Passion Gold Passion Gold
黄や赤に紛れて、静かに波打つ湖の縁に佇むその人の姿は、思いもかけず見惚れるほどには幻想的に見えた。
その手に握る一竿がなければ、だ。
はあ、とため息をついた瞬間には、竿の過敏な動きに反応して、大振りに一匹の魚を釣り上げた。
随分苦心して引いていたように思うのに、釣り上げたのは十五センチくらいのヒラヒラした小さな白い魚。
知らない魚だ、と首を傾げて、目的の人物に呼び掛けた頃には、さかな袋に仕舞ったポーズのまま驚かれた。
「エルジュ!こんな所にどうしたの?」
こんな所とは言うが、エルトナ大陸の中でも時節にあった秋らしい風情を楽しめる落陽の草原は人知れず評判なのだ。
現にガケっぷちにある村の跡地はそれなりに人で賑わっていた。
ただし、強い魔物の徘徊するこんな奥まで釣りのためだけに来る冒険者はそうそういない。
「君を迎えに、ね。」
「へ?なんで?」
「ハルモス老師が、君の帰りが遅いと心配していたから、僕が代わりに探しに来たのさ。」
本日、昼を少し過ぎ、食事をしに戻ったレンドア南の宿屋から出て歩いていたら、いつもとは様子が違うハルモス老に気付いた。
声をかけて事情を聞けば、今朝方、釣り老師である彼の依頼を受けて釣りに出かけた盟友の戻りが遅いと言う。
いつもなら昼までには納品に来るのに、釣りに出かけたという地域も町から離れた地なので、なにかあったのではと懸念していたようだった。
有り体に言えば、大魔王マデサゴーラやネルゲルをも倒すほどの盟友が、今さら何の心配があるものか、と内心では思った。
ただ、盟友の強さは人並み外れていようとも、その見た目ばかりか立ち居振舞いにすらほとんど表れないので解る人にしか解らない。
戦えないとまでは言わないが、思考が戦闘中心ではない老師からすれば心配するのは当然だろう。
なんにせよ、盟友と共にどこかへ出かける機会があるのならば、それに乗じるほどには浮かれていたのは否めない。
なにせ患っていたメラゾ熱が治って、思い通りに動けるのも本当に久しぶりだった。
だから、盟友を探して迎えに行ってきます、とエルジュ自ら申し出たわけだ。
エルジュがざっくりと答えた内容で納得したのか、盟友ははあと申し訳なさそうに頷いた。
「迷惑かけたね、ごめん。」
「問題ない。」
心からそう思って口にしたら、盟友はさらに苦笑した。
「依頼のニシキゴイを釣りに来る前に、手前で寄り道しちゃって。」
「手前?」
「うん。あっちの川の方で、旬のサケを少し多めに釣って、エテーネのお土産に持っていこうかと。」
ああ、と頷きながら、歩き始めた盟友の隣に並ぶ。
「釣果は?」
「たくさん!ニジマスもあるよ!エルジュも食べてって?」
急に嬉しそうに振り返った盟友が、あっと思う間に、足先が引っ掛かってふらついた。
転ぶはずがないとは知っているはずなのに、つい先に手が出て、ふわりと目の前で浮いたその手を掴んで、驚いたままの顔が胸に当たるほど強く引いていた。
あ、と見上げた盟友の瞳にぶつかり、言い訳めいた言葉も浮かばずに、降りた沈黙を守る。
唐突に手に入れた温かさと熱さが手離しがたくて、それが長年求めていたものだと知っていればこそ、自ら離すのが惜しい。
破邪舟で送ろうか、などとはこちらが言い出すまでは、あちらだって言い出さないとよく知っている。
深く長く、気取られぬように息を重ねるうちに、掴んでいた手が、軽く握り返された。
見遣った俯き顔の頬と耳はほの朱い。
「……エルジュも、食べていきなよ。い、っしょに、帰ろ?」
「…………うん。ゆっくり、帰ろう。」
もう陽も傾き始めて、冷たい風が時折吹いても、繋いだ手だけはいつまでも暖かかった。
