人倫の不在証明PM17:30
その山荘は深い雪に埋もれるようにして建っていた。山荘をぐるり囲む針葉樹林も雪に覆われ、視界に写るのは雪の白と空の濃紺の2色のみ。既に日は落ちているが雲もなく、穏やかに晴れている。雪山はこれから起きる事件をまだ知らない。それを知っている「彼」は今まさにこの場に姿を現さんとしていた。
「転送完了!」
ブブブ、という接触不良を起こしたテレビのような音ともに光が収束し、身体を形成するデータが変換されていく。2008年の世界では魔法のようにしか見えない未来の技術で「彼」はここにやってきた。
「お~! 今回の任務は雪山か」
処女雪のど真ん中に立つスーツの少年は白とのコントラストでかなり目立っている。雪の反射に眼を細める仕草は間違いなく年相応のものだ。この雪原に着のみ着のままで立っていることに違和感を覚えることはあっても、とある「任務」のために遥か未来からやってきた巻戻士だとはどんな名探偵でもわかるまい。
「今回の任務はこのペンション『千秋荘』で明日未明ごろ亡くなってしまう、宿泊客の一人、半井(なからい)さん(29)を救うことです!」
「未明ごろ? 正確な時間はわからないのか」
少年──クロノはザクザクと雪を踏みしめながら、相棒のスマホンに尋ねる。
「はい。それにもう一つ興味深い情報があります。死体発見時、部屋が密室だったとかなんとか……」
「密室殺人事件ってことか?」
話しているうちに千秋荘の前へとたどり着いた。古臭い名前の割に瀟洒なコテージだ。木製の階段を数段あがると、すぐに扉があった。
「こんにちは~!」
元気な声とは対照的な暗い笑み。特徴的な挨拶を迎えたのは老婦人だった。玄関の向こうにあるカウンターで帳簿でも眺めていたらしく、老眼鏡の下の瞳をぱちくりとしばたかせた。
「あらぁ、いらっしゃい。ご予約の方?」
「いえ。おれはクロノです。ここに半井さんって人は泊ってますか?」
宿泊客とも思えないスーツの少年に面食らいつつも老婦人は答える。
「えぇ。さっきスキー場から帰ってきて、今は205号室にいると思うけど……」
「よし! じゃあ空き部屋をお借りします!」
「あ、泊まるのね? はい、じゃあこれ鍵ね」
楕円形のプレートに203と書かれたシリンダー鍵を受け取ると、どたどたと速足で2階へとあがった。階段から向かって左側に201号室と202号室があり、右側には203~205号室が並んでいる。どうやら2階は全部で5部屋あるようだ。クロノはまずは自分の部屋である203号室に足を踏み入れた。
北欧風のラグにタペストリー、森林を一望できる大きな窓に、コンパクトなバスルームがあったがクロノはそれらには目もくれず、靴をぬぐとベッドにあがった。あぐらをかいて、考え込むように腕を組む。それから1分、2分と無言の時間が続いた。
「今回の作戦はどうします?」
きっとクロノさんは作戦を練っているんだろう…さすがだ…と思ってしばらく黙っていたスマホンがこらえきれず尋ねるも、返ってきたのはおだやかな呼気の音だけだ。
「……って何、寝てるんですか~!?」
堂に入ったツッコミも届かなければ意味がない。スマホンはアラームを鳴らすなどの努力を惜しまなかったが、クロノは全く起きる気配を見せない。最終的にスマホンが根負けし、甲斐甲斐しくクロノをベッドに寝せたり、布団をかけなおしてやったりした。
そして、時は午後23時まで進む。
「うーん、よく寝たな……」
あくびをしながら、ベッドを降りるクロノにスマホンは数時間分の不満をぶつける。
「クロノさん! もう23時ですよ! どうしていきなり寝ちゃうんですか!」
口角泡を飛ばす勢いにひるむことなくクロノは答える。
「今回の作戦だ! いくぞ、スマホン!」
スマホンは答えになっていない答えに目を白黒させながらもついていく。そろりそろりと歩いていたクロノが止まったのは古式ゆかしい黒電話の前だった。この千秋荘では携帯電話は圏外となるため、宿泊客用に固定電話がおかれている。それがこの黒電話というわけだ。
「こんな時間に電話を……?」
スマホンが呟くと、クロノは無言でしゃがみ込み、黒電話がおかれた小さなテーブルの下に潜り込んだ。
