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    hanenoki

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    hanenoki

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    書きかけで止まってるやつ。ホラーBLの予定だがBL描写はまだなし

    昨日の明日は蜃気楼1話
    空から落ちてきた憂鬱が足元に波紋を描く月曜日の昼下がり。

    週の始まりというだけでも気が重いのに、昼前からじわじわと発達した入道雲は、びしょ濡れのタオルを絞ったような雨を降らせた。

    その上、

    「貴方は呪われてるんですよ」
    なんて言われたら、月曜日なんて大嫌いになってしまうに決まっている。



     未曾有の災害によって、世間は自粛ムード一色、大学は休校、バイト先は休業と、俺、村上 多聞(むらかみ たもん)の大学二回生の生活は岩山を転げ落ちるかの如く始まった。

    自粛開けの頃、生活費の足しにと始めたフードデリバリーのバイトは、意外にも性に合っており、講義が一部再開した今も続けている。
    店長だの後輩だの、人間関係に煩わされることがないのが気楽で良い。

    ただ、今日みたいな雨の日は、どうしたって気が病んでしまうものだ。
    商店街のひび割れたアーケードごしに暗雲を仰ぎ、暫くやみそうにないことを確認する。しとどに濡れたフードを脱ぐと、露と共にあくびがこぼれた。

    「あー、天気予報では小降りって言ってたのに」

    スマホの画面には『午後は各地で豪雨、落雷に注意』の表示。

    雨の日はデリバリーの注文が多い。特にこんな大雨の日は格別だ。
    そりゃ、俺だって出来ることなら家でゴロゴロしていたい。
    先程までひっきりなしにスマホに届いていた注文は、ランチタイムを半刻ほど過ぎた辺りから少しずつ間を置くようになった。

    流石に雷が鳴り出す前には帰路につきたい。
    次の注文で最後にしようかと考えていると、スマホに1件のメッセージが届いた。

    【今日19時から呑みあるけど、村上どう?】

    世間が未だ自粛ムードから抜け出せない中で、我が友人は随分と経済活動に熱心なようだ。
    心惹かれはしたものの、すぐに財布の中の惨状を思い出して、誘惑を煙に巻く。なにせ先立つものが無い。
    謝るピンクの猫のスタンプを返した所で、ポンと次の注文を示す音が鳴った。

    さて、仕事だ。




     背の低い企業ビルと住宅が混合している中、一際古い四階建てのビルの前で自転車を停める。

    レトロと言えば聞こえは良いが、薄汚れた分厚いコンクリートの外壁は一面ツタで覆われ、外界の光や空気を完全に遮断しており、どことなく閉鎖的で不気味な雰囲気がある。
    一階は喫茶店のようだが、定休日なのか、扉にはcloseのプレートが掛かっていた。

    指定された住所はこのビルの二階。

    敷地の端に自転車を置いて、別の入り口から中に入る。予想通り、内部はシンと静まり、自分の足音はぼけた雨音の中でやけにはっきりと響いていた。


     二階の廊下には扉が3つあり、一番階段に近い扉に【かしわばら探偵事務所】と書かれたプレートが下げられていた。
    その横に、呼び出し用の電話が備えられている。

    探偵って本当にいるんだな、などと初心なことは思わないが、探偵と言えば、くたびれた雰囲気の中にも只者ではないオーラを纏った強面の男性、なんて勝手なイメージを膨らませてしまう。
    やや期待しながら受話器を上げれば、電話口から味気ない話中音が流れてくる。

    仕方なくドアをノックすると、少し間を置けて「どうぞ」と女性の声が聞こえた。

    扉を開けると、中は応接室のようで、中央にソファとテーブルセットが配置されていた。奥にも何かありそうだが、不透明のパーテーションで隠されている。
    入口から近い方のソファには上品そうな服に身を包んだ中老の女性が座っており、多聞を見て一瞬ギョッと目を剥いた。

    しまった、と思った。多分、この人は探偵の客だ。

    「えーと、あの、フードデリバリーですが……」
    「ウッ」
    「えっ!?」

    俺が言い終わらない内に、急に女性の顔から血の気が引いて、口許に手を当てて大きくえずきはじめた。
    女性はよろめきながら立ち上がると、今度はヒッと悲鳴を上げる。

    「あっち行きなさい! あっち!」

    自らの足元辺りに目を向けて、何かを追いたてる手の動きをしている。しかし、奇妙なことに女性の視線を辿ってもそこには何も無いのだ。

    多聞がおかしな顔をしていると、女性はそそくさと部屋から出て行ってしまった。


    その時、部屋の奥でドアが開く音がして、パーテーションの向こうから和装に身を包んだ若い男が姿を現した。歳は俺より10個ほど上だろうか。
    男は部屋の中で一人突っ立っている多聞を見て、一瞬不審そうに眉を寄せたが、
    すぐに事態を察したらしく、女性の後を追って部屋から出ていってしまった。



