いわゆる共依存の初詣仕草について コタツでミカンを食べながら紅白を見ていたら、いつの間にか向かい側で傑がウトウトしていた。傑の飲みかけている酎ハイの缶は、暖房の効いた部屋の空気で温まってしまっている。「これまだ飲むの」と声を掛けると、傑は「んー」と飲むとも飲まないともとれる声を上げた。それから、開いてるのか開いてないのかよくわからない目をしたまま「ぬるーい」と言いつつ酎ハイを飲み干した。ほろ酔いの傑はいつもより幼い感じでかわいい。
辛うじて年を越さずに飲み干された缶を握ったまま、傑が「あけましておめでとう」とふにゃふにゃした声で言う。年越しの瞬間は一緒にジャンプしようとか言っていたのに、結局だらだらとコタツで向かい合ったままだ。でも触れあった足先で傑の体温を感じつつ、ほろ酔いでいつもより緩い顔で笑っている傑を見ながら年を越すのは、一緒にジャンプするのより幸せをじっくり感じられる気がした。
一緒に暮らすようになって初めての年越しは、想像よりずっと穏やかだ。幸せ過ぎて、思い付きで「これから初詣に行こうよ」と深く考えずに口に出してしまうくらいに。傑は一瞬、本当に一瞬だけためらってから「いいね。行こうか」と立ち上がった。その一瞬のためらいが、傑は間違いなく俺の知っている夏油傑なのだと、俺に教えてくれる。
「ほら、あったかくして行かないと」
今ので酔いが覚めたのか、傑は全くいつも通りの調子でダウンジャケットを投げてよこした。ためらったのに気づかせないよう傑が振舞うのは、傑もこの穏やかな年越しの夜をまだ終わらせたくない証拠だ。だから俺は、初詣やっぱりやめとこうと言うのをやめた。傑のためらいには気づかなかったことにしてダウンジャケットに袖を通す。
テレビを消して振り返ると、傑はもう靴を履いていた。やっぱりまだ酔いが醒めたわけではないのだろう。いつもならテレビを消すのは傑だし、リビングの電気をつけっぱなしなのをチクチク指摘されるのに、そんなことは気にせず「悟ぅー早くー」と間延びした声で俺を呼んでいる。俺は急いで靴を履いた。俺はもう二度と置いていかれたくはない。
歩いて二十分ほどの神社はそんなに有名なわけではないけれど、参道には人がひしめき合っていた。参拝の列の最後尾に並んだ次の瞬間には、もう後ろに人が連なっていく。前も後ろも、隣の人とも距離が近くて、傑の顔が強張っている。
傑は人に触れるのを極端に嫌がる。傑本人にも、理由はよくわからないらしい。その人が家族か他人かとか、男か女かとか、子供か老人かとか、そんな属性は無関係に、とにかく自分以外の人間を生理的に嫌悪してしまう。触れるのも触れられるのも気持ちが悪い。まるで言葉の通じない獣――猿かなにかのように思えてしまう。親ですらそうだったのだから育てるのに苦労しただろうね、といつだったか傑が言っていた。思いつめた顔をしていた。理由のわからない嫌悪感に、傑がどれだけ振り回されてきたのか、困難な道を歩んできたのか、容易に想像できた。
そんな傑が唯一、一切の嫌悪感無く触れることのできる人間が俺だったというわけだ。傑は、それがどうしてなのか、他の人間と何がどう具体的に違うのか、何もわからないと言う。俺はそういう時は大抵「愛の力に決まってるでしょ」と、冗談と本気を半分ずつ混ぜて傑に言い聞かせる。多分どこかに、俺以外にも傑が嫌悪感無く触れられる人間がいるのだろうが、傑はそんなこと一生気づかなくていい。せっかく呪力も呪霊も無い世界に生まれたのだから、嫌悪感の正体を思い出す必要なんて無い。
「傑、手繋ごうよ」
傑の返事を聞く前に、俺は上着のポケットに突っ込まれていた傑の手を引っ張り出す。傑は「こら、人に見られるだろ」と口では言うものの、手が振り払われることは無かった。
「誰も見てない。てか、これだけ人でぎゅうぎゅうなんだから、手繋いでんのかなんて見えないでしょ」
「まあ、確かにね……境内、薄暗いし、ね」
それは言い訳のような、自分に言い聞かせるような、そんな風に聞こえた。
「ここにさ、全部の神経集中させてよ。俺にだけ意識向けててよ。ね?」
そう言って繋いだ手に力を込める。傑の手がぎゅっと縋りついてくる。繋いだ手だけに意識を向けて、必死に周囲の人間のことなんか忘れようとしている。なんだか傑が、弱い生き物になったみたいだ。傑は全然弱くなんかないのに。身長は日本人男性の平均身長より10センチ以上高いし、格闘技が好きでそれなりに鍛えているし、本気で怒っている時は過去に一人くらい殺してるかもって顔をしたりもする。フィジカル面だけ強いわけではなく、世渡りだってうまい方だ。人たらしなのは、他人に対して嫌悪感があるせいで、トラブルをいくつも乗り越えていっている内に、そういうスキルが身に付いたらしい。
なのに、俺の前では急に、私は悟無しでは生きて行けないみたいな顔をする。それが堪らなくて、俺はますます傑が俺に依存するように仕向けたくなる。だから、
「これからもずっーと、一生、永遠に、傑と一緒にいられますように」
