おもてなし「三日後に、客が来る」
この館の主であり、リツカが仕える男から、珍しい言葉が紡がれた。
いつもならば、そういった彼の予定的なモノは執事であるアーチャーが担当しており、彼の起床時間前にまずリツカにそういった予定を告げてくる。そしてその予定をリツカは寝ぼけ眼の彼に伝えて、いつもの『目覚めの一杯』を捧げるのだが。
もう随分と見慣れてしまった天井すらも豪奢なその一室。
ふかふかと肌触り、手触りがとてもよい寝台。
そして、赤い目をした野性的であり整った顔立ちをした男に押し倒されながら、リツカはなんとかその言葉を脳内へ巡らせる。
べろり、と。男に吸われた首筋を舐められて、びくりと身体が震える。そこでようやく、言葉を飲み込むことができた。
「え、じゃあ、準備、しないと」
「待て待て、たしかに客人を迎えるのならば必要なことだが、これからお前がするのはメイドの仕事じゃない」
慌てて力の入らない身体を動かそうとすれば、男からはやんわりと。しかししっかりとベッドに押しとどめられてしまう。
「でも」
「今度来る客はちっと特別でな」
言い募るリツカに、男は困ったような、苦いような。あまりしない顔を向けてくる。そのことに少々驚きながらも、彼の『特別』という言葉を、リツカは反芻した。
「はじめまして。ここはクー・フーリンの館で合っていますか?」
「は、はい」
目の前には、美女が立っていた。
白を基調としたドレスに身を包んだ、たおやかな女性。
赤みを帯びた髪は長く艶やかで、その髪と似た瞳は嬉しそうに楽しそうに笑みを作っている。
そう、そんな美女が目の前にいる。
先程まで、誰一人としていなかった、屋敷の玄関ホールに。
まさに忽然と、いつの間にか立っていたのだ。
「もしや、本日のお客様の――」
「ふふ。ええ! 久しぶりなものだから、つい気が逸って来てしまいました」
にこにこと、そしてうきうきと。そんな浮かれたような様子の彼女を見ながら、なんとか失礼のないように、とリツカは今まで培ってきたメイドの作法を総動員させる。
「申し訳ありません。現在主は席を外しておりまして――わたくしが一度客間にご案内させて頂いてよろしいでしょうか?」
お仕着せのメイド服のスカートをつまんで、丁寧にお辞儀。ここ数日で特に勉強したマナーのひとつである。
「こちらこそ。いきなり押しかけてしまってすみません。おねがいできますか?」
「はい」
リツカの言葉に、美女はとくに気にした様子も無く頷いてくれる。
そのことにほっとしつつ、それを顔に出さないように必死だ。
「それにしても、まさかあのアーチャー以外にも使用人がいるなんて思いませんでした」
「数年前に、拾って頂きまして」
客間への道すがら。美女はにこにことした笑みを崩さずに、リツカにいろんなことを聞いてきた。
家族のこと。
この屋敷に勤めて何年なのか。
居心地はどうか。
屋敷の者との付き合いはどうか。
そのひとつひとつに、失礼のないようにリツカは答えていく。
「よかったら、お茶を飲みながらもっと詳しく聞かせてくれませんか?」
「えっ」
客間に到着したあとも、美女からの質問攻めは止まらない。できることならお茶を出した後に上手い具合に離れられないかと考えたが、さすがにお客様ひとりを客間に置いたまま、なんてこともできない。本来ならばアーチャーのような人間が適度にお話をしたり、場合によっては館を案内したり、というようなおもてなしをするのが良いのだけれど。
現在、そのアーチャーも、館の主であるランサーも、『お客様』を迎えに外に出ているのだ。
「ですが――」
「いいのです。私がしたいのですから」
にっこりと。これまた美女は美しく微笑む。
その口元に小さく見えた犬歯は、つまり彼女もまた、主と同じ一族ということを示していた。
そして彼らは――特に、クー・フーリンに連なる彼らは、妙に押しが強いことを、リツカは経験上知っていた。
この屋敷に、そういった親類の方々がいらっしゃるのは初めてではない。
少し前には、主の兄弟である方々も顔を出してきたほどだ。
だから、こういった流れには、多少耐性がついている。
「では、お言葉に甘えまして……」
「ふふ! お礼はこちらの台詞ですよ」
そうして、謎の美女へのおもてなしがはじまった。
そういえば、彼女はなんなのだろう。
ひとしきり彼女からの質問に答え終えて、リツカはようやくそのことに行き当たる。
ランサー……この屋敷の主であるクー・フーリンは、特別な客人である方を迎えに、現在屋敷を出ている。今までに客人はあれど、そうやって迎える、ということ自体は、リツカが知る中で初めてであった。