     暫くして、戻ってきたのは男だけだった。

    「電話で席を外していた間に、色々とご迷惑をお掛けしました」

    吐息まじりに謝罪した男は、改めて見れば、眉目秀麗と表現しても相違ない顔をしていた。

    ただ、肩でゆるくまとめられた長髪の色がかなり奇抜で、中程から毛先にかけて、茶色、淡いスミレ色、薄紅色、紅色と、徐々に濃く鮮やかにグラデーションが掛かっていく。
    夕暮れと宵口が溶け合う頃の空はこんな色だったか。
    そんな髪色も、落ち着いた鶯色の和服と合わさると、全体的に気品ある出で立ちとしてまとまっている。

    「えーと、今の人、体調不良ですか?」
    「気分が優れないそうなので本日はお帰り頂きました。また後日訪問されるそうです」
    「そ、そうですか」
    自分のせいな気がして、何となく後ろめたさを感じる。

    「……それで、貴方は? 話は伺っていませんが、ここには協会の紹介で?」
    「え?」
    「通常は事前予約制なんですが、本来のお客様は帰ってしまいましたし、ひとまずお話を聞きましょう。
    あなたの様子を見ると、後日なんて甘いこと言ってられな……」
    「あーいや、違う! 違うんです! 俺、フードデリバリーのもんです!」

    みるみる内に話がおかしな方向に進んでいくので、急いで言葉を遮って、会社のロゴの入ったバッグを見せた。
    何だか分からないけど、とにかく客だと思われているらしい。

    男は少し吊り目がちな目を、驚いたように丸めて言った。
    「えっ、そんな状態なのに?」

    そんな状態って何だ。さては結構失礼だな、この男。

    バッグから商品を取り出し、男に手渡した。
    「これ、ご注文のうぐいす堂の和菓子です」
    「あぁ。そういえば、お茶請け用に頼んでいました」

    男は一応納得したようだが、まだしげしげと物珍しそうに多聞の顔を見つめていた。
    いくら整った顔でも、ジロジロと見られるのは気分の良いものではなく、さっさと切り上げてしまえと口を開えば、先に口火を切られてしまった。

    「今のお客様は、所謂、“霊感の強い方”だったんですが」
    「は?」
    「詳細は伏せますが、最近急に霊視が出来るようになったそうでね。とはいえ、霊視というよりもっと雑で、見る見ないの選択が出来ない状態ですね。
    昼夜問わず怪異が目に入って、家族にも相談できず困っているというご相談でいらしたんです」
    「……俺、帰っていいですか?」
    「そういえば、まだ名乗っていませんでした」

    無視か。先程から、胃がぐるぐるする。寝不足のせいもあるかもしれない。
    露骨に顔を歪めていると、男は着物の懐から名刺ケースを取り出し、1枚抜き出してこちらに差し出した。

     かしわばら探偵事務所 副所長
     怪異調査専門
      雪見 時彦  

    「怪異調査……つまり、ゴーストバスターズ的な? 探偵じゃないんですか?」
    「まぁ、当たらずとも遠からずでしょうか。
    探偵業の担当者は出払っていますが、こちらが私の担当なので。えと、お名前を伺っても?」

    もしやこれはヤバイ勧誘なのではないか。薄々そう思い始めた俺が口を閉ざすと、
    雪見という男はスマホを取り出して、注文履歴の配達担当者の欄を確認したようだった。

    「村上 多聞くん。良いお名前ですね」
    「帰ります」
    「多聞というのは、人の教えを多く聞き、自身を律するという意味ですよね。
    判断材料程度に聞いておけば、お名前に恥じることはありませんよ」
    「なんか俺、好きじゃない気がしますね、アンタみたいな人」

    雪見はニコッと目を細めて笑った。
    「それで、そのお客様が言うには、

    あなたが人間に見えなかったそうです」

    「は?」
    「顔がないんですって。胸より上と、左肩から腕がすっかり透明で、後ろの扉が透けていたそうです。
    顔の無い男が部屋に入ってきて、ぶつぶつ人の言葉を話し出したら気持ち悪いでしょう?」

    まるで台本を話すように流暢な口調の男に、言葉が出てこなかった。
    何を言ってるんだ、この人は。

    「端的に言いますが、貴方は呪われているんですよ」


    胃から何かがせりあがって来る感覚がある。
    呪われてるって何だ。呪いってなんだ。
    そんな非科学的な話をされても、信じられる訳が、ない。

    否定したいのに、言葉は貼りついたみたいに出てこない。

    窓の向こうで遠雷が響いている。
    嫌な感じだ。湿気でジトジトしていて、空気は重く淀み、それに、無性に喉が渇いた。

    お辞儀だけして、逃げるように部屋を後にした。
    階段の踊り場まで駆け下りた所で、ふと後ろを振り向くと、雪見は扉の前で多聞を見送っていた。


    「……その、呪いって」
    「はい?」
    「例えばその、……窓を毎日、————しませんよね?」
    「え?」
    「だから、その、夜に、窓ガラスを引っ掻いたりしませんよね?
    カリカリカリカリ、って。猫かなんかですよね」
    「……それだけでは何とも言えませんが」
    「そう、ですよね。やっぱり、アレは気のせい。アレも……」

