金春色 なんとかハモンに一人前だと認められたヒバサは、聞見を広げるためモンジュと共にしばらくカムラの里を離れる事にした。外の世界を知って、自分が知らない加工技術や武具の知識、そしてモンスターの素材を手に入れるのが目的だ。里長から貰った紹介状を手に遥か彼方の大陸への長旅の予定だが、気の知れた相手と一緒だから不安は少ない。不安は少ないが、気にしている事があり其方の方が胸につっかえて気分が悪いぐらいだろうか。
里の仲が良い人達はだいたい挨拶に来てくれたが、一人だけ未だ挨拶に来てくれていない者がいた。出立は明後日だが明日は荷造りの最終確認や目的地への移動手段の確認など忙しいだろうし、落ち着いて話すなら今日しかない。もう会えないかもしれないと思うと、どうしても顔を見ておきたかったのだ。
目的の人物はすぐ見つかった。彼はいつものように修練場に居た。どうやら今日は翔蟲を使った移動の訓練らしい。ウツシの姿は見当たらないので自主練か。
「よう、おチビ」
呼ばれ振り向いた子供、おチビはまだ翔蟲の扱いが十分に出来ないようで全身細かい擦り傷だらけになっていた。そんな状態でも諦めずに訓練を続けている姿を見ると感心すると同時に危ういとも思う。この子供が将来この里の為のハンターになる事は知っている。しかしそれはまだ先の話だし、今はまだ普通の子でいいはずだ。里を脅かすモンスター達の事は理解しているがこんな過酷な環境に身を置かずとも……。
それにしても、とヒバサは改めて目の前の子供を見た。重い前髪のせいで相変わらず何を考えているのかわからない。今自身が置かれている状況について、将来について、どう思っているのか。そしてヒバサに対して何を思っているのか。
おチビはヒバサを見た後、上を見上げた。修練場の上の上。滝の始まりのあたりを見ている。どうやら翔蟲を使ってあそこまで上がりたいらしい。傷だらけの身体を見る限り、それは順調とは程遠くみえる。
ヒバサはおチビの隣に立つと自分の腕を差し出した。少し考えてから近寄ってきたおチビの体を引き寄せると、小脇に抱きかかえ自身の翔蟲を空に放つ。おチビは驚いたように一瞬身動ぎしたが、すぐにおとなしく収まった。
ヒバサは滝の上目指して軽々飛んでいく。武具の加工だけでなく、一応ハンターとしての腕も磨いてきたのでこの位は慣れたものだ。風圧でおチビの前髪がふわりと揺れ、見下ろすとその顔が良く見えた。その表情からは驚きが読み取れる。ヒバサはおチビに気付かれない程度にくすりと笑い、更に上を目指す。そうしてついた目的の場所で抱えていたおチビを下ろすと、さっきまで自分達が居たあたりを見下ろしている。その顔はほんのり赤く色付いており、それなりに興奮しているように見えた。
そんな顔もできたんだな……。
初めて見る顔にヒバサの胸は高鳴ったが、振り返ったおチビに勘付かれないよう咳払いで誤魔化した。
「それで?上まで来た感想はねぇのか?」
「……自分で上がりたかったです」
最もな事を言われヒバサは苦笑した。実際がどんなものか体験させたかっただけだが、どうやら余計なお世話だったらしい。
「でも……」
続く言葉にヒバサは耳を傾ける。
でも、此処がどんな高さで、どんな場所か知れて、良かったです。これを目標にがんばります。
相変わらず子供らしくない言い方にヒバサは思わず吹き出して、おチビの頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。
ところで、何か用事があったのでは。そう問われ、ヒバサはガリガリと頭を掻いた。用事と言われるとそうでは無いし、だが聞かねばこれからの旅でずっと気にしていく事になるかもしれない。ただでさえ危険な旅に不安な気持ちは持っていきたくなかった。
ヒバサは大きく息を吐くと岩の上にどかって座る。おチビを手招きすればとことこと寄ってきたので、その手を取り前髪の奥の瞳を見つめる。
「俺さ、明後日にはここを離れるんだ」
「知ってます。随分遠くまで、行かれるそうで」
知ってはいたんだな、と、ずきりと胸が痛んだ。だったら尚更、何故……。