橋を渡って、時折はしゃいだように転げ回ってくる緑のやつと黄色いやつは、倒すまでもなく盟友が思い切り蹴飛ばしていた。
そんな雑な扱いも当たり前のことのようにするものだから、肩を揺らして思い切り笑わせてもらう。
エルジュが笑う度に、盟友も笑って、また足をあげた。
そろそろガケっぷちの村だろうかと、少しだけ名残惜しいような気持ちで盟友の手指を少しだけ離す。
汗で湿った手の平に吹き込んだ風に、盟友がエルジュを少し不安そうに見上げても、離したいわけじゃない。
気恥ずかしさから目を逸らしてはいても、指と指が絡み合うように強く繋ぎ直した手だけは正直で。
探るように人差し指の腹が、少しカサついた盟友の手の甲を滑る。
ずっとこうしていられるほどの度胸はないが、それでも、ほんの少しの間だけでも。
「ハックシュン!!」
と、突然響いた大きなくしゃみに、思わず二人で肩を竦めて繋いでいた手をパッと離した。
盟友かと思ってつい見遣るが、盟友もエルジュを見上げて目を丸くしている。
声は全然、どっちとも違うのだけど。
盟友が首を傾げながら、村の方向とは少し離れた崖の奥へと続く壁の向こうを覗き込み、ああ、と頷いた。
「今の、イチルさんだった?」
「わっ!?ごめんなさい、聞こえちゃいました!?」
エルジュも後を追って道の向こうを覗けば、ダーマ神官と預かり所職員が、二人で毛布を被って焚き火を囲んでいた。
イチルと言うらしい預かり所職員のエルフの女性が、真っ赤な鼻を両手で押さえて恥ずかしそうに苦笑する。
「謝ることないよ。今日、寒いよね。」
「ですよね。ヤツデさんが焚き火作ってくれなかったら、私、凍え死んでます。」
「大袈裟すぎます。」
そう笑顔を向けられたエルフの男性神官が、身を竦めて首を振った。
小さくも、大きすぎもしない焚き火は、煙と共に温かな空気の流れを巻いている。
一瞥した盟友がボソリと、きれいな枝が、と呟いて、気が遠くなるような目をしたのには笑いを噛み殺した。
カミハルムイ国の木工職人街に持っていけばそれなりの値で買い取ってくれる高級な枝が、パチパチと燃え尽きていくと思うとなんとも言えない。
この辺りで拾えるのはホワイトウッドかこれしかないらしいのだから、仕方がない。
「あ、お二人も食べていきます?」
食べるとは、と首を傾げたエルジュと盟友に、イチルが目線を促して焚き火を指差した。
よく見れば、焚き火の中に、油紙に包まれた何かがいくつか見える。
なんとなく楕円に見える形から、思い浮かんだものを、何の気なしにエルジュが口にした。
「もしかして、焼き芋?」
「そうなんです!さっき、村から差し入れで届けて頂いたので。村のお芋は美味しいですよ!」
甘い匂いも相まって、なんだかお腹が空いてきた。
エルジュはそれもいいな、と思ったが、盟友はどうだろう。
「うーん、でも、一人分が減っちゃうし……」
気が乗らないというよりは、申し訳ないという気持ちが先立つのか、盟友が腕を組んで眉を下げた。
量を見る限り、一人一つ以上はあるようだし、とエルジュは固辞するほどでもないと思ったが。
あ、と思いついたことを、盟友にそっと耳打つ。
「君、さっきの釣果、少し余らないか?」
エルジュの言葉に、目をぱっと輝かせたまま、さかな袋をゴソゴソと取り出す。
引っ張り出した盟友の手の下では、四尾の活きたサケがビチビチ踊った。
「これも焼いて、交換しましょう!」
「わあ!とっても新鮮なサケですね!ありがとうございます!」
「おお、ツヤがあってなんとも美味しそうです。」
嬉しそうに言うイチルに合わせ、ヤツデがほくほく顔でサケを受け取った。