    「多聞くん」
    認識よりもずっと近くで声が聞こえ、驚いた。いつの間にか、雪見も踊り場の手前まで下りてきていた。
    何か言いたげな雪見の顔を見ていると、なんだか猛烈に眩暈がして、たまらずその場にしゃがみむ。
    眠い。寝たい。

    「……アンタに依頼すると、いくら掛かるんですか?」
    「そうですね。解呪ということなら、ひとまず経費だけでもこれくらいは」
    両手を閉じたり開いたりして、雪見が金額を示す。俺のバイト代1年分で足りるかどうかという額である。

    「ちょ、ちょ、ちょっと無理ですよそんなん」
    「この時こそ、齧ってください、親の脛」
    「五七五にすんな! 実家だって葬式があったばっかで……今は無理っすよ、ホント。分割払いは」
    「一括払いのみしかお受けできません」
    「チッ、金の亡者かよ」
    「……解呪には厄介事が伴うので妥当な額なんです。無償でなんか引き受けたら、それこそ因果を背負う羽目になる。
    でも、そうですね。アドバイス程度なら、……貴方の1ヶ月分のバイト代でどうでしょうか」

    俺のバイト代がいくらか知らない癖に、と返すと、雪見はまた目を細めて笑った。
    狐のお面みたいだと思った。


     あれは、まだ夜風が気持ち良い五月の半ば頃。
    深夜、喉の渇きを感じて目が覚めた。
    台所で水を飲み、トイレで用を足して部屋に戻ろうとした時、ふと廊下の奥にある玄関ドアが目に入った。
    カチャ、と微かに音が聞こえた気がしたのだ。

    隣人は会社勤めで、時たま深夜に帰宅する。
    しかし、妙に気になり、土間まで行ってスコープを覗こうとした時だ。

    ガチャガチャ

    と大きな音を立てて、手元のレバーハンドルが動いた。
    酔っ払いが部屋を間違っている、なんて生易しいものでは無い。開かないことを承知の上でこじ開け用としているか、もしくは部屋の中に向けて『ここを開けろ』と意思を示しているような激しい動き方だった。
    突然のことに腰が抜けた俺は、どうにかトイレの前まで這って行って、扉から距離を取った。

    レバーは一定の間を置いて、ガチャ、ガチャ、ガチャ、と鳴り続ける。
    そうしていれば、いつか俺が扉を開けると思っているかのように。

    それがどれくらい続いたのか、正確には分からない。
    気づくと俺は冷たい廊下で崩れるように眠っていて、居室に続くドアのガラスから漏れた光が朝を告げていた。
    静まりかえった玄関はいつも通りで、ドアレバーはピクリとも動かない。

    寝ぼけた果ての夢だったのだろうか。そう思わせるには十分な環境だった。

    立ち上がると、板間に眠ったせいか腰骨が痛かった。
    部屋に戻り、寝直そうとベッドに横になる。
    眠ろうとしたが、やけに寝苦しい。そこで、窓が閉まっていることに気付いた。

    夜寝る時はいつも開けている窓が、閉まっていた。


    それからだ。
    自分しかいない筈の家で、誰かの視線を感じるようになったのは。
    決して広くない一人暮らしの部屋の中で、常に別の存在の気配がある。金縛りに会い、翌朝身体の節々が痛む時もあった。
    夜になればまた、ドアレバーが動きだし、部屋にない鈴の音が響いたり、閉めた窓ガラスを外側から引っ掻くような音に悩まされる。
    頭から布団を被ってひたすら朝を待ち続ける日々が、今に至るまで続いているという訳なのだ。


     話を聞き終えた雪見は、俺に三つ質問をした。

    「多聞、という名前は誰が名付けたのか」
    「動物を飼ったことはあるか」
    「今まで、誰かに恨まれるようなことはしなかったか」

    最後の質問は兎も角、最初と二番目の質問はただの雑談ではないか。
    だが、妙なことにその質問全てに合致する存在がいるのだ。

    「名前は母方の爺さんが。動物は飼ったことがないけど、その爺さんがエダマメっていう黒猫を飼ってた」
    「過去形ですか」
    「……どっちも今年の春先に亡くなったんだよ。爺さんが眠った次の日に、猫も。
    こんなご時世だから葬式にも帰れなくてさ。こっちに出てくる時に、爺さんと喧嘩てそのまま葬式にも出なかったから、それで恨まれてるのかもな」

    茶化して笑う俺を、雪見は同調も同情もせず、じっと見つめた。
    「最後の質問、おじいさま以外にも心当たりがあるのでは?」
    「なんで?」
    「時期が合わないですし、そもそもあなたが自分の恥を簡単に口に出来るような、誠実な方とは思えないもので」

    嫌な奴。内心で舌を出すと、ローテーブル上のお茶を一気に飲み干してから、口を開いた。

    「——高校の頃の同級生、だと思う。
    いじめが原因でひきこもりになった井出っていう奴がいる」
    「では、貴方が加害者ですか」
    雪見の目付きが少しだけ険しくなった。

    「……俺は、何もしなかった。
    アイツがいじめられる現場を目撃したのに、教師にチクリもせずに放置した」
    「それが呪われたと考える理由ですか?」
    「仲が良いと思っていた奴に裏切られるのって、
    きっとそれなりに腹が立つんですよ」