(たしか、ランサーのお父様の、育てのお父様、という話だったはず)
今夜の客人は、ランサーがときどき嫌そうな顔で零す「爺ども」とはまた違った方で、しかし頭の上がらなさはピカイチらしい。なので、三日前、その方から来訪を告げられたときに、リツカにもそのことを伝えてくれたのだ。
「じいさん、お前のことももう知っててな。まあ、ちゃんと紹介しろ、ってことらしい」
何とも言えない顔をして、ランサーはあの夜、リツカにそう告げた。
あとでアーチャーに聞いたら、昔、その方に対してちょっとやってしまったことがあったそうだ。
それ以来頭が上がらず、そのほかの客人にはしたことがない「迎え」をするようになった、と。
だから現在、屋敷には彼がいないし、主一人で客人を迎えさせる、というのも外聞が悪いため、それにアーチャーも同行している。そしてリツカはひとり、屋敷で待機――もとい、これから、その客人を迎えるために、彼が用意してくれたドレスを着る予定だったのだ。
今夜は、この屋敷のメイドとしてではなく、女主人として。
ランサーの妻として、その「おじいさま」に紹介したい。
――そう、言われてしまったら。リツカは断ることはできない。
用意されたドレスは、目の前の女性のような白を基調したもので、スカート部分のフリルからはオレンジの布地が見え隠れする、という、かわいらしいものだ。昨晩試しに着てみたら、やっぱりかわいくて、そして、自分でも「似合ってるかも」と思うぐらいにはぴったりなものだ。
しかしながら、仕方の無いこととはいえ時間が経ちすぎた。
突然現れた美女。おそらくその「おじいさま」の縁者であるということは間違いなさそうなので、メイドとしては間違ったことはしていない、という点は問題ないだろう。
ただ、彼に「紹介」してもらえるか。これがわからなくなった。
というか、メイド服を着た女を「妻だ」と紹介した場合、彼の名誉にも傷がつくのでは。
リツカとしては、その可能性のほうが耐えがたい。
この給仕を終えたら、今日は下がらせてもらおうか。
心の中でそんなことを思う。
そんな時だ。
「ねえ、リツカ。よかったらわたしのことを『おねえさま』って呼んでもらえないですか?」
「えっ」
いきなりの申し出に、さすがのリツカも目を瞠った。
目の前の美女は、座っていた席を離れてリツカのそばへと寄ってくる。
きらきらと、その瞳を輝かせて。
「し、しかし、」
「いいではないですか。こうしてお近づきになれたのです。ね?」
ぐいぐいくる。とってもぐいぐいくる。
いつのまにやらそのほっそりとした手でリツカの手は取られていて、まさに「おねがい」といった風情で、迫ってくる。
さすがに。
さすがにメイドの分際でそれはまずい。
世間に疎いという自覚はあるリツカだけれど、そのくらいは分別としてあるのだ。
けれどこの迫ってくる、美しい顔。嬉しそうな、わくわくしている顔。
これを、裏切れる自信が、ない……!
どうしよう、と。リツカの脳みそが対応にフル回転したとき。
「ようやく見つけたぞ! なんで先にこっちに来てるんだ、マナナンのじいさま!」
今まで見たこともないような様子で、ランサーが客間に飛び込んできた。
「つ、つまり、この方が」
「はい。ランサー……クー・フーリンの父であるルーの育ての親、マナナン・マク・リールです」
驚かせてごめんなさいね。
そう言いながらも楽しかった! という顔をしている女性は、そう、間違いなく女性だった。
白いドレスに包まれた胸元は見事な曲線を描いているし、声も、そして美しい顔も、どう見ても女性。
けれど彼女は、クー・フーリンの義理の祖父、と名乗るのだ。
「順を追って話す。とりあえず、もちろんじいさまも吸血鬼なんだが」
「それは、ええ、わかります」
「だよな。で、このじいさまはオレの一族の中でも古株でな」
頷いたリツカに、ランサーは手早く話を進めていく。
曰く、彼は古い血の吸血鬼で、その身体はすでに朽ちかけているのだそう。
曰く、しかし彼の血族の中から、ときどき彼と相性の良いものを選び、身体を借りることがある。
曰く、それが今回はまだ年若い女性吸血鬼だった。
「今まで散々いろんな見合いを蹴ってきた孫が、急に人間の女の子、しかもメイドに手を出したと聞いて、気が気ではなかったのです」
噂を聞いたマナナンは、すぐに詳細を調べ始めた。しかし話を調べていくと、どうもクー・フーリンは本気らしい。
本気で、しかも、自分の「運命の女(ファム・ファタール)」を見つけた。
「そんな子がどんな人間なのか――わたしは、会ってみたかったのです」
「だからってなあ……」
