そこには今までよりほんのわずかに余分な距離や躊躇いがあった。
洗濯物を盥の中の生ぬるい水につけながら、晶はぼんやりとフィガロの態度の変化について考えていた。彼は晶の家にいた時、ことさらに揶揄うような、あるいは誘惑するような言動を繰り返したけれども、今それはなりを潜めていた。先程のように、身体的な接触を図ろうとすることはある――就寝時も、同じベッドを分け合う。けれど、フィガロの行動のひとつひとつには、いつも遠慮というか、探るような色があった。そして以前しばしば見られたような生々しい気配はそこから消えていた――まるで意図的にそれを消したとでもいうように。
勿論、過度に性的な接触を図られれば晶も困惑したのだろう、だからフィガロが節度をもって接してくることは、晶にとって不都合なことではないはずだった。けれど、時折ふいに寂しいと感じることがあった――急にそこにできてしまった不思議な隙間が、喉の奥に引っかかった小さな小さな、特に害のない魚の骨のようにもどかしく感じることがあった。
その隙間風は晶を少しだけ不安にもさせた。――やはり自分の取った選択はフィガロにとって最適なものではなかったのだろうか――実際に晶が傍にいることで、何か考えるところができたのだろうかと、どうしても考えてしまうことがあった。
もしかしたら、晶が彼と共に界を渡ったあの時に、お互いの気持ちについて確かめておくべきだったのかもしれない。少なくとも、晶がとういうつもりで彼を追ったのかくらい、それとなく口にしておくべきだったのかもしれない。けれど、それはいずれも改めて相手に伝えるには少しだけハードルの高いことで、結局二人は互いの腹積もりについて、何も言葉を交わせずにいる。剥き出しの気持ちをぶつけることは、お互いに別人の隠れ蓑をまとっていた頃のように容易くはない。
今更考えてもどうしようもないことを考えたって、と盥から重く濡れたシーツを引き出しながら、晶は少しだけくすんだ感情を振り払うように、頭を振った。大きな変化には、ストレスが付きまとうものだ――自分だってフィガロが家に来た当初は、不慣れなことが多くて、苛立ったりもしたのだから。
ぎゅうぎゅうと濡れた布を手で絞って、晶は息をついた。文明の利器に甘やかされ続けて来た腕は、穏やかな南の国の生活に追いつくのに、ちょっとだけ力が足りない。
フィガロのリクエスト通り家事をこなし、昼食などを用意してやってから、晶は日が傾き始めた頃、夕食の為の買い物に出かけた。先日初めてフィガロに連れられて、近所の食料品店を訪れたけれども、慣れない世界での買い物はこんなにも勝手が違うものかと舌を巻いた。賢者として魔法舎に居た頃も、買い物をしたことがないわけではなかったが、日用品を安く探すなどという苦労はしたことがなかった。割引のシールの代わりに、ここでは店主が買い得の品を教えてくれるのだと、フィガロが言っていた。
新鮮な季節の野菜を袋に詰めてもらい、それからベーコンのような保存の利くものも買い込むと、晶はそのまま夕焼けの道を帰途についた。食料品店のある一角は、フィガロの家から二十分も離れたところにあって、重い荷物を持ってそれだけの距離を歩くのは、骨が折れた。
少し汗ばみながらふうふう言っていると、ふと、遠く後ろ側で僅かに風を切るような音がした。その音は段々背後に近寄って来て、気配と共に大きくなった。何だろうと本能的に振り返ると、空を舞う箒が見えた。夕焼けの空、オレンジ色に照らされた箒にまたがっているのは、見覚えのある人影だった――淡く輝く金髪の、細身の青年が茶色い上着をなびかせて、箒を操っている。箒の先には小さな袋のようなものがぶら下げられていた。
箒はくるりと旋回すると、やがてスピードを落として晶から数メートルほど離れた場所に降りて行き、砂埃を上げて魔法使いが着地した。彼は箒から降りると、信じられないものを見るように、その大きな緑色の目を見開いて晶のことを見つめた。
「――賢者様?」
どう挨拶していいものかわからずに晶が小さく会釈すると、その青年はまだ自分の目に映るものを疑っているといった調子で、晶にかつて与えられていたその称号を呟いた。
「賢者様、ですか?」
晶はそれに対し肯定するべきか悩んだが、やがて明確な答えの代わりに顔に微笑みを浮かべた。ルチルは少しだけ自分の目を疑うような表情をしているが、もしかしたらルチルにも晶やフィガロが持っていたような記憶の問題があるのかもしれなかった。
しかしルチルはやがてもう一度頭を振って、「いえ、確かに賢者様ですよね」と呟いた。
「――俺はもう賢者じゃないですけど、多分あなたの考えている通りの人間です。お久しぶりです、ルチル」
晶がその名前を呼ぶと、青年はしばらくの沈黙の後に、やがて感極まったように口元を手で抑えた。
「またお会いできるとは思っていませんでした。――元の世界に、帰られたのかと」
「――そのはずだったんですけど」
晶は苦笑しながら頭を掻いた。
ルチルはもう一度、まるで夢から覚めようとでもするように素早い瞬きを繰り返したが、やがて自分の見ているものが正真正銘現実の出来事であると納得したらしい、ゆっくりと晶に近付いてきた。
「いつから南の国にいらしたんですか」
ルチルはそう言ってオリーブ色の瞳で晶を捉えた。
「――一週間ほど前から」
晶はごく正直に答えた。
「実は、フィガロの家にお世話になっています」
「――フィガロ先生の家に? ああどおりで――何か隠し事をしているようだと思いました」
合点がいったと言わんばかりのルチルの態度に、今度は晶が首を傾げた。
「隠し事って?」
「一週間くらい前からお裾分けを持っていくって言っても上手くはぐらかされていたので。何かあったのかと心配していたんです。まさか賢者様が家にいらしたなんて。……その前は二週間もいきなり留守にされていましたし――あの時はみんな本当にどうしたのかと思って」
「二週間?」
晶は思わず聞き返した。フィガロが晶の家に、別世界に滞在していたのは約一か月の間のことだ。晶がこちらで過ごした一年が向こうのたった三日であったことを思えば、今更驚くようなことでもないが、それにしてもどこかぞっとせざるを得なかった――運が悪ければ、フィガロと晶は数年後だとかに飛ばされていてもおかしくないことになる。二つの世界の間の時間の繋がりは不安定なものであるらしい。
「――二週間はいなかったと思いますよ、ミチルがとても心配していたので覚えています」
驚く晶を尻目に、ルチルは頷いた。
「もしかして、その間にフィガロ先生は賢者様に再会したんですか?」
純粋な疑問を向けて来るルチルに、晶は少し口籠った。どこまで事実を伝えていいものか、迷ったのである。その質問に答える為には、二人の間の複雑な関係だとか、そういうものを含めて、人に説明するのが少しだけ憚られるようなことを全て語らなくてはならない。晶はそれを戸惑った。
「――あ、説明しづらかったら構わないんですけど」
晶が難しい顔をしたことに気付いたのだろう、ルチルは慌てて付け加えた。そんな彼の気遣いに感謝しながら、晶はそれとなく話題を変える。
「フィガロに会いに行くところでしたか?」
晶の問いに、ルチルは「ええ」と頷いた。
「美味しい果物を頂いたので。一緒に行っても大丈夫でしょうか?――何なら、お買い物を半分お持ちします」
「でもルチルも荷物があるのに」
「私、意外と力持ちですから。それに箒にぶら下げてゆっくり飛べますし」
「じゃあ、お言葉に甘えていいですか?」
晶はそう言ってルチルの好意に甘えることにした。そろそろ袋が腕に食い込んで、痕を作り始めていたのだ。
晶がルチルと連れ立って診療所に戻ると、ちょうどフィガロは仕事を終えて母屋の方に引き上げて来るところだった。彼は晶の後ろにルチルが立っているのを見るや否や、少しまずいものを見るような顔をして表情を固まらせた。
「――フィガロ先生、今日はお裾分けがあったので来ちゃいましたよ」
けれどルチルはそんなフィガロの反応など物ともせず、晶の荷物と自分の持って来た袋を玄関先に置いた。
「今日来るなんて思ってなかったよ――お裾分けなんて気にしなくても良かったのに」
やや白々しいまでに愛想のよいその声色に、ルチルは少しむくれたような顔を見せた。
「――まあ、賢者様がいらっしゃったなら余計に甘いものだってたくさん必要だったでしょうに」
ルチルの刺した小さな針に、フィガロは「あはは」と気まずそうに苦笑いしてから、ふと思い出したように口を開いた。
「――でもルチル、晶はもう賢者様じゃないよ」
「ああ、そうでしたね――もう次の賢者様もいらっしゃるんでした」
やんわりと差し挟まれた言葉に、ルチルは口元を軽く抑えた。
「そう、それにいつまでも終わった役割の名前で呼ぶのは晶にも悪いでしょ」
晶は少しだけ驚いてフィガロの方を見やったが、彼の視線はルチルを捉えているだけだった。本来晶を専ら役割の名前で呼ぶのはフィガロの方であったのに、今はその彼がルチルを窘めているのは不思議な光景だった。
「――では晶さん、でいいんでしょうか。なんだか改めて呼ぶと不思議な感じがしますけど」
自分の方に向き直ったルチルに、晶は微笑む。
「お好きなようにどうぞ、晶と呼んでくれても構わないですし」
「――晶さん、晶……ふふ、なんだか新鮮で面白いです。考えておきますね」
ルチルは楽しそうに何度か考えられる呼び方を繰り返してみてから、やがてふと思い出したようにフィガロに視線をやった。
「――それにしてもフィガロ先生、一体どこで……晶さんを見つけられたんですか。晶さんはあの時――その、海に落ちられたって聞きましたけど」
フィガロはそれに対し、やや困ったような笑顔を浮かべた。
「うーん、それは内緒かな」
ね、と同意を求めるように晶にもその顔を向けるので、晶はどことなく二人の板挟みになったような気がして口籠った。無論、フィガロが晶の家に転がり込んでからの一か月のことを思い返せば、安易にルチルに答えを渡してしまうことが自分にとっても得策でないことはわかっていたのだが。
「――秘密、ですか……何か特別な事情があるんでしょうか……」
怪訝な顔をするルチルに、フィガロは更に畳みかける。
「それから、晶がここにいることはしばらくみんなに黙っていてくれる?」
ルチルのオリーブ色の目が更に丸くなった。
「あら、どうしてですか? ――皆さん、晶さんに会いたいと思うのですけど」
「ルチルやミチルは仕方ないよ、勿論レノックスも。――でも他の賢者の魔法使いのみんなにはまだ知られたくないんだ。特に中央の王室の連中に知られちゃったら、元賢者っていうことで望まない問題に巻き込まれることになるかもしれない」
「せめて賢者の魔法使いの皆さんにだけでも、知らせられないんでしょうか」
さも残念そうな顔をするルチルを見ていると、晶は申し訳ない気持ちになった。恐らく人のいいルチルは、晶に再会できたことを心から喜んでくれていて、他の賢者の魔法使いの面々にもその喜びを知って欲しいと、単純にそう思っていたのだろう。
「――オーエンやミスラが秘密を洩らさないでいられると思う?」
苦笑するフィガロに、ルチルは名前の出た者達の普段の素行を思い出したらしく、目を伏せてため息をついた。
「そうですね、言われてみれば――ちょっと秘密を守れるかどうか怪しい人もいるかもしれません」
「ずっと伏せて置こうってわけじゃないからさ」
とフィガロは宥めるように言った。
「――ところでルチル、晶に会った時はすぐに彼が誰だかわかったの?」
少し気になっていたことをフィガロが質問にしてくれたので、晶はルチルの方をそっと見やった。
「ああ――」と思い出したようにルチルは声を漏らす。
「言われてみれば、最初はなんというか、はっきりと思い出せない様な気がしたんですけども――お話するうちに、ああ晶さんなんだってわかりました。――今までお顔もお名前も思い出せなかったはずなのに」
やはり賢者が世界を立ち去ることによる記憶の封じ込めはルチルにも影響を及ぼしていたらしいが、それにしてもフィガロと違い、すぐに思い出したというのはどういうことなのか。――もしかしたらこの世界が自分の存在を受け入れ始めたのかもしれないな、と晶はふと本能的にそう感じた。
「でも、ああこの人なんだと思った時は本当に――嬉しくて」
ルチルは万感の思いを込めたという風にそう言って、美しい両の目をすがめて眉を寄せた。心なしかその緑色は潤んで揺れているようにも見える。
「――もうお会いできないものかと――悪くしたら帰れなくて、亡くなってしまっているものかと思っていましたから」
その言葉を聞いて晶は、初めて自分がルチルにこういう顔をさせる程度には、この世界との結びつきを持っていたことに気付いた。
「ああもう、泣かないの」
けれど晶が声をかける前に、少し困ったように笑ったフィガロがルチルの頭を撫でた。
「――しめっぽくなっちゃうのもなんだな、お茶でも飲んでいく?」
家の中に導かれていくルチルを見ながら、晶はそっと自分が置いてきたもののことを想った。一年共に過ごしただけのルチルがこんな反応をするなら、一体自分が置いてきた人々は、今頃どんな顔をしているだろうか。
晶はその考えに蓋をするようにそっと瞬きをして、それから後ろ手に玄関の扉を閉じた。きぃと古ぼけた蝶番が鳴って、ドアは二、三度行ったり来たりしたあとに、どこか立て付けの悪い木枠の中に納まった。
2.
