人の脳は電気信号で記憶や思考をしている。果たしてそれが事実なのか勘違いなのか、その実水木にとって否定も肯定もできることでは無い。
しかし、もしそれが事実だとすればこの突発的な頭痛は頭がその電気信号を過剰にしてるか、あるいは電気信号で頭を焼き切ろうとしてるようにしか思えないのだ。
――███早う思い出せ。
混信音混じりの声、外乱音混じりの記憶。
誰かが、名前も顔も思い出せない誰かがそう、イヤに優しく語りかけてくる。
なんと言っているのか。思い出そうとすればするほど体が、あるいは本能がそれを止めるように頭痛の津波を遣わし掻っ攫おうとする。
肝心な部分が何を言っているのか分からないのに、どうしようもなく後ろめたいような、申し訳ないような、得体の知れない罪悪感ばかりが重くのしかかり、そのくせ、やはり鮮明に成りきらない。そんな朧気ならせめて罪悪感など抱かなければいいものを――。
自宅の、暗い廊下。
日没など数時間前に迎え、居間から漏れ出す灯り無しでは真っ当に歩くことも困難な廊下の暗さの中。水木はジリジリと通電した鉄の棒で焼き混ぜる様な頭痛に壁へ持たれかかってやり過ごそうとして――結局、叶わずへたり込んでいた。
最近頻度が極端に上がっている気がする、この頭痛。
そして痛みとノイズの向う側にいる、見知らぬ青い着流しの男。白い髪しか分からなかったから老人だと思い込んでいたが先の幻覚の声は思っているよりも若く感じた。ならば記憶がすっぽり抜け落ちてしばらくの己のようにあの男も髪色をどこかへ落としてきてしまったのか。あるいは。
「た、……だいま……」
思っていた以上に酷い声だ。かすれて、明らかに先程死にかけましたと言わんばかりのそんな声。ズキズキというのも生易しい、ぐちぐちと電流を流され掻き回される様な頭痛は今は引いたものの、その残りの様な目眩は未だに続き、壁伝いに床を慣らしていく。
「……水木さんっ!」
情けない声に気付いたのか、既に家に帰っていた鬼太郎が駆け寄ってくる。逆光でも分かるくらい顔が青いのは普段の水木であれば分かっただろうが、今の水木には目に入れても痛くない義子でもそれだけの余裕は無かった。
とにかく、頭痛の残渣と目眩が酷い。支えなしに立っているのが辛い。何よりあの男がなんなのか、そればかりが気になって仕方がない。
「……きた、ろ……?」
「はい、鬼太郎です。今日はもう休みましょう」
家事は僕がやりますから。そう言えば水木の身体から力が抜けて鬼太郎へと全体重をかけられる。「あぁ」という声は心底辛そうで、鬼太郎も眉を落とす程だ。
足で行儀悪く布団を敷くと水木を下ろす。シワになるからと脱ごうとして、また、あの頭痛がやってきた。
――███早う思い出せ。
「な、にを……」
「水木さん!」
割れるような、電気を纏った鉄の棒で焼かれながらかき混ぜられているような、あの痛みが、また。頭を抑えることも出来ず生理的な涙が滲み出てくる。
――███早う思い出せ。
また、繰り返される言葉。誰なんだ、と縺れた舌で問うても答える者は無い。代わりに喪失感と罪悪感ばかりが募り膨らんでいく。
――儂の事██じゃったろ……?
「おれ、は……」
「あ……、」
水木がそう零すと同時に鬼太郎は小さく声を漏らしていた。
そもそも。鬼太郎にとって水木はいつだって自分をいの一番に思ってくれている人で、同時に鬼太郎の『一番』の存在であった。
墓場から生まれた鬼太郎を一番に見つけたのも、一番に抱き上げたのも、水木だ。大抵の一番は水木で、鬼太郎の初恋もまた、水木であった。
しかし水木の初恋が鬼太郎かというとその限りではない。水木の方が三十近く年上ではあるし、その間に名前も知らぬ令嬢と懇意になっていたとしても不思議では無い。何しろ、素敵な人なのだ。女性経験があったとしても驚くことは無い。だが、しかし、だ。
水木のその追い求めている幻は、鬼太郎の実父なのだ。
「俺は何か大事な事忘れてる……?」
「駄目です……」
「……なんだ……?」
「駄目ですよ……ッ、ぼ、」
ぼく、は、ここですよ……?そう嫌にカラカラになった喉をつっかえながら懇願しても水木の視線が鬼太郎と合うことは無い。向けられることすらない。
「…………げ、」
口が、無慈悲にその濁音を紡ぐ。
「ねぇ、こっち見てよ……!」
――嫌だ、思い出さないで。
――だって、だって話で聞く僕は父さんにそっくりなはずなんでしょう。なら僕でいいじゃないか!