「ここからなら205号室のドアがよく見えるし、テーブルクロスで隠れられる。監視にはちょうどいいだろ?」
つまり、クロノの作戦は仮眠を取り、半井さんが亡くなる深夜から早朝にかけて寝ずの番をする、ということらしい。部屋に入るなり眠り込んだのはそのためだったようだ。
得心いったスマホンも傍らで目を光らせること実に8時間。何事もなく時間は過ぎた。時折電話の前を通りすぎる者こそいたが、自分の部屋とトイレを往復する宿泊客くらいのもので、半井さんの部屋には近づきすらしなかった。
まんじりともせず迎えた朝7時。クロノはテーブルの下から這い出て、凝り固まった全身をほぐすようにのびをする。
「結局、誰も現れませんでしたね……」
「一応、半井さんを呼びにいってみよう」
千秋荘では朝食の時間が決まっており、8時には宿泊客の全員が食堂で顔を合わせることになる。起きて支度をしてから朝食に向かうのであればぼちぼち起きる時間帯だ。実際、先ほど数人の宿泊客が朝食まで散策しよう、と部屋から出て行った。
「すいませ~ん! 半井さん! 起きてますか?」
クロノはノックと呼ぶにはやや強めにドアを2度、3度と叩いた。
「……まだ寝てるんでしょうか?」
スマホンの問いにクロノは首をかしげる。
「なんだ、この音?」
そう言いながら、クロノがドアに耳をくっつけたので、スマホンもドアにマイクを近づける。
「……アラーム?」
けたたましいアラームが半井さんの部屋で響いている。しかもドア越しにもきこえるくらいの音量だから、もし枕元にあったのなら飛び起きずにはいられないだろう。
「半井さーん!!」
クロノはもはやドアを殴っていると言った方が語弊がない勢いでノックをし、大声で呼びかけた。果たして、返事はない。
大声になんだなんだとやってきた宿泊客たちの視線を気にすることなく、クロノはドアを破ろうと体当たりを試みた。
結論から言うと、ドアは4回目の体当たりで壊れた。クロノ一人ならもっと時間がかかったろうが、ただならぬ雰囲気を察した数名の男性客の協力も得られ、なだれ込むようにして、205号室の敷居をまたぐことになったのだった。
相変わらずうるさいアラームが鳴り続ける中、半井さんはベッドに横たわっていた。
──苦悶の表情を浮かべ、口を半開きにしながら。
「し、死んでる……」
そうつぶやいたのは誰だったのか。専門家などいなくても、彼が絶命していることは明らかだった。
クロノは騒然と死体を囲んでいる宿泊客たちから離れて窓に近づいた。当然、きっちり施錠されている。次にテレビ台に無造作に置かれていたルームキーを見つけ出すと、壊れたドアのノブに差し込む。ひねると、カチリという確かな手ごたえがあった。確かにこの部屋の鍵で間違いないようだ。
「密室……」
クロノが呟くと、呼応したように「どうして自殺なんか……」という声が室内に響いた。
ドアを押し破ったとき共に部屋に入った男性の一人だ。手には折りたたまれたメモ用紙が握られている。
「サイドテーブルの下に落ちてた。ほら」
『もう疲れました。おやすみなさい。 半井』
「遺書……ですか? これ」
「まぁ確かに微妙だけど、部屋が密室だったなら、病死か事故死、自殺の3択じゃん?」
男性客同士の会話聞きながら、クロノは改めて半井さんの遺体をまじまじと眺めた。確かに外傷は認められない。この状況なら病死か事故死か自殺と考えるのが妥当だろう。そこにやや微妙とはいえ、遺書に見えなくもないメモがあれば自殺説に傾くのは自然に思える。
「あれ? じゃあ、どうしてアラームが鳴ってたんだ? 起きる気のない人がアラームなんか設定するわけない……」
クロノの言葉にスマホンも「確かに…」とうなずく。
「単に切り忘れただけじゃ? 逆に自殺するからって毎日設定してるアラーム切ろうって思うかな?」
「うーん……アラームの設定を見てみるか」
幸いなことに、と言うべきなのか、半井さんの携帯にロックはかけられていなかった。おまけにすぐさま出てきたのもちょうどアラーム設定の画面だった。
「アラームを設定してそのまま寝たって感じだな。……見てください、平日に鳴る設定のアラームの方は6時半だし、そっちは鳴らないように切られてます。さっき鳴ってたアラームは夜に設定した1回きりのアラームみたいですよ」
