恋も知らない 或る、晴れた夏の日の終わりのことだ。
ひとりの女が死んだ。四皇の娘だという女は、飢えや苦しみ、海賊や天竜人への恐怖、救いの見えない生活すべてからの救済を高らかに歌い、夢のような世界へ人々を誘った。そうして水平線の向こう側へと沈みゆく夕陽に照らされながら、身に余る力を行使した代償として父の腕の中で静かに眠りについた。
ローが彼女の世界から目覚め、ぼんやりと真っ赤に燃える太陽に目を細めていると、赤髪海賊団大頭が幹部と共に、腕にか細い少女の躯を抱きかかえてレッドフォース号へと戻っていく後姿が目に入った。
彼女の世界で、彼女はこれ以上ないほど鮮烈に輝いていた。天使の歌声は確かに民衆を鼓舞し、癒す。捻くれ者のクソガキと評されるローの心をも、ほんの少しだけ高揚させた。理想は共感できた。苦しみも悲しみもない、平等で自由で楽しい世界。そんな世界で生きられたなら、どんなにか幸せなことだろう。
だが、彼女の世界はあくまで彼女のもの。そして民衆は、彼女が思い描いていたほど純真で、正直で、嘘偽りのない生きものではない。完全なる意思の一致などありえない。ありえないからこそ、彼女はすべてをもの言わぬおもちゃに変えた。それは悪意の深さこそ決定的に異なるとはいえ、海中深くに投獄されている一人の男を彷彿とさせる所業だった。だからこそというわけではないが、ローは彼女に抗わなければならないと感じた。この世に自由も平等もない。生まれながらの貧富、世界を牛耳る世界貴族、権力の前に無力な海軍。そして虐げられた弱者から虐げる者が生まれる。横行する海賊の蛮行。嘆きはなにも救わない。けれど、彼女の庇護する世界では、ローはローでいられない。彼女の世界は死の世界だ。悲しみもないけれど、永遠に成長することなく、変革を叫ぶこともできない。
世界人口の七割を喪ったとて、世界の根幹は変わらないままだ。ならば少女の犠牲は全くの無為だ。医者として、自分の命を擲つ行為は看過できない。
だが、結局彼女の命の灯は消えてしまった。間に合わなかった。そして自分たちはきっと、最後の最後、彼女に救われた。安らかな子守唄の旋律が、まだ耳の奥に残っている。恐怖や絶望に飲み込まれた自分たちを導く、優しい歌声が。
「死んじまったよ」
「……コラさん」
振り返ると、鮮やかな夕陽に照らされて金髪を赤く染めた男……コラソンが静かに立っていた。赤い宝石のような瞳が、ローが先ほどまで見ていた方角へと向けられる。逆光を受けて黒く染まる人影と船体に、その人はむすりと口を曲げ、そうして静かに息を吐いた。
「間に合わなかった。ダメだなァ、女の子一人、助けられないなんて」
挙句の果てに、と男は続け、そうして数度頭を横に振った。
「市民をいたずらに傷つけて海賊に諫められるなんてもう、世も末だぜ」
掌で顔を覆う。そうして数度の深呼吸の後、胸ポケットから潰れた煙草ケースを取り出すと、底をトントンと軽く打ち付けて一本取り出した。
「火傷すんなよ」
銀色のジッポをローが取り出す。シュボッ、と鈍い音と共に生まれた青色の火に、コラソンが咥えた煙草の先を近づける。
「おれがもう少し早く気付けていたなら、お前たちを危険な目にあわせずに済んだってのに」
紫煙を吐き出しながら、コラソンは起きたベポの腹毛をわしわしと撫でている。ベポもまた、消えゆく赤髪海賊団を見送り、ぐすんと小さく鼻を啜った。
「過ぎたことを言っても仕方ねェ。実際アンタがたまたま“凪”を張れたのだって奇跡みてェなもんだ」
「そうだけどよ……」
男はナギナギの実の能力者だった。自身や対象から生ずる“音”を消す能力は、ウタウタの能力者にとってまさに天敵だ。夢の世界で彼の姿が見えなかったことからもしやと思っていたが、ライヴの直前に電話だと言ってローの傍を離れていた彼は喧騒を嫌って周囲の音を遮断していたらしい。
「そういえばコラさんは起きてたんでしょ、何してたの」
ベポがようやく海から視線を戻した。ぎくり、とコラソンの肩が跳ねる。
「ベポ。コビーとかいう海兵が言っていただろ。眠った人間を操るって。それに下のあの有り様……ずいぶんこっちでも大暴れしたようだな」
「いやあ……ははは」
