しあわせなら++
しあわせなら
アストルティアには年に一度、エイプリルフールという日がある。
冬の合間に訪れる新年の始まりとは別に、冬が終わった後の春の訪れを祝って、皆で笑う日だ。
この日だけは、悪質なものを除けば、つまらない嘘も悪戯も変わった遊びも何もかもを、待ちに待った春なのだからと許し合い、みんなで指差し笑い合った。
おおわらいの日、とも呼ばれるほどには。
魔物だっていつもと違う衣装でやってきたり、とある場所で見られる束の間の夢幻も、まるで神々の悪戯のように、アストルティアには不思議な出来事が起こり得る。
大陸の内海の真ん中に位置する、この小さなエテーネ島でも、朝からあちこちで笑い声が上がっている。
元々のエテーネの村にはなかった風習だが、新しいエテーネの村では、外界からやってきた人々が大勢暮らしており、それぞれの慣習を持ち寄って擦り合わせては、自然と馴染んでいった。
そんな笑いに溢れていた、よく晴れたその日、いつものようにエテーネ村にやってきた村長は、いつもと違って一人ではなかったのを、よく覚えている。
村長が客人を連れてくるのは珍しいことではない。
日々の習慣で、やぐらの近くで村の様子を見守っていたシンイに、時の盟友とも大魔王とも言える村長は笑みを浮かべながら歩み寄ってくる。
「今日は、みんな揃ってるかな。」
「そうですね、皆さん、ご自宅か仕事場には必ずいらっしゃると思いますよ。」
海と山に囲まれたエテーネの村が外敵に襲われることはほとんどないが、過去の事例もあるので、外へ出かける人がいればシンイが一声かけるようにしてきた。
今日はまだ誰も外へは出ていないし、そうでなくても出かける前には誰であっても一声かけてくれるはずだった。
そう確信しながらシンイが頷けば、村長は安心したようにニコリと笑みを浮かべる。
「そう。あのね、シンイ様。私たち、結婚するんだ。」
そう言いながら、隣に立っていた、シンイや村長と同じ年ほどの男性を手の平で差し示す。
潜めるでもなく言い放たれた言葉は案外に村の中に響いたらしく、急にざわめきが静まった。
え、と意味を取れないうちについ見上げた、紅衣を纏う金の髪を靡かせた彼はシンイと目が合うと、その銀灰色を細めてほんの少し苦笑し、頭をまっすぐ下げた。
「初めまして。」
エルジュと名乗ったその男性は、静かにシンイに向けて右手を差し出すので、慌てて右手を伸ばしてしっかりと握る。
一瞬だけ脳裏に浮かんだ景色の眩さに一度強く目を瞑って、開いた時には、彼らが目線を交わして微笑み合う姿が映った。
ああ。
「……そうですか!それは、おめでとうございます!とても、お似合いですよ。」
二度、瞬いて、三度、口を開いては閉じ、ようやく寿ぎの言葉が生まれた。
その瞬間に、ワッと周囲から囃すように祝いの言葉や口笛が二人へと投げかけられる。
「村長!おめでとプッケ!」
今日は、エイプリルフール。
別名、おおわらいの日、だから。
それが、たとえ、嘘だろうと、本当だろうと、もたらされた刺激を笑顔で許すことが、暗黙のルール。
触れ合った年月が決して浅くはない村人たちに囲まれ、彼らは照れたように笑いをこぼしながら、祝福を受け止めている。
村人たちだって、本当か嘘かは皆目わからないのだろう、それでもこれほどめでたい嘘もそうそうない。
「折角ですから、お二人から皆さんに、ハツラツ豆をお配り頂けませんか?」
「ハツラツ豆を?」
ハナちゃんに保管を頼んでいたハツラツ豆の袋を出してもらって、シンイがざらりと音を鳴らして村長へと大きな袋を両手で差し出す。
「エテーネ村の新しい習慣にしたいと思っているんです。村をあげてのお祝い事があった時、特産品とも言えるハツラツ豆をみんなで分け合い、明日への活力にしたくて。」
「ああ……いいね、それ。楽しそう。」
「まだ、豊作とまではいきませんけど、そのためにもハツラツ豆を増やせるように皆さんにも頑張って頂きたいですしね。」
種豆は村に戻ってきた村長の兄弟が錬成できるとはいえ、できるだけ昔のように自生で賄えるようにしていきたいという希望もある。