男性も特に食い下がることもなく、「へー。じゃあ密室殺人説あるじゃん」と面白そうにうなずいた。
「でもその場合、一番怪しくなるのはキミだぞ、少年」と、別の客。
「確かにね~。なんかこの人の部屋に前で騒いでたもんね」と野次馬の女性。
「いやぁ? でもそれだったら自殺説覆す必要ないじゃん」とアラームに反論した男性。
誰もこの状況を殺人と真剣にとらえている者はいない。だから人が死んでいてもやや弛緩した空気が流れている。
もちろん、クロノも殺人と断言できる根拠を持っているわけではなかった。だが、アラームの件といい、宛先不明のメモ書きと言い、単なる自殺や病死、事故死では不可解な点があるのも事実だ。それに何より、半井さんの命を救わねばならない。
「もう一度だ! 〝巻き戻し(リトライ)〟!」
2回目 PM17:30
「スマホン、半井さんって持病とかあったのか?」
問われたスマホンは巻戻士データベースにアクセスし、ややあってから答える。
「直近の健康診断のデータはオールAですね……。持病どころか、かなりの健康体ですよ」
「じゃあ、夜に悪いものを食べた、とか……」
「でも、遺体の周りに嘔吐したようなあとはありませんでしたよ。仮に夕食が原因なら他の宿泊客たちも一緒に食中毒をおこさないとおかしいですし、半井さんの部屋にも個人的に夜食を摂ったような痕跡はありませんでしたし」
クロノは腕を組んで、「うーん」とうなる。
「とりあえず病死説は置いておくか……。となると、自殺説か。よし、何か知ってる人はいないか聞き込みだ!」
そうしてターゲットの半井さんを含めた宿泊客たちに聞き込みを行った。
・半井さんは今日の12時頃やってきて、千秋荘に戻ってきたのは17時ごろ。1泊2日の宿泊予定だった。連れはなし
・205号室は角部屋で204号室は空き部屋。2階の他の客がアラームの音に気付かなかったのは無理もない
・各部屋の合鍵はマスターキーのみ
「ひとまず今回はこんなところか……」
そうこうしているうちに時刻は23時を回っていた。クロノは迷うことなく、205号室の前に立つ。
「すいませ~ん、半井さん!」
ノックして呼びかけると、半井さんはすぐに出てきた。
「はい?」
クロノにとってもまじまじとターゲットを見るのはこれが初めてだった。明るい茶髪で耳にはピアス、手には指輪をはめている。夕食時に着ていたパーカーは脱いだらしく、今はネルシャツにチノパン姿だ。
「おれはクロノです。急なんですけど、おれと部屋を交換してくれませんか?」
「え……なんで?」
「え~っと……風水的に角部屋が良くて、逆に半井さんはあっちの方が……」
「そんな理由で部屋を交換してくれる人なんていますかね……」
クロノの取ってつけたような言葉にスマホンが苦言を呈すると、半井さんはふっと笑みをもらした。
「まぁいいや。別に大した荷物もないし」
半井さんは快く了承し、数分で荷物をまとめると、クロノと鍵を交換してくれた。
「ありがとうございます。このことは他の人には内緒にしてくださいね!」
「はいはい、なるべくそうするよ」
そういうと、半井さんは203号室へ消えていった。
「これが今回の作戦ですね!」
スマホンが尋ねると、クロノは首肯した。
「うん。前回は夜中の間ずっと張り込んでたけど、不審な人は現れなかったし、半井さんが部屋から出ることもなかった。それなら、205号室の中に仕掛けがあるのかもしれない」
「なるほど! 自動殺人ですね!」
205号室の間取りはクロノが使っている203号室と全く同じだった。おそらく、奇数部屋と偶数部屋はそれぞれ鏡合わせのような間取りになっているのだろう。
「よし! 調査開始だ!」
と、意気軒昂に調べ始めたは良いものの。
「何もないな……」
ベッドの下やテレビの裏、バスルームなど、部屋中をくまなく探したが、怪しいものは何も出てこなかった。
「そもそも死因はなんだったんだろう? スマホン」
もっと早くに聞くべきことだが、クロノは今まさに思いついたと言わんばかりに尋ねた。
「うーん、それがぼくにもなんとも……。データベースにも曖昧なことしか書いてません。何しろ、自殺で処理されて司法解剖もされなかったようですから」
