secret marriage過去で友情を結んだ大破邪船師エルジュとの再会に胸を弾ませていた日々の中で、時折、訳知り顔の賢者たちに、あの子はやめておいた方がいいと何度となく諭された。
流石にエルジュのことは五百年前の人間なのだと重々承知しているし、そんな目で見ているわけじゃない、と腑に落ちないままに二つ返事で聞き流していたけれど。
やっぱり、本気で相当好きだったのかもしれない、と、ようやく自覚したのは、失恋と共に、だ。
破邪の紋章が完成するまでの少しの間、病が治って体調が回復したエルジュはレンドア南の宿屋に戻っていた。
エルジュに確認したいことがあるというホーローの頼みで宿屋に呼びに行った時のこと。
何度か訪れて知っていた、エルジュが泊まっている部屋の扉を軽くノックしたが、返事がない。
どこか食事に出かけているだとか、不在なのだろうかと少し扉を開いて覗き込めば、果たしてエルジュはいたわけで。
ベッドにゆったりと座っていたエルジュは窓際を向いていて背中を向けていたので、どんな表情をしていたのかはわからない。
それでも、大切そうに左手に握られた物が見えたし、それを見つめている様子もわかった。
指輪という装飾品が意味すること。
それは、盟友が持つような、あるいは冒険者たちに普及しているような、加護や魔除けの呪いがかかっている装身具とは違う。
繊細な意匠が象られた細い銀の指輪は、もうそれ以外の何があるのか、少なくとも自分は知らない。
飲み込んだ息が気味の悪いほど重たくて、うまく喉を通らない気さえした。
ああ、賢者方はみんな、知っていたのだろう、その指輪の存在を。
エルジュがその指輪を持つ意味を知ると共に、自分がエルジュに抱く感情の意味さえ知って、頭を抱えて逃げ出したくなる。
それでも、やるべきことはやらなければ、と、盟友はわざとらしくゴホンと咳払いをする。
ようやく気が付いたエルジュが肩を震わせ、驚いた顔で振り返った。
「……ごめん、一応、ノックはしたんだけどさ。」
「い、いや、ボクこそすまない……ぼんやりしていたよ。」
本当は、その人のことを考えていたのだろう。
隠すようにエルジュの左手にしっかりと握られた指輪。
それを交換した相手のことで頭がいっぱいだったのだと思うと物悲しい気分になる。
無理に振り払うように、口端に笑みを浮かべて、それから本来の用件を伝えた。
すぐに行くよ、とエルジュは笑顔を浮かべて立ち上がり、それから、握られたままの左手を見遣った。
荷物の中に仕舞いたいのだろうが、自分がまだ部屋にいるのでどうしたものか考えているのか。
そうとわかると意地でも席を外したくなくなるのは、小さな嫉妬心だったかもしれない。
友情を糧に命を賭してくれさえしたエルジュを真摯に応援できないのなら、こんな感情、いっそ、粉々に砕けてしまえばいい、と盟友は空笑いをこぼした。
「エルジュって、結婚してたんだ?なんか、びっくりした。」
考えてみれば、こんなに美丈夫に育ち、それでいて四術師としての確かな地位と、救国の英雄という栄光を持つエルジュを、街の女性がいつまでも放っておくはずがない。
これで所作や態度が出会った頃のままだったなら話は違ってくるだろうが、レイダメテスの危機を乗り越えたエルジュは強く優しく自信に満ち溢れ、表面上は非の打ち所がなかった。
深く付き合えば見えてくる頑なで融通の利かないところが玉に瑕だが、それもまた愛嬌と思えば愛おしさも一入というもの。
とか、考えている時点で、自分も相当参っているな、と自嘲した。
そもそも、他の人と結婚したなんて思い至らなかったのは、決して自分だけのせいじゃないと思う。
あと数日ほどで死ぬかもしれない命をかけて時を超えてやってきたなんて聞かされたら、友人である自分を何よりも優先するほどに想われていたと勘違いしたっておかしくない。
最初から、破邪船の継承は妻に託してきただのなんだの宣言して欲しかった。
そうしたら。
そうだったら。