シンプルなシェードの電球に照らされた食卓は、どこか陰影をもって薄暗かった。煌々と照らされた現代社会の夜に慣れた晶には、それが少しだけわびしく見える。魔法舎の夜は明るかったが、南の国においては、あれは贅沢に類するものなのだろう。シンプルな食事をとったあとの食卓を挟んで向かい合いながら、晶はフィガロがくすんだ色のマグカップでお茶を飲むのを見ていた。タイミングをうかがっていた――彼に話したいことがあったのだ。
「あの、フィガロ」
向かい合う男がひと心地ついたように見えた時を狙って、晶は口を開いた。「どうしたの」と首を傾げると、フィガロは晶が何かそれなりに重要なことを話したがっていると感じたのか、カップを前に置いた。
「相談したいことがあって。――俺、そろそろ働こうと思うんですが」
晶の言葉に、フィガロはまじまじと見返してくると、やがてゆっくりと瞬きをした。
「まだちょっと早いんじゃない?」
「そうでしょうか? ――でも、そういうのは早い方がいいと思うので」
晶の言葉にフィガロは肩を竦めて笑った。
「俺なんてきみのところに一か月何もしないで居候してたんだよ。もう少しゆっくりしたらいいじゃない」
「それは……そうなんですけど」
否定することもできずに視線を下げると、フィガロが机の上に組んだ手を置いて、少しだけ身を乗り出すのがわかった。
「――もうちょっと落ち着いてからでもいいんじゃない。まずきみはここに馴染むのだって大変だろう? 本当にここでやっていけると思ってからだって遅くはないと思うよ」
フィガロの物言いにどこか引っかかるものを感じて、晶は口籠った。彼の言い方は、まるで晶がまだこの土地に住むかどうか迷っていて、いつでもいなくなってしまう可能性があるとでもいうように聞こえた。
晶はうっすらと、フィガロはまだ、自分が元の世界に帰りたいと思うようになるという可能性を捨てていないのだと感じた。あるいは彼自身が、やはり晶は元の世界に戻るべきだと考えているのかもしれない――とにかく、晶が南の国に永住する以外の選択肢が、まだフィガロの頭の中にはあるのだ。
無理もない、晶がこちらの世界に二度目の越境を果たした時、何の具体的な言葉も交わしていないのだ。あの時は考える暇もなく夢中になってフィガロの後を追ったし、彼の方もまたそれを受け入れたけれど、今になって迷いが生じていたとしてもおかしくはない。――例えば、長寿の魔法使いである自分と、たかだか数十年で死んでしまう晶の絶望的な種族の差のことを思い出して、やっぱり一緒にいることはできないと判断したとしても、不思議ではないのだ。
――時折フィガロが晶に触れてくるときに感じる戸惑いのようなものは、もしかして彼の中の諸々の迷いを表しているのだろうか。そんな風に考えると、自然と表情が曇った。他の賢者の魔法使いに会わせたがらないのも、もしかしたらそういう理由からなのだろうか。――自分と晶が一緒にいるというところを、まだ余人に見られたくないのだろうか。
「――お皿、さげますね」
目を合わせることができないまま、晶はそっと食卓を立った。食卓のものを重ねて洗い場に持って行くと、思い出したように背後から声が追いかけて来る。
「あ、そういえば今日だけど」
振り返ると、フィガロが少し困ったような表情で笑っていた。
「……先にお風呂に入って、寝てていいからね。俺ちょっと仕事があるから」
「何の仕事ですか?」
晶が尋ねると、彼は少しばかり気まずそうに目を反らす。
「うーん、診療所の方の書類仕事とか、大分ため込んでたからね。この間診療所を開けたときにお客さんが一気にきて、薬も大分減ってしまったし」
嘘をついているようには聞こえなかったが、フィガロが夜中に進んでやるような仕事でもないように聞こえた。彼は勤勉というよりは、効率と快適さを優先する方だ。それに薬の棚は、まだ空になっているようには見えなかった。
なんとなく自分と一緒に時間を過ごしたくないのだろうか――晶が至った結論はそれだった。気分には一層暗い影が落ちるが、かと言ってそこで立ち入った質問をすることもなかった。
「――わかりました、あまり遅くならないでくださいね。身体に悪いから」
晶が言うと、フィガロは「大丈夫だよ」といつもの笑みを浮かべた。
フィガロの家の風呂場兼洗面所は一人暮らしのそれにしては広く、バスタブも大きかった。日本のように洗い場があるわけではないけれど、バスタブの上にはシャワーのような給油口も取り付けてあり、大きな鏡やこじんまりとした棚が設置されていて、清潔感がある。どことなくテレビで見る、西洋のそれに似ている。
フィガロが用意してくれる石鹸を少しだけ湯に溶かすと、綺麗な泡ができて、ちょっとした泡風呂のようになる。ハーブの香りのするもこもこの泡の中に埋もれながら、晶は身体の芯を暖める柔らかなその湯気の中に、ため息を零した。
誰かと一緒に暮らしているはずなのに、どういうわけか心は孤独を感じている。自分が決定すれば、この世界を選びさえすれば、あとは自然と上手く行くと思っていたけれど、物事はそんなに単純ではない。結局こうやってまた物思いの泡に沈む。
風呂は手短に済ませて、軋む木の床を何故か少しだけ足音を忍ばせて部屋に戻ると、だだっ広いベッドが目に入った。寝間着に袖を通してそこに転がると、包み込む木綿の生地はひんやりとして冷たい。――多分今日は一人で眠るんだろうなと考えると、どことなく心に隙間風が吹いた。
ここへ来てから、ずっと同じベッドで寝てはいるけれど、そこで触れ合うことはなくて、まるでフィガロはそれを避けているようにさえ見えた。共に暮らした一か月の中で、あれだけ身体的な接触と共に誘惑を繰り返したフィガロが、まるで嘘のようだった。彼のそういうところは今やすっかり鳴りを潜めて、明確な線が引かれている。
ベッドの半分が無人になっているのを眺めながら、晶は自分が「寂しい」と思っていることを感じていた。どこか突然取り残されてしまったように思った。――自分はフィガロが触れて来ないことが寂しいのだろうか、と自分に問うたところで、じゃあ自分はやっぱり彼のことがそういう意味で”好き“なのかという問いが生まれた。
長いこと取り組んでこなかった類の気持ちだから、その形は曖昧で掴みにくく、もやがかかったようにぼんやりとしている。
あるいは揶揄われなくなったことがなんとなく、寂しいだけだろうかとも想像する。人は自分が当たり前のように享受していたものを突然奪われると、それを惜しく思ったりするものだ。いずれにしろ自分が現金というか、ちょっと出されたものをひっこめられれば惜しがるような、浅ましい人間にも思えて少し凹んだ。
冷たいシーツは少しずつ温くなって、目蓋も落ちてくる。多分あと一時間は隣に人の気配がすることはないだろう。カーテンのない窓の外は月や星の光を除けば全くの暗闇で、文明の匂いはここにはしない。自分の故郷とは全く違って、余分な光の欠片もない暗闇を、晶は少しだけ恐ろしいと思った。
重い瞼の裏、見たのは遠い世界の自分の部屋の天井だった。その染みを数えているうちに、意識は鈍く落ちて、眠ってしまった。
「ではまだ、街の中の施設にも不案内なのですね。不便ではありませんか」
ルチルはそう言いながら、心底晶に共感し、新しく始まった生活の不便さに心をよせていると言った顔をした。彼は少し考えこむように睫毛を伏せると、手元のティーポットを傾けて、晶の為にお茶を淹れてくれた。
彼らは今街の小さな喫茶店にいて、人参のような野菜でできた焼き菓子を前にお茶の時間を楽しんでいるところだった。敢えて喫茶店に行こうとルチルが提案したのは、恐らく街の中を晶に見せたかったからなのだろう。どことなく、家にこもりがちな生活に気付いて気を遣ってくれたのかもしれなかった。フィガロは往診の日で家にいなかったので、一人きりの静かな家に残されずに済んだことは助かった。
「不便というよりは、ちょっと心細いかもしれません。必需品のお店はフィガロに教えてもらいましたけど、そのほかはさっぱりなので」
「――先生、二週間も開けたから診療所がお忙しいんでしょうね」
ルチルは苦笑して言った。
「普通はどちらかというと、積極的に案内してくれそうなものですが。――晶さんを独り占めにしておきたい気持ちもあるのかもしれませんけど」
その言葉に、晶は僅かに眉根を寄せた。
「独り占めって、フィガロが?」
「はい」とルチルは当たり前のように答えた。
「だって賢者様が海に落ちていなくなった時、一番あの辺りを熱心に探されたのはフィガロ先生でしたから。――私達もお手伝いしましたけど、海が荒くて……あ、すみません、あまり楽しいお話ではありませんでしたね」
「いえ」
晶は首を横に振った。
「――俺はあの時みんなの戦いがどうなったのかわからなくて、気になっていたので――話してもらえるのは嬉しいんですが」
「結果から言えば厄災は退けられました。私達が今日ここで無事に生きているのを見て頂ければわかるように」
ルチルはそう言って、少しだけお茶を口に含んで、何かを思い出すような、遠くを見るような目つきをした。
「――晶さんが海に落ちてからすぐ後、私達はミスラさんの扉で先生達に合流しました。私が海の上に出た時は、ちょうどフィガロ先生が晶さんを探して海へ潜られたところで――そこに泳ぎの得意なミスラさんも加わったんですけれど、誰も見つけられなくて、結局双子先生達だけでは抑えつけられなくて、ミスラさんが最前線に行かなければならなくなって――」
彼はそこで僅かに目蓋を伏せた。
「とても大変な戦いでした。多分ミスラさんは骨を何本か折られましたし、ヒースクリフやシャイロックさんはちょっと危ないくらいの怪我をしたんです。私達は厄災に押されるままに、晶さんの捜索を中断しなければなりませんでした。――若い魔法使いを守るために、西の魔法使いの皆さんが厄災をかく乱して――そうしてなんとか、オーエンやミスラさんが押し返したんです。戦いが終わる頃にはもうほとんど明け方になっていました」
「――じゃあその時までオズは魔法を使えなかったんですか?」
晶が尋ねると、ルチルは表情を曇らせる。
「はい、残念ながら」
「俺、とんでもない時にいなくなってしまっていたんですね」
罪悪感と共に晶が僅かに項垂れると、ルチルは慌てたように首を横に振った。
「そんな、晶さんが気に病まれるようなことではありません。晶さんだってあの時、危なかったのでしょう?」
「――まあ、それはそうなんですけど……死にかけて、そのまま元の世界に飛ばされました」
「だったら、晶さんのせいじゃないじゃないですか。――でも私達は最初晶さんが帰ったのかどうかわからなかったので、厄災の攻撃であちこち地形の変わった海を捜索しました。それでも何も見つからなくて――みんな帰ったのだろうと思いこもうとしていたんですけど、フィガロ先生だけは、少しだけお一人で残られて」
「――フィガロが俺を探すなんて思いませんでした」
晶はぽつりと呟くように、そう言った。だがそれに対して、ルチルはほんの少しその美しい目を丸くする。
「あら、どうしてですか? あんなに仲がよろしかったんですから、無理もないと思いましたけど」
「そういう風に見えてましたか?」
晶が若干の驚きを表情にのせると、ルチルは少しだけくすりと喉の奥で笑うような、含みのある表情を作った。
「――仲良しというのは表現が正確ではないかもしれませんけど、晶さんはいつも先生を頼りにしていらっしゃいましたし、先生も晶さんに構われるのがお好きだったでしょう。可愛らしいなと思って見ていました。いつだかミチルが先生は晶さんの前だと余計に子供っぽくなるってぼやいてましたっけ」
「あはは」
意外に人は他人に興味がないようで見ているものだと思って、晶は気まずさを乾いた笑いで誤魔化した。
「先生は、あんまりそういうの外に出さない方ですけど――不安だったと思いますよ、晶さんがいなくなった時とても。生きていらっしゃるのか、お帰りになっただけなのか、わからなくて」
ルチルはそう言って柔らかく微笑んだ。
「――先生は、晶さんの世界に行かれたんですか?」
突如投げかけられた、この上なく的を射た質問に晶は思わず口に含みかけたお茶を吹き出しそうになった。