「ていうことは、やっぱり可能性をひとつずつ潰していくしかないか……」
自殺と考えても、他殺と考えても状況証拠に矛盾がある。この謎にピタリとはまる解を見つけ出し、攻略未来へたどり着くまで、この任務は終わらない。
「え!? 朝!?」
気づくと眠り込んでいたらしい。カーテンの向こうは明るく、未明などとっくに過ぎていることは明白だ。
「スマホン、今何時!?」
「7時です!」
クロノは慌てて部屋を出ると、203号室には向かわず、階下へと向かっていく。戻ってきたクロノの手に握られていたのは、マサカリだ。
「昨日庭で見つけたんだ。これがあればおれ一人でもドアを破れる」
手短に説明すると、クロノは今度こそ203号室の前へと向かった。
「半井さん! 返事してください!」
ノックをしても返事はない。そして、やはり中からはけたたましいアラームの音が聞こえる。躊躇する理由はなく、クロノはマサカリを振りかぶって上下の蝶番を破壊した。前回よりはるかにスムーズ且つスピーディーに部屋に押し入ったところで、クロノを迎える光景に変化はない。
苦悶の表情、半開きの口。なにひとつ変わらない。──かに思えた。
「あれ?」
前回は男性が拾ったと言っていた微妙な文面の遺書。今回もベッドのそばにでも落ちているかと思っていたのだが、部屋を見渡す限りどこにもない。
「なんで変わったんだ……?」
死体の下敷きにでもなっているのかもしれないと歩み寄ると、脱力した手首に目がいった。正しくはボタンが引きちぎられた服の袖に。
「確か昨晩会ったときにはボタンはついてたはず……。どうして」
「キャァアアアアアアアア!?」
絹を引き裂くような悲鳴でクロノは我に返った。振り返ると、壊れたドアの向こうに女性客が立っていた。青ざめた顔でこちらを指さし、震えている。
「しししし、死んで……っ!? あ、あなたが殺したの!?」
破壊されたドア。室内にいるのは死体とクロノと浮遊するスマホのみ。そして、マサカリ。
「あ、いや、これは……」
「クロノさん! 言い訳のしようがありません! 〝巻き戻し(リトライ)〟してください!」
「くそ~! 〝巻き戻し(リトライ)〟!」
3回目 PM23:00
「あの遺書、実は密室が破られたあとに持ち込まれたものなんじゃないですか?」
スマホンが切り出すとクロノはむずかしい顔で答える。
「でも、犯人が用意するならもっと遺書っぽい内容にしないか? あの内容じゃ、誰が見たって微妙だよ」
仮に1回目でメモを拾った男性が犯人だったとしても、当人が直接手をくだしていない以上は殺害方法がわからなければ半井さんは今晩も死んでしまう。犯人だけが分かっても意味がないのだ。
「次の作戦だ!」
クロノはめげることなく、次の試行へと移る。
1回目と同様に部屋で仮眠を取り、現在23時。クロノは205号室の前にいた。
「部屋にしかけがあるわけじゃないなら、半井さんの側で原因を探すしかない。……というわけで半井さん! 開けてください!」
激しくノックする夜更けの訪問者に半井さんは不審そうに眉根をひそめながら、ドアをあけた。
「えーっと、どちら様? こんな時間に何の用?」
「こんばんは! おれはクロノです! 朝までゲームしましょう!」
クロノの手にはジェンガやモノポリーといった定番のボードゲームがいくつか握られていた。一階の戸棚に置かれていたもので、宿泊客なら自由に持ちだして遊んで良いことになっている。ゲームをダシに半井さんを警護しよう、ということらしい。いつもいつも、やることの方向性は間違っていないのに、やることなすことが極端なのは彼の悪い癖と言えるだろう。とはいえ、特に代案のないスマホンはあきれつつ、黙って様子を見守る。
「えっ!? 別にいいけど、なんで急に……」
「おじゃましまーす!」
半井さんは押しに弱いのか、面食らったままクロノに押しきられ、そのままゲームに興じることになった。彼もそれなりに楽しんでいるようだったが、とはいえ深夜だ。1時間ごとに「もう遅いし、そろそろお開きに……」とクロノに部屋に戻るよう促した。もちろんクロノは床に根をはったように動かず、帰るそぶりさえ見せない。そんな微妙な空気のままゲーム会は午前3時まで続いた。
