コンコン。
まだ、町のほとんどの人が夢の中にいる早朝。周りに響かないよう、控えめにされたノックの音が耳に入る。扉を開ければ、二つに結った長い髪を揺らす彼女が笑いかけてくる。
「おはよう」
そう言って振る手の指には、結婚指輪を輝かせて。
「おはようございます」
以前は僕が毎朝、彼女の部屋へ赴いてモーニングコールをしていたが、今はこうして彼女が僕の部屋へモーニングコールをしにくる。夫には、畑へ行くと伝えているのだろうか、防具や仕事道具を着けたいつもの格好をしている。一方僕は、いつもの執事服ではなく寝間着のままだ。
ことの始まりは、彼女が結婚して数日後の朝。
「ビシュナルくん、最近朝来てくれないから、起きてるかなと思って」
「それでしたら……もう夫婦の住まいになったんですから、モーニングコールはしませんよ」
「えぇーどうして?」
「行けるわけないじゃないですか」
そう伝えたはずなのに、それがどうして、その後も理由をつけては毎朝訪ねてくるようになった。
「朝はビシュナルくんの顔を見ないと始まらないんだよね」
なんて言って、僕のベッドに無防備に転がっては「ビシュナルくん、好きだよ」と、いたずらっぽく囁くのだ。さして驚きはしない、彼女の口癖のようなものだから。
それに彼女が結婚する前は、僕たちは付き合っていた。同時に彼女は現在の夫とも付き合っていたが、それは向こうはもちろん、町中が知っていたことだ。今さら良いとか悪いとか、蒸し返すこともない。
ただ、今はもうその時と同じようにというわけにはいかない。彼女はもう、生涯一人を伴侶とし、愛することを誓ったのだから。
「結婚してるのにそういうことを言うのはよくないと思います」
同じことを何度言っただろうか。それでも続けるとはいい加減、何を求められているのか目的がわからない。
「どうしてそんなことを言うんですか?」
もう別れたのに。結婚しているのに。
「本当に好きだから」
「……本当って、一番じゃなかったじゃないですか」
左手の結婚指輪が主張する、彼女の一番好きな人。
「だって、あの人には私が必要だから」
なにが"だって"なのか。彼女に僕は必要じゃなかったのだろうか。それなら尚更どうして、こんなことを続けるのだろう。また泣いてしまう、きっともう涙目だろう。泣かない特訓をしようとしたこともあったけれど、どうしていいのかわからなかった。
「……僕は姫が一番好きでした。僕だって姫が必要でしたよ」
「必要なら、ここにいるよ」
そう言って彼女が手を引いて、僕の顔にその顔を近づける。
「ダメです! やめてください」
何をしようとしているのかわかって、空いている手で慌てて自分の口を塞ぐ。付き合っていた時は何度も重ねた唇が、今は越えてはいけない一線だと思ったから。彼女がふっと、悲しそうな表情をしたことに胸が痛む。
「違うんです……。もうやめましょう」
涙をこぼし、消え入りそうな声で言う情けない僕の頭を、彼女がそっと撫でる。結婚指輪を着けた手で。