観客席や浮島にいたはずの市民の一部が埠頭に集まって崩れ落ちていた。その合間を忙しなく動いているのは十字を背負った医療部隊たちだ。彼らは怪我をした海兵や市民の救護に当たっているようだった。
「大方、赤犬の指示だろう。ヤツの言う“徹底的な正義”に、巻き込まれた民衆は勘定に入っていない」
無実の民衆に、正義であるはずの海兵が銃口を向ける。かつての故郷を襲った光景がフラッシュバックする。こめかみに冷たい汗がにじんだ。帽子の唾を下げ、チッと一つ舌打ちをしてコラソンに向き直った。
「アンタは少しくらい抵抗しろ。ったく、診せてみろ……全身打撲に軽度の裂傷、足首捻挫ァ?」
「ハハ……ドジって転んじまった」
頬を赤く腫らしたコラソンが笑ったあとにイテテ、と顔を顰める。全身を軽くスキャンして診れば、重傷とは言わないがそこそこの怪我の部類だった。ローたちも夢の世界の激闘の疲れが身体に重く圧し掛かってきていた。
「……海軍がこれ以上くる前におれたちもずらかるぞ。ベポ、ペンギンたちに連絡を取れ!」
「アイアイ!」
全世界へと中継されていたウタのライヴを、ポーラータング号に残っていたクルーたちもしっかり見てしまっていたらしい。寝惚け眼のペンギンたちを叩き起こし、沖まで近づかせシャンブルズで移動する。ワッと近寄ってくるクルーたちをいなしながら、医務室で当座の応急手当を終えたあとは自室のベッドに横たわり瞼を閉じた。
あの世界ではパラミシア系の……それもローやあの緑のサイファーポールのような、空間転移系の能力は著しく体力を消耗するようだった。あの“世界”は彼女が歌で創りあげたものだった。ローたちのような移動能力はそんな“世界”を根本から捻じ曲げ、創り変えてしまうものだ。ならば能力を使う度にごっそりと体力を持っていかれるあの疲労感を、彼女もまた感じていたのだとしたら。
『みんな言ってたじゃない、楽しい、苦しみのない世界に行きたいって!』
ただの願望だ。叶うはずのない、叶えるつもりもない他愛のない望み。あーあ、働きたくないな。学校に行きたくないな。空から百万ベリーが降ってこないかな。友達や家族でじゃれ合う話の種。海賊が憎い。助けてくれない海軍が憎い。だがそれは、ウタの創り出した世界に逃避したいとは単純なイコールで繋がるものではない。それを彼女は知らなかった。たった二人しか存在しない国で、誰とも交流せずに成長してしまった彼女には。
あまりにも無知で、無垢だった。赤髪の至宝はまさに、世の穢れから隔絶された純粋な玉だった。だからこそ凶行に走り、命を燃やし尽くして歌った。それは、エレジアを滅ぼした自分への贖罪もあったのだろう。
──無辜の人々を殺害した罪は、楽園を永遠に閉じることで贖える。
憎んだ相手は自分の罪を被っただけだった。
嫌いになったかな。嫌いになったよね。もう赤髪海賊団の音楽家だなんて、名乗れないね。
──もう、シャンクスは娘だなんて思ってないよね。
おれがへまをしなければ。ヴェルゴなんかに密書を渡さなければ。いいや、コラさんのもとへ連れて行かなければ。
愛してるって。嫌われたくなかったって。おれもだ。おれもだよ。知ってたのに、あんたが海兵だって、とっくに知っていたのに。
あんたに生かされたこの命は、あんたの本懐のために使おう。世界を変えよう。“D”の意思を、あんたが望む変革を起こそう。
『それが唯一、おれ(わたし)にできる贖罪だから』
「なあに考えてるんだ? クソガキさん」
「……コラさん」
海軍の目から逃れるために海中深くに沈んだ船内は、空気を循環させる機材の音が絶え間なく響いている。もう耳にすっかり馴染んだ音がピタリと止み、代わりに静寂が落ちる。ベッドのすぐそばに、白いツナギに着替えたコラソンが立っていた。普段赤いコイフを被っている頭には、ぴっちりと巻かれた包帯の白が目立っている。
「おれたちには“とっとと休め”で、お前はなんだ? 眠りもしないで」
「……瞼を閉じているだけでも休息にはなる。コラさんこそどうしたんだ」
ベッドから身を起こし身体を横に寄せる。空いたスペースにコラソンが腰かけると、ほら、と瓶を渡された。
「ガス入りだけど」
「悪くない」
冷えた炭酸水を口に含む。同じように瓶の蓋を開けようとしたコラソンがシャンパンのように蓋を天井に飛ばしたのを能力で手中に収める。電灯はもう二度取り替えている。これ以上の損失は彼の支給分から差っ引かなければならない。