「あれ、半井さん。袖のボタンが取れかかってますよ」
トランプで遊んでいる最中、クロノのふとしたつぶやきに半井さんは動きを止めた。ネルシャツの左の袖をめくって、「ほんとだぁ……」と眠そうにつぶやき、そのままボタンを引きちぎって、ポケットにしまう。
「クロノくん……俺さぁ、もう無理だわ……おやすみ……」
クロノが帰ろうが帰るまいが絶対に寝るという意思のこもった声で言うと、半井さんはトランプを放ってベッドに向かった。
「まぁ、別に朝まで起きてる必要もないか……。それにここまで来たら、もう大丈夫かも……」
「痛っ!」
クロノの呟きを遮ったのは半井さんの短い声だった。クロノは慌てて彼に駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「あ、ごめんごめん、紙で指切っちゃっただけだから。唾つけとけば治るよ、こんなの」
そういいながら、半井さんは右手の親指を舐める。
「あ、ついでにこれ、ドアの下……に……!? ガッ……ハ……!」
「半井さん!?」
突然苦しみ始めたかと思うと、喉を抑えながらベッドに仰向けに倒れこんだ。あまりに突然のことにクロノは青ざめることしかできない。
「どうして急に……」
思わずうつむいた先にメモが落ちていた。先ほどまで半井さんが書いていたメモだ。このメモ用紙で指を切ったらしい。
『もう疲れました。おやすみなさい。 半井』
「これは本当に半井さんが書いたものだったんだな。でも、誰へのメッセージなんだ?」
「わかりません……。でも、進展もありましたよ! これは間違いなく毒殺です!」
クロノはメモと半井さんのボタンがちぎられた袖を交互に見ながらブツブツと呟く。
「毒殺……。そうか、そうだったんだ……」
クロノはにわかに半井さんに近づくと「失礼します」と言ってからごそごそとポケットをあさり始めた。
「ク、クロノさん……?」
戸惑ったように呼び掛けるスマホンの前で、クロノは目当てのものを探し当てた。先ほど半井さんが引きちぎったボタンだ。クロノは左手を眼帯に添えながら、あろうことかボタンを口に含んだ。
「クロノさん!? 寝ぼけてるんですか!?」
ボタンを飴玉のように口内で転がしていたかと思うと、突然喉を抑えて苦しみだした。スマホンもようやく状況を察する。
「そ、そうか、毒は……!」
右目を封じていた眼帯が開け放たれ、光が漏れ出す。
「グッ…! 〝巻き戻し(リトライ)〟!」
4回目 PM23:00
「危険すぎます! 死んだらリトライできないんですからね!!」
高熱スマホと化したスマホンにぷりぷり怒られながらも、クロノは飄々とした態度を崩さない。
「仕方ないだろ、毒が塗られてたのがボタンだって確かめる方法があれしかなかったんだから。……半井さんはボタンがとれかかっているのに気づいて、引きちぎった。そしてメモを書いたときに親指を切って、傷口ごと毒を舐めて死んだんだ」
クロノの推理にスマホンは「なるほど!」とうなずく。
「……でも半井さんがメモを書いたときに指を切ったのは偶然ですよ? せっかくボタンに触れさせることができても、毒を口に運ばせないと意味がありません。あの状況ではボタンに触れた後、手を洗ったりして洗い流されてしまう可能性も低くはなかったと思いますし……」
「わからん。とにかく調べてみよう。誰かがボタンに触れたり、ボタンに触れるように促したりしてないか」
4回目は普通の宿泊客のようにふるまいつつ、ボタンについて調査を行った。わかったことは主に4つ。
・ボタンに直接ふれた人も「取れかかっている」と声をかけた人もいなかった
・半井さんは夕食後、宿泊客たちに「一緒に日の出を見にいかないか」とさそわれる。半井さんは行けたら行くと答えていた
・宿泊客と半井さんは夕食時に初対面。ゲレンデでは会っていない。そもそも今日スキーに行ったのは半井さんだけらしい
「あの遺書、たぶん『今日は疲れてて、日の出の時間には起きられそうもないから寝ます。自分は欠席で』くらいの意味だったんだ。部屋のドアの隙間にでも差し込んでおいて、誰かが呼びに来たら見てもらうつもりだったんじゃないか?」
「それでメモを書いたときに指を切ってしまったんですね。でも2回目で部屋にメモがなかったのは……?」