「ええと、それは――」
しかしフィガロがルチルに何も語りたがらなかったことを思い出して、言葉を濁す。どういうつもりかはわからないが、フィガロは以前ルチルが訪ねてきた時、自分が異界へ渡った事実を伏せたのだ。
「ああ、秘密なんでしたね」
ルチルは特に気を悪くした様子もなく微笑んで、いたずらっぽく片目を瞑って見せた。
「でも、これからどうなさるんですか?ずっと先生のところで暮らされるんですか?」
「それが――よくわからなくて」
晶はその質問に少しだけ表情を曇らせた。
「何も考えずにフィガロのところに転がり込んでしまったので、今後どうするかとかも、わからなくて。フィガロがどういうつもりなのかも」
「――先生とそういうお話はされないんですか?」
ルチルは少しだけ意外そうな顔で尋ねて来る。
「なんとなく、そういう話をすることを避けられてるような気がするんです。――ちょっと良くわからない距離も感じるようになっていて」
話しはじめた時はそこまで吐き出してしまうつもりはなかったのだが、つい心細さが気丈でありたいという欲や、自身の非常に個人的な内面を告白することへの躊躇いに勝った。異世界での生活は寄る辺もなく、心細いということをすっかり忘れていた――特に役目もなく、所属もなく、ただ一人を追いかけてここにやって来たとなれば尚更に。
「距離、ですか」
ルチルは少しだけ眉を寄せて考え込むように首を傾げた。
「――具体的には……ってお聞きしてもいいですか?」
「ルチルも言っていた通りあまり色々見せない人だから、これと説明するのは難しいんですけど」
晶はぽつりぽつりと言葉を漏らした。
「例えば、俺が働きに出ると言ったら、まだここで生活していけるかどうかよく考えてからでいいって言ってみたり。一緒に寝ていても、どこか距離があったりだとか」
瞬間、ルチルは顔をほんのり染めて口元に手をやった。
「――一緒にっていうことはその、やっぱりお二人はそういう仲なんでしょうか?」
「……やっぱりこっちの世界でも、そういう意味になるんですよね」
開けっ広げに白状しておきながら、晶は今更恥ずかしくなって釣られるように赤面した。
「その辺も、なんだか曖昧でよくわかってないんですが」
「普通はその、大人同士が毎日のように同衾するのは――そう言う意味になります」
ルチルの目はどこか潤んで、その表情はぽやんとしていた――それこそ、恋に恋するような色をもって。魔法使いというのはどこかそういう関係に純粋に夢を見ているものなのだろうかと、方向性は全く違えど、愛という概念に非常に純粋な解釈を与えていたフィガロのことを思い出した。――彼らは多分、人間よりもそういうところがずっと素直で純粋で、混じり気がないようにできているのだろう。
「多分お二人はその――特別な関係の相手として、一緒に暮らしているということになるんだと思いますよ」
ルチルはそう言うと、もう一度何かを夢見るようにため息をついた。
「――そういう雰囲気は、正直なところ以前はありました。まあ、あの人のやることなので冗談半分ということが多かったですけど」
晶は小さな声で白状して、火照る頬を誤魔化すように顔を背けた。
「ふふ、先生は昔結構遊んでたってお母様も言ってらっしゃいましたからね。ちょっと人を揶揄うような、いけないところがあるかもしれません」
何かを思い出す様に少しだけ遠い目をして、ルチルは言った。
「――でもそういう態度だったのがいきなり距離を取られて、よく考えろみたいに言われたら――正直、どうしていいかわかりません」
やや愚痴っぽくなってしまった自分の台詞に少しばかり嫌気が差しながらも、晶は自分の心の内を口にした。そんな晶に対して、ルチルは優しく微笑んだ。
「ここでやっていけるかどうかよく考えてって言われるっていうことは――多分先生なりの気遣いなんだと思うんですよ」
「――距離を置くことがですか?」
「ええ。――あの、どういう経緯で晶さんが今ここにいらっしゃるかはわかりませんけど、ここで生活するってことは、元の世界で生きる選択肢を捨てるということに、なりますよね?」
「それはまあ――」
晶はそう言って、僅かに俯いた。
「だから先生は、そういう大事な決定をする前に、晶さんにちゃんと時間をあげたいって思ってらっしゃるんじゃないでしょうか? 予想に過ぎませんけど……無理に距離を詰めることで、ストレスをかけたくないと思っているんじゃ」
「今更?」
晶は思わず呆れを言葉に滲ませて、そう漏らした。
「――色々、あったような口振りですね」
ルチルは苦笑いを浮かべた。
「でもこれは私の想像ですけれど、いくら先生でも、やっぱりちょっと不安なところはあるんじゃないでしょうか。異世界で暮らすのが嫌にならないだろうかって。異世界な上に、相手が魔法使いだとちょっと勝手も違うでしょうし――その、年をとる速さとかそういうったことも違いますから」
その台詞の最後をルチルはかなり曖昧な言い方で柔らかなものにしたが、その言葉が意味するところは結局のところ晶の心を針のようにちくりと刺した。
――人間と魔法使いという二人の種族の根本的な違い。フィガロを共に生きる相手として考えるという選択肢から目を反らし続けてきたからこそ、晶はそれについて深く考えることなくここまで来た。けれど、いざその選択肢が現実のものとして目の前に現れれば、当然無視できないものになる。魔法使いはとてつもなく長生きなのだ――それこそフィガロともなればゆうに二千年は生きている。一方の人間の命は儚く短い。晶は彼と共に最後まで生きることはできないだろうし、永遠に傍にいてやることもできない。
フィガロの方も、晶と共に生きるという選択肢が現実のものになって、今更そのことを直視し始めたということも考えられなくはなかった。彼にとっては泡のように消えるだけの存在は、やはり心を砕くに値しないと思ってしまったっておかしくはないのだ――残念ながら、彼はそういう判断を下すことにほとんど罪悪感を覚えない種類の男だと、晶はよくわかっていた。
彼が求めているのは不変の愛であって、泡のように消えゆくそれではない。彼が晶にそれを求めているのかは定かではないが、少なくともそれを望むことのできない相手に最初から関わるべきではないと思ったって、なんの不思議もない。
「――やっぱり冷静になって見たら、俺では役不足だと思ったってことでしょうか」
心の内が自然に唇にのって、晶は小さく俯いた。晶を不安にさせたことに瞬時に気付いたのだろう、ルチルは慌てて言い直した。
「あ、そういうことじゃありません――そういうことじゃなくって、晶さんがそれをどう思うだろうっていうところが、一番フィガロ先生は心配なんじゃないでしょうか? フィガロ先生の側では、その……寿命のこととかは嫌になるほど良くわかっていたと思いますから」
そう語るルチルの表情はどこか寂しげだった。
「――だから、後ろ向きになるのはよくないですよ。私もなんとなく先生が心配になる気持ちはわかるような気がするんです。私も、いつか自分が誰かを大切だと思った時に――その相手が人間だったら、どうなってしまうんだろうって思うから」
ごく普通の人間と偉大な魔女との間に生まれた青年は、そう言って晶に向かって優しく微笑んだ。
「きっと、自分が耐えられるかも心配だし、相手が耐えられるのかどうかも、不安になるだろうなって。――でも、先生は……きっと晶さんのことを探しに行かれたのでしょう?だから、大丈夫ですよ」
どこへかは知らないですけどね、と少しばかりの茶目っ気を添えたその物言いは、全てを見通していると言わんばかりのものだった。恐らくルチルの想像することは実際、事実起きたことと近いのだろう。
晶はルチルの優しさに感謝しながらも、返す言葉を見つけられないまま俯いていた。そんな晶を優しく励ますように、やわらかにルチルの言葉が重ねられる。
「――焦らないで、ゆっくり前に進んで行けばきっと大丈夫です。今が曖昧でも、その中でゆっくり二人で決めて行けば」
「――そうでしょうか」
「ええ、きっと。だって私のお父様もお母様もそれぞれ人間と……かなり長寿の魔女でしたけれど――それでも結ばれましたから」
ルチルはそう言ってにっこりと笑った。そうやって彼の両親の話を引き合いにだされると、何故か少しだけ安心できるような気がして、晶も釣られて僅かに表情が明るくなる。
「――ルチルはすごいですね」
晶は感謝を交えて、皿の上の菓子をつつきながら目の前の年若い魔法使いに賞賛を送った。
「俺と同じような年なのに、そんな風に人生相談に乗ることができて。先生だからなのかな」
それに対して褒められた方の男はただ笑って首を横に振った。
「――他人に対してはみんな好きなことが言えます。でもきっと私も当事者になったら、みっともないほどに迷うんだと思いますよ」
それがひとというものですから、ルチルはそう言って少しばかり通りの方に視線を反らし、道行く人々に目をやった。
その晩はいつものように不慣れな台所と知識でどうにか夕食をこしらえ、フィガロと食卓を囲んだ。彼は今日あった面白いできごとなどを愉快そうに話してくれ、片付けなども一緒に付き添ってやってはくれたけれど、しかし夜が更けはじめると、徐に食卓の上で書き物を始めた。
晶はしばらく黙ってそれを眺めていたが、いつまでたってもフィガロがその手を止める様子がないので、またあの奇妙に距離を置かれているような空気を感じた。――何度も言うように、フィガロは毎日夜中まで書き物やら仕事やらに勤しむ様な勤勉な性格はしていないのだ。どちらかと言えば晶に晩酌に付き合えとせがむ方が本来の彼らしい。
日頃であればそのままフィガロの意図を汲んで先に寝室に引っ込んだのだろうが、今日はそうしようとしたところで、ルチルの言葉が晶の脳裏に浮かんだ。
――焦らないで、前に進んで行けば。
焦る必要はないのだ、と晶は心の中で呟いた。――けれど、ほんの少しだけ、それとなく自分の気持ちや不安をフィガロに伝えてみることは悪くないことなのかもしれない。
「あの、フィガロ」
晶はペンの音が少しばかり落ち着いたところを見計らって、思い切って声をかけた。
声をかけられた当の本人は、少しばかり驚いたように目を瞠ったが、やがて僅かに首を傾げて微笑んだ。
「――ん? どうしたの?」
「あの、大したことではないんですけど」
晶はそう前置きした。
「――ちょっと気になっていることがあって……フィガロはあの、俺が隣にいると――寝つきが悪かったりしますか」
その問いに、フィガロは不思議そうな顔をした。
「そんなことないけど――なんで?」
「いえ、あの」
そこまで言っておいてしどろもどろになる自分を呪いながら、晶は視線を泳がせつつ答えた。
「その――俺と一緒に寝るの、しんどいのかなと思ったので……気のせいならいいんですが」
直接的な表現で聞くことはできなかった――そんな自分の勇気の無さが情けなかったけれども、同時にこういった聞き方をすれば、聡いフィガロが理解することも承知していた。
晶の言葉が終わると、フィガロはふいにその視線を伏せた――そうすると、暗いランプの光が彼の表情に影を作って、少しばかり翳りが見えたように見えた。
彼はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりとその口を開いた。
「――全然、大変だなんてことはないけれど……多分俺は、きみを不安にさせたんだよね?」
瞳の翠色が少し上を向いて晶を捉え、オレンジの光を反射して静かに揺らめいた。
「不安に――というか、その」
どうしてもその次の言葉を次げずに口籠った。けれどフィガロはその次の句を待たずに、手に持っていた辺を机の上に置くと、椅子を引いて立ち上がり、晶の前に立った。白い手が差し出されて、先程よりも少し柔らかな、仄かにはにかんだような微笑みが落ちてくる。
「――今日は一緒にベッドに入る?」
多くは語られなかったけれど、その一言で十分だった――フィガロが晶の言葉の裏の意味を理解したということはすぐにわかった。
「お邪魔じゃなければ」
恐らくそう答えた時の顔は火照っていたのではないかと思う――部屋が薄暗いことにこれほど感謝したことはなかった。おずおずと差し出されたその手を握ると、晶のものより少し冷たいそれは、遠慮がちに握り返してくる。
