息が上手くできない。それは興奮からなのか、恐怖からなのか、分からない。
浅く短い呼吸を繰り返しながら、茨は眼前に迫った獣の顔を見た。長い銀色の髪と、歪んだ笑みを浮かべた口元、そして覆われている目元は目隠しの向こう側から焼け付くような視線を感じた。
「……私、喉を潰したりしていないよね? 久しぶりのヒトなのに、お喋りしてくれないのは、寂しいなぁ」
「…………ッ、」
囁かれる声は、酷く甘くどろりと何かを流し込まれた様な錯覚に陥る。頭が、うまく回らない。食われる。支配される。蹂躙される。殺される。思考が、恐怖と敗北に染まる。
カシャン、と乾いた音が響き、茨は弾かれたように視線を逸らす。己の手から離れた銃が、コンクリートの床の上でちいさく跳ねた。
呑まれそうになった意識を何とか現実に繋ぎ止めることが出来たが、事態を好転する方法は未だ茨の中に無い。スバルが地下室に来たとしても、まさか茨が自ら檻の中に入り扉を閉めているなんて思わないだろう。
「お喋り、と言いましたけど……」
上着のポケットを乱暴に握りしめる。ちゃり、と銃弾同士がこすれる感触が布越しに伝わった。
「生憎、自分は化物と呑気に会話できる程、暇じゃあないので、ね……」
「なかなかに威勢が良いね。楽しめそ――ッ!?」
獣の言葉が途切れる。茨の人差し指が枷となっている首輪に触れ、修復の術式を詠唱し、直接叩き込んだ。直後、獣の体は鎖が修復され元に戻ろうとする力によって、檻の壁面へと引き戻される。その隙を突いて、拘束から逃れ逃げる算段をしていたが、獣の拘束は解かれることなく茨を引き寄せる。
「く、そっ! 離せ!」
「……ふふっ、キミ、面白いね。大抵のヒトの子は、ビックリしてそのまま死んじゃうこともあるのに」
獣はなんとも呑気な声音で、まるで天気の話をするかのように、腕の拘束から逃れようともがく茨へと語りかける。
「なかなかに頑丈で、そして強かだ。……いいね、遊び甲斐がありそうで」
「自分で遊ぼうだなんて、趣味悪いですねぇ! ……感性が疑われますよ?」
「……そう? 私、直感だけは、とても冴えているんだ。だから、きっと大丈夫だよ」
「は?」
ぬるり、とそれは茨の口を塞ぎ、咥内を蹂躙し、上顎をなぞり、喉をやわく撫でてゆく。何が起こったのか理解が追いつかず、茨はそれ以上、言葉を発せなくなる。
ぴたりと隙間無く合わされた互いの唇から漏れる音はなく、茨は強制的に与えられる刺激に身を震わせる事しか出来ない。剥き出しの粘膜をざりざりと撫でられ、びくりと身体が跳ねる。その度に、刺激は不快感から遠ざかり、やがて淡い快感へと置き換わってゆく。
(苦しい。しんどい。もう、いいじゃないか。気持ちいい。何を必死に抵抗しているんだろう。こんなのに、勝てる訳が無い。もういっそ、受け入れてしまえ。化物になんて、敵わない。それなら――)
ぐちゃぐちゃになった茨の感情が、獣から強制的に与えられる多幸感で包まれる。抵抗をしていた両手はだらりと垂れ、身体の全てを獣に預け、恍惚とした表情で行為を受け入れた。
どれくらいの時間が経っただろう。
何時間かもしれない。一瞬かもしれない。獣は満足したのか、フンとちいさく鼻を鳴らし、長い長い舌を茨の中から引き抜いた。茨にとっては永遠に思える時間が突如終わりを告げ、盛大に咳き込み、体が酸素を求めるままゼイゼイと呼吸を繰り返す。
「……うん、上手くできた」
「は……、っ? なに、が……?」
「此処に……。キミの此処に、私の名を……刻んだ」