と、傑に聞こえるようわざと声に出してお詣りをした。隣で神妙な様子で手を合わせていた傑が、唖然とした顔をこちらに向けた。笑いかけると、はっと我に返った傑が、俺の手をとって歩き出した。引きずられるように、本殿をあとにする。お詣りするあいだ離れていた手が再び繋がることになって嬉しい。しかも今度は傑自ら繋いでくれた。
「いいかい悟」
人波に流されるまま、今度はおみくじを引く人の列に並んだ。
「傑の言いたいことはわかってるって。お願い事は口に出すな。だろ」
「わかってるなら心の中で言いな。それに、まずは神様に住所と名前を告げて自分がどこの誰なのかを明らかにし、それから無事に新年を迎えられたことに感謝を捧げるのが先だろ」と、やけに早口で捲し立てる傑の耳が赤かった。明らかに、寒さのせいだけではないはずだ。
本音では「めんどくさ」と笑い飛ばしたい。けれど、照れ隠しに早口になっている傑が面白かったから「絶対叶わないといけないお願いだから、今度からそうする」なんて言って、どれだけ傑と一緒にいたいのかをアピールする方向に舵を切った。
そもそも、口に出したのはわざとだ。さらに言うなら、あれはお願い事なんかではない。決定事項であり、傑を縛る鎖でもある。万が一、傑が俺を置いて何処かへ行こうなどと考えるようなことがあった時に、傑が罪悪感を覚えて、そんな馬鹿な考えをやめるようにするためだ。俺はもう二度と置いて行かれたくはない。
「お、傑も大吉じゃん」
「悟も大吉か」
「ええと、なになに……ふうん、傑のやつ良いことばっかり書いてあんじゃん」
おみくじは二人とも大吉だった。境内の隅っこの、人が少ないところに移動して、おみくじを交換してお互いに書いてあることを見せ合う。傑のおみくじは『願望 必ず叶う』とか『待人 慶びを持ってくる』とか、良いことばかり書いてある。ただし恋愛についてだけはちょっと違った。
「恋愛……愛情を信じ迷わず愛し抜きなさい。だってさ。ははっ、神様わかってんじゃん」
「神様に対して上から目線が過ぎる」
「信じていいからね」
「なにを」
「俺の傑に対する愛情に決まってんでしょ」
「どうやって君の愛情を疑えって言うんだい。疑う余地なんか無いだろ」
その返答は、俺を非常に満足させた。今すぐ抱きしめてキスしたいけれど、さすがに怒られそうだから、傑の腰に腕を回すだけに留めた。もしかするとそれも振り払われるかもと思ったけれど、それどころか傑は俺に体を寄せてきた。やっぱりまだ酔っているのか。それともさっきのお詣りが効いたのだろうか。
「ねえ、俺のも読んでよ。恋愛のとこ、面白いこと書いてあるから」
ほら、と指さした先を見て、傑がふふっと小さく笑う。
「本当だ。一線を越えるな、だって。あーあ、どうしようか」
「どうするもこうするも。多分これはあれだろ」
「あれって?」
「犯罪はやめとけって意味」
「はあ?」
「外でヤるなよとか、そういうのだろ。多分。満員電車で痴漢ごっことか、車の中とかは、一歩間違えればお縄だからやめなさいってわけよ」
「一線を越えるなってそっち……なわけないだろ。だいたい、神様がそんなことをおみくじで伝えるはず……ない、し」
傑の声がだんだん小さくなっていったのは、恐らく去年の秋にベランダで立ちバックしたこととか、部屋まで我慢できずにマンションの駐車場の車の中で口でしたこととか、あれとかそれとかを思い出したからだろう。思い当たる節があり過ぎて、的確すぎる神様からのアドバイスがちょっと怖い。
傑は一つ咳払いをすると、はあ全く君ってやつは、とぼやきながら、俺のおみくじを返してきた。
紐におみくじを結つける傑の後ろで、俺はもう一度自分のおみくじに目を落とした。
『願望 思いのまま叶うしかし油断すれば破れる』
お詣りの時に口に出さずに願った――傑が前世を思い出しませんように――という切実な願い事が頭を過った。こっちは本気の願い事で、傑に教えることはもちろん、口に出すこともこの先無いだろう。
傑が前世を全て思い出したら、傑は俺を置いて消えるとしか思えない。傑のことだからきっと、前世であんなに人を殺したのに幸せになる資格なんか無いとか言い出して、行方をくらますのだろう。今生で傑を探し回り出会うまで十五年。同じ高校に進学し、クラスメイトから親友、猛アタックの末に恋人になり、同居を始めるまでさらに九年。もう傑のいない人生なんてありえない。俺はもう二度と置いていかれたくはない。
帰り道も参拝客で混雑していた。どちらからともなく手を繋いだ。これが、正月の浮かれた気分がそうさせたのだ、と言えればいいのにと少しだけ思った。
傑は繋いだ手だけに意識を向けるため。俺はもう二度と置いていかれないため。
なんとなく、黙ったまま歩いた。だんだん人通りが少なくなってきたとき、不意に傑が口を開いた。
「悟は私の前でだけ、一人称『俺』だよね。一人称を『僕』か『私』にしなって君に言ったのは、いつだったっけ……」
今生じゃない。前世だよ。とはもちろん言わずに、繋いだ手に力を込めた。こうやって、前世の傑の魂と今の傑の魂が同じなのだと実感するのが、嬉しくて、同時に恐ろしい。
俺のねがいごとは思いのまま叶うし、油断なんてするはずない。繋いだ手は、二度と話さない。
どうか、どうか、今年も傑が前世を思い出しませんように。