朱に交われば闇のキーエンブレムの封印も済み、確かにエルジュがこの時代に居続ける理由はない。
グレン城下町の駅まで見送りに来てくれるだろう、と言われて、胸の痛みの酷さに気を取られて、すぐには頷けなかった。
曖昧に首を傾げた盟友に対し、少しだけ驚いたような顔をしたエルジュに、慌てて、明るい笑顔を取り繕って何度も頷く。
目に見えて安堵したエルジュが、駅で待っているよと言って先にいく背中を見送った。
これまでもそうだったように、開けた場所で破邪船を出して、グレンへと向かっていくのだろう。
たとえ行き先が同じでも、もう、あの荘厳な船に、自分は乗せてもらえないのだ。
良くも悪くも、ネルゲルの復活を阻止できたから。
あの頃よりもずっと速く先を走っていくエルジュはもう歴とした大人だ。
共に戦うべき拠り所が盟友しかいなかったような子どもの頃とは違う。
世界が、社会が広がり、盟友に抱く感情が友情から希薄めいていてもおかしくはない。
ただ少し、寂しいだけだ。
そう、寂しいという感情なんだ、これは。
そう言い聞かせて、盟友は自身の荷物の中からメガルーラストーンを取り出した。
何か手土産になるようなものをと思って、グレン駅の売店で特産品を見繕う。
よく会話に出て来ていた師とやらの分や、グレンで日常的に世話になっているだろうガミルゴの分も含めて、げんこつアメをいくつか包んでもらった。
ガミルゴには酒の方が良かったかな、と悩んでいる間に、箱舟が駅に滑り込んできた。
盟友がいる売店の方とは反対側の階段から降りてくるエルジュを見つけて手を振る。
すぐに気づいたエルジュが駆け寄ってきた。
「来てくれたんだな……ありがとう。」
一度は納得してはいても、やはり盟友が本当に来るかどうかは半信半疑だったのだと窺えた。
いたずらに不安にさせたことを心内で詫びる。
「……うん、エルジュが無事に帰れて良かった。これ、お土産に持っていって?」
「なんだ?ああ、これか。気を遣わせてすまないな……頂くよ。」
アメを包装紙の外から見て心得顔で頷くので、知っているのかと尋ねたら、ホーローが例の部屋でよく食べていたと言う。
そうなると、各地の駅売り特産物は一通り目にしていそうだなと思った。
大地の箱舟は走行距離が長いので、駅内での停車時間もそれなりに長い。
それでも、昔話をするほどの時間は無かった。
わずかな時間を惜しむようにエルジュの話す現代での思い出を聞いているうちに、あと数分に迫る発車時間に、盟友とエルジュは示し合わせたように顔を見合わせた。
もう、視線を上げずにエルジュを見ることはできない。
なのに、どうしてもその銀色を真っ向から見上げることはできなかった。
でなければ、今にも溢れ出しそうだった。
真っ直ぐと見つめてくるエルジュの視線から逃れるように、彼の喉元から上へと視線を上げることができない。
もう、二度と会えないかもしれないのに。
十のエルジュにはいつでも会えるとしても、この、目の前のエルジュと永遠に別れることがひどく辛かった。
「それじゃ……元気で、ね。」
声が震えていなかったかと細心の注意を払いながら、笑みを浮かべた。
構内には発車一分前を知らせる鐘が駅員の手で鳴り響く。
「ああ……君もね。」
様子が変だとは薄々感じているのだろう、殊更に優しくて甘い声に労られ、大きく波打つ心臓を気付かれないように軽く唇を噛んで堪えた。
大きな温かい手と握手を交わして、そうして、エルジュの背が箱舟に向かうところで、とても見ていられなくて顔を逸らして俯く。
行かないで。
帰らないで。
そう、言えたら、どんなに良かったか。
もしかしたら、五百年向こうの駅で、誰かもそうやってエルジュを見送ったのかも。
行かないでって、言える誰かが羨ましい。
たった一言、それすら自分には許されていない。
ピィイと甲高いホイッスルの音を聞く時にはもう強く目を瞑っていて、走り出す箱舟など見ていなかった。
堪えようとしても涙が滑り落ちていく。
車体が吐き出す蒸気に髪を吹かれながら、左手の甲で目元を覆って深呼吸を繰り返す。
昔は、笑ってさよならできたけど。
もう、笑ってなんかできない。
恋をしていたのかと自覚するには、この数日は決して短くはなかった。
薄く開いても滲むだけで意味を成さない瞳を閉じたまま、静かに泣いていた。
いつまでも佇んでいたら乗客や駅員の邪魔になるのはわかっていて。
ぐずぐずと涙を拭っていたら、突然、ふわりと温かい腕に包まれた。
「……まったく……君はいつもそうだ。」
誰だと思ったのは始めの一瞬だけで、聞き間違えようのない声に目を見開く。
乗っていなかったのか、どうして。
確かめようと身動ぎしても抱きしめる腕はますます強まるばかりで、目の前の胸元が涙で濡れた。
紅い上衣に、本物なのだと思うとかえって肩の力が抜けて、寄り添うように身を任せる。
「肝心なことは問い詰めるまで何ひとつ口に出さないのに……」
途切れた言葉の後に、背から外れた大きな手が頬に伸ばされ、ゆるりと撫ぜる。
それに誘われるように目を上げると、その拍子にまた一粒水が滑った。
「表情だけは、正直すぎるんだよ。」
少しだけ顔を上げたら気が付いたエルジュが身を離す。
一生懸命拭っても少し滲んでいる視界では、エルジュが困ったように眉を下げて、小さく苦笑した。
「行かないで、なんて……君の言葉で聞きたかった。」
違わず顔に書いてあったかのように告げられて、思わずクスリと笑みが溢れた。
エルジュが元の時代に帰る事実には変わりないが、別れるその時までどうか繋いでいようと乞われて手を結んだ。
やってきた次の箱舟に早々に二人連れ立って乗り込み、降りてくる乗客たちに冷やかすような視線を向けられても気にせず奥へと歩いていくエルジュに引かれて、四人席に向かい合わせに座った。
この道がどこまでも続けばいいと思う一方で、最後までボクを見ていて、と願われるのなら、そうでありたいと彼の手を強く握った。