無題行かないで。ごめんなさい。私達の為に。
私は大丈夫。どうか安穏で。
そんな美しい涙を誘うような感動的な会話を、黒々と光る大槌を携えた青年は心底どうでも良さそうな仏頂面で眺めながら大欠伸を垂れていた。
別れの言葉なんか要らないだろう。
どうせお前達は明日になれば血の事で頭がいっぱいになるんだから。
終わる気配のない無駄な慰め合いにはぁ、と溜息を吐くとわざと足音を大きく鳴らしてその青年、ホンルは二色の瞳を歪ませながら人集りに歩み寄った。
「あの〜そろそろ良いです〜?僕もあんまり暇じゃないんですよ。
その血鬼の長老さん?のこれからの処遇も決めないといけませんし」
すると考え込むようにずっと伏せられていた重たげな睫毛がひとつ震えて、べとりと深く紅い双眸が覗いた。
「……分かれり。……皆、すくよかに。後の事は私の朋に託せり」
ざわざわと煩く騒ぐ血鬼の下位個体を掻き分けて、大人しく前に進み出た長老を名乗っていた個体は骨張った両手を差し出して目線よりも下にある頭を項垂れる。
ホンルはそれに片眉を上げると酷く重たく厳重な手錠を繋ぎ、首元にも同様に首枷を施した。
そうして乱雑に鎖をぐい、と引っ張ると背後から小さな呻き声とたたらを踏む音が聞こえる。
行きよりもずっと増えたその「手荷物」に好奇心と気怠さ、そして根絶すべきかの種族に対する底無しの憎悪がぐちぐちと音を立てて胸中で攪拌される感覚がした。
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隠されていた血鬼の集落を見つけた、と情報があったのはつい先日のこと。
彼奴達はしぶとくて狡猾、だからこそしっかりと準備をして恐怖に歪んで命を乞う紅い目を砕くべく鼻歌混じりに武装を整えたホンルが目にしたのは無抵抗に小さく縮こまる下位も下位のどうしようもない個体だった。
全ての血鬼が表立って人々を襲っている訳ではないという事は分かっている、だけれどどうしたって人間の血を奪って生きなければならない生物なのは紛れもない真実であり。
うーん、と一瞬考える素振りを見せるものの別に生かしておく理由もないと振り上げた大槌を小さな頭に目掛けて振り下ろそうとした、その時だった。
「……っ!!」
ガキン、と硬質な音を立てて弾き返された武器、手に走る痺れ、ぐらつく体幹。
素早く飛び退いてから視線だけで得物を見やれば刃も柄も全てがぬらついた真紅の光を放つ不気味な短剣が突き刺さっていた。
見るからに血鬼の力によって生み出された後に凄まじい速度で投擲された物、ならば一体何処からと気配を探ろうとしたホンルの目の前に「それ」は突然何処からともなく音も立てずに現れた。
すっかり怯えて縮こまる小さな個体に優しく声を掛けるとずるりと立ち上がった動物の頭蓋骨──恐らくカラスか何かの鳥だろう──を被った黒尽くめの男の表情は全く読めない。
間違いない、此奴こそがこの集落の長なのだと直感が告げるのと同時に込み上げる様々な色がごちゃ混ぜになった源泉が何だったのかすらも分からなくなってしまった濁りきった衝動。
細く息を吐いて武器を構え直すと違和感に気付いた、槌の横面に突き刺さっていたはずの短剣が溶け落ちて傷だけを残し、ただの見慣れた赤い液体となっていたのだ。
どういう事だと視線を戻せばあまりに奇怪な状況にホンルの怪訝な表情は更に加速した。
「長老」の個体は被っていた仮面をそっと外すと細かく生え揃った睫毛に縁取られた血色の瞳を覗かせこちらを一瞥した後、地面に膝をついてあろう事か首を垂れて傅いてきた。
「…は?」
「いかで。いかでそなたは此処へ来けりや」
困惑こそすれ全員殺す事には変わりない、地面を蹴って駆け出そうとしたホンルの脚を凛とした声が縫い留める。
