消えつ浮かびつエル主を思うだけで胸が痛い。どうしたら幸せになれるのこの子たち…
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消えつ浮かびつ
グレン城下町の駅に現れた不思議な扉から出たら、心配して来たのだろうエルジュと会った。
扉の中でゼーベスと話した内容を、どうせあとでホーローたち三賢者にも説明はするが、ざっくりとエルジュに伝える。
「そうか……紋章の完成が待ち遠しいな。」
両手拳を握り、安堵した様子でうんと頷くエルジュを見て、胸の内がざわめく。
本当は、いつまでも完成しなければいい、と思ってしまった。
時の流れを待ち侘びるエルジュの背後にたった今見えたのは、エルジュとの別れという事実だ。
破邪船を強化する紋章が完成したら、あの、蘇ったレイダメテスに行って、それで。
ネルゲルを、倒して、それ、で。
エルジュだって、いつまでもこの時代にいるわけにはいかないのはわかっている。
自分だって、五百年前の過去から、正しく現代へと帰ってきた。
どんなに、十のエルジュが惜しがってくれても。
どんなに、エルジュを失い難くても。
薄暗い悲しみに瞳を曇らせた盟友が地面を見つめていると、いつの間にかエルジュが覗き込んでいる。
「どうかしたのか?」
その、真っ直ぐに見つめる銀灰の宝石が瞬く度に、盟友の心臓が揺れた。
だけど、本当に、現代に。
この、五千年も後のこの時代に自分が生きていることが、本当に正しいことだったのか。
解らない、と思考を放棄すると同時に、ならばこそ、と浮かぶ暗い欲望が顔を覗かせた。
そんな自分に背筋を凍らせて思わず後ずさったらバランスを崩した。
「っおい!」
慌てたエルジュの手が伸ばされてもそれを掴む暇もなく後ろに転んだ。
アズランの緑深き大地なら良かったのに、ここはグレンの岩山の上だった。
ある程度はならされていても岩に擦った両掌からじんわりと赤味が染み出してくるのをぼんやりと見つめた。
「悪い、大丈夫か?」
「平気。エルジュのせいじゃないから。」
軽く頭を振って、ゆっくりと両足で立ち上がる。
このくらいの怪我なら日常茶飯事だが、今は生憎と回復呪文の使える職業でもなく、薬草の持ち合わせもなかった。
かといって、この程度の擦り傷に世界樹の雫を使う気にもならない。
盟友は苦い笑みを浮かべて、エルジュを見上げた。
「少し疲れてもいるし、怪我ついでにグレンの宿に泊まっていくことにするね。」
もう陽も落ちかけているし、この鬱屈した気分をどうにかしないと、聡い賢者たちを前にエルジュとまともに向き合える気がしなかった。
寂しさの末に伸ばした手で、何もかもを壊してしまいそうで。
それじゃあ、と笑みを浮かべてエルジュに背を向けようとすると、強い力で肩を掴まれてその勢いで再び振り返って、掴んできた男を見遣る。
あ、と開いた口を震わせ、エルジュがこちらを見下ろして何かを言いたげにするのをじっと待つ。
見間違いでなければ、その眼に浮かぶのは。
期待に揺れる心臓を深呼吸ひとつで落ち着かせた。
それを呆れのため息とでも捉えらえたか、エルジュが焦ったように話し出す。
「あ、悪い、っその……ボクも、ええと……どう言ったらいいか……」
「……どうせなら、一緒に泊まる?心配してくれてるんでしょう?」
「い、いい……のか?」
「いいよ。あの部屋じゃ、気が休まらないんじゃないかなと、思ってた。」
エルジュが熱を出している間は、賢者方三名が交代で看病をしてくれていたので、そこに異論はない。
ただ、あの、ホーローの隠れ家はいささか狭くて埃っぽい印象が強い。
しかも、案外に口うるさい爺さん三人に囲まれて、若いエルジュが望んで留まり続けるような場所ではない。
健康になった今でこそなおさら。
なぜなら、自分がそうだから。
そう思って苦笑を滲ませれば、エルジュもそう思っていた部分はあるのだろう小さく笑って肩を竦めた。