    ——井出 文人は、高校一年の頃、よくつるんでいた友人だった。

    愛嬌があって世話焼きな奴で、背も高く顔も良かったから女子にも人気があった。
    井出はオカルト全般、俺はホラゲーと趣味が近く、週末は決まってどちらかの家に上がり込んで夕飯も食べずにホラゲーに興じ、互いの親にどやされたものだ。

    思えば、あんなに仲良くなったのは、後にも先にもアイツだけだった。

    「二年で、井出とはクラスが別になった」

    間が悪いことに当時校舎は建替工事中で、その影響から井出のクラスだけが別棟になった。
    そこが縁の切れ目ってやつだ。
    薄情なことに、どんなに仲が良かった相手でも、顔も見ない日が何日も続くと、興味が薄れてくる。
    新しい人間関係や受験勉強だったり、何やかんやに押し出されて、次第にラインのやりとりすら面倒になった。

    そして、工事が完了した翌年春には、俺達は“前にちょっと仲が良かった人”くらいの関係に戻っていた。

     だから、三年生の春まで、井出がいじめを受けていることも知らなかった。
    相手は素行の悪さで有名なグループで、親が県議だか何かで、教員だって手をこまねているしかない。そういう社会の歪みの存在。

    ある日、たまたまグラウンド脇の倉庫の前を通りかかった時、中で井出が殴られているのが見えた。
    僅かに開いた倉庫の扉の隙間から覗く、記憶より幾分小さくなった身体。
    後頭部を覆う腕の至るところに打ち身と青あざがあって、腕の下の二つの瞳と、俺は目が合った。
    惨憺たる心情が滲んだ眼差しは、俺の姿を確かに認知していて、一瞬希望を得たように瞬いた。

    ここから、救い出してくれと。そう、確かに俺に告げていた。


    「でも、俺はその場から逃げ出して、そのまま何も出来ず、何もしなかった。
    井出は怪我で入院して、それからずっと家にこもりきりだって聞いてる」

    雪見は口元に拳を宛て、フムと唸った。
    「考えは分かりましたが……何もしなかった、と出来なかった、では意味が違いますよ」
    「結果に違いはないでしょ。赤の他人に言い訳するなんてみっともないし、アンタにとっても時間の無駄だ」
    俺が突っぱねた言い方をすると、雪見は苦笑した。

    「……それに、井出だって思う根拠もあるんです。
    たしか春頃、井出をいじめていた連中が立て続けに事故や病気になったことがあって、『井出の呪いじゃないか』って、グループラインで噂になったんです」
    「軽薄な噂ですね」
    「ただその時期に、橋本って奴が夜のコンビニで井出に会ったらしく、真相を尋ねたそうなんです。
    そしたら、井出が言ったんですって。『俺が呪ってやったんだ』って」
    「それも噂ですか?」
    「いえ、そいつが直接ラインで話してました」
    「なるほど」
    呑気な物言いとは裏腹に、腹の底が読めない両目がスッと細まる。

    「さて、お話を聞かせて頂いた限りで、
    貴方にアドバイスできることは一つしか無さそうです」

    俺が顔を上げると、雪見はにこりと微笑んでこう続けた。
    「土下座してきなさい」






    ニャー。

    ニャッ。


    縁側の奥からのんびりと歩いてきたエダマメは、俺に何かを訴えるように短く鳴いた。
    そろそろ餌の時間だった筈だから、おそらくその催促だろう。俺は読んでいた文庫本を閉じて、廊下の一番奥にある爺さんの部屋に声をかけた。

    ——おーい、爺ちゃん、エダマメ鳴いてるよ。
    また餌やるの忘れてんでしょ。

    障子の向こうからボソボソと返事が返ってくる。


    ——え? さっき餌やった?



    ばつの悪そうにエダマメが鳴いた。

    ンニャ



     ガタリ。大きく身体が揺れて、微睡みの淵から意識が浮上した。

    もたれ掛かっていた窓辺の向こうで、新緑を纏った木立が次々と後方に流されていく。
    車内表示の駅名を確認すれば、乗り過ごしていないと分かって、胸を撫で下ろす。
    スマホのディスプレイを見れば、電車に飛び乗った時刻からすでに約1時間経過していた。

    車窓の景色は、都会の町並みから田園風景へとすっかり主役を交代し、小刻みな揺れに身を任せる内に眠り込んでいたようだ。

     多聞が高校時代までを過ごした土地は、ドは付かないものの間違いなく田舎の部類に入る。
    最寄り駅からは快速で1時間半と、各駅に乗り換えて50分、更に駅からバスで40分だ。
    都会の大学を選んだのも、田舎から離れて一人暮らししたかった、というのが理由の大部分をしめていた。

    爺さんとエダマメの夢を見たのは、二人のことを雪見に話したからだろうか。

    涼しげな青年の顔を思い出すと、何だかムカムカしてきた。

    専門家としてのアドバイスを望んだのに、まさか謝れなんて正論で返されるとは。
    ——それでいて、料金請求に関しては抜け目なく行うのだから、腹立たしい!