村長が大きな袋を受け取ったところで、お一人に対して一掴み分で結構ですよ、と伝えた。
それから、両手の平でパンパンと二度大きく叩けば、村人の目が一斉にシンイに向く。
「ささっ!皆さんは持ち場に戻って、村長のお声がけを待っていてくださいね。」
はあい、とよいこの返事をするものもいれば、ちええと渋々仕事に戻るものもいるのを、くすくすと笑いつつ村長は見回した。
「時間かかるけど、いい?エルジュ。」
「もちろん。一人一人とゆっくり話すこともできるだろ。ああ、その豆、後でボクにもくれないか?ひとつ食べてみたい。」
「うん。自宅で調理するから、その時に。」
うん、と頷き合った二人が、まずは教会へ行こうかと歩き出そうとした背を見て、つい引き止める。
「ああ、村長。宴は、どうしますか?」
振り返った二人、いや、村長がじっとシンイを見て、小さく微笑む。
「ごめんなさい。この後は、グランゼドーラやエテーネ王国にも行くから。」
「……そうですか。わかりました。」
頷いたものの、わかっていた答えに若干の肩を落として、橋の方へのんびりと歩いていく二人を見送る。
そうだろう、宴に参加していたら、今日という日が終わってしまうから。
どうしても下がってしまう口端に、駄目だと両手で頬を潰して、無理矢理でも笑顔を浮かべた。
「なんか、騒がしかったけど、何かあった?」
呼びかけに振り返れば、研究室の方から歩いてやってきた村長の兄弟が首を傾げて立っている。
正直のところ、なんと伝えればいいのかわからない。
わからないから、頬を掻いて苦笑した。
「今、村長がいらしてたので、そのせいかと。後であなたの元へもいらっしゃると思いますよ。」
「え、そうなの?……ふうん。」
錬成したのだろう、両手に抱えていた作物用の肥料の入った袋をどさりと地面に下ろして、ハナちゃんを呼んでいる。
ハナちゃんが大袋を帽子の中に仕舞い込んでいるのをしゃがんで頬杖をついて眺めている横顔は、とても三百年近くも生き続けてきたようには見えない。
あの、長い旅路を終えてようやく笑顔になったこの人のためにも、今日という日でなければならなかったのだろう。
顔を上げると、教会から戻ってきた村長とエルジュの二人がまた橋を渡ってくるのが見えた。
兄弟の姿に気が付いたのか、エルジュを置いて村長が手を振りながら走ってくる。
それを見て、ハナちゃんの目の前から立ち上がったその人は、村長の後ろに控えているエルジュを一瞥して、それから、隣にいたシンイに対して問いかけるような目を向けた。
何も言うことなどできずに、一度目を瞑り、それから苦笑を浮かべて首を横に振って、一歩後ろに下がった。
兄弟を前にして少し緊張しているのか、早口で結婚を報告する村長に、うんうんと頷いていたのを斜め後ろから見つめる。
どんな顔で村長の報告を受け止めているかはわからない。
その顔を、見てはいけない気がした。
その、村長の報告にどんな意味があるかを、伝えることもできない。
エルジュを見遣れば、彼もまた同じように考えているのか、挨拶を済ませた後は兄弟からはほんの少し目を逸らしていた。
村長の言うことに相槌として頷いていただけで、うんともすんとも答えない兄弟に不安になったか、村長の顔に翳りが差して眉が下がったと思った時。
「笑って。」
兄弟の両手がスッと伸びて村長の頬に添えられたら、物理的に口端も上がる。
「今日は、笑う日だから。それにさ……幸せ、なら、笑えるでしょ?」
そう、優しげな声音で言って、兄弟は頬から離した手で、村長の髪を静かに撫でた。
「おめでと。くれぐれも、幸せに、ね?」
自慢の兄弟なんだからさ、と村長に向かって親指を立てた姿に、ほっと息をつく。
うん、うん、と頷いた村長が、やや滲んだ涙を拭って、ふわりと柔らかい笑顔を浮かべた。
幸せそう、と形容するに相違ない、兄弟だけに向けられる特別な顔だった。
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驚愕、という以外に言いようのない顔をした、エテーネ王国の王族たる両親の姿に、エルジュは小さく息を飲み込む。