「知ってたんなら一言ぐらいくれても良いんじゃねぇか?お前さんにはちゃんとお別れを言いたかったんだよ。それとも、俺から別れを言い出すのを待ってたのか?」
「…………当日、見送りに行く予定でしたので」
途端、おチビが視線を逸らしたように思えた。
そうか、この話題はこの子には。
おチビの両親は不幸があり、この子を残して逝ってしまった。もう二年になるが、元々大人しかったこの子は更に大人しく、そして大人びたように思える。しっかりした子供だとは思っていたがなんでも自分でこなし、大人のような喋り方をするのは、例え孤独であってもひとりで生きていけるという虚勢のように見える。大人に何も期待していないから、自分が大人になろうとしているのだ。師匠であるウツシもずっと側にいるわけでは無いし、そして、ヒバサですらこの子から離れて行こうとしている。
旅立つ前に少しでも会話したいと思って会いに来たのだが、これは失敗だ。すっきりした別れをしたいと思っていたのはヒバサだけで、最後の最後に嫌な思いをさせてしまったようだった。
俺は大馬鹿野郎だ……。
頭を垂れ浅はかな自分を悔いていると、そっと髪を触れられた感覚を覚えて顔を上げる。そこには困ったような顔をするおチビの姿があった。傷だらけの小さな手で、去り行く大人を撫でるその姿があまりにも痛々しくて、ヒバサは思わずおチビの身体を抱きしめた。その身体はあまりにも小さく、足なんか辛うじてつま先が地面に届いている状態だ。多少驚いた様子だが、抱かれるままに抵抗らしい抵抗はない。それどころか、ヒバサの背をぽんぽん叩いてあやしてくれる。
まったく、どちらが子供なんだか……。
「何年かかるかわかんねぇが、必ず戻ってくる!」
強く抱きしめれば、おチビが小さく頷く。
「絶対にお前さんを残して逝ったりなんかしねぇ!必ず、必ず戻ってきて、此処でまたお前さんを抱きしめてやるから!」
再び、おチビが小さく頷いた。
「だから、……」
いちど身体を離し、おチビの頬に手を添えると重い前髪を耳にかけ、現れた金春色の瞳をじっと見つめる。しっかりとその色を覚えていたくて、また、自身の事を覚えていて欲しくて。
「俺の事、忘れないでくれ」
酷く震えた泣きそうな声だった。顔も酷い事になっているかもしれない。それを隠すように、ヒバサは自身の額をおチビの額に擦り付けた。返事をするかわりに首に抱き付いてきたおチビを強く強く掻き抱いた。
***
再びヒバサがカムラの里の土を踏んだのは、それから十八年後の事だった。思っていたよりも長旅になってしまい、その間に随分穏やかになった里の様子に驚いた。『英雄』のおかげで里は救われたと聞いていたが、里が纏う空気まで変わるのかと空を見上げた。里長フゲンと師匠ハモンへの挨拶もそこそこに、里の人に揉みくちゃにされながらヒバサは其処に居ない姿を求めて修練場に向かった。途中すれ違ったアイルー達におチビはどうしているかと聞けば、一瞬誰の事を言っているのかわからないという顔をしてから、あぁ!と手を叩き、今日もおひとりで鍛錬していますニャと教えてくれた。
そうだよな、もうおチビじゃねぇもんな。
ホッとすると同時に少し寂しい気持ちになる。
相変わらずひとりなのか。
修練場を見渡してもその姿は見えず、はて、と顎を撫でる。確かに此処にいると聞いたが、と思ったところでばっと上を見上げる。滝の始まりの場所、修練場の上の上。考えるよりも先に翔蟲を空に飛ばしていた。
何度か蟲を飛ばしてようやく辿り着いた場所、そこには流れる水に爪先をつけて涼んでいる男が、『英雄』と呼ばれている者がひとりいた。こちらに気付いて立ち上がった姿はヒバサと対しても引けを取らない程立派で、逞しい身体は彼方の方が分厚いぐらいではないだろうか。けれど、重い前髪から覗く金春色の瞳は確かにあの時のままだ。
『英雄』、いや、青年が口を開く前にヒバサがその名を呼んだ。
おチビ。
呼ばれた青年は驚きで目を見開いた後、ふわりとその表情を綻ばせた。そして、ゆっくりと両手を広げてみせる。
まるで、抱きしめてと言うように。
「おかえりなさい」
「……ただいま」