    井出に恨まれるのは仕方ないし、井出が呪って気が済むなら呪えばいいと思う。
    だが、呪いが成功するのを黙って受け入れられるかというと話は別だ。

    だから、身に降りかかった呪いは自分の手で治めたかったのに。


    雪見の言い分はこうだった。

     呪いは性質上どうこう処理できるものではなく、
    一度放たれたら、目論見通り履行されるか、もしくは術者に跳ね返すしか、解除する手段はない。

    お客様の目に姿が映らなかったのは、呪いに蝕まれて、存在が希薄になっているせいだ。
    そういう命を脅かす呪いを跳ね返せば、当然相手も無事では済まない。

    その友人に死んで欲しいと思わないなら、謝罪して術を解いてもらえ。
    解いて貰えなかったら、こちらで何とかする。
    ——但し、その場合は対価を頂きますが。


    どちらかが身を滅ぼさねば解放されないとは、なんと不条理か。そんな破綻したシステムが現代に残っているとは俄かに信じがたい。

    だが、その話を無碍にはできなかった。
    (話し手が胡散くさい人間であっても)

    だから自分は今、こうして電車に揺られている。


     乗り換えの駅で電車を降りると、ホームのトタン屋根の下に溜まったかび臭い空気が鼻を擽った。

    乗り換え駅だというのに降車したのは、自分の他に2、3人だけ。それも、すぐに何処かに消えてしまい、ホームには多聞一人だけが残った。

    時刻表によれば、乗り換えの電車が到着するまであと20分以上ある。
    こんなことなら読みかけの本でも持ってくれば良かった。

    シトシトと降る雨を避けてベンチに腰を掛け、スマホを取り出す。ふと思うことがあって、ラインを立ち上げた。


    ——同級生グループの話は、あの後どうなったんだっけ。

    トーク画面をスクロールしても、何故だか目当てのグループ名が見つけられず、そこで非表示設定にしていたことを思い出した。
    設定を解除してページを覗くと、直近の会話は数分前だった。さては暇かコイツら。

    会話の端からは何の話題か読み取れないが、どうやらリアルタイムで楽しそうに盛り上がっているようで、とても手動で遡れる雰囲気ではない。

    仕方なく、皆が噂をしていた頃の日付を検索し、会話をたどり始めた。




     事の起こりは4月の終わり。
    いじめグループの一人が、深夜に単独事故を起こす。自粛期間で車通りも少ない中、脇見運転で電柱にぶつかったらしい。
    それから同じグループの人間が、感染症の重篤化、アパートの二階から転落、自殺未遂など、計4名が立て続けに入院。
    この時点で地元では噂になっていたそうだ。

    5月になると、今度は当時の学年主任と担任教師が、飲酒運転の末に衝突事故の末、生死の境をさ迷った。
    そこで、いよいよ異常に思った同級生がラインで発信。被害者の顔ぶれが、井出のいじめ関係者だったことからあらぬ噂が立ち始めた。

    最初こそ冗談半分に口にされていた噂は、元クラス委員だった橋本が井出の証言を得たと書き込んだことで信憑性が増し、次第にグループ内で不穏な憶測が飛び交うようになった。


    「……この辺りまでは読んだ」

    ダラダラと憶測の話ばかりが続くものだから、馬鹿らしくなってブロックしたのだ。

    だが、読み進めていくと、ある時を境に会話の空気が変化したのを感じた。

    いつの間にか、最初にいなかったメンバーが会話に参加している。ユーザー名には覚えがあった。
    ——渦中のいじめグループの一人だ。

    未だ入院先のベットの上だというそいつは、突如メンバーの一人を名指しして発言したのだ。
    『お前だって危ないぜ』と。



    “まもなく一番線に、電車が参ります”

    ホームに響いたスピーカー音にハッとして顔を上げれば、一層暗澹に染まった空があった。
    スマホに集中するあまり、思った以上に時間が経過していたらしい。
    遠くの方で、電車の前照灯の光が瞬いて見えた。

    ベンチから立ち上がって、近くの乗車位置で電車を待つ。

    雨は止む気配なく降り続けている。
    そういえば、今日は傘を持ってきていない。地元の駅のお節介な置き傘サービスはまだあるだろうか。

    そんなことを考えながら、ぼうっと電車の方を見ていたその時。



    ドン、と。



    背後で鈍い音が鳴ったと思ったら、身体がふわっと浮くような感覚を覚えた。
    そのまま立ちくらみのようにぐらりと身体が傾いて、前のめりになった視界に錆びたレールが写る。

    「あ、」











    ホーム端ギリギリで踏みとどまることが出来たのは奇跡だった。
    すぐに足裏に渾身の力を込めて、逆方向に身体を戻そうとするが、どうしてだか、身体が動かない。
    まるですぐ背後に壁があるみたいに、これ以上後退することが出来ないのだ。

    それどころか、ジリジリと再び前のめりに傾いていく。どうも、こちらの力以上に何かに押し戻されているようなのだ。

    ヒューヒューという自分の呼吸音に混じって、背後から、はっ、はっと誰かの吐息が聞こえた。
    後ろにいるモノが、しきりに何かを呟いている。
    振り向いてはいけない、囁きに耳を寄せてはいけない。
    そう分かっていたのに、つい俺は耳を澄ませてしまった。