自分は、エルジュを、好きにならなかったんだろうか。
いや、たぶん、違うな。
失恋するのが、数日早まっただけだ。
「……やっぱり、見られてたんだな。」
「残念ながら。もっと強くノックすれば良かったね。」
そう言いながら、右手拳を握ってエルジュの胸にストレートに軽くぶつけて下ろす。
暗に扉を殴ると気付いたエルジュがおかしそうに笑って、それから目を細める。
彼が伏せた目を落とした先は、緩く開かれた左手の中。
「……君に知られたなら、もういいや。」
右手で恭しく摘んで、それをゆっくりと左手の薬指に嵌めた。
目の前で見せつけるように行われたその所作が、腹が立つほど胸が痛くて、それで、腹が立つほど格好良かった。
一度ぐ、と握り、それから馴染んだ場所に納まったのを確かめてから、エルジュが左手を下ろす。
「時間を取らせて悪かった。ホーロー様の所へはすぐ行くよ。」
エルジュは何事もなかったように優しく笑いかけ、それから部屋の隅から大きくはない荷物を取り上げる。
彼の一挙手一投足に目を奪われては、最後には左手の銀色に目が行きたがった。
エルジュの瞳と同じ、深い銀色のそれは。
彼を、彼の時代へと、留めなかったのだろうか。
「……エルジュの奥さんって、物分かり良さそうだよね。使命だからって、不治の病に冒されてるエルジュを、はい、いってらっしゃいって普通送り出せる?」
「……んん?……どうかな。ボクは、物分かりがいいと思ったことはないけど。」
腕を組んで首を捻るエルジュは、それでも不快そうな顔をしていない。
指輪の一連の挙動からして、相手をとても大切に思っているのはわかるが、それでいてこの時代にやってきたこととの整合性が取れなくて、なんとなくイライラする。
「もし、私がエルジュの奥さんだったら……心置きなく送り出せない。無理矢理ついて行こうとするかも。」
存外強い口調で言ってしまってから、目を見開き、それから眉を下げて慌てて言葉を付け足す。
「だ、だから、その人は、すごく、強いんだな、と思って…………エルジュを、信じて、る、のかな。」
隣ではエルジュが驚いた気配が伝わってきてなおさら焦った。
気まずい空気の中で顔が上げられず、しばらくの沈黙が続く。
相手のことを悪く言われたとエルジュが怒っていたらと思うと申し訳なくて、子どもっぽい嫉妬を謝るべきか迷った。
自分の胸に潜む想いを隠したまま上手く謝れる自信はないが、と戸惑っていると、頭の上の方でくすくすと小さな笑い声が聞こえる。
「確かに、ボクよりずっと強いし、ボクを信じてくれてると思う。でも……本当は、とても脆くて、とても可愛い人だよ。子どもの頃から大好きだった人で、ボクが大人になるのを……ずっと待っていてくれたんだ。」
パッと見上げた盟友に、エルジュが柔らかく微笑む。
その人と一緒にいて、本当に、幸せなんだ、とわかった。
たとえ今、この時、離れ離れになって、帰れなくなったとしても。
その人と過ごした時間が、幸せだったんだ、と、エルジュの笑顔が語る。
それは、エルジュが、その人に、同じくらい強く想われていると実感しているから。
「…………そっ……か……うん、そっか。エルジュが、選んだ人なんだし、きっと、素敵な人なんだね。」
「ああ、とても。」
「うん。……今更だけど、おめでとう。」
さっきまで腹の奥で渦巻いていた黒い塊が、粉々に砕けるどころか、強い光に浄化されたみたいに霧散する。
今までの旅でだって、色々な愛の形を端から見てきたけれど、こんなことってあるんだな、と他人事みたいに思った。
エルジュを好きな気持ちには変わりない。
それでも、エルジュの幸せな人生に、自分が無理に割り込むなんて考えられない。
想い想われてこそが、彼に相応しい愛の形だと素直に思う。
だから、盟友が愛するエルジュが、想う人に想われているなんて、すごく素敵なことだ。
「君には……感謝してもしきれないよ。本当に、ね。」
頬の上を知らず溢れていた涙を、エルジュの手がゆっくりと拭った。