「――先にお風呂に入って、それまでにちゃんとこれ終わらせちゃうから」
「本当に夜更かししませんか?」
「しないよ、この手紙を書き終わったら今日はおしまいにする」
晶はフィガロの言葉に素直に頷いて、先に湯を使わせてもらうことにした。いつも通り広いバスタブの中身体を暖め、不思議な仕組みで動いているシャワーを使って、それから火照った身体を冷たく乾いたタオルで少しばかり冷やして、寝間着を着た。食堂に戻ると、フィガロは何やら机の上の手紙を眺めているところだったが、やがて晶の姿を認めると、目元を少しだけ緩ませて席から立った。
「いいお湯だった?」
「――はい、少し温く入れちゃいましたけど――お湯は一度捨ててあるので」
「うん――今日は久しぶりに泡の出るのにしようかな」
フィガロが風呂場に消えたので、軋む木の板を踏んで、寝室へと戻った。一日中誰もいなかった部屋は、ほんの少しだけ空気が冷たくて、シーツも枕も、家具の一つ一つが冷えていた。そこにほんのりと暖かい身体を滑り込ませれば、心地よさに目蓋は少しずつ重くなったけれども、それでも晶は眠らないようにと目を開けていた。欠伸をかみ殺して、眠くなったら窓を開けて――僅かに開いた窓の向こうには、月と、それに照らされた、遠く伸びる街道が見えた。
風を入れたまま晶が布団の中でぼんやりとしていると、やがて扉が開いて、フィガロがほとんど音もなく部屋の中に入って来た。彼は開いた窓と晶とを見比べて少しばかり目を瞠ると、やがて黙って窓を閉め、少しばかり濡れた髪の毛をタオルで拭いながら、ベッドの上に上がって来た。
「――先に寝てても良かったのに」
かけられた声はどこか優しかった。
「なんとなく、待っていたかったので」
晶が布団にくるまったまま小さく答えると、フィガロはため息のような笑いを漏らして、それから晶の頭に手をやった。冷たい指先が、乾きかけの毛の筋を撫でて、それから小さな呪文と共に、まだ濡れていた首筋の毛がすっと水分を失った。
「――風邪をひくといけないからね」
そう言って彼は自分の髪の毛も乾かしてしまうと、布団を捲ってベッドの中に潜り込む。――但し、いつもよりほんの少しだけ、晶の方に近い位置に。部屋の僅かな明かりが消え、それから窓から漏れる月と星の光以外は何も入り込まない暗闇が訪れる。
「今日はちょっと寂しいの?」
闇に晶の目が慣れた頃、いつもより少しだけ小さなフィガロの声が聞こえた。晶はなんと答えるべきか迷いながら、身体の向きを声の方――フィガロの眠る方に向けた。目を凝らせば、そこに同じように横たわって、晶と向かい合っている男の姿が見えた。
「――多分」
晶は至極正直な気持ちを答えたつもりだったが、するとフィガロは喉の奥で笑った。
「何か変なことを言いました?」と晶は尋ねたが、フィガロは「ううん」と小さく答えただけだった。
「――寂しいなら手でも繋ぐ?」
いつか聞いたような、少し揶揄うような調子の声が響いて、僅かに布団の布が擦れるのがわかる。目の前の暗闇に、白い手が浮かんで見えた。晶はしばらく考えていたが、やがてそれを片手で握った。ほんの僅かの間、怯んだかのように冷たい手が震えたが、晶がそのまま放さないでいると、やがてぐったりと力を失って、晶のそれと一緒にシーツに沈んだ。
「――きみも俺もゆっくり慣れていった方がいいと思ったからさ」
僅かに掠れた声がぼんやりとした暗闇の向こうで聞こえて、晶は瞬いた。恐らく共に眠りにつくことを何となく避けていたことに対して、弁解しているのだろうなと思った。
「……この街はいい場所ですね。今日ルチルが色々案内をしてくれました」
その言葉にそのまま答える代わりに、晶は呟くようにそう返した。フィガロはしばらく黙っていたが、やがて「ここが気に入った?」と小さく尋ねて来た。
「多分。ここが好きになると思います」
晶がそう答えると、僅かな沈黙の後に、「そっか」という返事が聞こえた。
それきり二人が言葉を交わすことはなかったけれど、寝台の真ん中で重ねた手が離れることもなかった。温もりと共に朧げに沈んでいく意識の中、晶はその寝台の中を、昨日までより少しだけ温かいと感じていた。
3.
丈夫なガラスの容器の中に少しずつ昨日の残り物を詰めながら、晶は傍らのフライパンの中の卵の具合を気にしていた。ガラス容器の中身はそのまま冷蔵室に行くことになっていて、数時間後にはフィガロの昼食になる予定だった。目玉焼きがじゅうじゅうと音を立て始めたあたりで急いでフライ返しを手に取ると、黄味が固まるギリギリのところで皿の上へと救い出すことができた。
忙しく調理台の上で手を動かす晶をよそに、ゆっくりとお茶のカップを傾けていたフィガロだったが、やがて一向にまな板から離れようとしない晶を見ていつもとの違いに気付いたらしい。怪訝そうな顔をすると、背後から身を乗り出して来て調理台に目をやった。
「それ、昨日の残り?」
なんで今、という言外の問いに答えるべく晶は口を開いた。
「そうです、お昼に食べてもらおうと思って。――すみません、今日ちょっと出かけるので、お昼は作り置きでもいいですか?」
「それは全然構わないけど、どこに出かけるの?」
意外そうな顔をするフィガロを見上げて、晶は少しだけ顔色を窺うように目を瞬かせた。
「――その、今日からちょっとお仕事を始めようと思って」
「仕事って、どこの? 誰の所で?」
フィガロの目は、更に驚きに見開かれる――大方、晶に一人で仕事など見つけられないと思っていたのだろう。晶が向こうの世界でフィガロに対してそう思ったのと同じように。
「ルチルの学校で、ちょっとした雑用をさせて貰えることになったんです。勿論、ルチルが口を利いてくれて」
晶が正直に答えると、見下ろすフィガロの表情は少しばかり不満そうなものになった。
「学校の雑用って、そんなに払いのいいものでもないのに? そんなに最初から無理をしなくてもいいんじゃない」
「それはそうなんですけど――でも、最初から雑用以外の仕事なんてできないと思うので、慣れる意味でも」
昨日ルチルから言われた言葉が脳裏に蘇って、晶は何か言葉を重ねるべきかどうか迷った。
彼の考えの通りならば、恐らくフィガロは晶に考える時間をやりたいと思っているのだ――本当にこの世界で生きて、ここに骨を埋める覚悟ができるのかどうか、それを考える為の時間を。晶に言わせれば今更何をと言うところだが、フィガロのそれまでを思えば、石橋を叩いては眺めているような、彼の気持ちも理解できないではない。妙にここに馴染むことを焦って、後々後悔するようなことになって欲しくない、大方そんなところなのだろう――晶の為だけではなく、彼自身の為にも。
けれどルチルの予想が正しいのであれば尚更、晶ができることは一つしかなかった。
――焦る必要はない、けれどゆっくり前に進んで行くしかないのだ。どんな言葉を重ねてもフィガロが不安になるのであれば、あとは態度で示すより他にない――自分はこの世界で生きていく覚悟なんてとっくにできていると、行動で示してやるほかにない。
「――ちゃんと、ここで生活していけるようになりたいので」
晶が若干いつもより強い語気でそう告げると、フィガロはその翠色の瞳でまじまじと見下ろしていたが、やがて小さくため息をついた。仕方ない、俺が折れるよ、と言った調子だった。
「わかった、どうしてもって言うならきみの意思は尊重するよ。――でも何の肩書もなく突然異世界で生活を始めるなんてことは簡単なことじゃない。お願いだから焦らないで」
「――焦ったりはしません――でもちょっとずつ何か始めないと、落ち着かないので」
そう言って肩を竦めて笑って見せると、そんな晶を見て、フィガロは若干気まずそうな笑みを浮かべて目を反らした。
「……なんかきみのそういうとこ見てると、一か月も何もしなかった自分は相当ろくでもないんじゃないかっていう気がしてくるな」
「あはは、まあ否定はしませんけど、状況が全然違うので」
ほんの少しだけ意趣返しのような意地の悪さを言葉の端に込めると、フィガロは一瞬拗ねたように小さく口を尖らせたが、やがて少々照れ臭そうに頭に手をやってから言った。
「一人で行ける? 送って行かなくて大丈夫?」
「一応行きはルチルが迎えに来てくれることになってるんですけど」
「――だったら帰りは俺が迎えに行くよ。ルチルの学校はそんなに近くないし、暗くなると危ないから。仕事が終わる時間は大体子供達が帰る時間と一緒だろ?」
晶はその申し出を単純に嬉しいと思ったので、無理しないでください、と遠慮することはせずに、「ありがとうございます」と素直に受け取った。
「多分、子供達より少しだけ遅いくらいじゃないでしょうか」
「なら多分、間に合うと思うから待ってて」
恐らく頬はほんの少しだけ赤く染まっていたと思う――台所に流れる空気は、ほんの少しこそばゆくて、どこか歯痒かった。
ルチルは晶が朝食を食べ終わるのとほぼ同時くらいにフィガロの家の前を訪れて、晶を拾って行った。どことなく不満げな顔で見送るフィガロを、ルチルはさもおかしそうに眺めていたが、当の本人がそれに気付いて胡乱な目を彼に向けると、慌てて咳ばらいをしていた。
診療所から学校までは歩いて行けば三十分はかかる距離らしいが、箒に乗せて貰えば、それも特にルチルの操縦とあれば、十分もしないうちに目的地についた。彼曰くかなりスピードは抑えていたらしいが、それでも地面に降り立った時の目の回ることといったら、フィガロの後ろに乗せてもらうのの数倍はひどかった。
学校には、そもそも用務員のような、指導以外の雑用をする者がいたらしいのだが、その人物はちょっとした怪我で今動けなくなっているということだった。晶さんにはその方の代わりに学校の細々したことの面倒を見て頂きたいんです、とルチルは言った。ちょうど人手がなくて困っていたところだったんですよ、とも――恐らく晶に気を遣わせないようにそう言ってくれたのだろう。わざわざルチルが晶の為に誰かに掛け合って、必要もない仕事を作り出したのだと思わせないために。
晶に任されたのは一昔前の学校の用務員の仕事を思わせる、雑用の数々だった。授業中に校舎の使われていない部分を掃除し、用具をチェックし、備品の整理をし、壊れたものの修理をする。教師に重いものを運ぶのを手伝って欲しいと言われれば、その通りにする。難しいことはほとんどなかったが、文字があまり読めず、不便なことには閉口した。フィガロもあちらの世界で求人のチラシを見ながら、こんな歯がゆさを抱えていたのだろうかと時々想像した。
どうにかこうにか頼まれた一日の業務を終える頃には、生徒が家に帰る時間になっていた。子供達は学校の終わりを告げるベルを聞くや否や、バネ仕掛けの人形のように各々の席から立って、教室の外へ飛び出し、そのまま外へ駆けて行った。比較的年嵩の生徒の中には教室に留まっている者もいたが、そうした子達は掃除や日誌の管理など、大抵放課後に何らかの役目を持っているのだった。
晶が廊下で子供達を見送っていると、やがてルチルが年少の子供達の教室から出て来て、「走ったらだめですよ」と飛び出していく子供達に声をかけた。けれど放課後の解放感を身体中で味わっている子供達には彼の声も耳元を通り過ぎるそよ風のようなもので、振り返りさえせずにはしゃいでいた。
ルチルはそんな子供達を見てため息をつくと、やがて晶に向き直って微笑んだ。
「――見ての通り、放課後はみんなとっても賑やかなんです。びっくりしませんでしたか」
彼の言葉に晶は僅かに苦笑して首を横に振った。
「子供達なんて大体はあんなものですから。元気なのはいいことですし」
「ちょっと元気過ぎるなあと思うこともありますけどね」
ルチルはそう言って晶を頭の上から下まで眺めた。
「――ふふ、エプロンお似合いですね。もう昔から学校で働いている人みたい」
彼が言ったのは、学校で貸してくれた作業用の前掛けのことで、丈夫なジーンズ地のような、麻のような、不思議な布地でできていた。フィガロはこちらに来てから晶の服を適当に見繕ってくれてはいたものの、数は決して多くないのでそれを汚さずに済んだのは助かった。
「お仕事の方は昔から働いている人のようにはいきませんでしたけど」
