【燐こは】溶けゆく光、腕の中夜風の中、燐音と横に並んで歩き出す。
少し離れた草むらから、ぼんやり光る何かが飛んでくる。
「あれ、蛍……」
「本当だ、こんなところで」
思わず手を伸ばしてみる。すると、一匹の蛍は、こはくの人差し指に止まる。
「綺麗やな」
「こはくちゃんは蛍好き?」
「まぁそりゃあ、夏しか見かけへんし」
「この前カブトムシ持って行った時、そんなに喜んでなかったっしょ」
「いきなりやったし、何か子ども扱いされたみたいで」
「蛍もカブトムシも夏の虫じゃん。……まぁ、いいけどォ」
燐音はそっぽを向き、何か考え事を始めた。
これは悪知恵を働かせている顔だ。
後で何かが起こるのを嫌ってほど、思い知らされた。
「燐音はん、頼むから朝起きたらカブトムシやクワガタまみれ、っちのは勘弁してや」
「きゃはははっっ!! そいつァ面白そうだなァ!!」
悪戯っ子のように笑いながら、少し足早になる。
どんな悪戯されるんだろう、胸の中に不安がよぎるが、制止しても無駄だろう。
一抹の不安を、見なかったフリをして燐音の後を追いかけた。
寮に戻ると、人の気配が色濃くなる。
共有スペースは騒がしく、ゲームをしている様子だった。
特に気にする様子もない燐音は奥へ歩き出し、横に並んでついていく。
こはくの部屋の前の廊下で立ち止まり、ぎゅっと手を握られた。
周りに人が居ないのを確認してから、燐音は両腕でこはくを抱きしめる。
抱きしめられると、身体いっぱいに愛しさを感じる。
顔をすり寄せてみるも、表情一つ変えずに見つめ返される。
いや、少し口元が緩んでいる気がした。
「どうしたァ、こはくちゃん」
燐音は我慢できなくなったのか、思いっきり吹き出し笑い出す。
頑張って距離を詰めたのに、どうしても甘い雰囲気になれない。
燐音と恋人になって一か月くらい経つ。
二人きりで過ごす時間を作り、ハグや頬へのキスはする。
しかし、唇にするキスだけは燐音が拒んでいた。
何でダメなのか一度訊いた時もある。
そうしたら「俺っちにも色々と準備があるんだ」の一点張り。
歯磨きしたいなら、さっさとすればいい。そうツッコミをしたが、そうではないらしい。
愛情を感じているのに、少し寂しくなる。
「色気っちのが足らへんのか」
「えェっ?! いきなりどうしたの、こはくっち!!」
藍良の声にようやく我に返る。
ESのカフェシナモン。
藍良とこはくは買い物の後、休憩と近況報告をするためにやってきた。
店内はピークタイムを過ぎてはいたが、ちょうど同じく休憩する人が多く、ニキを含めたスタッフは慌ただしい雰囲気だ。
目の前には、バニラとほうじ茶味のアイスクリームが溶けかかっていて、急いでスプーンを取り、口に含める。
口の中に広がる優しい甘さに、思わず頬が緩む。
「すまんラブはん、ボーっとしてもうて。何の話やったっけ?」
「おれが聞いたのは、こはくっちが燐音先輩と付き合うことになった。って所で止まってるけどォ……。急に何か考え事して黙ってたから、どうしたのかなって」
「そうか、放置してもうてかんにんな」
「何か悩んでる?」
「まぁ、それなりに」
こはくは、藍良に細かい事は伏せて、あまり恋人らしくないのが気がかりなのを語り出した。
眉間に皺を寄せて、こはくの言葉一つ一つに頷き、暫く沈黙が流れた。
アイスクリームの端を、再びスプーンで掬う。
放置していたら、全て液体となってしまう。数回口に運び、ようやく完食をした。
「何ていうか意外だね」
「意外っちいうのは?」
「悪い意味じゃないよォ、燐音先輩って軽く見られてるっていうか。こはくっちと恋人同士っぽく、ラブラブなのかなァって勝手に思ってて」
「まぁ、付き合う前とあまり変わらへんかも。変わったのは、二人で過ごす時間が少し増えたくらい」
Crazy:Bとして一緒に仕事やレッスンもあるし、こはくは学校もある。
合間に連絡を取り合い、特別何かをする訳ではなくても一緒に居る時間が増えた。
最初は特別扱いされていると胸が高鳴ったが、進展のない関係と、キスを拒まれる事がどうしても納得いかなかった。
「でも、不満なんでしょ」
「そうやな」
藍良はオーダーしていたチョコレートパフェのウエハース部分を手にし、ソフトクリームを掬ってから口に運ぶ。
こはくより後に届いたおかげか、まだ溶けずに形を保っている。
「色気ってのは、おれもあまり分からないけど。二人っきりの、その時間使って良い感じの雰囲気にすれば」
「例えば?」
「恋愛映画を観て、物語の雰囲気と同じようにラブラブになる、とか?」