それが、触れるか触れないかの距離で小さく揺れているのがくすぐったくて。
少し、だけ、その熱が名残惜しくて、諦めるのに時間がかかりそうだった。
++
冥王ネルゲルの一件を全て終えた後、大人になったエルジュとは箱舟で唐突に別れてしまった。
どことなく歯切れの悪い別れに、身を切られるほどの寂しさと切なさが上手く昇華しきれなくて、もう一度、と大地の箱舟に身を委ねる。
エルジュと真っ当に恋がしたいなどとは夢幻だと疾うにわかっている。
それでも、エルジュが誰と生きていくのかを見届けるくらいはしたっていいと思う。
そうすることで自分の中で折り合いがつくのならそれに越したことはない。
エルジュが子どもの頃から見知っていた人物なのなら、五百年前のレイダメテス侵攻時にはすでに同じ年ほどで共に過ごしていたということだろう。
流石に、十も年下の生まれたばかりの赤子に惚れたということはない気がする。
待ってくれていたという言い口からしても、どちらかというと年下ではなく年上だ。
閑散とした駅構内にたどり着いて、例の如くグレン城へと向かっていく。
やっぱり、同じグレン城内で関わりのある女性が一番縁が深いんじゃないだろうか。
シオドーアの娘であるクレアは、灼熱の太陽による火傷で足が不自由なため、エルジュが日常的に手を貸す場面が多いらしいのは知っている。
後にシオドーアがエクゼリア王国を建国することと、エルジュがグレン王国に残ることを考えても、シオドーアがクレアをエルジュの妻としてグレンに置いていくとは考えにくい。
考えにくい、が、無い、とは言えない。
それだけ、エルジュは持ち前の正義感もあって、クレアのことを気にかけていた。
というか、単純に水臭いじゃないか。
子どもの頃から好きな子がいるんだったら、いわゆるズッ友の自分に相談してくれたっていいのでは。
大人になる前にそんな風に聞いていたら、再会した時だって、エルジュがどんなに格好よく育っていたってあんなにはしゃがなかったと思う。
いや、実際、格好良かったは格好良かったけれども。
大人なんだから節度はわきまえたっていう意味で。
なんて、もやもや考え事しながら歩いていたら、あっという間にグレン城に着いた。
今までも用がなくても遊びに来ることはあったから、シオドーア付きの兵士も顔パスで通してくれて、すんなりとエルジュの部屋に辿り着く。
未来であんなことがあった手前、少し気恥ずかしい気もするが、エルジュの恋路を邪魔するつもりは本当に、全く、ない。
軽く声をかけてから部屋に入ると、エルジュがすぐに気付いて顔を綻ばせた。
「来てくれて嬉しいよ。今日はどうしたんだ?」
「こっちはどうってこともないんだけど、なんとなく近況報告待ち?」
「この町のことか?」
「あーうん。あとは、国のこととか?ガミルゴとか、いつ城に戻ってくるのかなあとか。」
「ああ、なるほどな。大きな進展はないが、着実に進んでいるよ。」
なんだかんだ、現行の統治者であるシオドーアと、グレン王国国王のガミルゴ、それから新興国の準備をしているガミルゴの親友、ラダ・ガートに混じって、エルジュも大陸移動についての話し合いに参加するらしく、つくづく普通の子どもではないなと感嘆する。
「……クレアさんも、シオドーアと一緒に移民するのかな?」
「クレア?まあ、そうだろうな。個人的なことだけれど、ボクも彼女の相談に乗っている。」
「相談?……って聞いていいのかわかんないけど。」
「君なら、彼女も信頼しているから大丈夫だろ。相談というのも、今度の長旅に不安を感じていて、破邪船で移動する時にも座っていても体に負担が少ないようにしたいってだけの話だ。布団を持ち込むか、とか、破邪船の椅子の形状を変えるか、とか?」
話を聞きながら、気にしていたのは内容よりも、エルジュ本人の様子だ。
表情も物言いも素直なところがあるエルジュなら、たとえば相手が好きだったら、名を呼ぶのに少し動揺するくらいはしてもいい。