     落ちないんですか。
     落ちないんですか。
     落ちないんですか。

    聞き取ってしまったが最後、俺を線路に落とそうと躍起になって背中を押す幾つもの小さな掌の姿が脳裏に浮かんで、恐怖で足が凍り付いてしまった。


    ホームに入ってきた電車が警笛を鳴らす。
    背中が重たい。耐えられない。

    あぁ、これ、ダメだ。





    電車の前に投げ出されたその時、
    線路の向こう側から、何か分からない小動物のようなものが跳んできて、俺の肩をトンと、踏み越えていった。
    直後、背後で女の金切り声と、分厚い水風船が弾けたみたいな音がして、一瞬だけ背中を押す力が弱まる。

    その瞬間、誰かに腕を引っ張られた。




    けたたましい警笛と共に、勢いよく電車がホームに滑り込んでくる。

    俺はその場でへたりこんで、しばらく喘ぐように肩で呼吸しながら地面を見つめた後、ゆっくりと隣に目を向けた。
    「……お前、なん、で」

    「何でって、それはこっちの台詞だろ。危ないよ、村上」
    俺の身体をホームに引き戻してくれた人物
    ——井出は、パーカーのポケットに両手を突っ込み、物憂げな表情で俺を見つめていた。
    その背も髪も、高校時代より幾分か伸びていた。
    頬は少しこけて、目元には深い隈があるが、目尻の下がった穏やかな表情はあの頃と変わらなかった。

    「市内の大学に行ったって聞いてたけど、何かあったの?」
    「俺、あの、えぇと」

    生々しい怖気は思考回路を蝕み、加えて予想外の遭遇で、俺はすっかり気が動転していた。
    察したのか、井出は黙って俺の腕を引いてベンチに誘導し、自分も隣に座った。

    「村上の爺さん、春に亡くなったんだっけ。
    ちょっと感染も落ち着いたし、墓参りには良い頃だな。……あぁ、猫も死んじまったのか」
    「え? あ、そうか、井出はエダマメに懐かれてたっけ」
    「うん。いつだっけ、お前んちでゲームしてたら、あの猫が俺の学ランをベッド下に隠してて、夜まで探しても見つからなくてさぁ」
    「あぁ、あったなそんなこと……って」

    いやいや、何をしみじみと昔話してるんだ。

    段々と頭が回るようになってきたら、今度は井出の言葉の軽さに困惑する。
    呪われるくらい憎まれていると思っていたのに、これでは久しぶりに会った同級生の会話そのものではないか。

    先程だって、コイツに腕を引かれてなかったらどうなっていたことか。
    もしや、俺の考えなんて全て杞憂だったのだろうか。


    発車前のブザーが鳴り響き、電車がゆっくりとホームを後にする。


    ——いいや。
    例え、もしそうだとしても、

    俺がすべきことに変わりはない。


    「井出は、何処か行く所だったのか?」
    「まぁ……そうだな。待っていた」
    「てことは、俺のせいで乗りそびれたよな。悪い」
    「……」

    俺は意を決して、井出の方に向き直った。

    「あのな。本当は墓参りじゃなくて、……お前に会いに来たんだ」
    「……なんで?」
    「お前に、その、高校の時のことを謝りたくて」

    井出は数秒ぼんやりとした顔で俺を見返した。
    ただ、その表情は心当たりがなく困惑している、というものでは決して無かった。

    俺は立ち上がり、井出の前で深く頭を下げた。


    「悪かった。あの時、殴られてるお前を放って逃げたこと。
    ずっと助けなかったこと、会いに行かなかったこと。
    本当に、本当に悪かったと思ってる。申し訳なかった」


    過去の出来事への謝罪行為など、加害側のただの自己満足だ。
    相手は思い出したくない古傷を開かれて、謝った側は罪を清算した気になるだけで、両者の立場は永遠に平坦になることはない。

    その上、動機ですら自分の為なのだから、本当に救いようがない。


    ——それでも、それでも俺は。







    「村上、大丈夫だよ」

    そう告げる井出の声は優しく、ふいに視界が滲んでいく。



    「俺が呪ったのは、あのグループの奴らだけだから」



    ぞくりと、得体の知れぬ寒気が背筋を上っていった。
    頭を上げると、黒子のある口元は弧を描いている。

    「お前も俺に呪われたと思った?」
    「そ、それは……」
    「謝って、呪うのをやめてもラおうと思ったんだよな。他の奴らもそう言って電話で謝罪してきた」
    「ほ、他の奴?」
    井出は眉間を寄せた。
    「皆と噂してたんだろ、俺が、皆を呪ってるって」
    「お前、本当に呪いなんか掛けたのか?」
    「あのクズ共にだけな。だから、他の奴らは思い込み。……まったく、橋本になんか話すんじゃなかったよ」