「それで、なに考えてた?」
「……今日のこと」
身を屈めてもなおローよりはるかに上背のある男が、悲しげに眉を下げた。
「ああ、別にフレバンスを思い出してたわけじゃない。結果的に誰も死ななかったみたいだしな」
「赤髪の奴らのおかげだな、それは。そうじゃなかったら、あの埠頭に呼び寄せられた市民のほとんどは死んでいただろう」
大将黄猿はその点容赦ないから、と自嘲したような笑みを浮かべ、コラソンが水をやけっぱちの様に呷る。
「ゲホッ!ェほっ、ゴホッ……! あ、穴間違えた……!」
そして炭酸水で噎せた。
「なにやってんだアンタは……!」
「、りィ……!」
背中を撫でる。その鍛え上げられた広背筋が、青黒く染まっていることを知っている。眠り、操られたローが鬼哭で強かに打った痕だ。
「……痛むだろ。これ」
そっと背に置いた手に、コラソンがちらりと視線を向ける。ポリポリと頬を掻いたあと、ふるふると首を振った。
「ま、そりゃな。けど大丈夫だ。痛くもなんともねェよ」
「矛盾してンだろ」
「ハハッ! お前も、いずれわかる日が来る」
コラソンの大きな手が、ローの空いた手を取って握り込んだ。少しだけかさついた、暖かな掌の温もり。
「痛くもなんともない。てめェの大事なガキの拳なんてな、そいつの痛みに比べたら、全然どうってことねェんだ」
「…… ……」
痛かったらいい。苦しかったらいい。自分がいなくなったあと、その痛みや苦しみを思い出して、そのついでに自分を思ってくれたらいい。
「……アンタたちって、本当……質が悪ィよ……」
幼馴染だという少女を喪った麦わら屋は今頃どうしているだろう。彼女の拳を受けてなお、手を出さなかったあの少年は。
「赤髪もな、きっとそうだったよ」
痛くなんてなかった。苦しくなんてなかった。孤独と失望に生きた彼女の十二年を思えば、殴られたって、刺されたって、そんなものは苦しみにもならない。
「彼女は笑っていたよ。父親の腕の中で、安心したように笑っていた」
夢の中で聞こえた子守唄を、コラソンも現実世界で聞いていた。その歌が聞こえると同時に、刀を抜いて斬りかかる直前だったローの身体がガクンと頽れ、コラソンの腕の中に納まった。その表情があんまりにも幼い、かつての寝顔にそっくりだったから、コラソンはそんな状況ではないにも関わらず思わず笑ってしまった。
「お前たちが幸せであってくれたらと願うよ。おれたちのことなんてきれいさっぱり忘れて、そうして幸せになってほしい。きっと赤髪も、そう思っていたんじゃないかな」
「……そうだとしたらアンタらはとんだ大馬鹿野郎だ。忘れて生きるだなんて、それこそ幸せとは正反対のものだ」
「ええ~……」
握られた手の上からもう片方の手を重ねる。かつては氷のように冷え切っていたその肌は温かく、トクトクと確かに脈打っていた。
「答えはもっと単純だ。傷ついたっていい。苦しんだっていい。コラさんとずっと一緒にいられたら、それでよかったんだ……」
たとえ贖いきれない罪を背負っていたとしても。その罪過に苛まれて苦しんだとしても。父が傍にいてくれたらそれでよかった。今日と同じように、娘だとそう言って──抱きしめてくれたらよかったんだ。
「……ま、アンタはおれの父親じゃねえが」
胸に抱きつき、もぞりと手を尻に這わせる。
「コラっ!」
「いいだろ。今日ぐらい昔のように抱いて眠ってくれ」
「尻を揉むな尻を!」
「安眠できんだよ、ケチケチすんな尻くらい」
「なんか怖ェ~ンだよお前の目がァ!」
無音のサークルの中でドタバタと互いの身体が前後する。だがこちとら十億をゆうに超える賞金首なのだ。一メートル近く大きな身体を抑え込み、腰を抱いてベッドに横たわる。
「子守唄歌ってくれ」
「ええ、ワガママ世界チャンピオンかよお前……」
口ではそう言いつつも、コラソンの唇が静かに動く。低く響く声が紡ぐ歌に身を任せ、瞼を閉じた。
痛みも苦しみも生きているから感じるのだ。その苦しみから解放された彼女はすべてのしがらみを取り払い、今度こそ自由に歌っているといい。彼女の歌は滅びることなく、この世界の風に乗ってどこまでもどこまでも、世界の果てへ、海の底へまでも届くのだから。