ところが、クレアとの話の中には一切そういったことを気にした様子はなかった。
色々と話を聞くうちに、武器鍛治ギルドの再開を目標に尋ねた商人がオーガの女性だったとか、エルフとウェディの集落からも何人かはグレンに移籍してきて、女性や子どもを破邪船で運んだけれども、エルフの女性は総じて扱いにくい、だとかも言う。
エルジュの中身や立場がどうあれ、見た目が子どもである分、女性からも親しまれているのだろう、結構な数の女の人に絡まれてるのを知った。
特に、年上の女性に非常に好かれやすいのもわかった。
本人は、好かれているとは思っていないのまでも。
一通り話を聞いたところで、エルジュが将来娶せた人物が、どこからどう縁が繋がった女性なのか全く予想がつかない。
この分では、長いこと腰を据えて見守っていかないと、辿り着けないかもしれないと思った。
「しばらくこの時代に住んでみようかなあ……」
思ったが故に、つい口からこぼれたのは、やっぱり途方もない夢語り。
馬鹿なことを言った、と思っていたら、目の前に座って話していたエルジュが大きな丸い目をさらに丸くして自分を見ていた。
え、とパチリと瞬いていると、エルジュが眉を下げて、恐る恐る口を開く。
「……そんなこと、できる、のか?」
「…………技術的にできるかできないかの二択だったら、できるよ。」
不可能ではない。
五千年前に生まれた自分が、五千年後で平凡に暮らしていたことや、同じく五千年前に生まれ育ったクオードが三千年前のウルベア帝国で十数年暮らしていたことを考えても、時渡りの力を持つからと言って、飛ぶ前の世界に無理に戻されることはない。
ないからこそ苦労していた従兄弟殿には涙を禁じ得ないが、要するに時の迷子ちゃんをパトロールする者は存在していない気がする。
例外として、エテーネルキューブが勝手に起動して元の世界に戻るということはままあったが、あれは、キューブを使って飛んだ場合で、しかも、半分は緊急事態につきキュルルが起動するパターンだった。
限定的な話をすると、この時代、つまり五百年前の世界には、大地の箱舟を使ってやってきている。
この時代ではエテーネルキューブを使おうとしてもうんともすんとも反応しないわけだ。
ということは、もう一度箱舟に乗らない限り、自力でもそう簡単には帰れない。
時の車掌ゼーベスが駅から消えても帰れない。
つまり、自分自身が帰りたくても帰れない可能性も十分にあった。
ちなみに、時の車掌ゼーベスがまだダメって言ったら帰れないので、帰りたくても帰してくれない時もありました。
もしも、本当にこの時代に残るなら、帰れなくなる可能性を加味した上で、この時代で一生を終える覚悟がそれなりにないと、長居はできない。
それが、あるのか、と問われたら。
「……まあ、精神的にも、してもいい、と思うだけの情はある。」
なんと言っても、この時代にはエルジュが生きている、から。
それは、エルジュが、友人が生きる未来の世界を守りたいと言って来てくれたことと同じだ。
史実として、この世界が確かに未来まで生き続けていくことはわかっていても、この五百年の間だって、見知った人々が誰もが健やかに生きたとは限らない。
知っているだけでも、ガミルゴも、ヤクルも、フォステイルも、そうして、エルジュも、死因がわかっていただけに胸が痛くてたまらない。
だけど、いずれ死ぬからと言って一度は絆を築いた友が死んでいくのを黙って受け入れろというのは違うと思う。
死なないように、共に足掻くことの何が悪いのか。
死んでしまった時に、友を悼み弔うことの何が悪いのか。
それを、今を生きる友としか、してはいけないのか。
歴史の修正力には抗えなくても、些細な変化が必ず応えると、解ってしまった。
だから、できることをできるかぎり尽くしてから、先の未来を迎えたい。
「……その、五百年後の、君の世界はもう、いい、のか?」