晶が頭を掻くとルチルは「そのうち慣れますよ」と言って微笑んだ。
「――子供達はみんなこの辺に住んでいるんですか?」
晶は診療所から学校までの道のりがかなり遠かったことを思い出しながら尋ねた。もし子供達が似たような距離から自分の足だけで通っているのだとしたら、結構な運動になるぞと思ったのだ。
「大体の子はこの辺に住んでいますが、少し離れた村から来る子もいますよ。残念ながら他の発展している国と比べれば、まだ学校が多いわけではないので」
「――村、というとちょっとした距離がありそうですけど、みんな一人で歩いて来るんですか? なんていうか、自然の中で育った子は凄いですね……」
「まだ小さいうちはご家族の誰かが迎えに来てくれたりする子もいますよ。治安が悪いわけではないですが、多少危険な野生動物がいる地域もありますから」
ルチルが目線で示した先に目をやると、ちょうど建物の入り口で、子供達を迎える大人の姿が見えた。目を細めてやんちゃな振舞をする我が子を眺めている者もあれば、大人らしい態度とはなんぞやということを学ばせようと目を吊り上げている者もある。
そんな南の国の微笑ましい家族の様子を眺めていると、ふとその向こうに人目を引く、ひょろ長い人影が見えた。南の国の景色からは妙に浮いて見えるそのくすんだ蒼を見ただけで、晶には自分の同居人が迎えに来たことがわかった。彼はいつも身に着けている白衣を着ておらず、シンプルな白いシャツだけを着て、まるで子供を迎えに来たお父さんとでもいったようないで立ちをしていた。
きょろきょろと辺りを見渡すその仕草がどこか可愛らしく、晶が思わず口元を緩ませると、ルチルもまたフィガロの姿に気付いたらしく「あ」と小さな声をあげた。
「フィガロ先生、随分時間ぴったりにいらっしゃったんですね」
ルチルは手を振って彼を迎えた。向こう側の保護者達がちらちらと視線を送って来ているように見えるのは、恐らくフィガロがこのあたりで医者として顔を知られているからだろう。
フィガロは晶の前までやって来ると、いつもは見慣れない格好に少々驚いたように目を見開いてみせたが、やがて少しばかり照れ臭そうにルチルに向き直った。
「――早かったかな? 大体学校が終わる時間に来ればいいって聞いたんだけど」
「いえ、大丈夫ですよ。もう晶さんのお仕事はほとんどおしまいです」
「それなら良かった――ミチルももう授業は終わってるの?」
「――ええ、授業は終わって、あとは日誌をつけているところじゃないでしょうか」
ルチルとフィガロがそんな話をしているのを黙って聞いていると、ふと出口で走り回る子供を眺めていた老人が、つかつかと近寄って来た。どうやらフィガロに用事があるようで、彼の傍らで立ち止まると、「先生」としわがれたその声で彼を呼ばわった。恐らくフィガロの患者なのだろう。気付いたフィガロは老人に向き直ると、やがて優しい南の国の医者の顔をして、首を傾げて見せた。
「――あれ、お爺さんはこの間の。――今日はお孫さんのお迎えに来てたの?」
「へぇ。フィガロ先生、その節はありがとうごぜえました」
男は少しばかり訛った調子でそう言うと、フィガロに向かって深々と頭を下げた。
「おかげさまで腰も曲がらんくなって、こうして歩けるように」
ひどくかしこまったその様子にフィガロは少しばかり困ったような顔をして頬をかいた。
「それは良かったけど、そんなに大袈裟にしないで。大した治療はしてないよ」
患者に対する口調の、良く言えば愛想のいい、悪く言えばいい子ぶったことに、晶は内心で舌を巻いた。彼が実際に診察をしている場面はあまり見たことがなかったが、これでは本当に良き町医者といったところで、本来の彼を知っている身としては、その代わり身に感心さえしてしまう。
「今度お礼にうちのせがれに季節のものを持って行かせますから」
老人の方はフィガロの言葉など右から左へと抜けて行ったようで、まるで神様でもありがたがるように頭を下げている。フィガロが困ったように視線をうろつかせているところに目を合わせると、少々苦み走った笑みがそこには浮かんでいた。彼はいい人だと言われることを好むけれど、そうやって神様のように扱われるのはあまり好きではないのかもしれないな、と考えながら曖昧な笑みを返すと、その時廊下の向こうから高い声が聞こえた。
「あ、フィガロ先生――と賢者様!」
それはミチルの声だった。大好きな先生と、それから懐かしい顔を見たことによる無邪気な喜びを含んだその声は、長い廊下によく響き渡って晶の耳に届いた。けれどやや幼さの残るその声が自分を呼ぶその呼称は、どこか晶をどきりとさせるものだった。それは、今彼の周りにいるのが親しい者ばかりではなく、生徒やその保護者といった大勢の良く知らない人間だったからかもしれない。
兄のそれと良く似たオリーブ色の瞳を輝かせ、膝小僧を丸出しにしたまま掛けて来るミチルの表情に悪意など微塵もない――けれど周囲の大人が振り返り様に見せるその表情には、様々な複雑な感情が浮かんでいる。大部分は好奇、ある者は期待をそこに張り付け、あるものは胡散臭そうに疑るような表情をしていた。それまでその場において全く何の意味も持たなかった晶の存在が、突然意味のあるものになって、痛いほどの視線に晒される――いつの間にか心臓は早鐘を打って、息が苦しくなった。
「――賢者様、授業中もさっきから見えてたんですけど、お仕事中だったからご挨拶できなくて――ずっと兄さまから聞いてお会いするのを楽しみにしていました!」
無邪気な少年は足早に晶に近付いて来ると、きらきらと輝くその目で見上げて来る。
「ああ――ええと、あの、俺もです、俺もミチルに会えてうれしいですよ」
その言葉に欠片も嘘はなかったが、どこか物言いはぎこちなくなってしまった。ミチルに何と言ったらいいだろうか、自分はもう賢者ではないと伝えるべきか、あるいは――そうだ、今自分を囲んでいるこの良く知らない人々にもそう宣言するべきなのだろうか。そんなことをぐるぐると考えているうちに、その時フィガロの傍にいた老人がふいにしわがれた声で口を挟んだ。
「――賢者、と言いましたか」
眉毛の向こうの老人の目は、晶のことを捉えていた。
「賢者というのはあの、一年に一度異世界からやって来て、厄災から世界を守る魔法使い達を導くとかいう」
この人が、と老人はまるで目の前に差し出された珍しい品物を値踏みでもするような目をして晶を眺めた。その目に晶は見覚えがあった――実際に彼が賢者であったころ、何度も何度も向けられた目だった。そういう視線で見られるとき、いつも口の中がからからに乾いて、何を言っていいかわからないような気分になったものだ――そして今まさに晶はその口の中に広がる苦い味を、再び体験することになっていた。
けれど晶が何かしらの言葉を見つける必要はなかった。フィガロが先に口を開いた。
「――違うよ、この子は俺が海で拾った行き倒れの子。賢者様だの異世界だのとは何にも関係ないよ」
ミチルが怪訝な顔をし、ルチルが僅かに目を瞠ったのがわかった。ルチルは何か言いかけようとするミチルを僅かな所作で留め、先程までよりやや不自然に高い声を作って言った。
「あはは、そうなんですよ――晶さんはフィガロ先生がお世話してる子で、ミチルはこの間の賢者様ごっこの続きをしているだけなんです」
今度は晶が眉根を寄せる番だった――思わずミチルの方を見ると、同じく疑問符を顔に浮かべた彼と目が合った。いかにいってもそれは苦しい言い訳ではなかろうかという思いが二人の顔に出る前に、フィガロが次の言葉を次ぐ。
「あはは、ミチルは最近賢者様ごっこが大好きだなあ」
「はあ、ごっこ遊びですか。本物だったらそりゃありがたいものだと思ったんですが」
老人は思ったよりあっさりと納得し、それに呼応するように晶に注がれていた視線も一つ、また一つと外されて、後にはまた無関心だけが残った。
「この子は遭難して、ちょっと色んな記憶が曖昧でね。でもいい子だから俺のところで助手に雇うことにしたんだ――この通り外でも仕事をするつもりみたいだから、どうか親切にしてあげて」
フィガロが失われた関心の上にちょっとした嘘を塗り込めて、賢者という言葉を入念に人々の頭から消し去ってしまう。すると老人は僅かに首を傾げた。
「遭難って、どっからきたんですかな」
「それがわからないんだよ」
晶が応える前にフィガロが笑顔で言葉を返す。
「――大変だなあ」
老人はそれがどんな状態だか想像もつかないといったような顔をして、ため息をついて見せた。
「でもまあ、ここはいいところだから。あんたが働き者ならすぐに馴染むだろうさ」
老人はあちらこちらへと走り回る子供の面倒を見る為に行ってしまい、後には晶とフィガロ、そしてフローレス兄弟だけが取り残された。ミチルは怪訝な顔をしていたが、兄もまたフィガロの嘘に乗ったことで、それが単なる性質の悪い冗談ではないことを悟ったらしい。フィガロを見上げると小声で尋ねた。
「――どうして先生も兄さまも嘘をついたんですか?ボクは賢者様ごっこなんて……」
自分が酷く子供っぽい遊びをしているように言われたことが心外だったらしく、彼の可愛らしい顔は不満げだ。
「ごめんねミチル」
そんなミチルに対して、フィガロは苦笑してやや身を屈めた。
「――でも晶はもう賢者様じゃないんだよ」
その答えに一瞬で何かを悟ったらしく、ミチルは小さく「あ」と呟いて俯いた。それからやがて晶の方に向き直り、その眉を寄せて詫びた。
「ごめんなさい、ボクなにも考えていなくて」
「そんな、謝らないでください」
晶は慌てて首を横に振った。
「――俺の方こそ、ここに来ていたのにすぐにミチルに会いに行けなくてすみません。ちょっと落ち着かなくて」
「いえ、それはボクが勉強で忙しいこともあったので――でも今日お会いできて良かったです! もうお会いできないと思ってましたから」
満面の笑みは純粋に晶の帰還を喜ぶもので、晶はその幼い歓迎に、どこか救われるような気がした。村人の関心は波のように引いて行ったけれども、少なくともこの少年も、その兄も、その波の引いた砂浜の上で無邪気に自分に笑いかけてくれるのだ。
「これから毎日お会いできると思うと嬉しいです」
ミチルがルチルを見上げて少しばかり恥ずかしそうに小さな声で言った。ルチルはただ笑ってミチルの頭を撫でていた。
学校からの帰り道はフィガロの箒に同乗させてもらうことになった。慣れない肉体労働で疲れていたし、情けないことに足の筋肉もぱんぱんに腫れあがっていたのでありがたかった。空の上から見る雲の街は、緑と茶色のキャンバスの上に置かれた、ジオラマの模型のように色とりどりで可愛らしく見えた。
前で箒を操るフィガロの腰に緩やかに掴まりながら、晶は黙って先程の出来事について考えていた。フィガロは老人の前で晶の出自について嘘をついたが、それは必ずしも必要なことではなかったはずだった――この子はもともとは賢者だったけど、もう引退して別の人がいるんだよ、そうやって本当のことを告げても良かったはずなのだ。それにしたってきっと村人たちの関心は引退済みの賢者からは程よく消えて、一か月もすればみんな忘れてしまっただろうに。――いや、それは自分の考えが甘いのだろうか。
そのうちなんとなく沸き上がった疑問を口にしてみたくなって、晶はそっと後ろから呼びかけた。
「あの、フィガロ」
「何?」
大きな声ではなかったが、風の中でもフィガロの耳は晶の声を正確に捉えているようだった。
「――なんでさっき学校で嘘をついたんですか」
「嘘って――きみがどこから来たかわからないって言ったこと?」
「そうです」
フィガロは暫くの間黙っていたが、やがて前を向いたままで答えた。
「――だって本当のことを話せばきみはそれなりに祭り上げられることになるからね。元といったって賢者様は賢者様だ、鬱陶しいでしょ、そういうのは。――それに噂を聞きつけて中央あたりから、きみを利用しようってやつが来ないとも限らない」
淡々とした口調だったし、顔も見えなかったけれど、それはどんな人を蕩かすような美しい笑顔で差し出される甘言よりも、晶の心の奥に染みた。