「映画って、燐音はん多分寝るで」
「あははっ、そっかァ。涼しいし暗いもんね」
「でも、わしでは思いつかへんかったアイデアや。参考にさせてもらうで」
「上手くいくといいねェ」
テーブルの上のスマホが短い電子音が鳴る。
画面を見ると、燐音からのメッセージが来たようだ。
人差し指でそっと叩くと、詳細が表示される。
『今日の夜、ちょっと散歩しよ』
「……ねェ、もしかして燐音先輩からァ?」
「何で分かってん」
藍良はニコニコしながら、顔がいつもと違うからと言ってパフェの続きを食べ始める。
そんなに違うのか、頬を二、三回軽く叩き、ふーっと息を吐いて呼吸を整える。
燐音へ『ええよ』と短く返事を送信して、氷が溶けたお冷を一気に飲み干した。
「燐音はん、お待たせ」
「よォ」
ESの駅前の広場。夕陽はとっくに沈んだ時間のせいか、帰宅へと足早に去る人が多く感じる。
人混みの中、燐音は遠目からも目立つから、すぐ見つけられた。
「どこに行くん?」
「とりあえず飯行こうぜ。なんか食いたいモンある?」
「さっきラブはんとアイス食べてきて、それ以外なら何でも」
「範囲広すぎじゃねェ? ま、歩きながら考えるか」
駅を背にして繁華街に向かい、燐音と横に並んで歩き出す。
商店街のBGM、セールをやっている店へ集客の声出し、すれ違う学生たちのお喋りなど、様々な音が交わる。
少し中に入り組んだ小路、レンタルDVDの旗が目に留まり、立ち止まった。
「なぁ、燐音はん」思わず燐音のシャツの裾を引っ張る。
「どうしたァ、こはくちゃん」
斜め後ろを振り返り、ようやく立ち止まった。
「あんなぁ、あそこに行きたいんだけど、ええか?」
「レンタルショップ? いいけど」
「おおきに」
入口は狭いが、店内は広々としている。
手前はゲームコーナー、真ん中にDVDとBDのレンタル、奥にはコミックという、店内構造になっていた。
「こういうレンタルショップって、今は潰れていく一方なんだってな」
「そうなん? 知らへんかった」
「スマホで配信サイトあるし、漫画もスマホで読めるだろ」
「わし、どっちも観ぃひんしぃな」
「じゃあ何でここに入ったんだよォ、飯はァ?」
不幸せそうな目でこはくを凝視する。
そんなにお腹が空いているとは思わなかった。
早く目当ての物を、探そうと足を早める。
「ちょい待て、すぐ終わる」
DVDコーナーに向かい、恋愛特集と大きく飾られた棚の前に立ち止まる。
横文字のタイトルが多く、見慣れない言葉の羅列に目が泳ぐ。
一つ抜き取って、裏面のあらすじを読み、再び棚に戻す。
終わったら隣を抜き、また戻すのを五回くらい繰り返し、ようやく面白そうな映画を発見した。
「燐音はん、これ借りたい」
「恋愛映画? ってか、何か物騒なモンだけど」
燐音に言われて、もう一度あらすじを読み返す。
それには『些細なきっかけで狂暴な彼女を介抱することになり、主人公の日常が一変。しかし、お互いが次第に惹かれ合って…』と書かれてある。
「そないな物騒かいな。せやけど、これ観たい。燐音はんの部屋で観てええ?」
「今日?」
「おん」
一瞬、眉間に皺が寄った気がしたが、燐音は「別にいいけど」と小さく呟いた。
レジに向かい、レンタルしたいと店員に伝える。
すると、会員カードを持っているか、レンタル期間は当日か一週間が選べる等々、何の事だか理解が追い付かない。
「あー、カードってこのポイントカードでもオッケーでしょ。借りるのは一週間で」
燐音が財布からポイントカードを抜き、店員に差し出す。
レンタル代を告げられ、こはくの財布から小銭を取り出し、トレイに乗せる。
テキパキと店員がナイロン製の袋にDVDを入れ、返却は外のポストへお願いしますと言われ、店を後にした。
「おおきに、燐音はん。わし一人やったら借りられへんかった」
「本当、こはくちゃんって後先考えずに飛び込むねェ」
「それは褒めとるん?」
「きゃははっ、まぁ色んな意味でってコトで」
笑いながら燐音はこはくの肩を軽く小突く。
突然の衝動に落としそうになったナイロンの包みを、鞄にしまう。
少し歩き始めて目に入ったファミレスに入ろうと促され、他愛のない話をしながら夕食を楽しんだ。
シャワー室で汗を流し、さっぱりした身体。
髪の毛もドライヤーで乾かしてある。
ナイロンの包みとスマホ、時間が長くなるだろうからスポーツドリンクを持って来た。
部屋のドアをノックし、はーいという返事を待ってドアを開ける。
「燐音はん、こんばんは」
「どうぞォ。じゃーDVD再生すればいいんだな」