「平和は……って意味なら、強い人はたくさんいるよ。私自身は……帰ってきたばかりの兄弟は気になるけど、いつまでも一緒にいられるわけじゃないしね。」
旅を続けていく中で知り合ったたくさんの人たちは、共に戦う力がある強い仲間たち。
アストルティアはそれぞれの特色を生かした強き力を持つ精鋭たちがいて、今となっては魔界とも和解したことでさらに布陣が強力になった。
時を何度も渡った挙句に世界最高峰の錬金術師として活躍した兄弟もいる。
秘技を授けられるほどの神秘の里を有していたことも知られた。
大丈夫、そう信じられるだけの、戦友たちが確かにいた。
ただ一人への愛のために世界を捨てるのかと問われたら、そもそもの問いが間違っているんじゃないかと答えよう。
だって、世界は、私のモノではない。
私だって、世界のモノではない。
ただ、あるべき姿でありたい、と、皆、自身の抱く信念に向かって、進むだけのこと。
それが、良かろうが悪しかろうが、だ。
生きるって、そういうことだと思っている。
「今は、エルジュと……エルジュたちと一緒に生きることが、一番、楽しい。生きてる、って思える。」
大袈裟に持ち上げられるでも、一方的に頼られるでもなく、最初は逃れ人として、そしてただ一人の人間として、今でこそ分け隔てなく受け入れてくれる、一緒に助け合っていけるこの世界が、居心地がいい。
この幼い友人の、かけがえのない友として、生きられるこの世界が。
そんな風に思えば柔らかい笑みが自然と浮かんだ。
ふと向かいを見遣ると、エルジュが頬を赤くしてすごく動揺しているのが見て取れる。
瞬きを繰り返しながら、何かを言おうとしては言葉にならない目の前のエルジュをじっと見守った。
「……だめだ。言いたいことが、うまく纏まらない……」
「……エルジュが嫌ならやめるけど。」
「ちが、違う!絶対!嫌なんかじゃない!!そうじゃなくて……ああ、もう!」
見たことのない取り乱し方をしながら、エルジュが両手をついて勢い立ち上がった。
「少し一人で考えたい!ええと……三十分経ったら、その、訓練場の屋上に、迎えに、来てくれないか?」
「……うん、わかった。訓練場の梯子の上だよね?」
思い切り頷くエルジュの頭頂部を見て、ろくに顔を見せないまま走って部屋を出ていったエルジュの背を見送った。
現代では選王の儀礼場となる場所だが、この時代では何に使われている場所なのかは人間には判明していないのだろう。
まあ、選王の儀式と言ってもやることがやることなので、訓練場と大した差はない。
ふうと深く息をついて部屋を見れば、従者カイも妙な顔をしながら両手を握ってハラハラと見送っていた。
「……あの。」
見ていたのに気が付いたのか、目が合ったのを皮切りに、カイが盟友を向いて口を開く。
実質的な保護者である彼に、エルジュに変なことを吹き込まないでほしいとか言われても仕方のないことだなと思いながら固唾を飲んで待っていると、カイはひどく辛そうに肩を落としてため息をついた。
「坊ちゃんはおそらくあなたには言わないと思うんですが……実は、坊ちゃんはひと月ほど前に、レンダーシア大陸にあるご実家に一度帰られたんです。」
「実家……って、グランゼドーラの、ですか?」
「はい……」
さめざめとした顔をしながら、カイが口をへの字に曲げていかにも落ち込んでいる。
ああ、なんとなくわかった。
父子共々の長きに渡る不在。
父、ベルンハルトの死。
エルジュの破邪船術の継承。
身元の明かせぬ友人との約束。
グレン王国への移籍。
どれひとつとっても、若干十歳のエルジュにとって不都合なことばかりで、何を言われたのかは想像に難くない。
本来だったら、いつまでもオーグリード大陸に滞在していないで、レンダーシアの生家で当主継承について勉学に励めと、引き留められていてもおかしくはないのだ。
この時代のこの国に居続けること、帰ってくることそれ自体が、エルジュにとっては盟友への友情の証なのだ、と思うと胸がひどく痛む。
そう思うとやはり、この国で、この時代で、エルジュと共に過ごしたいと思う気持ちが強くなる。