「おれのせいだよ。部屋を交換したのをバラさないでくれって言っただろ? だから、メモを挟むの止めたんだ。宿泊客が205号室に呼びにいったとしても、おれが居留守を決め込めば部屋の交換はバレないだろ?」
なるほど……とスマホンを感嘆しつつ呟いた。クロノさん…さすがの観察眼だ…。
「よし! 次の作戦だ。そろそろ行こう」
クロノは言下に部屋を出た。もちろん向かうのは半井さんの部屋、205号室だ。
「こんばんは! 半井さん! 開けてください!」
ややあって、ネルシャツ姿で現れた半井さんは「どちら様?」と胡乱げに尋ねた。
「おれはクロノです! ちょっと失礼します!」
クロノは自己紹介もそこそこに半井さんの左手首をつかんだ。もちろんそこにははずれかかったボタンがある。ただでさえ戸惑っていた半井さんは見ず知らずの少年にボタンを引きちぎられると、いよいよわけがわからないという顔で眉根にしわを寄せた。
「ボタン、汚れてますね! 洗ってきますよ!」
クロノはそのまま1階の男子トイレに駆け込むと、水道の蛇口をひねった。神経質すぎるほどに念入りにボタンを洗い、しまいにはひっかかっていた糸もぬく。タオルで吹き上げてから、再び半井さんの元まで駆けあがる。
「どうぞ!」
おずおずとボタンを受け取った半井さんは目を白黒させた。本来なら怒り出してもおかしくない場面だが、混乱が勝っているのか「あり、がとう……?」と不思議そうに言う。
「日の出の件、他の皆さんには半井さんは参加しないことを伝えておきます! じゃあ、おれはこれで!」
「え、あ、うん」
立て板に水とばかりに一方的に言うべきを言うと、クロノはそそくさと部屋に戻った。半井さんは鳩が豆鉄砲をくらったような顔でぽかんと立ちすくんでいたが、やがて首をかしげながら部屋に戻っていった。
ボタンの毒は洗い流され、指を切る原因も断った。これで半井さんの命は救えるはずだ。
そして迎えた朝7時。クロノは緊張の面持ちで205号室の前に立っていた。例のけたたましいアラーム音は聞こえてこない。意を決して、ドアを叩く。
「おはようございまーす! 半井さん、起きてますか?」
ドアはすぐに開いた。
「あぁ、きみは昨日の……」
眠そうな顔で呟く半井さんを見て、スマホンは思わず歓声を上げた。
「や、やりましたね! クロノさん! ミッションクリアです!」
だが、浮かれているのはスマホンだけだった。クロノは浮かない顔で半井さんの無傷の右手を見つめている。
「いや、まだだよスマホン。犯人を捕まえないと」
「でも……」
巻戻士の任務はあくまでも人名救出が優先であり、必ずしも犯人を検挙しなければならないわけではない。今回も半井さんの命を救った以上は問題なく任務終了となる。
「だってボタンには毒が塗られてたんだぞ。半井さんの命を誰かが狙ってるのは間違いないんだ。ここで救っても、犯人をつかまえなければまたいつか半井さんは殺されてしまうかもしれない」
わけのわからない会話を聞かされて泡を食っている半井さんの前で、クロノは眼帯に手をかける。
「とにかく、半井さんを救う方法はわかった。あとは犯人を捕まえるだけだ。……〝巻き戻し(リトライ)〟!」
5回目 PM20:30
ボタンに塗られた毒という確かな殺意と、不確実なトリック。タネはあってもしかけがない。これまでの調べで分かっている情報を踏まえれば、残る可能性は少ない。スマホンは最も単純かつ常識的な解答を提示した。
「本当に、犯人なんているんですかね……」
アラームや遺書にしては中途半端なメモ書きなど不可解な点も多い。が、それが仮に「誰かに違和感をもってもらうため」に仕組まれたことだとしたら。それが出来るのは半井さんだけだ。
「他殺に見せかけた自殺……ってことか? だったらもっとダイイングメッセージだとか、犯人に由来する何かが現場に落ちてたりするもんじゃないか?」
「……半井さんは誰かに罪を着せるため、自殺の準備をすすめていて、準備が整う前に死んでしまったんです。だから何もかも中途半端に見えるんですよ」
例えば、半井さんが明日の朝食時に死ぬつもりで準備を進めていて、その間にうっかりと毒を舐め、死んでしまった場合。朝食中に死んだとなれば、指先の毒は大いに他殺の色を強めていただろう。