「本を読ませてもらっている間は、そんなに気にならないんだけどな。見せてもらえないのも多いみたいで。」
「だろうね。」
一応、あれでも世界の機密組織のひとつだ。
話している間に慰めるように傷をこさえた掌底を指で撫でていると痛みを何度でも思い出し、その度にこれは現実だと思い知る。
「じゃ、宿屋に行こ。昔と場所は変わってないんだよ。」
「そうか。助かる。」
ほうと安堵の息を吐いてエルジュが後をついてくるのを確認して、グレン下層の坂を上っていく。
宿に着いて二人分の部屋を取ってから、部屋に行く前に怪我をした両手を綺麗に水で洗った。
部屋に入ってから明るいランプの側で傷口を見るが、血も止まっているようだし傷跡も残らずすぐに治るだろう。
明日になってもまだ痛むようなら転職して回復する、と、心配そうに見遣るエルジュに約束した。
夜になったら酒場に行こうかと言ってはいたものの、気付かぬうちに相当疲れていたのか、宿で二人で少し話をして、用意してもらった夕食を食べたら、いつの間にか意識を失くしていた。
エルジュとたった二人で過ごせた楽しい時間はまるで夢のよう。
意識が浮上した時には、目を瞑っていても月明かりだけが部屋に差し込んでいる夜の気配を感じていたけれど。
目を開くことができなかったのは、盟友の側に居た気配がただならぬ様子だったから。
「……っハ……ぁ……」
押し殺したような息遣いだけで、何が起こっているのか、わかった。
その気配を理解した時に胸に浮かんだのは、喜びか、切なさか。
「……ご、め……」
微かに呟かれる自身の名と、小さな粘着質な音に紛れて、聞こえた謝意は、この子の本音なのだろう。
盟友に触れるでもなく、ただこの眠る寝台に顔を押し付けながら床に座り込んでは、彼は泣いていた。
泣きながら、自身を慰めていた。
大人になった彼から向けられる、尊敬と憧れでは済まされない切実な慕情が感じられていっそ身が震える。
どうして。
どうしても。
互いに、諦めることができないのだろうね。
そういう意味ででも同じなのなら、日中に浮かんだ暗い欲望は捨てきれず。
盟友は気付かれないようにほんの僅かに首を動かし、彼の金のビロードを確かめた。
「ずるい。」
そう言って一息に足を畳んで掛け布を剥がしながら身を起こし、目測通りのエルジュの左耳を大きく、できるだけ柔く掴んでこの寝台に引き倒した。
「……あ。」
盟友を見上げる涙に濡れたままのエルジュの顔は、ここ数週間見ていた凛々しいそれとは違ってどこか幼気で、あの、十のエルジュを思い起こした。
思えば、辛く悔しい思いを何度でもしたはずの過去の時ですら、エルジュは泣かなかったのに。
盟友を想って、泣くのか、と。
そう思うと、自分すらも泣きたくなって、愛おしくて。
あの頃からずっと、好きだったことを今更実感した。
「一人だけ、ずるいよ。」
「…………え?」
さっと青い顔をしていたエルジュが何を思ったのかは想像に難くない。
概して、表情に出やすいとは言われていたはずの自分と共にいて、盟友がエルジュに抱く思いに気付かなかったというのは、恋とは本当に盲目である。
まあ、ほぼほぼ、諦めていたせいもあるかもしれないので、そういう意味では盟友も悪いが。
「一人で、いかないで。」
やや汗ばんだエルジュの髪に手を差し入れてその下の熱を両手で掻き抱く。
目と鼻の先で、戸惑っていたような顔を、理解した瞬間に真っ赤にしてエルジュが焦り出す。
「なっ、なんで、君、が……」
なんでと言っても、理由なんか一つしか無い。
だけど、口にする気になれなかったのは五百年という言葉がゼーベスの声で浮かんだから。
はっきりと言葉にしてしまったその時、自分達は時の円環とやらから弾き出されるのだろう。
考えれば考えるほど正答などなく、やけになって塞ぐようにエルジュの薄い唇に吸い付いた。
それが答えでしかない。
「ん、ぁ……っ!」