鬱陶しい、と特別製の弾を込めた散弾銃を取り出そうとすれば徐に顔を上げてかち合った細い瞳孔が縦に割く真紅の瞳に絡め取られて指一本すら動けなくなる。
「いらへたまえ。私達はそなたを害するつもりはあらず」
「っ、…くそっ……上位個体がこんな所に…」
身動きが取れなくなって仕舞えば不利になるのは勿論こちらだ。
大人しく質問に答えるしかないのだろう、幸い内容は至極単純で、簡潔だ。
「……当然でしょう、血鬼を殺しに来たんですよ。一人残らず、殲滅する為に」
「我等は人を襲わず。力を求むる人を護り、その代価に血を貰へるのみ」
「それが何です?結局は僕達の血を奪って生きているでしょう。
……あぁ、さっきの子供ですか?無害な子も居るんでしょうね。だったらそのまま飢えて死んでしまえばいいのに」
「……」
血鬼への憎悪が滲んで滴るような歯に衣着せぬ物言いに流石の長老も閉口したらしい。良い気味だ。
「私は此処の長としてそなたの行いを許すよしには行かず」
「でしょうね〜じゃあ僕を殺すんですか?」
「否、人を殺めれば我等は交わした契りに反する。なれば……」
そこで言葉を切ると徐に立ち上がりゆったりと優雅に歩み寄ってきた。
自分よりも低い頭を傾ければ少し痩けた頬を烏羽色の髪がするりと滑る、その様子から目が離せないのはきっと紅い瞳に見入られて…魅入られて?
「……私を、君の事務所にて監禁したまえ」
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「……何…言ってるんですか?上位個体はイカれてる奴が多いとは聞きますけど…」
「そなたは私を殺める事は叶わず、そして私もそなたを殺める事は叶わず。
なれば、二度と我等の集落を襲わぬよう人質という形を取るが良からむ」
私はこれより上なき人質ならむ?と付け加えた黒い血鬼は相変わらず何を考えているのかわからない。
しかし彼が言う拮抗状態なのも口惜しいが事実であり、このままホンルを返しても場所が割れてしまった以上何度でも襲われる危険性があると憂いた故の奇行なのだろう。
自分が殺されるという心配はないのか。
それだけ己の力を過信しているのか。
もしくは、本当に同族を想っての自己犠牲にも似た行動なのか。
それを考える程の興味も理由もホンルには無かったが、血鬼……それも上位個体の人質が手に入るのは確かに事務所としてもかなりの収穫なのではないかとふと思う。
腕や足をちょっと切り落としただけでは死なない稀有な体質、どう傷めつければ効果的なのか、いっそ精神を壊すことは可能なのか。
《殺す為に血鬼を知りたい》
対象問わず、そういった無垢で危険な好奇心を抱いては星を掴まんとする幼子のように不遠慮に手を伸ばさずにはいられないのはホンルの元からの性質であった。
面白そうだ、と、そう思ってしまったから。
「……分かりました。貴方を拘束して人質として僕達の事務所へ連れて帰ります。
貴方はそこで幽閉され、僕の実験台として扱われ続ける……それでも良いんですね?」
「然り。そなた達は私が謀反を起こさぬ間、この集落へ一切手を出さぬ事を誓いたまえ」
「ははっ、血鬼に約束を強いられるなんて……面白い冗談ですね、化け物にしては」
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途中で暴れ出すものかと思っていたが、すっかり大人しくむしろ見慣れない街並みにきょろきょろと辺りを見回す素振りすら見せている。
ただでさえ鎖と首輪で繋がれながら歩いているのにその風貌はどうしても目立つだろうと適当に被せたボロ布から覗く赤い目はホンルに負けず劣らず好奇心旺盛なたちなのだろう。
(まぁ……もう外の景色を見る事はないだろうけど)