流石にサケはこの辺りの漁獲だけあって慣れているのか、手際よく下拵えを済ませて、紅芋と同じように油紙に包んで、ヤツデが焚き火に放る。
串刺しでも良かったかもしれないが、放り込んだ後は、ライスフラワーを原料としたエルトナ名産の白酒の瓶をいそいそと荷物から取り出しているので、箸でつつきながら酒盛りするつもりなのだろう。
美味しいものを作れる人は大抵酒飲みだなあと内心で笑った。
焚き火を囲んで、良い具合に焼けた焼き芋と焼き鮭を、慣れないエルトナ様式の箸で少しずつ口に運ぶ。
旬なだけあって、頬が緩むほど美味しい。
それから、どうしてこんな村の外れにダーマ神官と預かり所職員がいるのか、というエルジュの疑問から始まり、エルトナ大陸が見舞われた大いなる災厄における壮絶な物語を、盟友と、支援をしてきた二人の話を酒の肴に、のんびりと過ごした。
詳細を知っているのだろうが、当たり障りのない部分を語り終えた盟友に次いで、神官らは災厄の封印を見守るために未だにこの場を拠り所としているらしい。
いつか、彼らが本当に安心して、村へと帰れる日が来ることを、手にした盃を前にこっそり祈った。
日もすっかり暮れて、腹もくちたところで、秋の下のささやかな酒宴は幕を下ろす。
程よい気分の酔いの中、エルジュの肩に凭れてうとうとして揺れる盟友の頭を盗み見ながら、片付けを請け負ってくれた二人の背を時折確認した。
暇のタイミングを見計らっているうちに夜はすっかり更けていて、老師に申し訳ない思いも浮かんだが、意識はかろうじてあっても足元のおぼつかない盟友を連れていくのは今日はもう難しいだろう。
このまま、エテーネの村に送るか、それとも、レンドアの宿屋に連れ帰るか。
選択肢をいくつか考えながら胡座を掻いた膝に頬杖をついて悩んでいると、自分の分を終えたのかイチルが毛布を片手に歩いてくる。
差し出されたのは二枚。
「酔いが醒めたら寒いでしょう?」
「いや、大丈夫。もうお暇するよ。」
断るように手をヒラヒラと振って、そのままの手で盟友の肩を揺り起こす。
「ん……帰る?」
「ああ、帰ろう。」
一緒に帰る、と、約束したから。
かつて、兄弟と交わしていた小さな約束の、代わりになどは到底ならないだろうけど。
それでも、エルジュは、共に帰ることができるのなら、願ってやまないから。
ううん、と目元を手で擦っているが、横で立ち上がったエルジュにつられて盟友が立ち上がる。
それで。
「ッ!」
手を、繋がれた。
きゅう、と、震える指が縋るようにエルジュの指を握って確認し、そのまま滑り込むようにエルジュの手の内に収まる。
昼間の延長なのか、寝ぼけているのか。
「……寒いね。」
確かに、すっかり冷え切った夜風が寒い。
それに気付かされた程度には、遅れて、盟友の手がとても冷たいことに目を細める。
「…………ああ、寒いな。」
昔はそうでもなかったけれど、寒冷地のグレンで十年ばかりの時を過ごしてきたせいか、エルジュは比較的体温が高い方だ。
少しでも温かさが分け与えられればいい、と、柔らかく手を握り込む。
「……なんだか、お邪魔しちゃったみたいですね。」
くすりと忍ぶように溢されたイチルの笑みに、はにかむように口を結んで、何も言えぬままにエルジュは小さく首を横に振った。
盟友はまだ寝ぼけているのかエルジュの腕に頬を当てて微睡むのを、転げ落ちないように支えながらエルジュは微笑んだ。
「とても暖かくて、楽しかった。ごちそうさま。」
「こちらこそ。また、是非いらしてください。」
それは難しいな、と思っていたエルジュに、念を押すように小さく、お二人で、と添える辺りは、預かり所職員に抜かりはない。
やっぱり、愛と信頼の、と謳うだけはある、とエルジュは苦笑いした。