始めこそ盟友のしたいようにされていたエルジュも、覚悟を決めたのか段々押し返してくるのでこちらが翻弄されていく。
息が上がったところで背中が寝台に付いていることにようやっと気付いた。
は、と荒く息を吐きながら見下ろしてくるエルジュの瞳には絶えず熱が揺らめいていて、迷いはまだあっても、引くこともできない状態なのは悟った。
痛みを堪えるような顔をしながら、エルジュは項垂れて、喉を引き攣らせる。
「……間違いを犯さないように、って……守れなかっ、た……」
誰かにそう言われた体で話すエルジュに、盟友は息を大きく吐いた。
エルジュが関わった中で、そんな頭の固いことを言いそうな人間は想像がつく。
盟友は、大粒の涙を零し始めたエルジュの頬に手を伸ばす。
もう止まることができないのは、自分の上から退かないことで明らかだった。
「……どこからが間違い?」
盟友が静かにそう問えば、エルジュがハッとしたように目を開いて見つめる。
腹が立つ言葉だ。
間違いというのは、正しい選択があることが前提の言葉であって、盟友は到底好きにはなれない。
間違いだなんて、五千年もはるかの昔に生まれたはずの自分が言えるわけがないし、誰かに言われたとしても否定なんかできない。
これが間違いだというのなら、どこから間違いを正すことになるのか。
過去へいくのが自分じゃなければ良かったのか。
それとも、過去でベルンハルトと共にレイダメテスを討伐すればよかったのか。
そもそも、盟友が現代へ来なければよかったのか。
兄弟を、飛ばさなければよかったのか。
何から、この間違いが始まった、のか。
命運をかけてでも互いを救うことを望んだ、この男を、愛さなければよかった、なんて、そんな世界が正しいのなら愛想が尽きてもしょうがない。
なお、兄弟が錬金術で人々に施してきた善意は既にアストルティア中の要に関わっていて、それを否定しようものなら世界の秩序が一気に崩れるだろうことはわかる。
「エルジュが、無事に過去に帰れれば、それでいいんじゃない。」
「っ!!」
今においては、何も盟友はエルジュを現代に引き留めようとしているわけでもないし、エルジュだって盟友を過去へ連れ帰ろうとしているわけではない。
ただ、そう。
「求め合うだけの行為に、原因も、結果も、いらない、でしょ。」
ここで一夜を共にして、未来に、過去に、なんの影響があるか。
多分、何もない。
互いに思い合っていたとしても、エルジュは子孫を残したし、盟友は過去には住めない。
それが、現実だ。
自分の取り巻く次元の不確かさに冷めた目をした盟友を見て、痛ましげに目を細めたエルジュは、次いで柔らかく笑った。
「……そう、だな。」
納得したとは言えないが、言い訳を胸に抱くだけで自分を赦せる気がした。
それをエルジュも感じたのだろう。
両腕を伸ばしてエルジュの背中を包み込み、抱きしめた。
「何があっても、エルジュは守るから。」
「ボクもだ。」
現代は変わらないし、過去も変わらないし、あえて言うなら、一度抱いてしまった二人の想いだって、無かったことにすることはできても、変えることはできないから。
もうどちらともなく無駄な言葉を交わすことなく、互いの体温を感じていた。
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「ゆうべはお楽しみでしたね。」
翌朝、世話になった宿屋に礼を言ってから出ようとしたら言われた言葉に眉をしかめた。
誰かが言われているのを耳にしたことはあったが、まさか自分が言われる日がくるとは。
またのご利用を、なんて言われたけど、もう二度と来れない。
あれは牽制の言葉だったのか、と初めて知った。
致す場合は、それ相応の連れ込み宿か自宅に行け、という話だと思う。
あれを言われて次回も連れ込める奴がいたら、面の皮は実に厚かろう。
当然言われたことがないのだろう、理解に遅れているエルジュの腕を引き摺りながらグレンの宿屋を後にした。