***
「うーん……う――――ん! どうしよう! ある日突然、バリ〜死なない!? 大丈夫かな!?」
「明星さん……」
「なになに!?」
「その、自分は大丈夫なんで、手紙の海を片付けて頂けませんか? あなたの魔法使いが、入口で困り果てています」
床を埋め尽くす紙の海の前で立ち尽くしていた赤毛の青年が「たはは」と破顔する。
「さ、さ、サリ〜!!」
歓喜の声を上げながら、スバルは尋ねてきた友人に飛びついた。
***
「スバルから色付きの手紙が飛んできて、ホントに焦ったよ。これが姫宮のトコとか、皇帝サマのトコに届いたら一国が動くレベルだからな? そういう時こそ冷静な判断が必要だから、今後気を付けろよ〜?」
立案者衣更真緒は自分が受け取った黄色い便箋を茨に見せた。通常のメッセージと重要度を区別するために使うそれに「助けてサリ〜!!」とだけ書かれていて、茨は思わず噴き出した。
当のスバル本人は、床の片付けに必死でガサゴソと音を立てながら、はーいと分かったのか、分かっていないのか曖昧な返事に真緒は苦笑する。
「しかし、七種も大変だったなぁ……というか、よく生きてたな?」
「えぇ……。その事に関しては、自分も驚いていますよ」
***
獣の爪先が喉元から離れ、安堵して息を吐く。そんな時間も束の間、指が乱暴に茨の口の中に突っ込まれる。
「ん、がッ!」
「ふふ……、うん。上出来」
舌を掴まれ、ジロジロと見る姿は、まるで新しい玩具を見つけた子供の様な無邪気さを感じた。相変わらず、目は目隠しで覆われたままで見えないし、子供と呼ぶには大きすぎる身体だが。
「……とりあえず、今はこれで解放してあげる」
茨を地面に下ろし解放した後、獣がパチンと指を鳴らせば、術式を施した扉は呆気なく開く。檻の中の扉は内側からは開けることが出来ない、なんて嘘っぱちじゃないか。
「遊びは、終わり……ですか?」
「……ふふふ。これから、だよ。まぁ、そう遠くない内にまた会えるから、楽しみにしてて」
***
二度、月が巡った。
何百、何千という悠久の時を生きている、人ならざる者なら、二度しか月は巡っていないので、遠くない内の範疇なのだろう。
人である茨にとってはそこそこの長さのため、まだ来る気配が無いというのを最大限利用した。あらゆる人脈を駆使し、今の自分の状態について意見を求めた。
三人の魔法使い、古より森に住まう深緑の護人、その森の更に奥に住まう蝶の賢人、海の『かみさま』、世界が創られた時から存在しているという吸血鬼、悪魔祓い・魔物退治を生業とする旅人、その誰もが知らない、あるいは噂程度にしか知らない、という情報の少なさに頭を抱えたりした。
八方塞がりもいい所で、どうしようと思案していたらスバルが方々に手紙を飛ばし始め、それを見て初めてここを訪れたのが真緒だ、とここまで説明をし、茨はベッドに横になる。
「そっ……かぁ。そこまで調べてたなら、俺が来たところで何にもならないなぁ」
「そんなことないよ!」
「と、言われてもなぁ」
椅子の背もたれに体を預け、うーんと天井を仰ぎ見る。そんな静寂を許さない、とでも言いたいのかスバルは真緒の座る椅子をガタガタと揺らす。
「サリ〜、色んな街に行って! 色んな人と話をしてるから! きっと何か知ってるかも! ってバリ〜と話してたんだ。頑張って!」
「い、椅子を! ゆ、ゆ、揺らすなぁ!」
「ほらほら! サリ〜!」
「あ〜! わかった! 分かったから!」
スバルに急かされ絞り出した立案者のアイデアに茨は溌剌とした声で笑い飛ばした後「良いですねソレ、やりましょう」と、ニヤリと笑ってみせた。