    苦々しい表情は、何もかもままならない、と言いたげだ。

    遠くの方で踏切の遮断機の音が聞こえる。都心方向への電車の到着を告げる放送が鳴った。

    「あの、呪いって掛けた側も危険なんだろ。
    俺、別件で……そういう呪いとかに詳しい人に色々教えて貰ったんだ」

    井出は首を傾けて俺の後ろを覗く素振りをしたが、俺は気付かないフリをして話を続けた。

    「もし困ってるならさ。紹介するから、一緒にその人に相談しないか?」
    「村上さ」
    「え?」
    「さっきも言ったけど、それ、俺のじゃないからどうしようもないんだって。謝り損で悪いな。
    だから、帰って自分のことをしろよ」
    「いや、お前だって」
    「良いから、帰ってくれ。——もう暗くなる」
    「でも」

    「……今更ッ、迷惑なんだよ!」
    しつこい俺に業を煮やしたのか、ついに井出が声を荒げた。

    「何でこうやってお前と普通に話せると思う。
    俺にとってお前は、怒る価値も無い、どうでも良い存在だからだよ! ただの知り合い、ただの同級生。
    間違っても、友達なんて名前のものじゃない」

    お前にとっての俺がそうだったように。小さな声で呟かれた言葉を、俺の鼓膜は正しく捉えた。

    「なら、ただの知り合いとして頼む。俺と一緒にその人に相談に行こう。俺の部屋に泊めるからさ。
    ……もし今日が無理なら、明日でもいい。実家に泊まるから朝迎えに行くよ」
    「……帰ってくれ。頼むから」
    「明日が無理なら明後日でもいいから」
    「だから、明日は」

    友達だとかそうじゃないとか、今は関係ない。
    井出本人は気にしていなくとも、当事者である以上、危険な状態なのだ。
    俺は半ば自棄になって、断られても断られてもしつこく食い下がった。


    そうしている内に、井出は何にも勝る苦痛を噛みしめたような面持ちでこちらを見返し、やがて目を反らして、多聞、と苦しげに俺の名を呼ぶのだった。

    「一緒に、行ってくれよ」




     定刻通りに電車がやってくるまで、井出は一言も喋らずにうなだれていた。
    しかし、俺が乗降口に向かうと、すっと立ち上がり俺の背後についた。
    それで、電車に乗り込もうとしたら、ふいに耳元でブチッという音が聞こえ、同時に頭皮に鋭い痛みを感じた。

    思わず後頭部を押さえて振り返れば、井出の指先に数本の髪の毛が挟まれているのが目に入った。俺の毛だ、とすぐに理解した。

    困惑する俺を余所に、井出は何を思ったか髪の毛を口に入れ、
    そして、ゴクリと喉仏を上下させた。

    「お、お前、何して」
    愕然として多聞が問うと、未だホームに立ったままの井出は、突然大口を開けてゲラゲラと笑い出した。

    「——やっぱり、やめた」
    「え?」
    「馬鹿だな、お前。あのまま俺のことなんて忘れテいたら、良かったんだ。

    ……だから、呪うくらいは、許してくれよ」

    「は? 何言って……」

    呆然とする俺の前で、井出は腕を伸ばし、電車の先頭とは逆側を指差して言った。

    「あっちに行けば、戻れない。
     こっちに来れば、連れていく。
     家には帰るな。追いつかレる」

    そう話す井出の顔は異常なほどに青白く、声はガサガサに嗄れ、血走った右目と対になる筈の眼球が、無かった。

    先程まで隣にあった青年の姿を記憶から手繰り寄せても、脳裏に浮かぶ姿はどれも朧げだ。

    こんな時に限って言語中枢は焦げ付いて、ろくな言葉を生み出せない。

    ただ、誘蛾灯に誘われた哀れな蛾のように、ゆらゆらと踏み出した俺を、アイツは片方だけしかない腕で、思い切り突き飛ばした。



    電車の床に倒れ込む直前、乗降口からすっとホームに降りていく影を見た。

    そいつは蝋燭の影や滲んだ墨みたいにおぼろげな輪郭で、目も鼻も何もかも闇に溶けているのに、何故かにんまりと笑っているように見えた。
    闇から生えた無数の子供の腕が、イソギンチャクのように揺らめきながら、井出の方に伸びていく。


    待て、と声を上げたかった。

    そいつじゃない。俺は、ここだ。


    「明日には、お前だけが行くんだ」

    ドアが閉まる直前、しじまに放たれたその言葉は、果たして都合の良い幻聴ではなかったか。

    俺にはもう確認する術が無い。




    そして、電車はゆっくりと動き出す。









    「村上くん」

    聞き覚えのある声と共に肩を叩かれ、視界に色が戻るのを感じた。
    霧のようにぼけた視界に、宵闇に存在しない夕焼けの色が写る。
    雪見だった。

    どうやら、昼間訪れた探偵事務所のビルの前まで歩いて来ていたようだ。
    駅の外の側溝で吐いた辺りを境に記憶がないが、無意識に自転車を取りに来たのだろう。

    ビニール傘を差し出されて、初めて自分が雨の中にいることに気付いた。
    前髪から雫が滴り、端まで色の変わった服はズシリと重たく、冷たかった。




    「井出は死んでました。二週間も前に」

    事務所は既に閉まっており、代わりに通された三階の部屋(雪見の居住スペースらしい)で、俺は見聞きしたことを洗いざらい話した。
    全て話してから、どうして井出の所に行かせたのだと、非難してやろうと思っていた。