つまり、この事件は故殺ではなく、過失による自殺だという見立てだ。
「……おれは違うと思う。半井さんはそんなことする人に見えないよ」
「きっとクロノさんと一緒に過ごした時は寝ぼけていてボタンに触れたことを忘れていて指をなめてしまったんですよ」
スマホンの言葉に、クロノはゲーム会の記憶をまさぐる。そのときに交わされた何気ない会話。
『俺、実は前までかなり太っててさぁ。この服も結構ぶかぶかだろ? 2年くらい前まではこれでぴったりだったんだよ』
確かに半井さんの着ているシャツは袖も丈もオーバーサイズだ。だからこそ、ボタンが取れかかっていることにもなかなか気づかなかったのだろう。単にゆったりした服が好きなのだと思っていたが、どうやら違うらしい。
『へぇ! すごいですね!』
『まぁね。やっぱ健康になんなきゃなって一念発起してさ』
そこまで回想して、クロノはふと思い出した。視界には入っていたが、見落としていた重要な事実を。点と点が繋がり、脳裏に電撃がほとばしったような衝撃が走る。
「……おれ、毒に触れた右手ばっかり見てた。でも違ったんだ。本当に見なきゃいけなかったのは左手だったんだ」
何かに気付いた様子のクロノにスマホンは「どういうことですか? 左手にも毒が……?」と尋ねる。
「行こう、スマホン! 攻略未来、あったかもしれない!」
左目は過去を見定めるために、隠された右目は新しい未来を見るためにある。はたして、眼帯から漏れ出した光は運命を切り裂く雷霆と成りうるのか。
──それを決められるのは彼だけだ。
「〝巻き戻し(リトライ)〟!」
その女性はボタンを見せると目を丸くし、ゆっくりと破顔した。柔和な笑みのままにクロノとスマホンを部屋に招き入れる。
「来るならもっと仏頂面のおじさんが来ると思ってたわ。お茶を煎れるから、座って待ってて」
彼女はいやに上機嫌で鼻歌でも歌いだしそうなくらいだった。とても殺人計画を幅まれた人間の態度とは思えない。リビングに通されたクロノは面食らいながらソファに腰を下ろす。
なんとなしに部屋を眺めていると、自然と写真立てに目が行った。小さめの洋箪笥の上に女性と半井さんが一緒に写った写真がいくつか並べられていた。ここまでたどり着いた今でもどうして彼女が半井さんを殺そうと思ったのか分からなかい。
「はい、どうぞ」
気づくと彼女はカップとソーサーの乗ったトレイを持って側に立っていた。テーブルにカップを並べる左手の薬指には半井さんと同じデザインの指輪がはめられている。クロノは指輪を見て、半井さんに婚約者がいる可能性に思い至り、彼女の自宅へやってきた。事件現場である山荘にいる人間にボタンに毒を塗る機会がなかった以上、残る可能性は家族や親類だけだからだ。
彼女は彼らの向かいに座って、まるで新入社員を値踏みする面接官のようにクロノとスマホンを眺めている。クロノは出されたお茶で舌を湿らせてから口火を切った。
「本当に、あなたが犯人なんですか?」
既に認めているも同然だったが、クロノはあえて言葉にして尋ねた。
「えぇ。私が半井さんのボタンに毒を塗った犯人」
ふふ、と笑う彼女に耐えかねたように「どうして……」と呟いたのはスマホンだ。
「半井さん、良い人だったでしょ?」
彼女はスマホンの質問には答えず、別の問いを投げた。クロノは首肯しつつ答える。
「はい。……とても」
半井さんがクロノの無茶なふるまいを邪険に扱ったのは彼女の住所を聞き出そうとしたときだけだ。おかげでここに来るまでに少々…大分…かなり手間取り、何度もやり直すことになった。
「私もね、そう思うの。あんな良い人、滅多にいないって。……だからよ。あんな良い人が運命に縊り殺されて良いわけがない」
笑顔から一転し、臓腑が凍り付きそうな冷たい声で彼女は呟いた。ほの暗い怒りで固く握っていた拳を開き、自らをなだめるようにお茶に口をつける。
「クロノさんって言ったっけ。君、運命ってなんだと思う?」
意味深な問いだが、彼女は別にクロノの答えを聞きたいわけではないらしく、そのまま言葉をつづけた。
「私は人倫の不在証明だと思ってるの」
「人倫の……不在証明?」