そんな鬼太郎の祈りも虚しく、忙しく眼球を振れさせながらも次の音が紡がれる。
「げ――……」
――どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい!?
意識を落とす?そんなの僅かな時間稼ぎにもならない。ならば、何を。
――人の脳は電気信号で記憶や思考をしている。
高校の授業で、ほんの僅かに覚えていた言葉。
脳の密集したニューロンネットワークに電気信号が流れることにより脳は指示を出し、その繋がりを強くすることにより記憶する。
――あぁ、そうか。
――そんな、幽霊族には簡単な事だったのか。
「っあ――――――――ッ!?」
――バチンッ!
という電気が弾ける音とともに水木の身体が跳ね、肺から押し出された空気が何をされたのかが全く分からないままの声を作る。
パチパチと少しだけ控えめな音と電気が水木の体内を走る。感情がめちゃくちゃなせいで調節が上手くいかなかったのか、思っていたよりも強い電気を流してしまったのだ。今度は電圧を下げて、丁寧に頭を、身体へ電気を流していく。
「ふふ……」
記憶と想起の現象が電気信号によるものなら、体内電気で回路をショートさせてしまえばいい。幽霊族である鬼太郎には水木が死なない程度に電気を流すことなんて雑作ない。ウッカリ強く流しすぎたが。
なんと単純なこと。
確かにこれは、学はあるにこしたことないなァ。そんな事をやけに冴えた頭で考えている自分がいる。
「痺れて動けないですよね。ごめんなさい」
ニコリ、と笑みを浮かべて更に電圧を下げる。脳の回路を焼き切るためでは無い。ただ単に、この状況を好機としたかったからだ。脳の神経を焼き切る程の電気を長時間流されれば人間は簡単に死ぬ事は鬼太郎とて分かっている。だから、抵抗ができない程度に。
「後で怒って下さいね」
だって今の僕は悪い子ですから。そう、付け足す。
「でも、もう少しこのままでいさせて……」
電気のせいで力の抜けきった身体を横抱きにして頬を撫でる。昔とさして変わらぬ柔らかさ。しかしあの頃とは触れる理由はてんで違う。様々なことが変わってしまった。
「ねぇ水木さん。大好きですよ」
電気にあてられて時折小さく呻くのが、力が入らずだらりと落ちた腕が、電気を流された際に零れた生理的な涙とおかしくなった顔色が、それら全てが何だかたまらなく愛おしくて笑みがこぼれてしまう。きっと父さんだってこんな水木さんは見たことない筈だ。そう、仄暗い悦びが湧いてくる。
「このままずっと僕の中に閉じ込めてしまいたいなァ……」
頬ずりすれば僅かにパチパチと肌を針が刺すような感覚が走る。鬼太郎自身の体内電気のせいだろうが、大した問題ではない。最重要なのは、愛しの養父が大人しく自分の腕の中に収まっていることだけである。
痺れて満足に動かないはずの口が何かを紡いた。きっと何かを思い出そうとしているのは直感的に理解してしまう。
「……なんで僕の物になってくれないんですか」
しかしそんな事が、許せる訳が無い。美化された記憶の中の父に、敵うはずがないのだ。だから、忘れたままでいて欲しい。今までワガママというワガママなんてとんと言って来なかったのだから許されるはずだ。
「早く諦めましょうよ」
そんな、貴方の中に居座る、貴方を置いていった過去の男じゃなくて、僕を。
「僕ならそんな思いさせず、ずーっと貴方といますから」
だから、もう諦めて全部忘れて。
――バチンッ!
また、部屋の中で感電する音が無慈悲に響いた。