でも、もし、側にいて、欲が出て、あの、エルジュの幸せを心から祝福できなくなったら。
どこかで見切りをつけて、大人になりゆくエルジュとちゃんと別れることができるのだろうか。
「ご実家でのお話がどんな内容かは私の一存ではお教えできないのですが、坊ちゃんがあなたにおっしゃることには、そういうことも含めて、考えてのことだと思うんです。」
どうかお優しく対応していただきたいと、ぎゅうと両手を握りしめて頭を下げるカイに、了承の意を示して宥めた。
エルジュ本人の強い希望もあって、術師の継承を助けた形にはなるが、継承した後の細かいことなど何も考えなかった。
そもそも、破邪船師というものが千年も前にはすでに存在していた由緒正しい魔術師だなんて知ったのは、出会った時よりもかなり後のことだ。
本当に、大変な立場にいるんだな、と実感する。
この分だと、そのご実家とやらで、許嫁なり嫁候補なりを紹介されていてもおかしくない。
相手に理解があって、共にグレンに来てくれるのなら、エルジュはきっとそれだけでもホッとするだろう。
そこから始まる恋物語はなんてことのないよくある話だ。
なんとなく心の準備ができたところで、三十分と少し過ぎたので、部屋を後にして訓練場に向かう。
迎えに来てほしいというのも、一人になりたいというのも本当だろうが、もう半分は部屋からカイを追い出すのが忍びなかったのもあるはず。
そういうことはわかるのに、エルジュが、盟友に、いて欲しいのか、いて欲しくないのか、それさえも今はわからない。
梯子をギシギシ鳴らしながら儀礼場に上がれば、エルジュの後ろ髪が風に吹かれているのが見えた。
チラと顔だけ振り返ったエルジュが、眉を少し下げて苦笑する。
「悪いな、わざわざ。」
「全然。カイさんを困らせるのは本意じゃないしさ。」
「……それもあるけど、単純に、人目があるところが嫌だっただけだ。」
あちらを向いて少し俯いて言うエルジュの声は固い。
エルジュと同じく風に吹かれる髪を手で押さえながら、じっと見つめていると、エルジュがようやく振り返って、優しく笑った。
「君が、この時代で生きていくのかもしれないと知った時、色々な考えが頭の中に渦巻いて、それで、ぐちゃぐちゃになってしまった。でも、それは、君が居るのが嫌だってことでは決してないんだ。」
「……うん。」
この時代に住むともなれば、エルジュの実家を含めた様々なことに巻き込まれることを懸念したのはわかる。
身元が不明だった友人が確かな存在を持ち、それは糾弾の対象にもなり得るということでもある。
「それで……本当に色々、面倒臭いこととか考えたけど…………もっと、単純に考えることにしたよ。」
舞台の真ん中付近にいたエルジュが、まっすぐと歩いてきて、目の前で止まった。
ん、と小さな右手を差し出されたので、導かれるように右手を重ねたら、その上から左手を重ねられてきゅうと包み込まれる。
温かな体温が嬉しくて心臓が少し縮んで、思わずしゃがんでエルジュの銀色の瞳を見た。
見た瞬間に、目を奪われた。
男の子、じゃなくて。
はっきりと、一人の男性と見合ったのがわかった。
「ボクが大人になったら、君と、結婚したい。君が好きなんだ。……だから、どうか、ボクが大人になるまで、待っててくれないか?」
は、と息がこぼれて、うまく吸えなくて、目を思い切り見開いた。
頬も耳も真っ赤にしたエルジュが、盟友から一度も目を逸らすことがない。
何を言われたのかようやく理解する頃には顔が熱くて、あわ、と口をパクパクと喘ぐように息を重ねた。
二分も三分もかけて意味がわかったのを悟ったか、エルジュがフ、と大人びた笑みを溢す。
「我儘なのはわかってる。けれど、君に相応しい男になれるようにこれからももっと努力するし、この世界にいる誰よりも、君を愛すると約束する。何があっても、君を守るよ。」
なんだろう、これ。
夢でも見ているのか、と何度も瞬いていると、エルジュの左手が外れて、自分の頬に伸びてくる。
