無垢と欲 たまに、本当にたまにだけど先生の反応にどうしたらいいか困ることがある。
「よく好きな子のこと目に入れても痛くないとか食べちゃいたいぐらい可愛いって言うけど大げさじゃない? なんて思ってたんだけどさ、悠仁のこと好きになってからその気持ち分かるようになっちゃった」
そう言いながら先生は苦しくなるぐらいに背中から俺を抱きしめて、犬がじゃれつくみたいに耳を甘噛みしてきた。噛まれた耳の縁からぞくぞくとした感触が首筋から背中に走って、思わず俺は肩を竦めて振り返った。
「ちょ──っ! せんせ、それやめてよ。こちょばったいから」
「コチョバ……? 何それ」
くすくす笑う先生の声が一段と甘く溶けて聞こえて、俺は嫌な予感を感じながら恐る恐る口を開く。
「……えーと、あの……俺の地元でくすぐったいって意味のこ──うわっ!」
俺が言い終わる前に先生は俺を抱きしめる腕の力を強めて、俺の肩に顔を埋めると肩口に歯を立てた。
「何で噛むの?」
「悠仁が可愛すぎるから、つい」
「それ赤ちゃんと同じだよ。赤ちゃんって何にも知らないから触って口に入れてどんな味がすんのか試すの。先生ってでっかい赤ちゃんだったんだね」
嫌味のつもりで言ったのに先生は少し考えたあと、何故か満足げに笑って俺の頬にキスをした。
「そうだね。僕は赤ちゃん。だから悠仁が初めてのこといろいろ教えてよ」
そう言うと俺を抱きしめていた先生の腕が緩んで、俺の顎を掬うようにして自分の方へと振り向かせた。目の前にある先生の顔はキスをねだるように瞼を閉じていた。睫毛が長くて女の子みたいに整った顔立ちをしてるのに、頬に丸みはなくて顎がしっかりとした輪郭は男らしい。
大人のくせに。
何でも知ってるくせに。
俺じゃない誰かに何人も甘えたくせに。
見え透いた嘘を楽しめる余裕なんか俺にはない。けれど先生は楽しんでる。この状況を──俺のみみっちい嫉妬とかためらいとか全部含めて。
そう思ったら何だか悔しくなって、俺は先生の形の良い唇を舌でなぞってみた。ガキじみた意趣返しだけど、少しくらい先生の余裕を崩してみたかった。
先生は少しびっくりしたみたいで閉じていた目を見開いた後、楽しげに眦を下げて俺の舌の裏をちろりと舐めた。
「キスして欲しかったんだけどなぁ」
「知ってるなら教えなくていいじゃん」
「分かんないよ。悠仁から悠仁のやり方で僕に教えてよ。……どんなキスが気持ちいいか」
何もかも知ってるくせに、先生はときどきこうやってとぼけてはぐらかして俺を放り投げて俺を試す。その度に取ってこいとボールを投げられた犬みたいに、俺は先生がどうして欲しいか、何をして欲しいか汲み取って見せて自分の心の在り方を先生に証明してみせる。
本当に、ずるい。試されるみたいで腹が立つ気持ちもあるのに、それでも嬉しそうな先生の顔を見ると許してしまう。
不安なのは俺だけじゃないんだと、先生の弱さを見て安心する俺も先生と同じくらい──もしかしたら先生よりもずっとずるい。
自分を赤ちゃんだと言い張る先生に、先生から教えてもらったこと全部で愛情を伝えて伝えられて、汚れたシーツを剥ぎ取った布団の上で眠り込む。
夜中ふと目が覚めた時にそばで聞こえる小さな寝息がこんなにも胸を振るわせるなんて俺は知らなかった。
布団の上に投げ出されている先生の大きな手のひらをそっと手に取って、先生に気づかれないように恐々とその人差し指に歯を立てた。胸が張り裂けそうなくらいに鼓動が高鳴る。
起きて、先生。
気づかないで、先生。
相反する願望が自分の中で暴れ回って息が苦しくて、胸が苦しくて、たまらない。
ああ、どうしたらこの人に俺の全部を伝えられるんだろう。