     発車してすぐの電車の中で、俺は次の駅で折り返そうと思っていた。

    さっきの出来事はきっと全て俺の見間違いで、井出は置いていかれて怒っているに違いない。
    駅に戻ったら、まず謝って、それから、昔のこともきちんとした言葉で謝罪しよう。
    そうだ、土下座だって出来ていない。
    そうやって必死に思考を回すことで、余計なことを考えないようにしていた。


    でも、結局、俺は電車を降りなかった。
    スマホディスプレイに通知されたメッセージがたまたま目に入ったことで、あの会話の顛末を知ってしまったから。


    『お前だって危ないぜ』
    当事者の一人の発言を受けて、他のメンバーは、否定、糾弾、責任転換、不安と恐怖、のいずれかの反応を示した。

    自分は蚊帳の外にいるという前提がもたらしていた安寧は崩れ去り、
    “自分も当事者かもしれない”
    “呪われているかもしれない”
    “あの不幸は呪いが引き起こしたではなかったか”
    “あれも、これも、きっとアイツのせいだったのだ”
    と、誰もがそういう方向へ思考を推移させた。

    やがて場は、加害者への怒りや憎悪に集約されていく。

    読み進める程に胃が苦しくなり、手足が冷え、内臓が腐って腹の底に沈んでいくような感触を味わう。
    だが、蚊帳の外でのうのうと日々を過ごしてきた自分に対する罰なのだと思えば、目を離すことなど出来はしなかった。


    一ヶ月ほど前の日付だ。

    『呪い返しに成功した』

    そんな言葉が目に飛び込んできた。
    皆の反応は薄いものだったが、俺は食道を上ってくる酸っぱさに胸を焼かれたようだった。



    そこから日付が10日ばかり過ぎた頃、一人が告げた。

    井出の葬式があったらしい、と。





    「井出は、あの駅で死んだんです。
    見た人が言うには、自分から飛び込んだようだったって。
    俺も、あの時ホームに落ちていたら、そういうふうに思われたんですかね」

    「……悪い方に考えないように。
    昼の内から実体に干渉してくる程の強い呪いは稀です。それに、貴方の同級生が呪い返しをしたという証拠もありません。

    実際の所、ご友人の命が絶たれた経緯は、貴方にも、私にも窺い知れるものではないですが」

    雪見は電気ケトルで沸かした湯で、白湯を淹れてくれた。茶呑みをそっと啜ると、少しだけ気分が良くなった。

    「それを飲んだら、準備を始めましょう」
    「何の?」
    「呪い返しの」
    「で、でも、アレは井出について行って」
    「一時的にご友人に引き寄せられたようですが、道に迷っているだけに過ぎない。髪の匂いくらいではすぐにバレて、今夜中には戻ってくるでしょう。
    心当たりが無い以上、返すしかありません」

    「……井出は、どうなったんですか?」
    「彼はもう彼岸の存在です。忘れた方がいい」

    俺は首を横に振った。そんな言葉では到底納得などできない。

    「俺だって、井出に呪いを返そうとしていた」
    「過去の無知に罪を感じる必要はありません。
    それに、ご友人にも、他人を呪った罪はあります」
    「当然の報いだと」
    「そうですね。人を呪うなら、代償を払うことも覚悟の上でしょう」
    「なら、人を傷付けた人間だって報いを受けるべきだ。……見過ごしていた人間もね。
    呪ったのはアイツでも、呪わせたのは俺達なんだよ。

    だから……、アイツの最期がどうなったか、知っておきたいんですよ」

    雪見は目を瞑り、難しい顔をしている。
    その表情がどういう意味を持つか、俺にだって少しは分かるつもりだ。

    「……アンタの目には、俺が馬鹿みたいに映ってるでしょうね」
    「そんなことは思ってませんよ」
    「一線引いた場所からこちらを見てるような、そんな感じだ。アンタに諭されると自分が無様な虫みたいに思えてさ」
    「村上くん」
    「……すみません。アンタにはきっと、こんなドロドロしたみっともない感情、分からないですよね」

    今日会ったばかりの人に、何故こんな酷いことを言っているのか、自分でもよく分からない。
    少なくとも、いつもの自分だったら不要な波風は立てたくないと思うのに。


    俺が黙ると、雪見もそれ以上は何も言わなかった。

    それから、廊下の突き当たりのシャワー室に、井戸の水を汲んであるから、その水で身を清めるようにと言い残し、部屋から出て行ってしまった。

    俺は残っていた白湯を飲み干し、言われた通りにシャワーを浴び、最後に手桶に溜められていた水を身にかぶった。
    身を清めるって、こんなもんで良いだろうか。
    脱衣所の棚に置いてあったタオルをノリ付けされた浴衣に袖を通す。

    手洗いを借りてから、再び廊下に出ると、先程の部屋とは反対方向の、廊下の一番奥の扉から灯りが漏れている。
    覗いてみると、中には雪見がいて、こちらに手招きした。
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