燐音はこはくからDVDを受け取り、テレビの下にあるプレイヤーにディスクを入れ、数秒待ってからリモコンを操作する。
ベッドの上に腰掛け、再生されるのを待つ。
「そこで観んの?」
「おん」
「いいけど、飲みモン零すなよ」
「気ぃ付ける」
音量の調整など、一通りの操作を終えた燐音は、こはくの隣に腰掛け、じっとテレビの画面を観る。
燐音もシャワーを浴びたのか、部屋着のラフな格好と石鹼のほのかな香りがした。
シャワー室で見かけなかったけれど、入れ違いだったのだろう。
映画会社のタイトルロゴが写し出され、プロローグが始まる。
「燐音はん、同室の人たちは? 姿見えへんけど」
「あー、二人とも今日は実家の用事で居ねェよ」
「珍しいな」
こはくにとっては好都合だった。
映画を観て、燐音との関係が少し進展するかもしれない。
期待に胸を膨らませて、画面を食い入るように凝視する。
数分後。
「なんや今の蹴り、全然リアリティあらへんな」
「多分アレは女優ちゃんがスタントしてるし。まぁ、カメラワークで誤魔化したって感じか」
「あっ、ビルから飛び降り……って、その割には涼しい顔しすぎやろ」
「こはくちゃんだって、滅茶苦茶早く走っても涼しい顔してんじゃん」
「わしのことはええ、色々気になって、ツッコミ追い付かへんわ」
恋愛映画のコーナーに置かれていたが、内容の大半はアクションシーン。
主人公とヒロインの恋愛要素は、忘れたころにやってくる。
普通の人ならドキドキするアクションシーンも、常人より鍛えられた燐音とこはくにとって、逆に偽物だとバレバレな仕上がりだった。
後半に差し掛かり、ようやく恋愛が動き出す。
長台詞の掛け合い、俳優たちの繊細な表情、単調なカメラワーク。
夢中になって観ていたはずなのに、瞼が重くなる。
このままだと寝てしまう、いけないと思い、傍らに置かれたペットボトルのキャップを外す。
一口飲もうと思って傾けたはずが、勢いよく口から下の喉元に液体が流れだした。
「うわっ、……零れてもうた」
「ちょっとこはくちゃん! タオルほら」
「おおきに」
「Tシャツに零れたか」
「せっかくシャワー浴びたのに」
タオルで見える範囲の水分を吸い込ませる。
腰掛けていたベッドは幸いにも濡れず、こはくの着ていた衣服のみ濡らしていた。
「もう一回シャワー室行く? っと、その前に俺っちのTシャツ貸すわ」
「かんにんな、迷惑かけて」
「こんくらい平気だって、ほら、着替えろ……あっち向いてるから」
燐音は、こはくと反対側の壁に向かって座りなおす。
恋人になる少し前、レッスンやライブで着替える時、いつもこうやって見ないようにする。
燐音なりの気遣いなのだろう。
ただこの時だけは、嬉しい気持ちは全く無く、また寂しさを感じた。
受け取ったTシャツをそっとベッドに置き、背中から燐音を両腕で抱きしめる。
「ん、もう着替えた?」
「……着てへん」
「は? いや、ちょっと待って」
「服、着てへん。こっち向いて」
心臓が破裂するんじゃないくらい、鼓動が早まる。
駆け引きとか何も分からないけれど、直接触れ合えば自然と今より関係が深くなると思えた。
一分も経たないうちに、両腕が解かれ、頭から何か柔らかな物を被せられる。
「……?! 何っ」
「はい、風邪引くからとりあえずタオルな。えっと、Tシャツも……よいしょっと」
燐音は素早くTシャツを手に取り、タオルで覆われた頭を襟ぐりに通す。
オーバーサイズの物で、簡単に上半身の肌は隠された。
「……燐音はん」
「悪ィこはくちゃん、少し風に当たってくる。映画、このまま観ててもいいよ」
一瞬も後ろを振り返らず、部屋から立ち去った。
テレビから流れた音声に気付き、ようやく我に返る。
どうしようもなく恥ずかしくなり、急いでテレビの電源を落とす。
DVDを取り出そうとしたが、どうやって取れば良いのか分からない。
電源と書かれてあるボタンを押すと、緑から赤いランプへ変わる。
今度はDVDのロゴの横にあった小さなボタンを押してみると、キラキラ光るディスクが出てきた。
プラスチックのレンタルケースに収納し、ナイロンの袋に押し込める。
ほっと一息つくのと同時、また恥ずかしさが込み上げてきて蹲る。
「せやけど、燐音はんの態度も態度や」
大事にされているのは理解できる。
けれど、それだけでは満足できないのを分かって欲しくて取った行動だった。
忘れ物が無いか確認して、燐音の部屋を後にする。
もう一度シャワーを浴びる準備をしているうちに、燐音からメッセージがスマホに届く。
それを無視して、急いでシャワー室へ向かった。