呆れた様子で、ランサーはため息を吐いた。
「いきなり現れて、根掘り葉掘り聞きやがって。もうちっと人間の流儀をだな……」
「そんなこと、あなたに言われたくありませんけどね」
ぶつくさ、と言った様子なランサーに、あくまでさらりと。けれどどこか含みを持たせて、マナナンは言う。
これがつまり、彼が以前なにか「やらかした」ことに繋がるのではないか。
リツカはちょっとだけ、聞いてみたくなる。
「それよりも! せっかくわたしが来るというのに、彼女にかわいいドレスを着せなくてどうするんですか!」
「そ、それは、」
いきなり矛先がリツカに向かってきたことで、弁明をしようと口を開くリツカ。
が。まさか貴方の相手をしていたので着替えることができませんでした。
なんて言うことはできない。
慌てることしか、リツカにはできない。
「ということで、こんなのはどうでしょう?」
「え、ひゃっ!?」
ぽふん、と。少々気が抜けるような音、そして煙幕のようなものがリツカを覆う。
その煙が晴れると――リツカは、ドレスに着替えていた。
「うんうん。とっても似合いますよ、リツカ」
「あ、ありがとうございます……」
ご機嫌なマナナンに、リツカはおっかなびっくり、自分が着ているドレスを見ようとすれば、これまた一瞬でマナナンが客間に大きな鏡を出してきた。
「わあ……!」
リツカの髪色に合わせてくれたのだろう。オレンジのドレスは、彼女に似合っていた。胸元には大きめの白いリボン、肩から背中は大きく開かれているが、短めのフリルスカートと黒いストッキングが、彼女の溌剌とした魅力を引き出しているようだった。しかも軽く化粧もしてくれている。どんな魔法だろうか。
「じいさま」
「あー、そうですね。はいはい」
けれど、どうやらランサーはそれが気に入らなかったらしい。
マナナンも少々先走り過ぎた、と気付いたのか、またすぐにぽふんという音と煙幕が張られたかと思うと、リツカはいつものメイド服へと戻っていた。
「こいつにはちゃんと用意してある。本来なら、じいさまを迎えに行ってる間に着替えてもらうつもりだったんだ」
「……なるほど」
バツが悪そうに、そのままソファへと沈んでいく。
しゅん。とした様子は、先程の浮かれ具合も考えると、とてもかわいそうに見えてしまう。
「マナナン様。お気遣いありがとうございます。また、何かの機会があれば、あのようなデザインのドレスを作ってみようかと思います」
「! ええ、そうしてくれると嬉しいです」
リツカが丁寧にお礼をすれば、これまたにっこりと、マナナンは笑った。
また来ますからね! そのときはお土産もいっぱい持ってきますからね!
数日後。そんな言葉を残して、マナナンは去って行った。
「嵐、みたいでしたね……」
「実際海の化身みたいなひとだからな」
永く生きる吸血鬼は、それこそその土地とつながり、超自然的な力を持つことも多いという。マナナンはその典型的な吸血鬼で、その力はまさしく海の如し。基本はおおらかでなんでも受け止めるような懐の深い吸血鬼らしいが、ひとたび怒れば、それは嵐の如く。
今回はまあ、怒るとは違った意味でテンションが上がっていたので、ということもありそうだったが。
「疲れただろ? 悪かったな」
「たしかにちょっとだけ。でも、楽しかったのも本当です」
数年前にランサーに拾われ、この屋敷で育ったリツカは、その前までにいた村のことはもうほとんど思い出せない。まだ村にいたときの年月よりもこの屋敷で過ごした時間の方が短くはあるけれど、それもあと数年で追い越すことになるだろう。
この屋敷が、ここで暮らすアーチャーとランサーが、自分の家であり、家族である。
リツカは、そんな気持ちでいる。
ただ、今までこの屋敷で「女性」に出会ったことや、「女性」に世話を焼かれたことがないため、マナナンの行動には驚いてしまったのだ。
「おじいさん、というお話でしたけど」
リツカ、きっとあなたにはこういう宝石が似合いますよ。
リツカ、一緒に夜の散歩をしましょう。
リツカ、このお菓子おいしいのですよ。え、あなたもアーチャーと一緒につくったのですか?
きらきらと瞳を輝かせる彼は、見た目のことも相俟って、ちょっと年上のお姉さん、ぐらいの印象なのだ。
「また、会えるのが楽しみです」
「……そうかよ」
リツカの嬉しそうな顔、そして、マナナンが帰ったあとの寂しさが、瞳に浮かんでいることに、ランサーは気付いていた。
「でもな? あんまりじいさんにかまってるとな?」
オレとしては、ちょっと納得いかないというかな?
少しばかり口を尖らせたランサーがリツカの肩を抱き寄せて、そんな言葉を囁いた。