なんとなく泣きたいような気分になって、それを誤魔化すようにフィガロにしがみ付く力を強めると、「ちょっと」と驚いたような声が前から聞こえた――相変わらず想定していない不意打ちには弱いらしい。
彼の背中に頬を寄せると、そこからは薬草と薬の混ざった柔らかな匂いがして、それが安心を呼んだ。心の赴くままにそうして背中から伝わる温度を感じていると、少しばかり困ったような声が聞こえてくる。
「――あのさ、空の上での不意打ちはいくら俺でもちょっと危ないんだけど」
照れているのか何なのか、注意するその口調に力はなかった。
「あなたを信頼しているので」
晶が喉の奥で笑ってそのまま頬ずりすると、ため息が聞こえた。
「ほんときみって時々意味がわからないくらい大胆になるよね、それも大抵こっちが反撃できない時に」
それってなんか作戦なの、という小さなぼやきにまた笑ってから、晶はそっと目を閉じてもう一度、腕に力を込めた。
「――ありがとうございます、フィガロ」
晶が小さく礼を言うと、やがてそれに応えるように同じく小さな声で、「どういたしまして」と返って来た。
家に戻ってみると、台所には鍋やらまな板が雑然と並んでいて、既に誰かがそこで調理していたことがわかった――誰と言ってもこの家には晶の他に一人しかいない。鍋を開けてみると、中には野菜とベーコンを煮込んだスープのようなものが入っていた。
恐らく自分の帰りが遅いが為にフィガロが魔法で準備したのだろうと思い、少しばかり申し訳ない気持ちになった。今この家において自分が役に立てることなど家事くらいしかないのに、それもフィガロにやらせたのでは本末転倒である。
「フィガロ、明日から俺がやりますから――ちょっと遅くなってしまって申し訳ないですけど」
流しで水を飲んでいたフィガロは、やがてコップを口から離すとそれを傍らに置いて、じっと見下ろして来た。何を思ったか、やがて彼はそのまま晶の手を取って椅子の上に座らせると、自分も目線の高さを合わせるように床に屈んで見上げる。
「――あんまり無理はしないで」
思わず目を見開く晶を宥めるように、フィガロの手が腕の上を滑って行った。
「無理してなんかないんですけど……」
フィガロの突然の行動への驚きからまだ立ち直れないままに、晶は僅かに首を横に振ったが、返って来たのは困ったような笑顔だけだった。
「多分してると思うよ、きみ昔からあんまりそういうの自分で気付かないみたいだけど」
昔、というのが自分が賢者であった頃のことを指しているのだろうという考えに至り、思い当たる節は様々あるので斜めに目を反らした。
「きみの為だけじゃなくて俺の為にもって言ったら言うこと聞いてくれる?」
黙っていると、やがてフィガロは言葉を続けた。
「――きみが今ここにいるのがすごく大きなことだっていうのはわかってるからさ」
腕に添えられた手に晶が自分の手を重ねると、それを了承と理解したのか、フィガロは満足げに息をついて、やがて立ち上がった。
「お腹空いてる? あ、それとも先にお風呂にする?それとも――」
どこかで聞いたようなフレーズに晶が咄嗟に眉をしかめると、フィガロはそれを瞬時に見て取ったらしく、愉快そうに笑い声を立てた。
「一体どこで聞いて来たんですかそんなの」
晶がひどくまずいものでも食べた時のような顔をして問うと、彼は事も無げに言った。
「――近所のおばさんと立ち話してる時に聞いたんだよ、きみの家に住んでた時に」
幸いなことにフィガロはそれ以上その冗談を引っ張ったりせず、さっさと台所に立つと鍋の中身を暖める為にコンロに火をつけた。晶はしばらくその後ろ姿を眺めていたが、やがて汚れた衣服を着替える為に寝室へと引っ込んだ。
その日はフィガロが遅くまで用事をしていることもなく、一緒にベッドに入った。ルチルの学校であったことなどを話しているうちに目蓋が重くなって、そのうちうとうととしていると、微かに頭を撫でられるような感触があって、それが余計に気持ち良くてそのまま寝てしまった。
久しぶりに夢を見たが、内容はぼんやりとしていた。子供を見ていたような気がする――やけに白く浮いて見える子供の小さな足が、ゆらゆらと漂う水に少しずつ浸されて、透明な水の中を恐る恐る前に進んで行く夢だった。
4.
ルチルの学校は晶の良く知る彼の世界の学校と同じく、週末になると休みになる。晶の休日も学校のカレンダーに合わせて週末だった。フィガロの診療所も同じく週の終わりには閉めていたので、一週間の労働に疲れた二人は、土曜日に当たるその日、いつもよりは長い間寝台の中で眠りを貪っていた。先に起きたのは晶の方で、彼が起き上がったことによってずれた毛布を取り返そうとフィガロがもぞもぞ動いていた。
子供のような仕草を微笑ましく思ってそのまま毛布をかけてやってベッドから降りると、隣にいた男はもう起きていたらしい、部屋を出ようとしたあたりで後ろから声がかけられた。
「――もう起きるの?」
まだ眠りの淵から這い出切っていないような舌足らずな物言いに、思わず笑みがこぼれる。
「もうって、多分十時くらいを回ってますよ。お休みの日がなくなっちゃいます」
「一日中こうしてたっていいじゃない」
不満げな声と共に布団の向こうから蒼に彩られた頭が飛び出した――癖っ毛がいつもよりあちこちにはねて、大変なことになっている。
「うーん、ちょっと不健康かなと……天気がいいからお散歩とかしたら気持ちいいですよ、きっと。外で食べてもいいですし」
晶がさりげなく健康的な休日を勧めると、フィガロは布団を抱いたままで小さくぼやいた。
「――向こうにいた時はきみだって休みの日はだらだらしてたいって言ってたのに」
「それはそうなんですけど――でも新しく来たばかりの土地は毎日珍しいことばかりなので、何か目がさえてしまって」
「……そういえばまだ街を案内したこととかもなかったっけ」
晶の言葉にふと思い出したのか、フィガロは呟くように言った。彼はしばらく二度寝の誘惑と健康的な生活とを――あるいはほかのものとを天秤にかけていたようだったが、やがてのろのろと上半身を起こすと、その癖毛の中に手を突っ込んでかきあげた。
「雲の街、案内して欲しい? 前に来た時と何が変わってるわけでもないけど」
「いいんですか? ――でも疲れてるんじゃ」
「眠いは眠いけど、考えてみればきみの身の回りのものも揃えなきゃいけないしね。服とかタオルとか――ちょうどいいから街に行こうか」
「すみません、なんだか」
晶が少しだけ申し訳なさそうにすると、フィガロは呆れたように笑った。
「何言ってるの、全部きみが向こうでしてくれたことでしょ」
週末の雲の街には市が立っていて、人通りも多く賑やかだった。めいめいが自分の持って来た屋台だのテントだのを張り、与えられたスペースで、あるいは時々そこからはみ出して商売に勤しんでいる。売られているものは様々だったが、食料品や衣類、小物が多かった。家具などの大型の売り物を荷車に積んで来ている者もあるにはあるが、数はさほど多くなく、そういうテントは奥の方に固まって配置されている。
フィガロによれば、食料品や衣類は市で買うのがいいのだとのことだった――何故なら中央の国などから流れて来た普段は手に入らないものが並べられている時があるからだ。但し、信用のできそうな店を良く選ばなくてはならない――珍しい果物を扱う店の横を通り過ぎる時、そう耳打ちされた。籠の中のものがあからさまにしなびていた。
数枚の普段着や下着を買ってもらって、夕食の為の材料の調達を済ませてしまうと、二人はそのままぶらぶらと商店街の方へと足を向けた。市はいつも立っているわけではないので、普段の買い物はそちらでするのだという。可愛らしい装飾の店が並ぶのを眺めていると、ふと小物屋に置かれた猫の食器が気になって、そこで足を止めた。
「――食器も新しくそろえた方がいい?」
晶が窓ガラスの向こうの猫のマグカップに気を取られていることに気付いたらしい、フィガロは後ろからそう尋ねて来た。
「いえ、そういう催促というわけではなくて――単に可愛いなと思って見ていただけで」
晶が慌てて首を横に振ると、フィガロは小さく唸った。
「本当にきみといいファウストといい、なんであんな何もできない脆弱な生き物が好きなんだろう」
「……ええ、そりゃあ可愛いから……」
晶が浮気でも弁解するように口をもごもごさせると、フィガロは店の扉に手をかけた。
「でもまあ、カップくらいは自分のがあった方がいいだろうから――覗いて行こうか」
フィガロに導かれるままに店の中に入ると、小物屋はどちらかと言えば女性客を想定した、可愛らしいものばかり扱う店であることがわかった。男二人が店の軒先をくぐって来たのを見てカウンターで新聞を読んでいた女性は少しだけ眉を上げたが、フィガロの顔は知っていたらしい。小さく手を上げてまたその視線を新聞に戻していた。
「きみが見てたのはこれ?」
フィガロは棚の中ごろから青い地に釉薬で白い猫の描かれたカップを取って、晶に尋ねた。
「あ、そうです。――でもそっちの色違いのも可愛いな」
晶が棚の隣のオレンジ色の地のものに目をやると、フィガロはそちらも手に取ってしばらくためすつがめつしていたが、やがて何か思いついたとでも言うように晶に向き直った。
「――両方買おうか? 色違いのお揃いで」
「え、いいんですか」
晶が目を丸くすると、フィガロはカップの裏の値札を眺めながら答える。
「うん、大した値段じゃないし。きみはどうせここで何分も立ち止まって永遠に決められないんだろうし」
長寿の魔法使いの割には、我慢の弱い台詞だったが、どこか相手の買い物を待てない休日の恋人のようで、それがおかしくて思わず口元が緩んだ。
「――あ、でもお揃いっていいですね――青の方がフィガロかな」
晶が特に何も考えずにそう口にすると、ふと見上げたフィガロの顔はどういうわけかほんのり赤く染まって、翠の瞳が大きく見開かれた目の中で、かえって小さく見えた。
「――お揃いってそういう意味で言ったんじゃなかったけど――まあいいや」
彼は少しばかりはっきりしない口調でそう言うと、じっとカップを眺めていたが、やがて青い方を晶に差し出した。
「なんとなくこっちをきみが使ってくれた方がいいな」
「別に構いませんけど、なんでですか?」
「――オレンジのカップの猫の方が、なんとなくきみに似てとぼけた顔してるから」
人によっては言われたら気を悪くするのではないかというような発言をすると、フィガロはさっさとカウンターの方にもう一つのカップを持って行ってしまったので、晶はその発言の意図を深く考える間もなく、慌ててその後ろ姿を追いかけることになった。
なんとなく手にした青いカップの方の白い猫を見ると、そちらは自分はなんでも知っているんだぞというような澄ました顔をして、海を背負っているようにも見えた。
小物屋を出て再び市に戻ると、先程見て回った区画とは反対側の、絨毯や大きめの家具を扱う店が目に入った。彼らは商品が日に焼けないように、テントの他に長く垂れる布をあちこちにかけていて、それがまた異国情緒を強めていた。
家具のデザインは晶から見てもわかるほどに少しばかり古めかしく、どれも塗装などが若干痛んではいたが、まだ使えそうな丈夫なものばかりだった。店主が前の客に「これは西の国からの流れものなんだ」と小さな机を指して説明しているのが聞こえた。確かに豊かな西の国を思わせる微細な装飾が施された品で、素朴な南の国の雰囲気とは程遠かった。
晶が美しい小さな鏡台などを眺めていると、ふとフィガロが奥の方に視線をやっていることに気付いた。彼の視線の先を追うと、そこには小さなベッドがあった。
「――何か面白いものがありましたか?」
晶が尋ねると、フィガロは晶を見降ろして言った。
「いや、きみがうちに長くいるのなら、ベッドも買った方がいいのかと思って」
晶はもう一度彼の視線の見ていたあたりを見直したが、どう見てもそれは一人用のものだった。やはり自分と一緒に眠るのは彼にとって居心地の良くないことだっただろうかと思うと少し胸の奥が痛んで、自然と表情が翳った。
「――すみません、やっぱり俺と一緒だと眠れませんか。今朝も起こしちゃったし」
「うーん、そういうことじゃなくてね」
フィガロはそこで困ったような表情をした。