エルジュに意味を尋ねられてのらりくらりとかわしてたけど、性格ゆえか粘られたので渋々、宿屋の壁は薄いからね、と答えたら、真っ赤になっていたのは初心で可愛い。
その後は、昨日の予定通りに、港町レンドアに大地の箱舟で向かいながら、道中の店々に二人で寄り道しつつ、ホーローの隠れ家までエルジュを送った。
扉の前で振り返りながら、エルジュが気遣わしげに声をかける。
「ホーロー様たちには、会っていかないのか?」
「うん、エルジュが昨日の話を説明しておいてくれればありがたい。」
「そうか……」
寂しそうな目をして伏せるエルジュに、盟友は優しく微笑む。
「もし、待ってる間に暇があったら、エルジュが会いにきてくれると嬉しい。歓迎する。」
闇のキーエンブレムを探して歩いた旅路。
束の間とはいえ、エルジュは盟友を探して何度でも会いにきてくれた。
病であったことを隠すためか伝染を恐れてか、一緒に歩いた時間はさほどなかったのが心残りだった。
エルジュは、君ほど魔力の質が複雑で膨大な人間も他にいない、と言って、どこにいるかは大体はわかっていたらしい。
ちなみに、勇者の魔力は絶対的な光が溢れてるらしい、なるほど。
思った通り、エルジュもパチリと数度瞬いた後、うん、と頷いて優しく笑った。
「どこにいても、見つけるよ。」
それが、世界にたった四人しかいない四術師の実力、と言われればそうかもしれないけれど。
今は、愛の力、と言ってしまっても差し支えないかもしれない。
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蘇った冥王ネルゲルを滅した後の大地の破邪船の中、ひと時も目を離すことを惜しんだ甲斐もなく、ほんの一瞬の瞬きの間にエルジュはいなくなった。
無事に過去に帰ったのだろうとは理解していても、胸に空いていた風穴には昔よりもいっそう大きく虚しさが吹き込んだ。
冥王ネルゲルによってレールを外れた時の円環は、また正常に回り出す。
だけど、レールを外れた間に起きたことは、止まったままなのだろうか。
あの日、あの時、時の円環を外れた子どものエルジュとの出会い、そして、この日、この時、再び出会った大人のエルジュ。
そんなエルジュと並ならぬ絆を結び、想いを通わせ、彼と二人で時を渡った。
全てが必然のような出来事ばかりだったのに、それは全て時の円環を外れた間違いだったと、時が言うのか。
グレン城下町の駅に着いて、人の流れに押されるままにふらふらとホームに降り立った。
「……ふ、ぅ……」
箱舟の去った静かな駅で誘われるように階段の隅に座ってひたすら泣いた。
ボロボロと落ちていく涙を拭い続ける気力もなく、膝を濡らしていく。
横を通り抜けていく乗客が遠慮がちにそっと登っていくのも知っていたし、ここ数日ですっかり顔馴染みになってしまった駅員のオーガがチラチラと窺っているのも知っていた。
どれくらい時間が経ったのか、泣き疲れて膝を抱えたまま座り込んでいる盟友に影が差す。
目の前に立ったのは、自分よりも随分身長が低く、しかし態度が大きい人間。
「……だから、間違うなと言ったろうに……」
エイドスが、帽子の下から憐れむような、いや、非難するような厳しい目を向けて呟くのを虚ろな視線で見遣る。
やはりな、と思うと同時に。
「……間違っていても、失いたくない絆があった。……それは、貴方も同じでしょう?」
お前が言うな、とも思ってしまった。
剣士オーレンの件、忘れたとは言わせない。
ピクリと気分を害したような顔をしたエイドスを見て清々した盟友は、膝を押して立ち上がり、駅の階段を駆け上がる。
泣き腫らした目はきっと真っ赤だと思う。
でも、いい。
無駄じゃなかった。
泣くほど愛した人がいたことを、時の流れを外れたからこそ、自分と、そして彼は、生涯忘れない、と信じられた。
同じ時代に生きていたなら、きっとできなかった、忘れられない恋をしたことを、誇りに思う。