仰々しい物言いに怪訝そうな表情を浮かべるクロノに彼女はさらに続ける。
「そう。運命って『示し合わせたかのような偶然』とか『あり得ない奇跡』みたいなものが起きたときに使う言葉でしょ? それが良い出来事か悪い出来事かは区別せず、『もう人間の手には負えません』って白旗をあげたとき、人はそれを『運命』と呼ぶのよ。その領域に人間が足跡を残すことはできない。……だから不在証明。もしくは敗北宣言って言い換えてもいい」
彼女は少し興奮気味にまくしたてるように言うと、再びティーカップを口に運ぶ。その手は少し震えているように見えた。興奮からなのか、あるいはもっと別の感情なのか。クロノに推し量ることはできない。
「どうやら私は昔から悪運が強いみたいでね。父も、妹も、親友も……大切な人たちはみんな運命に殺されて、私だけが生き残ってしまった。もう、大事な人を喪うことに怯えて生きるのは嫌なの。恋人まで奪われるなんて、絶対に許せない……いいえ、許さない……」
鉄のように重い泥が体にまとわりつくような、そんな怨念のこもった声色で彼女は語った。それは自縛の鎖の重みであり、また彼女が持てる唯一の武器の重みでもあった。
なおも独壇場は続く。
「私は運命と賭けをすることにしたの。私が勝てば半井さんは死なないし、私は罪人として裁いてもらえる。運命が勝てば半井さんは死ぬし、私は蝶みたいにどこへでも行ける。そういう賭け。結果は貴方もご承知の通り」
運命との賭け。つまりはボタンに毒を塗っただけで、あとは運任せの殺人だったのだ。実際のところ、それこそ運命に導かれたように半井さんは亡くなり、おまけに自殺で処理されたのだから、クロノが来るまでは大敗を喫していたことになる。
押し殺した笑い声が聞こえてクロノは我に返った。彼女が浮かべていた笑みに全身が粟立つ。
「私は、勝った……!」
クロノはソファに縫い付けられてしまったかのように身動きが取れなかった。覚悟に心を捧げ切った人間の笑みはそれほどまでに凄絶で、凄惨だった。
「もし、ここに来たのが訃報なら、身も心も毒婦になってやるつもりだったから……なんか気が抜けちゃった。ちょっと着替えてくるから、待っててくれる?」
クロノはそう言ってリビングを出ていこうとする彼女の手をつかんだ。そして「え?」と振り向く彼女の口に指を突っ込む。
「すみません! でもこうしないと、……ッッッ!!!」
彼女が呆気に取られていたのは一瞬のこと。クロノが言い終わらないうちに犬歯が肉を切り裂き、骨に達した。このままでは彼女の歯もただでは済まないが力を抜く気配は微塵もない。指を嚙みちぎらんばかりの勢いだ。
服毒、失血、縊頚、投身、窒息、焼身、感電、脱水。幾百の自殺の展覧会の末にようやくわかってくれたと思った彼女が舌を噛み切ったのが976回目の失敗だった。歯は彼女から取り上げようがない。
口をふさがれながらも彼女は音声を発する。くぐもったうめき声にしか聞こえないそれがクロノにははっきりとした言葉として理解できてしまう。
「私はいつか必ず負ける! それは明日かもしれないし、明後日かもしれない!」
辛勝が喜びをもたらしたのは須臾の間に過ぎなかった。一刻の勝利はときに敗北への恐怖心を一層煽る逆風としてしか機能しなくなる。加えて、恋人を殺しかけた慙愧の念にも苛まれている。
あらゆる叱咤の言葉は彼女を刺す針にしかならず、激励と発奮、慰めの言葉は彼女を潰す重石にしかならなかった。
クロノが切り拓いた未来は、ボタンに塗られた毒のように不確かな殺意となって彼女を殺す結果しか招かなかったのだ。
「おれではあなたを救えない」
それは諦めの言葉ではなく。
「いや、おれが救うべきじゃなかったんだ」
また後悔の言葉でもない。
たとえ未来が彼女を殺す毒でも、クロノは攻略未来を諦めない。
「ボタンさん!!!!!」
半井さんに名前を呼ばれて、彼女──ボタンは目を見開いた。顎の力が抜け、同時に目の端から涙がこぼれる。
ボタンは、今まさに「人倫の不在証明」などと迂遠な言い回しで蔑んだものを感じていることだろう。
しかしながら、この巡りあわせは断じて神の思し召しなどではない。
足跡だらけの泥臭い未来を創った人は、今日もへとへとになりながら満足げに笑っている。