跪け、と声が命令する。ルークのからだはそれに勝手に従った。はいつくばれ。お前の急所を晒せ。ぶざまに、みじめに、本能に従え。さあ喋れ。知っていることを洗いざらい吐け。
看守の重く、威圧的な視線はルークにとっては致命傷だ。それでもしらない、と絞り出す。彼のことは何も知らない。何も喋ることはない。本心からそう言う。
命令はただただ重く体にのしかかるだけで、ルークの何も満たしはしない。実際、ルークはSubであるけれど、特定のパートナーとプレイをしたことは一度もない。満たされたいと感じたことだってない。Domの命令に本能が従ったとしても、尊厳を汚すための眼光に晒されたとしても、その支配にすべてを奪われることはあり得ない。
緊張の糸が切れたのは、脱獄のしばらく後だった。ミカグラ島行きのチケットを握りしめ、SWAMの包囲を突破して、ただ一人の味方と古びたモーテルの一室に転がり込んだルークは文字通り床に座り込んだ。
「おい」
ベッドに行け、と声が降ってくる。優しくはないが、刺々しくもない。拷問を受け続けていたルークのことをある程度は気遣う気はある声色だ。そんなことに気がつく余裕もないままに、ルークは自分の体を抱きしめた。コートをぎゅっと、キツく掴む。歯がガタガタと震える。
「おい、ドギー?」
そこでルークの異変に気がついたらしい影が屈んで、顔を覗き込もうとしてくる。その手が恐ろしくて振り払いたいのに体は言うことを聞かない。ただ、縋るようにコートだけを握った。
「お前……Subか」
確信に満ちた言葉だった。そんなに、この状態はわかりやすいのだろうか。ほとんど回らない思考でルークは思う。懲罰房の暗闇で過ごしたときでさえこんなふうにならなかったのに、今は何もできない。何も成せない。どうしようもない。はく、と喉が震える。
「落ち着け。触るぞ」
アーロンはルークが反応できないことをわかっているように、ただ淡々と声をかけてきた。手を取られて、彼の手があたたかいこと――あるいは自分の手が氷のように冷え切っていることに気がつく。白くなるまで握り締められていた指をゆっくりほどかれる。褐色の手はただただあたたかくてやさしい。
アーロンは黙ったまま、ルークと同じように汚れた床に座り込んで手を握ってくる。いくらかあたたまったところで、もう片方の手も。浅く荒くなっていた息もだんだんと落ち着いてくる。
「ぁ……」
アーロン、と彼の名を呼んでみたくてもまだうまく声が出ない。もう大丈夫、というのは嘘だと自分でもわかった。「黙ってていい」かたちにならない声にアーロンは丁寧に応える。
「手は動かせるか」
頷く代わりに、ルークは固まった指をどうにか動かした。
「イエスなら今みたいにしろ。できるか」
また指を、褐色のそれを握るように動かす。「いい子だ」多分、意識的にだろう。アーロンに褒められてホッとする。彼はDomなんだろう、とルークはようやく気づいた。だから落ちたルークの状態にも心当たりがあるのか。
欲求が強くはないどころか、ほぼなかったルークはアーロンの言葉に安心する自分を訝しく感じたが、それ以上は深く考えられなかった。かわりにアーロンの言葉が思考を拾い上げてくる。
「こうなるのは初めてか」
指を動かす。
「薬を飲んだことは?」
何もしない。これまでルークに抑制剤は必要なかった。
「プレイの経験は」
動かさない。したいと渇望したことはない。そう思うと、あの一方的な命令がある意味はじめてのプレイだったのかもしれない。SubとDomの間のコミュニケーションという意味では。
「……オーケー。手以外は触っても平気か」
考えるより先に、ルークはアーロンの手を握っていた。ぎゅっと強く、指以外は力が入らないくせにそこだけは壊れたみたいに動く。離したくない。離してほしくない。行かないでほしい。
アーロンは目を丸くしたが、顔を伏せたままのルークには分からなかった。ただ彼はルークの指の力が弱まるのを待って、それから背中に手を回してくる。脇の下から片腕でひょいと抱え上げられたと思うと、ルークは気づけばベッドの上に移動していた。すこし湿っぽいにおいがするシーツだ。ちゃんと干していないのか、乾燥機がまともじゃないのか。
「コート脱ぐか」
尋ねられて、ルークはようやくアーロンを見上げた。なんというか、意外だ。このひとにこんな甲斐甲斐しい一面があるとは。せっかく助けたルークが壊れてしまったら困るという打算なのだろうか。そう思ったが、違うな、とも感じた。
「コート、は……」
かすれた声を絞り出す。「脱がねえのな」最後まで言わずともアーロンには伝わり、察しがいいなあと思う。ボリュームのあるファーのついたレザーコートを脱いだアーロンはビリビリのTシャツ姿になってベッドに寝転んだ。
ルークの真横に。
「……」
なんでだろう、と鈍い頭が考える。それより先にこころを支配したのは安堵だった。彼はどこにもいかないし、ルークを傷つけることはしない。理性のあるDomの存在はルークの本能を溶かしていく。じわり。指先に血が巡っていく。
「寝れそうか」
「……うん」
「目ぇ閉じてろ。無理そうならなんか話でもしてやる」
「なんの……はなしを?」
受けた仕打ちのリフレインを危惧しての発言だったのだろうが、意外すぎてルークはつい聞き返していた。チッ、と舌打ちを失敗したような音がアーロンの唇から漏れる。
「ンなこと言うなら平気だな、ドギー?」
覚えのある鋭さが戻ってきて、ルークは眉を下げてへたくそに笑った。ああ、多分、大丈夫。ルークは欲求が薄いから、きっと最初から大したことはなかったのだ。目の前の彼に負担をかけずにすんでほっとする。
でも、まだ行かないでほしい。繋がれたままの指に無意識に力を込める。
「アーロン……ごめんね」
意識が沈む。虚無感からいくらか復活したとはいえ、ルークの精神は疲弊しきっていた。あとは深い眠りが癒してくれるだろう予感がある。アーロンに迷惑をかけるのは今夜だけだ。
「……お人好しめ」
暗闇の中で呆れた声だけが聞こえる。それはきみのほうかもよ。ルークは落ちていく意識の片隅で、起きたときには忘れている小さな感想を抱いた。