いつの間にか滑り落ちていた涙を、ゆっくりと拭うのは、あの時と同じ、遠慮がちの、だけど柔らかな丸い指。
「……だから、誰と一緒に生きるか決めるのは、ボクが大人になってからにしてほしいんだ。ちゃんと、他の男と、比べてほしい。」
触れるか触れないかの距離で指が微かに震えていて、それがずっと、十年も変わらず、エルジュが自分を想い続けてくれた証のようで、愛おしさでいっぱいになった。
「……待ってる。ずっと、待つよ。この国、この場所で……」
エルジュが、名実共に大人になるまであと五年弱。
それまでに、自分だって、エルジュに見放されないように精一杯生きたい。
エルジュの立場を考えると、彼が考えたように色々な面倒な事案が浮かんでは、巻き込まれていくだろう。
それでも、二人で一緒に生きていけるのなら、喜んで二人で立ち向かえる。
世界を脅かす冥王に比べたら、ずっとマシかもしれない。
涙が溢れそうなくらいに緩んだ目元を細めて、情けないような笑みを浮かべたら、両手を握ってエルジュが盟友と額を合わせて嬉しそうに笑う。
「ありがとう。きっと、君に選んでもらえるような男になるからな。」
知ってる、すごく、格好良いんだから。
そう思いながら笑うと同時に、結局、涙が溢れてしまった。
君が泣くのもとても可愛い、なんて囁く辺り、やっぱり普通の十歳ではないんだよな。
++
視界から突然消えた盟友を最後に、帰ってきたのか、とエルジュは眉をしかめた。
無人の車内に無人の駅。
行く前と全く変わらない景色のはずなのに、そこに降り立つことが少しだけ怖かった。
正直のところ、行く直前まで、人生で最も愛した人と仲睦まじく過ごしてきた分、未来でその本人に会えるのかどうかは半信半疑ではあった。
そうして、いざ会ったその本人は、エルジュと結婚していることを本気で知らなかった。
だから、目の前で消えてしまった彼女を見て、過去へ戻ることが急に怖くなったのだ。
エルジュが結婚したことを知らないということは、エルジュが大人になるのを待っていてくれたのは、あの出来事の後にやってきた盟友ということになる。
未来にいる間のエルジュの受け答え次第では、結婚したことがなかったことになるのではないか、過去へ戻ったら、家にいるはずの彼女はいないのではないかと。
周りに蜜月を通り越して蜜年と揶揄われるほどの幸せな日々を思うと、今さら他の女性を愛そうとも思えない。
不治と思われた病も治って、紋章のレシピを書き残すなどやるべきことがあるのはわかっていたが、晴れない憂鬱に足取り重く、ようやく箱舟を一歩ずつゆっくりと降りる。
階段の所から降りてくるフォステイルの姿を見て、力なく微笑み手を振った。
そうしているうちに、まだ完成していないはずの箱舟は、夢幻だったと語るように霧のごとく去っていた。
事の次第の顛末を、フォステイルに簡易的に語り終え、それからなんとなく駅の中を見渡す。
いないのはわかっていたが、きちんと見送りはしてくれていただけに、彼女がいないことに余計に不安が先立つ。
行く時は、普通に見送るどころか、エルジュがほんの少しでも躊躇えば、この時代から追い出す勢いで追い立てたのに。
「ああ、エルジュ。そういえば、彼女は家で待っているようだよ?」
「っそうなのか?」
「共に迎えに行こうと、先に訪ねてきたのさ。ただ、家から出たくないようだったから、置いてきたんだ。」
「ええ?なんでだ……?」
「ふふ……さあ?どうしてだろうね?」
引き止めて悪かったね、とフォステイルがコロコロ笑って、ちょこちょこと階段を先行くのを、前より軽くなった身体で走って追った。
駅前で別れて、すぐ横の階段を駆け上がって自分の家に向かう。
上層にある自宅は、二段目と一段目のちょうど間くらいにあって、いつもは城からすぐ出て一段目から降りていくけれど、今日は駅からだから二段目で曲がって下から登った。