「どこまでわかってて言ってるのかよくわからないんだけど……ずっとあのままっていうと――そういうことになるでしょ」
いつもは開けっ広げなフィガロがどういうわけか言葉を濁すので、晶は逆に彼の言わんとすることがはっきりとわかってしまって、その場で顔を真っ赤にさせることになった。
――彼は晶に問うているのだ、一体どういうつもりなのかと。ふと以前、今は遠い自分の生まれた世界で、同僚がくれた助言のことを思い出した。彼はこうは言わなかっただろうか、相手の態度がはっきりしない時というのは、自分の態度も大抵はっきりしない時なのだと。
晶は確かにこの世界に自分の意思で留まることを明確に意思表示しているけれど、フィガロとどういう関係にありたいのか、そこのところはまるで明らかにしていなかった。
本当の所を言うと自分でも良くわかっていないところもあった――はっきりさせるのが、まだ恐ろしいようなところもあった。
「あの、ええと」
何と言っていいかわからず意味のない音を重ねていると、やがて大きな手が伸びて来て、晶の頭をぽんぽんと叩いた。
「やっぱりあんまり意識しないで話してた? ――今すぐに決めなくたっていいよ。時間は有限だけれど、焦って決めるようなことでもないから」
フィガロが自分に猶予をくれたのだと気付いて見上げた時、彼の手は既に頭の上から離れていた。
必要なものを買い足して街の外へ向かって歩きながら、晶はまた自分がフィガロから、あるいは彼の望みから逃げたのだろうかと自問せざるを得なかった。それと向き合う覚悟をしてここへ来たはずが、結局のところまた彼に中途半端に答えの出ない期間を強いているような気がした。――無論フィガロの方もはっきりしないのはいつものことなのだが、そういう相手だからこそ、望みをちらつかせたその瞬間に応えてやれないことが歯痒くなるのだ。
なんだかずるいな、と晶は心の中でぼやいたが、恐らく物事の常として、相手の方も同じようなことを思っているのだろう。
「あの、フィガロ」
すぐに出せなかった答えの代わりに、晶は手を差し出した。
「――手を繋いで帰りましょうか」
荷物を腕にぶら下げた状態で手を差し出したままでいるのは、なかなかに骨が折れた。フィガロはしばらくきょとんとした顔をしていたが、やがて相好を崩してその少し冷たい手で晶の手を握った。
「どうせちょっと歩いたら箒に乗るのに。――でもそうだね、きみが不慣れな街で迷子になるといけないからね」
最後のそれは明らかに揶揄いの類であったけれど、晶はそれに対して胡乱な視線を向けたりすることはしなかった。フィガロが敢えて自分の気持ちを汲んでその手を取ってくれたことくらいは、わかっていた。
さてフィガロと出かけた日から二日後、晶は読み書きの勉強の為に、ルチルに時間を割いてもらうことになっていた。帰るのが少し遅くなることを告げるとフィガロは少し怪訝そうな顔をしたが、相手がルチルであることを知ると納得したようだった。しかしそれでも迎えはいらないからと言ったのは気に入らなかったようで、帰りはいつ頃になるのかとか、口うるさい家族のようなことを言っていた。
夕食の準備に間に合う時間には帰って来ると約束し、いつも通り掃除などの仕事をする為に学校へ向かった。学校はいつもより少し早くはけ、約束通りルチルは教室で晶の勉強を見てくれた。ミチルは友達との約束があるようで、足早に教室を出て行ってしまっていたので、学校の中に残っているのは、ルチルと晶、それから数名の教師くらいのものだった。
ルチルは子供でもわかるような様々な教材を用意してくれていて、晶の前にそれを並べてくれた。本職の教師だというだけのことはあって教えるのが上手く、彼の言う通りに練習問題のようなものを埋めて行けば、「ああ、これは看板で見た字だな」とか「これはフィガロの診断書に書いてあるのを見たことがあるな」というふうに、次第に実際の生活と、知識としての文字が結びついて行った。
何しろ晶にとってまず不便なのは、店に行った時に値札の文字が読めないだとか、ちょっとした説明書きが読めないだとかそういうところだったので、ルチルの生活に即した指導はとても助かった。
授業はこの上なく有意義だったが、フィガロと約束した時間があったので、しょっちゅう時計を気にしていなければならなかった。ルチルはそれに気付いたのか、一時間くらいたった頃、晶にそれとなく尋ねて来た。
「晶さん、もしかして今日は何か急ぎの用事とかありましたか?」
「あ、いえ、そういうわけではないんですけど」
折角時間を作ってもらっているのに失礼な態度を取ったことを申し訳なく思いながら、晶は首を横に振った。
「ただ、ちょっとその行きがけに――フィガロに時間通りに帰って来いってうるさく言われてしまったもので」
後半は恥ずかしさで言葉が籠りがちになった。けれど晶の答えを耳にするや否や、ルチルは微笑ましそうに相好を崩して、その目を細めた。
「あらあら、随分仲良しさんなんですね」
「仲良しというか」
晶は先日の罪悪感が胃の底からまた蘇ってくるのを感じながら、しどろもどろに言葉を次ぐ。
「――その、ちょっとこの間――俺が微妙な態度を取ってしまったので、なんだか家に一人で置いておくのが申し訳ないような気がして」
「微妙な態度っていうと?」
ルチルは今まできっちりと腰かけていた椅子の上で身体をずらして、少し崩した姿勢になった。それは、今は休憩時間でプライベートな話をして良いという合図のように見えた。
「――またはっきりしない態度をとってしまったんです。その……フィガロが、新しいベッドを俺の為に買った方がいいのかどうかって、そんな風に遠回しに聞いてくるので……俺はなんというか、はっきり答えられなくて」
晶の答えにルチルは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて「まぁ」と少しばかり頬を赤くして口元に手をやった。晶にしてみればそこそこ真剣な愚痴ではあったのだが、どうやら彼には女子高生の恋愛相談のようにしか響かなかったらしい。
「――とうとうなんというか、そこまでお話がいったって感じでしょうか」
どちらかと期待に胸を高鳴らせているように見えるルチルを制するように、晶は手で彼を押しとどめる身振りをした。
「ううん、多分ちょっと違って――たまたま、家具屋の前を通りかかったらそんな話が出て。俺は最初よく考えもせずに、『俺と一緒に寝るのは嫌ですか』みたいなことを言っちゃったんです。そうしたら、フィガロがどこまでわかって言ってるんだ、なんていうから……でも結局はっきり答えられなくて、そんな自分に自己嫌悪しか起きなくて」
「ううん、確かにそれはちょっと小悪魔さんですね」
前に座ったルチルが唸った――けれどその口調に晶を批難するような色はなく、どちらかと言うと話に聞いた状況を面白がるような調子だった。
「小悪魔って」
その表現にどっと疲れたような気がして呻くと、ルチルは愉快そうに笑った。
「うふふ、別に悪い意味で言ったわけではないですよ。わざとやっているんじゃないんでしょうし。ただ先生はやきもきするだろうなと思って」
「――相手があまりいい気分はしないだろうなというのはわかってるんです、でもその時は本当にどうしたらいいのか」
晶が言い訳をするようにそう言って俯くと、ルチルはしばらく黙っていたが、やがて穏やかな声が無人の教室に響いた。
「多分晶さんは、ご自分の気持ちがまだ良く自覚できていないんでしょうね」
「自覚、ですか」
鸚鵡返しに繰り返すと、ルチルは「はい」と頷いた。
「――とは言っても、そういうのって考えれば考えるほど難しくなってしまうと思うんですけど――でも私でいいのであれば、ちょっとだけ晶さんの手助けをすることはできるんじゃないかと思うんですけど」
手助けという言葉は、側溝の水たまりに落ちてしまった鳥のような気分になっている晶にとって、とても魅力的に響いた。
「むしろこんな話を聞かせて悪いなと思ってるくらいですけど」
やや卑屈なその物言いを了承の合図と理解してくれたらしく、ルチルは笑って首を横に振った。
「私が好きで聞いていることですから――なんというか、知り合いのそういう話は楽しいですし」
どことなく友人の人間関係を面白がっているようにも見えるその表情は、いつものルチルのそれよりは少しだけ大人びていて、晶の同居人を思わせるような人を揶揄うような雰囲気もあった。魔法を教わればそういうところも似て来るものだろうか――あるいは彼の母親は相当な人物だったと聞くから、案外生まれつきで、親譲りなのかもしれないが。
「――じゃあ担当直入にお聞きしますけど、例えばフィガロ先生と一緒にいると、どきどきしたりします?」
言葉通りまっ直ぐなその質問に、晶は唸った。但し答えにくかったとかそういう理由ではなくて、それがフィガロという男を相手にした場合に明確な判断基準になるかどうかが怪しいと思ったのだ。
「することもありますけど……でもフィガロの場合、ああいう人なので。際どいことも結構する人ですから、それは誰でもどきどきしてしまうのではと……」
「――際どいことってどんなことですか」
好奇心でいつもの数倍鋭敏になったルチルの耳は、当然晶の言葉の端を捉え損ねることはしなかった。彼のオリーブ色の瞳が輝いて、晶がこれは不味いと思った時には、既に遅かった。
「いや、その――人を無暗に揶揄うようなことを言ったり、したりするっていう意味で」
「具体的には?」
「――それ、言わなきゃだめですか?」
心なしか目を潤ませているようにすら見える目の前の青年に、晶は叫び出したいような気分になった。
「そんな凄いことを……」
やたらと感慨深げに自分に都合の悪いことを小さく呟く声が聞こえたが、晶はそれを聞かなかったことにして、それまでの会話を誤魔化すように言葉を重ねた。
「そりゃ、例えばあれだけ手慣れた感じの人にお酒片手に迫られれば、ちょっとどきどきすることもあるでしょう、でも起きたのはそれくらいのことです」
「――なるほど」
晶の答えに納得したのかしていないのか、ルチルは短く答えて次の質問を探すように、少しばかり視線を窓の外へと外した。
「じゃあどきどきするかどうかが基準にならないとして、フィガロ先生と一緒に生活していて、どうです?」
「どうです、というと――」
「住み心地がいいかとか、楽しいかどうかとか、そういうことです――しっくりくるか、とか、漠然としたことでも構わないんですけど」
晶はここへ来てからの生活をなぞるように、ここ数週間の出来事を辿った。
――最初のうちは正直なところ違和感の方が強かったのだ、向こうの世界で一か月一緒に暮らしたとはいえ、ところが変われば関係も変わる。フィガロの家に転がり込んですぐはどことなくぎこちなくて、生活を楽しむどころではなかった。
けれど、学校へ迎えに来てもらった時のことだとか、あるいは週末に雲の街を案内してもらった時のことなどを思い出せば、自然と胸の奥には温かいものが生まれた。
お揃いのマグカップを買ってもらった時のことだとか、あるいは箒の後ろからしがみ付いた彼の背中が温かかったことだとか、そういった些細な出来事を掌に載せて眺め直してみれば、そうした時に胸の内に宿る感情は、今までにあまり経験したことがないもののようにも思われた。
「――嬉しいな、と思うことはたくさんあります。心の奥がほっこりしたりとか、あ、今この瞬間幸せだな、みたいなことは」
ルチルは晶がぽつりぽつりと言葉を紡いでいくのを黙って聞いていた。
「例えば一緒に買い物をして楽しかったりだとか――あるいは一緒の布団に入って、今日は同じ時間に眠りにつけるんだなとか思った時、ほっとしたりということもあります」
なんかもやもやして、漠然としていますけど、と言い訳のように付け加えて恐る恐る見上げると、目に飛び込んで来たオリーブ色は、先程よりも穏やかに包み込むような色をたたえているように見えた――なんというか、母親か何かのような。
「うーん、私から見ると、ちょっとお水を上げれば育ちそうに見えるんですけどね」
彼は意味ありげな物言いをすると、少しばかり小首を傾げて微笑んだ。