親子だと明かされたのも間もないばかりか、次元に閉じ込められた父親が家に帰ってこられたのもごく最近の話だという、まだ一緒に過ごし始めて幾年も経っていない我が子の結婚報告など、受ける衝撃のいかばかりも想像もできない。
自分が同じ立場だったらと思うと頭の痛い話だとは思うが、エルジュだって恋人の願いを前に引くことなどできなかった。
申し訳ない思いでひたすらにただ頭を下げるほかない。
「…………お、父さん……お母さん……」
絞り出すような声が聞こえて、エルジュが顔を上げる。
報告した時のままかろうじて笑顔を浮かべてはいるが、今にも泣き出しそうな滲んだ声で、盟友が両親を呼ぶ。
椅子に座り込んだまま動けないでいるパドレとマローネの二人は、困ったような顔で見合わせた。
どうしよう、と見上げてくる盟友の顔を見て、エルジュも少し首を傾げる。
「……君のご両親は、エイプリルフールをご存知ないんじゃないか?」
「えっ?」
は、と瞬いた盟友が、再び両親を振り返ると、盟友とよく似たあどけない様子で両親も首を傾けている。
今までに報告してきた相手は、多少なりともエイプリルフールの慣習に触れた経験があっただろうが、盟友と同じく五千年前からやってきて間もない両親となると、慣習自体があったかは怪しいと思っていた。
二人の反応に、やはりな、とエルジュが恐る恐る口を開く。
「今日はアストルティアでも広く伝わっている、エイプリルフール、別名でおおわらいと呼ばれる日なんです。今日のこの日に、ボクたちがご報告したことに意味があります。」
「……エルジュくん、と言ったかな……それは、どういう祭事なんだ?」
「簡単に言えば……どんなことでも、笑みを返せ、ということです。」
起源や謂れはいくつかあるが、根本的には、厳しい冬を乗り越えようやく春が来たのだから笑顔を絶やさず、また一年頑張ろうと互いを励まし合う趣き、ということになっている。
それをエルジュが丁寧に説明しているうちに、だんだんと腑に落ちたような顔になってくる両親、特に、父親の姿を見て、盟友が強張った表情を緩めていくのが見て取れた。
一通り説明し終わった頃、父親であるパドレが椅子に座ったまま両手を組んで、エルジュに向き直った。
「その意味、というのは、君が、この時代の人間ではないことに関係しているのか?」
「っ!……おっしゃる通りです。」
さすが王国随一の時渡りの使い手と呼ばれるだけはある、エルジュがこの時代の人間ではないことが見抜かれていたことに、素直に感嘆を溢した。
最初に訝しがられていたのも、エルジュの出自年代が不明だったことに対する不審だろう。
「笑みを与えられるなら、それが嘘でも構わない、そういう日に結婚を報告していったのは……嘘だと思われても構わないから、笑顔で祝福してもらいたかったんです。ボクたちは、それを証明するだけの時間を与えられないから。」
話を聞いて、痛ましげに顔を歪めたマローネと、隣で立ち上がったパドレはなおも顔をしかめている。
一歩、エルジュに詰め寄ろうとしたパドレの前に盟友が立ち塞がり、エルジュを庇った。
「私が、そうしたい、って頼んだから、エルジュがそうしてくれた。私たちが結婚したら、私は五百年前で生涯を終える、そのことを素直に祝福してもらえる自信がなかったから。」
絶対に泣かない、と決めていたはずの盟友が震える声でそう紡いだ後、堪えきれなかったかエルジュの方へと向き直って胸に縋りつき顔を押し付けた。
泣き顔は見せない、に妥協したか、とエルジュが苦笑して盟友の髪を撫でる。
「友人たちに別れがたいほどに慕われているのは、傍目にもよくわかっていました。相手によっては、ボクが違う時代の人間であることを悟る者がいることも。そういう相手であっても、最後は、笑顔で別れたい、と。最後の記憶として、笑顔が見たい、と、この日を選びました。」
実際、エテーネ村の幼馴染と兄弟は明らかにわかっている様子だったし、勇者姫という王女も、従姉妹だという王女も、ただならぬ様子ではあった。