扉を一度だけコツリとノックしてから鍵がかかっていないのを確認して玄関に入る。
息を少し切らして見渡した部屋の角、大きなベッドの上で俯いて座っている彼女の姿に心底ホッとした。
「ただいま。」
「っエルジュ!おかえりなさい!」
パッと顔を上げて花が咲いたみたいに笑って、ベッドから立ちあがろうとしたが、すぐに、う、と顔をしかめて、胸を押さえながらベッドに逆戻りした。
顔を青くして倒れた様子に慌てて側に駆け寄り、目の前に膝をつく。
「うう、ごめん……迎えに行けなくって……今日ずっとこんな感じで……」
「……いや、君が、無事でいてくれたならそれだけで十分だよ。気にするな。」
全然別のことを心配していただけに、家に、この時代に存在してくれていただけでも本当に十分嬉しかった。
横になった彼女が顔を覗かせて丸まっているのが、不謹慎にも可愛くて、それで、未来の彼女に触れるのをすごく我慢していた分、どうしても触れたくて仕方ない。
窺うように人差し指の腹で頬に触れたら、ふふ、と笑って、目を閉じるので、許されたと知って遠慮なく口付けた。
考えてみれば、メラゾ熱に罹患してからも一切合切触れてはいないのだから、ほとんど数ヶ月ぶりの体温に愛おしさが募る。
たっぷり五分は堪能した後、彼女の身体を気遣うようにベッドに乗せ直して、掛け布をかけた。
それからエルジュはベッドの淵に肘をついて組み、目と鼻の先で囁くように言葉を交わす。
「熱、治ってよかったね。」
「なんだか、師にも、君にも、掌で転がされたような気分だ。」
どちらも、大体知っていたくせに、何も言ってくれなかった。
むしろ、全て知っていたはずの彼女よりも、予知の範囲でしかないフォステイルの方が情報量は多かったくらいだ。
下手に情報を知り、手助けしすぎると、結果が絶妙に変わってしまう、ということは未来からやってきた彼女の思考や行動からはわかっていたことだから文句もないが。
それでも彼女が望めば、この生活も終わっていたことを考えれば、ここに彼女が居続けることが望みのようで感慨深い。
エルジュが薄く微笑んでいると、横になった彼女がもじと両手を握りしめて、ポソポソと呟いた。
「あの……フォステイル、私のこと、何か言ってた?」
「ん?いや、家で待っていると教えてもらったくらいだが。」
家から出たくないみたいだとも言っていたが、こんな、いつ倒れるかわからない状態では出たくもなかろう。
首を傾げたエルジュの目の前で、頬を赤くして、ますます縮こまると、顔の半分が布団に隠れた。
「体調が悪いこと、なんだけど、その……しばらくこんな状態が続くみたいだから、迷惑かけちゃう、かも……」
「それは別に構わないけど……ちゃんとシスターに診てもらったのか?」
うん、と頷くが、目も合わせず、ついに布団に潜り込んでしまった。
なんだろう。
女性特有の病気とか調べてみるか、とか考え込んでいたら。
「…………あの……あ、かちゃん、いる、って。」
「……………………ホントに?」
ビックリしすぎて、布を捲って引っくり返し、正面から見つめる。
うう、と恥ずかしそうに頬を膨らせる彼女が、でも渋々頷いた。
「……まだエルジュが元気だった時だし、私もメラゾ熱のワクチン飲んでるから平気だと思うんだけど……ちょっと、不安。だった、から……エルジュが帰ってきてくれて、良かった。」
「……心配はわかるが。でも……嬉しい。本当に嬉しい……。何があっても、大事にする。」
頑張ろうね、と不安げに呟く彼女の身体を抱きしめ、是を返して宥めるように背を撫でた。
確かに、ボクよりも強いし、ボクを信じてもいるだろう。
それでも、大切な誰かを想って脆くもなるし、愛おしい人を想って可愛くもなる。
ボクの、最愛の友であり、かけがえのないパートナー。
「……ところで、君って物分かりがいい方かな?」
「…………物分かりがいいのと、素直なのは違うから。」
「だよなあ。」
子どもの頃からずっと大好きだった、ボクの奥さんは。
ほんの少しだけ、諦めが悪いんだって。