「でも、こういうのは無理矢理育てるのって、多分よくないことなので。――これは私からのちょっとしたアドバイスですけれど、そのほっこりする気持ちとか、幸せな時間をもっと素直に感じてあげたらいいんじゃないでしょうか――なんというか、難しく考えるのではなくて」
「素直に、ですか」
ルチルは頷いた。
「――多分そういうのって、本能的な部分もあるでしょう? 例えば偉大な魔女だった私達のお母様がお父様に恋をしたのだって、そりゃお父様の人柄だとか色々説明がつく部分もあるとは思いますけど――でもやっぱり、理屈じゃない何かが大きいと思うので」
実際に身近な親族に大恋愛をした者があるとあって、ルチルのその言葉はどこか重く真実みを帯びて聞こえた。
「本能って言うとなんだかいきなり生々しく聞こえますね」
晶がこぼすと、ルチルは小さく笑った。
「そうですね、でも恋ってするものではなくて、落ちるものだといいますからね。――私はまだそれを実感したことはありませんけど」
結局二人が話を終えた時には、既に晶が診療所に戻らなくてはならない時間になっていたので、ルチルが箒の後ろに乗せて送ってくれることになった。雲の街の上空を通過する頃にはフィガロと約束した時間をほんの少し過ぎていたが、ルチルが思いきり飛ばしてくれたので、目が回って気分が大変なことになった代わりに、五分ほどの遅刻で済んだ。
ルチルは気を遣ってか、フィガロに挨拶もしないままそのまま飛び去り、玄関の前には晶だけが取り残された。約束の時間に遅れた後ろめたさを抱えながらゆっくりとドアノブに手をかけると、鍵は開いていて、そのまま油の切れた蝶番の音と共に扉が開いた。
「ただいま戻りました」
晶が声をかけて家の中に入ると、フィガロはちょうど食卓に腰かけてビラのようなものを眺めているところで、片手にはティーカップを持っていた。既に白衣は脱いでいて、家でゆっくりするときによく着ている、胸元の広く開いた麻のシャツに、パンツというラフな格好をしていた。
彼の様子に特筆するべきところは何一つなかったけれど、それでも晶は部屋に入った瞬間、フィガロの周りにどこかひりついた空気が漂っていることを肌で感じた。
「すみません、遅くなって」
晶が小さな声で呼びかけると、フィガロはようやくビラに落としていたその視線を上げて、部屋の入り口に立つ晶を見た。どこか見分するようなその目つきに、晶は知らず知らずのうちに小さく身震いした。
「――随分長くかかったんだね」
その口調には責めるような調子こそなかったものの、どこかそっけないような響きがあった。
「俺があまり出来のいい生徒ではなかったので」
まさかあなたについて話していました、とは言えず、晶は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。けれどそれがかえって逆効果だったらしく、今度はあからさまに面白くなさそうな声が返って来た。
「最近なんだかルチルと仲がいいみたいじゃない?」
「――それは、同じ職場なので。仕事を斡旋して頂いた恩もありますし」
彼の言葉の中に、かつて魔法舎で何度も耳にした拗ねた子供のような響きを聞き取って、晶はさすがにため息をついた。常に何者かの一番でありたくて意味もなく張り合って見せるのは最早フィガロの習性のようなもので、恐らく今も晶が自分との約束を反故にしてルチルとの時間を優先させたことが気に入らないのだろう――それがたった五分や十分のことであっても。思えばどこか朝から気に入らなさそうな顔をしていたから、前々から不満の種のようなものは抱えていたのかもしれない。
「――文字だったら俺だって教えて上げられるのに」
それでも、素直にそう口にしてくれるだけましなのかもしれない、と晶は頭の隅で思った。フィガロの場合、何も言わずに一人で「あーあ」と呟いて翌日にはその姿を消していたってなんの不思議もないことも、晶はよく承知していた。
素直に、というルチルの言葉が脳裏に蘇って、晶はちょっとした意地と共に飲み込みかけていた言葉をまた胸の奥から取り出した。ここでくだらないことで悋気を起こすなと無視してしまうのは簡単だが、晶が今望んでいるのはフィガロの理不尽さを指摘することではない。今少しでも彼との間にある不思議な隙間を埋めたいと思っている時に、考えるべきは、むしろ彼のことを安心させてやる方法なのだろう。――ルチルも言っていたではないか、多分フィガロもどこか不安なところがあるのだろう、と。だとすれば、隠し事をするのは明らかに正しい選択肢ではなかった。
「……文字だけじゃないんです、その――時々、悩みを聞いてもらっていて。こっちの世界で生きていく上でどうしたらいいのか、相談というか」
とは言え、馬鹿正直にあなたとの関係のことを相談していました、と口にすることはとてもできなかったので、表現は当然ややぼかしたものになる。
「そんなのそれこそ俺に言ってくれれば良かったんじゃない」
答えるフィガロの声はどこか沈んで聞こえた。長いまつ毛を伏せたまま目を反らし、テーブルの木目に視線をやっている。
いよいよこれは言いたくないことまで白状しなければならないぞと覚悟して、晶はため息をついた。
「――あなたには話せないことだったんです。大体のところが俺がここいいていいのかっていうような――あなたとの関係についての、相談内容でしたし」
「俺との?」
フィガロはそこで視線を上げて、眉を寄せたまま晶をまじまじと見つめた。
「そうです。――そんなのあなたに相談したらおかしいじゃないですか」
肩を竦める晶に、フィガロは理解できないとでも言うように首を振った。
「ここにいていいのかって――どうしてそんな妙なところに考えが行っちゃったの? ちょっと考えたら悪いわけないってわかるでしょ」
「それでも」
普段よりやや強いフィガロの語気に釣られるように、晶のそれも少しだけ急いたものになった。
「それでも、ここへ来てから前と色々なことが変わってしまった気がして不安だったんです――あなたの態度も俺の家にいた時とは違いましたし――なんだか距離が出来てしまったような気がして。本当は付いてきたら迷惑だったのかなと思ったこともありましたけど、それは――あなたには言えないことだから」
一気に言い切ってしまうと、二人の間に何の音もない沈黙が落ちた。晶の日頃は滅多に見せないような勢いに気圧されたのか、フィガロはしばらくゆっくりと瞬きしていたが、やがて僅かに俯いて息をついた。
ぽとんと台所で水の垂れる音がしてようやく、張り詰めたその空気が解けて、フィガロが言葉を探すように口を開いた。彼は何度か何事かを言いかけてはそれを飲みこみ、唇を引き結ぶということを繰り返してから、三度目にやっとそれを言葉にした。
「ここにいたらダメだなんてことあるわけないでしょ」
まるでそれが晶の理解すべき最も重要な事項であるとでも言わんばかりに、彼は繰り返した。
「――だけど……思ってたより悩ませちゃってたみたいだね」
彼なりに心当たりも自覚もあるような物言いをして、フィガロは少しばかり眉を下げた。
「俺としては、きみが無理してこっちの世界に住まなきゃいけないなんて考えたら嫌だなって思って色々考えた末でのことだったんだけど――自分で思うより変な態度になっちゃったかな」
変な態度どころかよそよそしささえあった、と口を挟みたかったが、そういう不満は全て飲み込んで黙っていた。
「その、きみがそのうち――帰りたいって言い出さないかなとも思ったし――もしそう思う日が来るなら多少の距離があった方が、お互いの為だろうとも思ったし」
八割ほどの保身と、のこり二割ばかりの気遣いの奇妙に入り混じったその言葉を聞きながら、晶は心の奥底で今更何を、と叫んだけれど、それは面に出さないようにこらえた。晶の第六感とも呼べる直感のようなものは、もう元の世界には戻れないということを理解していたけれども、フィガロは晶と同じようにそれを感じるわけではないのだ。
「それに」
そう言ってフィガロはほんの少し戸惑ったように呟いた。
「――きみがどういう関係を望んでいるのかもわからなかったし」
その言葉を聞いた瞬間、晶は自分の頬がみるみるうちに熱を帯びるのを感じた。それは一緒に市に出かけたあの日にフィガロが一瞬だけちらつかせた問いと同じものだった。結局のところ、その問いこそが二人の間にわだかまる小さなぎこちなさの一番の原因なのかもしれない。
少なくとも晶の家に住んでいた頃までのことを言うならば、フィガロの方は明確にそれを示していたように思う――少なくとも晶よりは。ただ言い訳をさせてもらうのであれば、この長命の魔法使いに比べ、晶は本当に小指の爪の先程の経験しかないのだ、挙句の果てに自分の育った環境では一般的でなかった同性の相手と言えば、簡単に自分の気持ちを定義できなかったとしても無理はなかった。
今までのようにそう言って逃げてしまうことは簡単だった。けれど今いつになくまっ直ぐに自分の心の柔らかい部分を曝け出しているフィガロに対して、これ以上の逃げを打つことはしたくなかった。例え自分の中の答えがはっきりしていなかったとしても――ルチルの優しい声が頭の隅で聞こえた。――難しく考え過ぎないで。素直に自分の感じたことの一つ一つに向き合ってやればいい。
「あの――それについてはその」
晶は言葉を選びながら、しどろもどろに口を開いた。
「俺も、自分でもよくわかってないんですけど――それが、自分でも情けないんですけど、でも」
またそれ、という顔をされるのが怖くて、加えて恥ずかしさで相手の顔を直視できなかったのもあって、晶は視線を彷徨わせたままでいたが、せめて自分の心の内を伝える時くらいはと、恐る恐る視線を上げた。淡い翠色がいつになくきらきらと大きく開いて見えた。
「――それでも、フィガロと一緒にいると、幸せな気持ちになります。迎えに来てくれた時は嬉しかったし――あなたがうんと傍にいると、その、安心しますし――それからええと、……一人で寝るのは少し寂しいし、久しぶりに一緒にお布団に入った時は、嬉しかったし」
恐らくそれはフィガロにとって子供のつたない独白のように聞こえただろうけれども、彼がそれを笑うことはなかった。むしろ晶が最後の一言をひねり出してしまうまで真剣そのものの表情で聞いていたが、やがてそれ以上言葉が重ねられることがないのを見ると、僅かに口角を上げた。輝く宝石のようなきらめきが少しだけ穏やかなそれに変わって、小さく息が漏れるのが聞こえた。
「――うん、今はそれでいいよ。十分脈アリみたいだから、今はそれで十分」
フィガロの声には包み込むような優しさがあった。彼はゆっくりと立ち上がると晶のところまでやってきて、緩やかに身体に手を回した。それから僅かに額に柔らかいものが当たる。箒での移動で乱れた毛筋の隙間を縫うようにしてキスされたことに気付いて、晶は更に顔を紅潮させたけれど、その腕を振り払うことはしなかった。
代わりに遠慮がちに相手の腰に手を回して、その胸に頬を埋めると、背中に回された腕の戒めが少しだけきつくなった。心臓が血を吐き出す音が聞こえて、ああこのひとも自分と同じような仕組みで生きていたのだなということを思い出した。――ほんの少しだけ、その音は速いような気もする。
無言の抱擁のあと、二人はどちらからともなく身体を離した。見上げるとフィガロの頬もほんのりと薄桃色に染まっているように見えた。彼ほど色が白いと、些細な血色の変化もすぐに詳らかになってしまう。
「――ご飯の準備しなきゃ、一緒にやろう」
照れ隠しをするようにフィガロは言った。
「あ、あとお揃いのマグカップ、どこにしまったっけ」
「――多分、奥の棚の中に」
微かなぎこちなさが二人の間に漂ったけれど、それは以前のものと違って、どちらかと言えば心地のいい類のものだった。妙にそそくさと晶の指した棚を開けに行くフィガロの後ろ姿を見やって、晶は同じく妙にてきぱきとした仕草で台所へ向かった。
籠に無造作に放り込まれた野菜を選んで取って水に晒すと、気温は低くないはずなのにその冷たさが一層手に染みこむように感じられた。肌がいつもより随分と火照っているせいだと気付いたのは、同じく桜色の頬をしたフィガロが鍋を火にかける為に隣に立った時だった。
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