どういう経緯で知ったかは知らないが、それでも皆、おおわらいにかこつけて笑顔で見送ってくれたのだ。
まだ泣き止むことのできない盟友の様子を見ながら、エルジュは目を上げて、パドレとマローネに再び頭を下げる。
「ボクは、この日二人で浮かべた笑顔を、嘘にするつもりはないし、相手が浮かべた笑顔を裏切るようなことはしたくない!絶対に、誰よりも幸せにする!だから、お願いします!」
そうしてしばらく瞑目していると、頬にふわりと濡れた手が触れたので、それに導かれるようにエルジュが顔を上げると、目元を赤くした盟友が嬉しそうに笑っている。
ほ、と息を吐きながら微笑を浮かべたら、毒気を抜かれたように放心した両親に対して盟友が向き直った。
「ごめんなさい、お父さんとお母さんの笑顔が見たいっていうのは、私の我儘だった。でも、でもね。……私は、エルジュといて、幸せで、それで……いつも、こうして、笑顔でいるから……だから、心配しないでって、伝えられたら、嬉しい。」
背中をエルジュの胸にピッタリつけて、両腕を抱えるようにエルジュを見上げた盟友はもう泣いていない。
そうして向き合った四人で沈黙を守って数分、くつくつと響く男性の笑い声に、くすくすと溢れる女性の笑い声も重なる。
「…………はあ……どうも信用が無いようだ。なあ、マローネ?」
「フフ……仕方ありませんわ。パドレも、ずいぶんこの子にやんちゃしたことですし。」
「それを言われると辛いな。」
呆れたように手をひらひらと振ったパドレが、笑顔を浮かべてエルジュと盟友とを振り返る。
隣に背筋を伸ばして立つマローネも微笑していた。
「元々、お前の結婚を反対したわけじゃない、最初は、本当にただ驚いただけなんだ。」
「ええ、ええ。だって、私たちにとっては、あなたは幼子と同じなの。悪く思わないで欲しいのだけど、なぜって、私たちが、まだ、パパとママの赤ちゃんみたいなものなのよ。」
「ああ、そうだな。私たちは、親としては新米なんだ。お前は、父さん、母さんと呼んでくれるがね。」
話を聞きながら、ああ、そうか、とエルジュも納得した。
本来の親ならば、成人までの十余年をかけて、子の自立と向き合っていくもので、結婚についても冷静に対処できただろう。
だが、彼らは、赤子だった盟友を時の流れに奪われ、そうして、今に至る。
愛しい我が子とはわかっていても、我が子の巣立ちが突然目の前に迫ったことで感情が追いつかなかっただけなのだ、と理解した。
胸の前に抱えていた盟友も肩の力を抜いて、エルジュに寄りかかってくるので、支えるように抱き寄せる。
目が合えば、自然と笑みを交わした。
「それでも、夫婦の間で思い合う気持ちというのはわかるぞ。お前たちがちゃんと互いに思い合ってることもな。」
パドレが少しだけ寂しそうに目を伏せ、しかしマローネが慰めるように寄り添えば、うんと頷いてその口角が笑みを象る。
「もちろん、祝福させてもらうよ。おめでとう。」
「もっと時間があれば、きちんとお祝いをしたかったわ。せめて、夕食は一緒にしていってちょうだいね。」
両親の晴れやかな笑顔を見て、ようやく綻んだ盟友の頬がほの赤くて、眉もつい下がる。
一日かけた計画は、陽の落ちたパドレア邸で静かに幕を下ろした。
腕によりをかけて作られた晩餐を親子三人と共にした後、月明かりの下で白く光る花を眺めた。
見送りにと連れ立って見守る両親に、盟友が手を振りつつ名残惜しげにエテーネルキューブを取り出す。
差し出された手にエルジュが手を乗せ、離れないようにとしっかり繋いだ。
「……まあ、俺たち家族に限ったことではあるんだが、」
起動し始めたエテーネルキューブを前に、え、とエルジュと盟友の二人で何かを言いかけたパドレを焦って見遣る。
薄れゆく視界の先で、ニヤリと悪戯めいた顔が笑って言うには。
「お前たちの時代に会いにいくことだって、不可能ではないしな。」
「……あら、本当ね。」
とか。
思わず二人で、あっはと噴き出した笑い声を、現代に残してしまったんだよな。